武装する少女
全部、夢だと思っていた。
全て自分の妄想で、出鱈目な空想なのだ、と。
今となっては、何もかもが嘘であって欲しいと、偽物なのだと信じたかった。
貫木小学校が休校になってから三日が経っていた。
スイカがクビナシという化け物に殺されかけた翌日、つまり木曜日の朝、登校中の児童や引率の保護者が大勢いた通学路に数台の車が突っ込んだ。車を運転していた、被害者であり加害者でもある者の中には、貫木小の教員もいた。スイカもその現場にいて『事故』を目撃していた。死傷者は多数。近辺は凄惨な有様であり、事故の残した爪痕はまだ消えていない。
『スイカちゃん』
高都林檎が死んだ。彼女の友人も、そうでない者も。スイカにとって、友人になれそうだった者も。大勢が巻き込まれて死んだ。引っ越してきたばかりのスイカにとっては殆ど他人かもしれないが、同じ学校に通う者が亡くなったのだ。思うところは山ほどあった。
魔法。クビナシ。エーディー。そして魔法少女。
あの日、目の前に現れた長ったらしい名前をした蜘蛛は、そのようなことを言った。両親から外出を控えるように言われていたスイカだったが、何もしないでいるのは気が狂いそうで怖かった。あの出来事が夢か現か定まらないままではよくないと、父親にノートパソコンを借りてインターネットで調べ物をした。だが、求めているものは見つからなかった。いつの間にか、魔法少女を取り扱ったサイトばかり見ていることに気づき、はっとする。
「魔法少女、かあ」
スイカはノートパソコンを閉じ、椅子から降りて体を伸ばす。
考えなくてはならない。スイカはそう思った。彼女は、当分は学校に行かなくても構わないと言われている。休校が解けたとして、あの通学路を見る度に事故を思い出すだろうという両親の配慮だ。しかし、部屋に引きこもっているだけでは解決しない事柄に巻き込まれている。スイカはそう信じていた。
そう、信じているのだ。
確認は取れていないが、スイカは、事故で死んだのは正体不明のクビナシとかいう化け物に殺されてしまった者だろうと当たりをつけている。自分の知っている学校ではない学校によく似た場所で、人ではない何かに殺された。予知夢などではない。アレが現実なのだ。
スイカは新しいノートと筆記具を取り出して机の上に置く。
『1、わたしはどこに連れて行かれたのか。
2、蜘蛛って何?
3、魔法って何?
4、首のない馬の正体は?
5、どうして、今は空を飛べない(魔法を使えない)の?
6、エーディーって?
』
自分なりに考えをまとめて書いている途中、少しだけ馬鹿らしくなって、気が滅入ってきた。どうせ、答えはどこにも転がっていないのだ。
スイカは着替えてから部屋を出て、リビングにいる母親の様子を盗み見る。月曜日の昼下がりという時間が、気だるげな空気を作り出していた。ワイドショーでは貫木で起こった先の事故について、アナウンサーが何事かを伝えている。
「お母さん」
「……あ、どうしたのスイカ。お腹、空いた?」
母親は何気ない動作でチャンネルを変えた。
「ううん。ちょっと、コンビニ、えーと、散歩に行ってこようかなって」
「ええ? でも」
母親はテレビに目を遣り、難しそうに唸った。
「一人で大丈夫?」
「ケータイも持ってるし、何かあったら連絡するから」
「まあ、ずっとうちにいても……じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」
「うん、いってきます!」
外に出れば何かが思い浮かぶ、ということでもない。だが、スイカには一つだけ確かめたいことがあった。それは、他の魔法少女(蜘蛛はA.D.と呼んでいたが)を探すということである。現状、自分一人では何も分からないのだから、事情を知っている者を見つけて話を聞くのが手っ取り早いと思ったのだ。
心当たりはある。魔法少女の殆どはそれらしい服装をしていたが、一人だけ毛色の違う人物がいた。クビナシに吹き飛ばされていた、制服を着た少女である。彼女はとある中学校の制服を着ていた。スイカはその制服がどこの中学校のものなのかを調べている。少女の顔はおぼろげだが、あの凶悪そうな笑みだけは忘れられない。本人を見れば間違いなく思い出すだろう。
スイカはコンビニではなく、貫木中学校へと向かっていた。
