好都合
『1、わたしはどこに連れて行かれたのか。 中枢
2、蜘蛛って何? シィド。わたしの使い魔
3、魔法って何? すっごい力?
4、首のない馬の正体は? クビナシ。ワッカもいる。倒さなきゃだめなやつら
5、どうして今は飛べないの?
6、エーディーって? アームドール?
7、中枢の記憶を持っているのはわたしだけ?
8、こわい。こわいこわいこわいこわいこわいこわい
』
月曜日の昼過ぎ、病院でワッカの化け物と戦った日の夜、スイカは夕食をろくに食べられず、テレビを見ることも避けて、満足に眠ることすら出来なくなっていた。
クビナシの時とは違う。一度目は、夢の世界での話なのか、現実に起こったことなのか、自分の中で曖昧にしていた。だから全てを受け入れずに済んだのだ。が、二度目のワッカとの戦いで、スイカは真実を知った。少なくとも、彼女はそれを真実だと認識し、信じている。
だから、怖いのだ。温かな場所に戻れたからこそ実感する。戦うのも殺されるのも恐ろしくてたまらない。何せ、次にいつ中枢へ呼び出されるか分からないのだ。こうして、ベッドの上で布団に包まっている時かもしれない。もしも眠りに就いている状態で呼び出されたなら、敵の目前に呼び出されたなら……。
身体は勝手に震え出す。中枢での戦いは遊びではない。犠牲者は確実に出る。かと言って、自分の命を投げ出すような真似をしてまで誰かを守れるとも思えない。
その一方で、自分が昂っていることをスイカは自覚していた。血に酔ったわけではない。まるで、自分が本当の魔法少女になったようで、妙な興奮を覚えていた。
怯えている。恐れている。
しかし、中枢に行けばその思いは薄れるだろうと確信している。
中枢に行けば自分は何でも出来るのだと信じている。
横になってから数時間、スイカはまんじりともせず夜を明かした。カーテンを開き、朝の陽ざしを浴びると、少しは気分がよくなってくる。
「……よし」
朝を迎えるまでの数時間で、スイカは難しいことを考えるのをやめた。中枢に呼ばれて、化け物と戦わされる。それを倒さねば日常という現実には戻られない。いつ、どこで呼ばれるのかも分からない。理不尽極まりないが、文句を言い、くだを巻いたところで何も変わらない。じっとしていて事態が好転するのならそうするが、自分が動くことで何かが、あるいは自分が変われるのなら、やる。スイカは足りない頭で考えて、そう結論付けた。
覚悟も、戦い方も、力も、何もかもが足りないのかもしれない。死にたくないから戦う。今はそれだけで充分だと自らを鼓舞した。
「おはよ、お母さん」
「はい、おは……スイカ? 大丈夫? 隈が出来てるけど」
「ちょっと寝られなかっただけだから、へーき。それよりお腹空いたー」
スイカの母親はリビングに降りてきた娘の顔を見て心配そうにしていたが、当の本人は昨夜よりも顔色がよくなっている。
「トーストでいい? サンドイッチにする?」
「サンドイッチがいいな。あ、トマトはいらないから」
朝食を食べた後、スイカは夕方まで部屋でゆっくり過ごすことにした。昨日も感じたことだが、一人きりで出歩いていると奇異な目で見られることが多かったのである。
スイカは夕方、というよりも、授業の終わるであろうタイミングで貫木中学校へ向かうことに決めていた。理由は、そこに不二美祈がいることが確定したからである。また、その中学には他のA.D.がいるかもしれないのだ。何故なのかは分からないが、A.D.の殆どは十代の少女である。貫木中学校のA.D.が美祈一人だけとは限らない。
中枢の化け物に単独で挑むことには不安があった。だから一人だけで悩むのも戦うのもやめようと思ったのである。
思い出すのは福城宵町のことだ。嫌味なことも言われたが、彼女も生き残るのに必死なのだろう。福城に倣い、仲間と情報を集めるのは好手だと思えた。
足りない部分を補うには自らを高めることも大事だろうが、他人に助けてもらうのも間違いではないはずだ。そして、協力するのなら信用出来る者の方がいい。この人になら裏切られてもいい、この人の為なら身を擲ってもいい。そう思えるような者となら一緒に頑張れる。が、短期間では難しいだろう。信頼関係とは容易に形成出来るものではない。また、自分たちは特殊な状況下に置かれている。一番の問題は記憶が邪魔をしている、という点だ。
スイカは唸った。協力者を探そうにも現実では手がかりが少ない。スイカが他のA.D.の顔を覚えていて、偶然その人物を見つけられて話しかけても、相手が中枢での出来事を全く覚えていないかもしれないのだ。そうなれば、頭のおかしい子だと思われてしまうだけである。中枢に呼ばれてから誰かと話そうと思っても、そこは化け物と殺し合いをする場所だ。落ち着いて話し合う時間も余裕もないだろう。
記憶に関しては、自分以外にも中枢の出来事を現実でも覚えている者もいるだろうが、少なくとも不二美祈は覚えていなかった。彼女の場合、現実と中枢での記憶がリンクしていなかったのである。シィドの反応から察するに、恐らく、殆どの者が、現実と中枢での記憶を同一のものとして扱っていない。機会があれば出会ったA.D.に聞いてみるのが一番だろうが、やはり化け物と戦っている時に悠長に話している時間はない。ワッカの時は運良く福城や美祈と話せたが、次はどうなるか分からない。そも、次もあの二人がいるとは限らないのだ。
「……でも、もしかしたら」
スイカは画面の点いていないテレビ画面を見ながら呟く。
他のA.D.は現実では中枢のことを覚えていないが、中枢では現実のことを覚えているかもしれない。覚えているかどうかは個人差があって、『あの』美祈でさえも、いつかは自分と同じ風に、現実でも中枢のことを思い出すかもしれない。
しかし、あくまで可能性の話だ。現実問題、他のA.D.と協力するには現実と中枢での記憶の齟齬というものが邪魔になる。
「こっちでもあっちのことを覚えてたら、話はすんなり片付くのに」
ただ、化け物の存在や、化け物に殺される人のことを覚えて抱えたままでは、とてもではないが日常生活をまともに送ることは出来ない。忘れていることがA.Dだけでなく巻き込まれた者にとって唯一の救いなのかもしれなかった。尤も、それはスイカには関係のない話ではある。
昼食を済ませて部屋でうとうとしていると、午後三時を回っていた。スイカは着替えて下に降りる。母親はテレビを点けたまま、机に顔を突っ伏していた。規則的な寝息を聞き、スイカは目を細める。
母は、こうして家の中で過ごすことが多くなっていた。引っ越す前は彼女にも仲のいい友人がおり、いわゆる井戸端会議の為によく外へ出かけていた。今は、笑顔にもどこか陰りがある。
住み慣れた街から離れたことで悩んでいるのは自分だけではないのだと気づき、スイカは小さく、母を起こさないように、いってきますと告げた。……スイカは、両親にも相談は出来ないと悟ったのである。二人に中枢のことを知っている限り話したとて、どうしたって信じてもらえないだろう。うちの娘は頭がおかしくなったのではないかと余計な心配をかけるだけだ。今は自分だけで考えて答えを出すしかない。スイカは気合を入れ直してスニーカーに履き替えた。
買ってもらったばかりの新しい自転車で行こうとも考えたが、スイカは結局、徒歩で貫木中学校へ向かうことにした。
みちすがら、同年代らしき子供らが連れ立って走っているところを見かけた。貫木小の児童だろう。スイカは、落ち込んでいいものか、悲しんでいいものか、何とも言えない気持ちになったが、気を取り直して歩を進めた。
はたして不二美祈を見つけて話すことは出来るだろうか。あるいは、別のA.D.が見つかるだろうか。為せば成る、当たって砕けろの精神でスイカは正門近くに到着し、目当ての人物が現れるのを待つことにした。
程なくして、何人かの男子生徒が正門を潜る。チャイムは聞こえなかったが、授業が終わったクラスはあるらしい。スイカは少しだけ緊張した。
「あれー? 君さー、何してんの?」
「え?」
正門の前に突っ立ってから十数分、スイカは女子生徒に話しかけられた。軽薄そうな印象を受ける彼女の周囲には、四人の女子がいる。
ああ、と、スイカは納得した。女生徒らはスイカを心配している訳ではない。面白そうなものがあるなという好奇心が見え隠れしていた。
「誰かの妹? 名前言ってみ。その子のことを知ってたら、連れてきてあげるから」
「ねえねえ、何年生? 一年?」
「やー、おっきいし一年はないっしょー」
「あ、これ結構いいブランドのじゃない? うちの妹も欲しいとか言ってたやつだ」
好き放題にまくし立てられてスイカは慌てた。だが、この状況は渡りに船である。
「えっと、不二美祈って人を探してるんですけど」
「……へえ」
スイカは場の空気が変わったのを感じた。しまった、とも思った。
「不二ってことはさー、もしかして君ー、施設の子?」
施設。その言葉が意味するところは分からなかったが、目の前の少女らにとって、不二美祈という人物はよくないものなのだとは分かった。そりゃそうかと、スイカは自らの迂闊さを呪う。美祈とは中枢で少ししか話していなかったが、それだけでも彼女の凶暴性は伝わっていたのだ。
「不二ちゃんを連れてきてもいんだけどー、ちょっと苛めてもいい?」
「ね、名前は? 教えてよ」
中学生は皆笑っている。ただ、先までとは違った種類のそれだ。
――――美祈ちゃん、どんな学校生活を送ってるの?