時刻は午後の二時を回ったところである。スイカは携帯電話をポケットに戻して、息を吐いた。何をしているのだろうと、自分でもよく分からなくなったのである。
何せ、今は平日の昼間だ。中学生は学校で勉強している時間である。学校の前で立ち尽くしていたのだが、このままでは通りがかった人に怪しまれかねない。母親には散歩と言ったが、帰りが遅くなって心配をかけるのもよくないと思い、一度、家に帰ろうとした。
その時、校舎の方から車椅子の少女が正門に近づいてくるのが見えた。制服を着ているので、ここの生徒だろうとスイカは判断した。だが、どうしてこの時間に帰ろうとしているのかが分からない。体調を崩して早退するつもりなのか、はたまた――――。
「あの人……」
少女は口元だけを歪めて笑っていた。暗い感情によるものなのだと、スイカにも分かった。同時に、彼女こそが自分の探している人なのだとも分かった。
車椅子の少女のあとを、気づかれないようにして追いかける。ほぼ間違いはないだろう。学校で見た少女だ。狂的な笑みは忘れようにも忘れられなかった。
だが、どうして車椅子に乗っているのかがスイカには分からない。もちろん、何らかの事情があり、足が悪いから使っているのだろうが。だが、あの時の少女は車椅子を使っていなかった。少なくとも、足が不自由な風に見えなかった。他人の空似という可能性もあるが、他にやることもない。
「ここって……」
少女をつけていたスイカは立ち止まり、大きな建物を見上げる。清潔感のある真白の外壁は学校とよく似ていた。病院だと気づき、嫌なものが背筋に走る。
少女は広い駐車場を抜けて、正面入り口から中へ入っていった。スイカは迷ったが、彼女のあとを追いかける。
建物の正面の表札には『貫木市立病院』と書かれていた。出来ればこういう場所の厄介にはなりたくないものだと考えつつ、スイカは自動ドアを潜る。
ふ、と、空気が変わるのを感じた。院内の臭いは外とは違い、どこか薄い。意図的に、薬や病、死の臭いというものを掻き消しているように思えて、スイカはここにいたくないと感じた。
少女は病院に通い慣れているらしく、案内板を見ずに、するすると移動していた。
どうやら、少女は誰かの見舞いに来たわけではないらしい。陽光の降り注ぐ中庭に出て、彼女は立ち止まった。舗装された道の両端には背の高い木が何本も植わっている。スイカも足を止め、ぼんやりとしたまま少女を見つめた。
中庭は入院患者の散歩コースとなっているらしく、看護師が車椅子の患者を押していた。目線を変えれば、見舞いに来たらしい婦人が、入院患者らしき人物と親しげに話している。
「おい」
ふと、スイカは視線を前方に戻した。先まで前を向いていた少女が自分の近くにいる。その上、こっちをねめつけるようにして見据えていた。
スイカは戸惑った。真正面から敵意をぶつけられるのに慣れておらず、少女の目が途轍もなく恐ろしいものに感じたのである。
少女は舌打ちしてスイカを見上げた。スイカは何を言えばいいのかを考えながら、少女を観察する。彼女は座っているから正確には分からないが、背は高い。160センチの後半はあるだろう。髪の毛は長く、明るい茶色に染められている。鼻筋が通っており、黙っていれば美人だからモテそうだなあ、と、スイカは思った。
一番気になったのは少女の目であった。他者に媚びず、へつらうことのない冷たいそれから、スイカは目が離せなくなった。
「おい。だから、何さっきからつけてきてんだよガキ。……てめえ、誰かに頼まれたのか? あ?」
「誰にも頼まれてないけど?」
「はあ? ぶっ殺すぞてめえ。用もないのにあたしの後ろちょろちょろしてたってのか」
少女は黙っていれば美人だが、喋ると駄目だった。口が悪過ぎて、スイカはたじろいでしまう。
「き、聞きたいことがあって……ええと、あるんです」
「ヤだよめんどくせーな。用がねえんならとっとと失せろ」
言いつつ、少女は車椅子を器用に操って後ろを向いた。ここで何も出来ないまま終われるかと、スイカは彼女の前に回り込む。
「だーかーらーさー、何なんだよマジでさー」
「戦って! ました、よね。あの、学校で」
少女は目をぱちくりとさせた。スイカはごくりと息を呑む。
「ケンカのことかぁ? あー、まあ、戦いっちゃあ戦いだけどよ」
「じゃなくって、馬が」
「……馬? 馬とケンカ? え、あたしが?」
スイカは何度も頷いた。