ここから逃げ出したくなる。実際、スイカは抜け出せる隙を窺っていた。
「あっ……」
その時、車椅子の少女が近づいてくるのが見えた。不二美祈であった。スイカは思わず、彼女をじっと見てしまう。
「あ? タネちゃん。不二、来たよ」
「おー。不二ちゃーん、こっちこっちー」
美祈は立ち止まり、スイカの存在に気が付いた。彼女はそれだけで察したのだろう。舌打ちして、面倒くさそうに息を吐く。
「なに、種田さん」
「あははっ、さん、だって。猫被んなくてもいいって。うちら、不二ちゃんがエグいことやってるって知ってるからさ」
「……先に言っとくけど、その子、あたしとは全然関係がないから」
短慮だった。浅慮だった。スイカは美祈の目を見られなかった。裏切られたとも見捨てられたとも思わない。現実での不二美祈は、断割彗架とは何一つ関わりがなく、中枢での不二美祈も、胸を張って仲間と呼べるような間柄ではない。
種田と呼ばれた少女はスイカの肩を押した。
「知ってるって。この子があんたとカンケーなくてもさ、うちらはあんたに嫌がらせ出来ればそれでいいんだよ」
「あたし、嫌がらせされるようなこと、なんかしたっけ?」
「しらばっくれるなって。色々知ってんだから」
「その子、どうする気?」
「は? 心配とかしてんの? まあ、別にうちらでどうこう出来るってわけじゃあないけどさ、あんたら知り合いなんでしょ? 少なくとも、この子はあんたのことを知ってる。だったら、なんかあった時の為に、名前と電話番号、あと、住所なんかも教えてもらっとこうかなー」
底意地の悪い笑みを張り付けた種田はスイカを見遣る。良く似合っている、手馴れているなと、スイカはそんなことを思った。
「あんたが庇ってるってこともあるわけだし? こいつだって施設の子なんでしょ? あんたと同じでさあ。前の、なんて言ったっけ? ほら」
「それ以上言ったら種田さんも本条みたいになるけど、いい?」
ぴくりと、種田たちが反応する。スイカには本条が誰のことを指しているのか分からないが、美祈に『酷い目に遭わされた』人物なのだろうと直感した。
「……あんたらはあんたらで、隅っこで仲良くやってれば? いこうよ、気分悪い」
「あっ、タネちゃん待ってよ」
正門からはあっという間に人がいなくなる。取り残されたスイカと美祈は、二人して息を吐きだした。
「で、マジでなんだっつーの? お前さ、こないだも後をつけてきてたろ。しかも、あたしの名前知ってやがったし。どこで聞いた。誰から聞いたよ?」
「中枢で。あなたから。わたしは、美祈ちゃんから美祈ちゃんのことを聞いたんだよ」
スイカは半ば自棄になっていた。取り繕うようなことを言っても無駄であり、自分は嘘を吐いていない。せめて、そのことだけでも分かって欲しかった。
「……病院、行くか? あたしはついていってやらねーけど。って、んだよその顔。なあ、あたしにどうしてくれってんだよ」
「そんなの……」
知るものか。分かるものか。
ただ、知って欲しくて、分かって欲しいだけだった。
「分かったよ。話くらいなら聞いてやるから泣くなって」
「泣いてないからっ」
「あーそー」
スイカは美祈を先導し、貫木小学校の近くへとやってきた。美祈も、ここいらで事故があったことを知っているらしい。露骨に嫌そうな顔をしていた。
「うちとは反対側なんだぞ、ここ。帰るの遅くなるじゃねえか」
「友達……に、なれそうな子が死んだの。クラスメートも、先生も、そうでない人も、たくさん」
「んだよ、不幸自慢するつもりか?」
「したら聞いてくれる?」
美祈はフェンス越しの校庭を見遣り、自分の足をぽんぽんと叩いた。
「そういうのは聞き飽きてる。ガキだって年寄りだって、死にたくなるくらいの不幸には誰だって遭ってんだ」
「別に、その事故だけが辛いってわけじゃないよ。ねえ、美祈ちゃん。中枢って知ってる? 化物のことは? A.D.って聞いたことある?」
「あ? なんだそりゃ。ゲームか、マンガの話か?」
「現実に起こってることだよ。美祈ちゃんだって本当は」
言いかけて、スイカは『自分が何をしようとしているのか』に気づいた。
「ごめん。なんでもない」
「お前、なあ。まあ、言いたくないならいーけどさ。でもな、あたしのことを知ってるみたいだから言っとくけど、あたしとはあんま関わんない方がいいって」
「迷惑だよね」
「や、迷惑っつーか。まあ、いいや」
美祈は頭を掻き、スイカを見上げた。
「あたしもな、ガキを相手すんのは慣れてんだ。何もあたしみたいなやつじゃなくて、お前にはいんだろ。親とか、友達とかさ。そいつらに話すのも無理だーってなって、あたしがすげーヒマしてたんなら、つまんねー夢の話だってなんだって聞いてやるよ」
「あ、ありがとう」
「で、お前さ、名前なんてーの?」
「スイカ。断割彗架」
「……スイカ?」
目を瞑ると、美祈は低く唸る。
「なんか、どっかで聞いたことがあんだよな。最近、さ。ぼーっとしてるのが増えて。ずっと起きてたはずなのに、気づいたら、夢から覚めたような気分で。デジャブってのかな、こういうの」
期待感。そして罪悪感がスイカの身を苛んだ。
「もしかして、あたし、お前とマジで」
とぷん。
音が聞こえた。
吐き気と眩暈。それは一瞬で掻き消える。
スイカは気分がマシになると同時に、自分が中枢に呼ばれたのだと気が付いた。
「二日、連続……?」
周囲の状況を確認する。パッと見た限りでは、自分たちは先と同じ場所に立っているのだとしか思えない。だが、美祈は今、両足で地面に立っている。車椅子の影も形もどこにもなかった。
「スイカ。と、フジ・ミノリもいたか」
中枢を象徴するような存在、シィドが中空から姿を見せる。
「シィド! これって、どういうこと?」
「どういうことも何も、君たちはまたここに呼ばれたのだ。化物と戦う為に」
「こないだは三日も間があったのに」
いつ呼ばれるか分からないということは、今の駆除が終わり現実に戻れたとして、その数分後にも新たな駆除に呼ばれるかもしれない、ということだ。スイカもそのことを理解しているつもりだったが、精神的には辛かった。
「しかも、また学校なの?」
「いや、正確にはここが中心地ではない。化物は近くの公園にいる」
「中心地……?」
「まずは変身だ。ああ、そうだ。フジ・ミノリ、君も……どうした?」
美祈は先から無言である。黙って突っ立ったまま、あらぬ方角を見つめていた。
「……なあ、これってさ、夢じゃあなかったのか」
スイカはぎょっとする。美祈には表情と呼べるようなものがなかった。人形のように青白い顔で、視線は虚ろである。
「あたし、てっきりそうだとばかり思ってた。だって、そうじゃねえか。こんな、自由に動けるんだぞ。車椅子なんかなくったって、飛んだり、跳ねたりしてよう……あ、あああああ、でも、でもさ、覚えてんだ。『思い出したんだ』! あたしが今まで、ここで何してたのかって!」
「美祈ちゃん、お、落ち着いて」
「錯乱しているようだ。しかし案ずるな、スイカ。そう珍しいことではない。A.D.になった者の中にも、この状況に耐えられず自死を選ぶ者もいた」
「ちくしょう! なんなんだよ、こりゃ!?」
スイカには分からなかったが、シィドは美祈をある程度認めている。
それは、美祈が中枢での戦闘を現実ではなく、夢の中の出来事だと思い込んだままで生き残ったことである。彼女は物事を即座に割り切り、捨て去り、適応することが上手かった。夢の中だと思い込むことで戦えていた。
しかし今、不二美祈は現実を知った。真実を知った。彼女は大いに揺れている。
スイカは自分の力を過信していない。いくらシィドに褒められようと、他人を庇い、守りながら戦うことは不可能だと思われた。……美祈は危険な状態にある。平常心を失えばまともに戦えない。どころか、動けない。
「スイカ。フジ・ミノリは見捨てた方がいい。他人を利用することについて私は何も言わない。だが、他人に足を引っ張られるな」
「ダメだよっ。だって、わたしのせいで美祈ちゃんは」
「そこまで。離れた方がいい」
上から声がしたかと思いきや、一人の少女がスイカの傍に着地した。彼女は顔の上半分を覆った、メットのようなものを頭に被っている。背は美祈より高く、華奢な体つきをしていた。
「あ、あなたは?」
「来光雫」
名前だけ告げると、雫と名乗った少女は美祈を見遣った。次の瞬間、美祈の身体に鎖が巻きつけられた。彼女は抵抗せず、顔から地面に倒れてしまう。
「ええええ、お姉さん、何やってんの……?」
「死ぬよりマシ。違う?」
「……違いません」
雫は動かなくなった美祈を片手で担ぎ、スイカにはついてくるように言って、高く跳躍した。
「信用できるのかな、あの人」
「それは君が決めることだ。ただ、ライコウ・シズクも実力者ではある。君よりもこの場での立ち回りに長けているだろうな」