「っざけんなバーカ。馬とケンカなんかするかよ。やったとしてあたしが勝つけどな」
「お、覚えてないの?」
「あ?」
おかしいと、スイカは首を傾げる。
流石に覚えていないはずがないだろう。あのクビナシは忘れるには強烈過ぎる。もしや少女は真実を隠しているのではなかろうか。そうも思ったが、少女からは動揺した様子が見受けられなかった。また、彼女は隠し事をするには性格上、向いていないような気もする。人違いの可能性も零ではないが、見れば見るほど似ているのだ。……否、スイカは確信している。少女こそがあの時に見た『エーディー』なのだ、と。
しかし、覚えていないのはどういうことだろうかと、スイカの思考が振り出しに戻った。
「お前さー、なんか頭おかしいんじゃねえの?」
「お、おかしくないっ! わたしはっ」
ただ、分かって欲しいだけだ。同じ悩みを抱えた者を見つけたかっただけだ。反論を試みた瞬間、とぷん、と、どこかでそんな音がした。
ずぶりずぶりと泥の沼に頭まで浸かっていくような感覚の後、スイカは周囲の様子を確認した。先の気持ち悪さは学校にいる時にも感じたことがある。
『次に見えるまで、心安らかに過ごすといい』
クビナシの時の感覚だ。蜘蛛の言葉を思い出す。つまり、二度目だ。また呼び出された。スイカは弾かれるようにして空を見上げる。先まで青かったそれは、どす黒く染まっていた。
「冗談でしょ!?」
頭を抱える。ふと見ると、傍に少女が立っているのが分かった。彼女の目つきは悪く、長い茶髪を風になびかせている。
「……車椅子は?」
「あ?」 と、少女はスイカを『見下ろした』。
スイカは其処らを見渡したが、少女の乗っていた車椅子は見当たらなかった。彼女は自分の足だけで地面に立っている。
「え、あの、なんで、立ってるの?」
「てめえ、なんでそれを」
少女が言いかけた時、甲高い音が響いた。彼女は、にいいと口元をつり上げて、両の拳を合わせる。
「ンだよ、もう始まってんじゃねえか!」
「うわ速っ」
少女が背を向けて駆け出したかと思うと、その姿はあっという間に遠くなり、見えなくなった。スイカはふと足元を見遣る。先まで少女の立っていた場所に穴が空いていた。
誰かの悲鳴が邪魔で考えがまとまらない。スイカは目を瞑り、地面に手を当てた。
少女の様子は明らかに違っていた。凶暴性は変わらないが、踏み込む際に地面を抉るほどに肉体が強化されている。走る速度も尋常ではない。身体能力が上昇しているらしい。ならばと、スイカは拳を作って地面をじっと見据えた。殴りつけて試してみようとも思ったが、その手を振り下ろすことは出来ない。
「やってみたら? 常識が邪魔をしてるから、今のあなたには無理だと思うけど」
スイカの頭の上から声が降る。彼女は振り向き、その人物を認めた。ゴシックロリータ風の格好をした少女が薄笑いを浮かべている。
「あなた、ここは初めて?」
「……二回目、ですけど」
「ああ、そうなの」と、ゴスロリの少女が返した。
「今日はある意味アタリだから、私が教えてあげてもいいわよ。いつもの小さいのも、まだ出てこないしね」
スイカは迷った。少女の好意を素直に受け止めていいものか、訝しんでいる。スイカの葛藤に気づいたのだろう。少女は納得したように頷いて、作ったような微笑を浮かべる。
「福城宵町。私の名前よ。心配しなくてもいいわ。仲間よ、なんて言うつもりはないけれど、殺し合うこともないでしょう」
「断割彗架、です」
福城と名乗った少女は掌を下に向ける。何事だろうとスイカが其方を注視していると、福城の手から淡い光が漏れ始めた。その光は西洋の椅子を形成する。
「驚いた? こういうことも出来るの」
創ったのか、それとも呼び出したのか。スイカには分からないが、福城は椅子に座って、芝居がかったような所作で足を組み替えた。
「聞きたいことはあるけど、何から聞けばいいか分からない?」
スイカは小さく頷く。クビナシのような化物が現れて、自分も含めて巻き込まれた人がまた殺される。切羽詰まった状況だが、目の前の福城は焦っていない。スイカは僅かなりとも落ち着きを取り戻した。
「最初は誰だってそうよ。私だってそうだったから。でも、すぐに慣れるわ。だって慣れなきゃ殺されちゃうんだもの」
殺される。改めて、自分がとんでもないところにいるのだと認識する。スイカは生き抜く為の、理不尽と戦う為の術が欲しかった。