雫は学校の屋上に着地し、スイカは飛翔して彼女の傍に降り立った。美祈はごろんと転がされて何事かを喚いている。
「不二美祈ちゃんは弱くなったのか」
美祈を見遣り、雫はつまらなそうな口調で言う。
「美祈ちゃんのこと、知ってるんですか?」
「名前はさっき、スイカちゃんが言ってるのを聞いて知った」
ほら、と、雫は自分の耳を指で示した。彼女のそれは普通の人間のものよりも長く、尖っていた。
「耳がいいから、私。……美祈ちゃんはここではキンパツって呼ばれてた。嫌ってる奴も多いけど、あいつが突っ込むから何とかなってたって時もあったから、私は、そこまで嫌ってない」
でも、と、雫は続ける。
「キンパツちゃんも気づいてしまったみたいだ。なんであんなに、化物相手に向かっていけるんだろうと思っていたけど、こいつは信じていなかったんだな。ここも私たちの現実だってことに。だから、あんな無茶が出来た」
「来光さんも? もしかして、記憶が」
「ああ。気づいたのは少し前。なんとなくだけど、中枢から戻っても、ここのことを覚えていた。何度か参加しているから、耐性、というのかな。そういうのが出来たのかもしれない。もちろん、人によって差はある」
雫はスイカを見つめた後、視線を逸らした。
「私以外に記憶を持ち越せているのは、今のところ、スイカちゃんだけみたいだ」
「……わたしと、雫さんだけなんですか」
「私が知っている限りは、だけど」
スイカは愕然とする。同じ境遇の人間が少ないことと、どうしてわたしだけ、という思いによってだ。
「うん。だからスイカちゃん。私はちょっと、君のことを軽蔑しているよ」
どうして、とは聞き返せなかった。スイカにも心当たりがあったからだ。
「君、現実でキンパツちゃんに中枢のことなんかを話したんじゃないか。どういう意味で、どんな意図があったのかは知らない。大方、仲間が欲しいなんて考えたんだろうけど、それはちょっと違う。そういうのは仲間じゃない。君はただ、自分以外の誰かにも同じ立場に落ちて欲しかっただけだろ。気持ちは分かるけど、記憶って、別になくたって構わないんだ。いや、中枢に関してのものなら絶対にない方がいいって言い切れる」
「来光さんは誰にも言わなかったんですか」
「うん。スイカちゃんに言ったのが初めて。……福城ってやつ、知ってる? あのゴスロリちゃん。あいつはさ、仲間を集めてる。私も何人かで動いてるんだけど、その子たちと現実で出くわしても、中枢のことなんか絶対に言えないよ。いや、誰にだって言えないんだ。普通なら」
スイカは唇を強く噛んだ。歯が皮を噛み切るも、その傷はすぐに治ってしまう。
「先に言っておくと、私はたぶん、スイカちゃんとは心から協力し合えないと思う。誰にだって当てはまることかもしれないけど、土壇場になったらどうするのか分からないからね。けど、スイカちゃんさえよければ今のうちに情報を共有しておこう」
「化物をほっといて平気、なの?」
「実は今回はキャンディーちゃんがいてね。ああ、本名は知らない。けど、私の知る限り、一番強いって思えるA.D.なんだ。今はその子がやる気になってるから任せられる。と言うか、色んな意味でその子には近づかない方がいい。キンパツちゃんよりも危ない子だから」
スイカはシィドを横目で見た。彼は小さく頷く。
「シカネコ・アゲハという者だろう。恐らく、A.D.でも最年少だ。そうだな。ライコウ・シズクの言う通り、力だけなら一番で間違いない」
どこか含みのある言い方でシィドは告げた。
「ああ、そんな名前だったのか。スイカちゃんのマスコットは有能だね。……そのキャンディーちゃんがいたから、私も退いてきたんだよ。そこでスイカちゃんたちを見つけたってわけさ。残念なことに、いや、むしろよかったと言うべきか。とにかく、今回は私の仲間は誰もいなかった」
「だからわたしに構ってくれてるんだね」
「険のある言い方は好きじゃない。けど、そうだね。私のことが嫌になったなら、ここらで消えようと思うけど」
確かに、スイカは雫のことが苦手になりかけていた。同じように記憶の問題で苦しんでいるはずなのに、雫は一種、超然としている。立場、境遇こそ似ているが、違うものは違うのだ。が、苦手だからと言って遠ざけるのも違うと思った。
「ううん、教えて。わたしも知ってること、全部教えるから」
分かったと、雫は頷いた。
「スイカちゃんは物知りだなあ」
やられた、と、スイカは苦笑した。雫はスイカから話を聞くばかりで、自らは何も情報を公開しなかったのである。時折、耳をひくひくと動かして、周囲の状況を確かめているだけだった。
「……インチキ」
「そう言わないで。私だって言ったじゃないか。記憶は、なんとなく、だって。ちゃんとは把握していないんだよ。でも、そうだね。中枢と言う場所や、A.D.がどうのって話は出来ないけど、力の使い方は教えてあげられる」
「使い方って、要は、イメージしてバーンってやればいいんじゃないの?」
「意外と大雑把だね、スイカちゃん。まあ、そうなんだけど」
雫は右手を背中に回したかと思えば、次の瞬間には妙な形をした弓を持っていた。
「イメージを固定することは大事だと思う。分かりやすく言えば、お約束ってやつ」
「必殺技みたいなの?」
「ああ、それもいい。そういうことだね。ほら、ここでの私たちの服と同じだ。細かい違いはあるのかもしれないけど、毎回、大きな部分は変わらないだろ。身体が、脳みそが『これだ』って覚えているのかもね」
スイカにはイメージを固定することの利点が見出せなかったが、雫はやけにお約束に拘っているらしかった。
「私ならこの弓になるんだけど、いつも同じものをイメージして使っていれば、咄嗟の時に便利だ。一々新しいものを想像して作り出さなくて済む。スイカちゃんはゲーム、好き? 同じものを使っていれば、経験値というか、熟練度が上がるような気がしないか?」
「気、だけ?」
「いや、中枢では気の持ちようってのが大事なんだと思うよ。自分が信じていれば、きっと上手く行くさ」
「うーん、そう言われたら、そんな気もしてきたかも」
スイカが真剣に考え始めた時、美祈が立ち上がった。巻かれていた鎖を自力で壊したらしい。彼女は首と肩の骨を鳴らして、腕をぐるぐると回し始めた。
「……ほら、気の持ちようさ。ああいうことも出来ると思えば出来るんだろうね」
「美祈ちゃん、平気なの?」
「ん。ああ、まあな。それよりよう、今の話って本当なんだよな。こっちで死んだやつが、現実に戻っても死ぬって話とか」
スイカと雫は顔を見合わせる。
「う、うん。嘘じゃないよ。あの、本当に、ごめん。ごめんね、美祈ちゃん」
「いや、いい」
美祈は目の前にあったフェンスを素手で殴って吹き飛ばした。何をするのかと思えば、彼女はそこから勢いをつけて跳び出した。
「ちょっと美祈ちゃん!?」
「やっぱりキンパツちゃんは思い切りがいいな」
「わたし、追いかけます」
「うん。私はここで見張っておくから。今のところ、カニはキャンディーちゃんが公園の近くで止めてくれてるみたいだけど」
「うん、それじゃあ、また!」
今回の敵はカニだと知り、スイカは、カニとクモはどこか似ているな、なんてことを思いながら中空へと舞い上がった。
美祈はすぐに見つかった。彼女は建物の上から周囲を見回して、何かを探しているらしかった。
「美祈ちゃん、一人で行ったら危ないよ」
「……ああ、見つけた」
スイカは美祈の視線を追ってみる。公園には巨大な化け蟹がいたが、彼女が見ていたのは化物ではない。その化物から逃れようとしている制服の少女だ。見覚えはある。種田という貫木中学校の生徒で、ついさっきまで自分たちに因縁をつけてきた相手だ。
「シカネコ・アゲハの姿が見えない。スイカ、君がやるんだ」
シィドの言う通りであった。自分がやらなければ人が死ぬ。だが、と、スイカは美祈を見遣った。彼女の様子は明らかにおかしかった。
「美祈ちゃん」
「おお、だな。あたしも協力すっからよ」
「ねえ、美祈ちゃん。さっきの話が嘘だって言ったら、どうする?」
「あァ? 何言ってんだよ、この土壇場で」
土壇場? スイカは首を傾げかけ、種田の姿を見る美祈の目が剣呑なものになっていることに気づく。
「美祈ちゃん、まさか」
「さっきからお前はさ、美祈ちゃん美祈ちゃんって馴れ馴れしいんだよ。邪魔しやがったら、お前もぶっ殺してやるからな」
「スイカ! 離れろ!」
「み……わあっ!?」
美祈が屋根をぶん殴ってぶち壊した。スイカはその場から飛び退いて事なきを得たが、心臓がどくんどくんと跳ねている。
「A.D.同士での戦いも珍しいことではない」
シィドは落ち着き払っている様子であった。
「な、こんなことしてる場合じゃないよ! 早く化物を倒さなきゃ、みんな殺されちゃう!」
「あァ? 死んじまえばいいんだろうがよ! なんであたしらが助けてやんなきゃダメなんだ!」
「あたしたちに力があるからだよ!」
「ふざけんな。こんなもんな、誰が欲しいって言ったよ。誰がこんなところに連れてきてくれって頼んだよ。好き勝手にされてんだぞあたしらはっ。だったら、こっちだって勝手にやったっていいじゃねえか!」
「だから、嫌いな人を殺してもいいって言うの?」
美祈は呆気にとられたような顔をして、くつくつと笑みを漏らした。
「こっちでやったことは、向こうに戻っても覚えてねえんだろ? 誰が誰を殺したかなんて証拠だって残らねえ」
「……わたしは覚えてる。美祈ちゃんだって、人を殺したってことを覚えてる」
「だったらどうした。あたしらだけ中枢なんてよく分からんところでこんなに苦しい目に遭ってるってのに、どうして、他のやつは何も知らねえで、何もしねえで……! 死んで当然の人間ってのはいるんだよ! あたしの足を無茶苦茶にしたクソ野郎も、しつこく絡んでくるバカ女も、みんな死んじまえばいいんだ! いや、ぶっ殺す! 殺してやるって決めたんだよ!」
「そんなのダメだよ!」
「ここにゃあ法律もクソもねえ。誰にも文句は言わせねえ。……お前はさ、アホみてえに優しいっつーか、まっすぐなのかもしれねえよ。家族とか友達とかさ、そういうのがいるから、そんな温いこと言ってられんだよ」
スイカは歯を食い縛った。ふざけるな。そう思ったのである。家族がいても友達がいても、本人の所業や性根とは無関係だ。それを逃げの理由にする美祈が、スイカには許せなかった。
「美祈ちゃんにだってお父さんもお母さんもいるじゃない。卑怯だよ、そんな言い方!」
「あたしの足をやったのはなァ、てめえの言うお父さんとお母さんなんだよ! そいつらだってムショにぶち込まれて、あたしは施設にぶち込まれたんだ! それだけだ。それだけであたしはバカなやつらにバカにされてっ、こんな目に遭ってる! だったらさあ、いいじゃねえか。ちょっとくらい好きにしたってよう」
「……スイカ。駄目だ、話にならん。確かにミノリの言う通りなのだ。ここと、君たちのいる場所は違う。ここでやったことは誰にも咎められない。何せ、法がない。君たちを罰することなど誰にも出来ないのだ」
美祈が酷い目に遭ったのは分かった。
だが、と、スイカは彼女を真っ直ぐに見据える。
「やられたからやり返すってのは、わたしにだって分かる。そうすりゃいいじゃんって思う。けど、それはダメなんだ」
「スイカ、説得は無意味だ。君にならフジ・ミノリを始末出来る。使うんだ、力を」
「中枢で、何も知らない、覚えてないあの人をやったって卑怯なだけだよ。一方的だし、そんなのやり返したなんて言えない。帰ろうよ。帰って、わたしたちの本当の現実でやり返さなきゃむなしいだけなんだ」
「他人事だよなァ。好き勝手ぬかしやがってよ」
「美祈ちゃんがそんな風に思ったのはわたしの責任なんだ。わたしが意地汚いことを思っちゃったから……だから、わたしもやるよ」
「あ?」
「わたしも、向こうに戻ったら、あ、あの人を、殴る!」
ぐっと拳を握り締めると、スイカは美祈に向けて宣言した。
「お前にはカンケーねーだろうが!」
「何言ってんの、ここまで来たら友達同然じゃんか。美祈ちゃんが嫌だって言ってもまとわりつくから。向こうに戻っても、また中枢に呼ばれても、美祈ちゃんのことを追いかけ回すよ。あっちでもこっちでも、わたしと友達だって言ってもらうまで諦めない」
「……お前、何がしたいんだよ……?」
ふふん、と、スイカはしたり顔で笑む。
「不幸自慢。わたしも美祈ちゃんの話を聞いたげる。だってさ、こんな嘘みたいな話、美祈ちゃんとしか出来ないもん。そっちだって、わたしくらいしか相手がいないんじゃない?」
「バカにすんなよ……! ガキが生意気言うんじゃねえ!」
「歳なんて三つくらいしか変わんないじゃん。二次方程式が解けるのって、そんなにえらいこと? ……わたし、美祈ちゃんにうんと優しくするよ。だから美祈ちゃんも優しくして」
爆音が聞こえた。スイカと美祈は互いから目を離せなかった。
「カニ、他のA.D.が止めてるみたいだよ。種田って人、逃げ切れたかな」
「ああ、だろうよ。あいつ、昔から逃げ足がすげー速いんだ」
「そっか。じゃあ、わたしたちもやらなきゃね」
「……なあ、お前は怖くねえのかよ」
「怖いよ。一人だったら耐えられないよ、こんなの」
欺瞞はやめる。エゴを剥き出しにする。スイカは自分の弱さを嫌と言うほど知った。一人では無理だと悟ったのだ。
美祈も、スイカのやりたいことを理解して力を抜く。だらりと腕を伸ばして、天を仰いだ。
「ヤなガキだな、お前。……一つだけ言っとくよ。あたしさ、二次方程式とかよく分かんねえんだ」
「へ?」
「でも、お前がちょっといいやつだなって分かった」
美祈は莞爾とした笑みを浮かべる。毒気のない、迷いを断ち切ったような顔だった。
「いいやつはいいことを言うもんだ。確かに、ここであいつをぶちのめしても気が晴れるとは限らねえ。向こうに戻って、分からせてやんなきゃあな」
「うん。……うんっ、やろう」
二人は化物を見据えて、同時に跳躍した。
現実なんてものはろくでもない。痛くて辛くて苦しくて、逃げることすら出来ない、許されない。
中枢から現実に戻る。だが、中枢もまた現実なのだ。別の世界のようで、現実の延長線上にあるものなのかもしれない。そんなことを考えながら、不二美祈は車椅子を動かした。
……あの時、種田を――――自分を苦しめる存在を排除してやれたなら。その思いは嘘ではない。次に中枢に呼ばれれば、今度こそ実行に移すのかもしれない。
理不尽で、不条理で、無茶苦茶だ。そしておそらく、理由も原因も、実はそんなものはないのかもしれない。ただ、なんとなく。それだけでよく分からない場所に呼ばれて、よく分からない力を使い、よく分からないものと戦わされる。
それがどうしたと、美祈は吐き捨てた。
結局、今いる場所も中枢も大して変わらない。理不尽なことが自分の身に降りかかるのはどこの世界にいても同じだ。だったら最後の最後まで抵抗してやろうじゃないかと腹をくくった。
「よう、ちゃんと一人で待てたかよ」
「……美祈。まさか校舎裏なんかに呼び出して、告白しようなんて言うんじゃあないわよね」
「悪いけど先約済みだ。当分はお前と遊んでやれねえから、おとなしくしてもらおうと思ってさ」
「あっそ。へえ」
種田が底意地の悪い笑みを浮かべる。無理しているなあ、と、美祈は笑った。彼女のことだけではない。何組の誰々が好きだとか、他人より少し勉強が出来るとか、そういった理由で人と争うことが馬鹿らしく思えたのだ。
「先に言っとくぞ。あたしは、本条なんてバカっぽいやつはタイプじゃねえんだ。向こうから勝手に言い寄ってきやがって、ムカついたからぶん殴った。そんだけ。あいつなら大層にしてさ、病院のベッドでゆっくりしてるから、好きなら好きって言いに行けよ」
「そういうことじゃない。私はあんたがなんか、ムカつくだけ」
「だから施設のガキどもにちょっかいかけたのかよ? あたしに構って欲しいからって」
「そういうところがムカつくって言ってんの! 足がそんなことになったくらいで、世の中全部くだんないって目で見てさ、同情誘ってんの? ひねくれ。斜めになったって誰も相手なんかしないっつーの」
美祈は頭を掻いた。だったら最初からそう言ってくれと溜め息を吐きだす。そう思ってから、自分も似たようなものだとも思い直した。
「きょうびタイマンなんか流行んねえけどさ、せっかく来てくれたしよう。お前相手ならちょうどいいハンデだと思うんだけど、どうするよ」
「マジで言ってんの? あんた、脳みそまで腐ってきたわけ? しないっつーの。ケンカするにしても、その足が治ってからね」
「いや、こいつはなあ。まあ、いいや。じゃ、治すまで待ってくれよ。その間、もうあたし以外のやつに余計なことすんなよ。やったら、マジで、今度こそお前をぶっ殺すかもしれねーからな」
睨みつけられても種田は動じなかった。
「……別に、最初からそんなつもりなかったし。他の子が勝手にはしゃいでただけだから」
「言質取ったぞ」
「好きにして。それより、誰? あんたの相手って」
「何が?」
「先約済みとか言ったじゃない。まさか、施設の子に手ぇ出したんじゃ……」
アホなのかと種田を蔑みつつ、美祈は答えてやった。
「バーカ、男じゃねえよ。女だ。そんで、ただの友達、みてえなもんだ。あたしのこと悪く言ったら、そいつが飛び出してきてお前を殴るかもしんねえぞ」
「じゃあ女の子に手ぇ出したの? うわ」
今度中枢で種田を見かけたら、蹴りの一発くらい入れてやろう。それくらいはいいよな、と、美祈は思った。