「わたしにも出来るんですか。その、そういうこと」
「さっきも言ったけど、こんなこと普通じゃあ出来ないって、そういう風に思っていたのなら一生無理よ。固定観念に囚われず、常識を捨てるの」
福城は椅子に座ったまま掌をかざす。数秒と掛からず、彼女はその手に十字架のような形をしたステッキを握っていた。福城はステッキで地面を叩く。石畳が砕けて破片が舞った。彼女は素手で破片を殴り飛ばす。より細かくなったそれは風と共にさらさらと流れていった。
「ちょっとお行儀が悪かったかしらね。けど、信じていればこんなことだって出来るの」
福城の話は今のスイカにとって有益だった。彼女には実質、何もないのである。何も出来ず、何も知らない。ただ、福城宵町の意図が掴めない。殺し合うことはない、敵対するつもりはないと言いながら、仲間だとも言わなかった。心から協力する気もないのかもしれない。
「あなた、いくつ?」
「十二歳ですけど」
「え? じゃあ、ひょっとして小学生? ……にしては、ちょっと頭が回り過ぎてないかしら。二回目だとしても、他の子よりも随分と慎重なのね。あなた、私の話をどこまで信じてるの?」
「ちゃんとした目的が、福城さんにもあるんですよね」
スイカは福城を見据える。確かに自分は小学生だが、彼女とも歳はさほど離れていないだろう。一つ二つの違いなど、絶対的な優劣を定めることにはなりえない。
「ええ、そう。私は人と、情報を集めているの。ね、協力してくれないかしら。私たちの仲間にならない? それとも、あなた、『あの』キンパツとお友達?」
おや、と、スイカは首を傾げそうになる。今、福城は意図的か、それとも無意識の内にか、幾つかの情報を公開した。
一つは、既に福城には仲間がいること。
一つは、福城は車椅子の少女のことを前から知っているということ。しかも、あまりいい印象を持っていない様子だ。
それから、福城は決して、仲間を欲しているのではないと直感した。プラス、先の福城の言葉から推し量ってみるに、他にもグループで動いている者たちがいる可能性がある。
「……その様子だと、少なくとも今は駄目みたいね。いいわ、そろそろ動かなきゃならなさそうだし、諦めたげる」
「えーと、ごめんなさい。知らない人にはついていっちゃ駄目ってお母さんがいつも言ってるから」
「いい心がけね。じゃあ、特別に二つ、なんでも質問に答えてあげましょう」
もちろん、単なる厚意ではないのだろう。今のうちに恩を売っておこうという思惑が見え見えであった。スイカは迷ったが、ここは素直に甘えておこうと思った。
「じゃあ、エーディーって、何? ここは、どこ?」
ふ、と、福城は口元を歪める。『そんなことを聞いてどうするつもりだ』とでも言いたげであった。
「A.D.……私は、Arm Doll。つまり、武装する女の子って風にとらえているわ。ここがどこだって質問にはきちんと答えられないけれど、誰かが中枢と言っていたような気もする。間違いないのは、ここは既に戦場になってるってことね。他に知りたいことは自分のナビ……私は使い魔って呼んでるけど、そいつに聞くのが一番だと思うわ。もっとも、戦い以外のことを、あいつらが教えてくれるとは思わないけれど」
じゃあ、と、福城は背を向ける。彼女はいつの間にか、広げた傘を握っていた。
「あ、待って! 色々と、ありがとうございました」
「いいのよ。あなたにも素質があるんでしょうけど、気をつけてね。危なくなったら無理しないで逃げればいいから」
福城の身体がふわりと浮かぶ。彼女は風に乗って、空を移動し始めた。
「シィド」
福城がいなくなった後、スイカは中空に目を遣った。何もなかったはずの空間に糸が垂れている。するすると、蜘蛛がその糸を伝って下りてきた。
「……それは私の名前か?」
「覚えられないんだもん。名前なんかどうだっていいって言ってたし。それより、また会ったね」
長ったらしい名前をした蜘蛛こと、シィドは複眼でスイカを捉える。
「出てくると思った。ねえ、さっきの話、聞いてた?」
「フクギ・ヨイマチの話か? ああ、聞いていたとも」
「あれって、本当? あの人の言ってたことって嘘じゃないの?」
「いいや、ヨイマチは嘘を吐いていなかった」
そう、と、スイカは呟いた。彼女は福城のことを全面的に信用するつもりはない。だからこそ、どうでもいいことを聞いたのだ。自分たちがどう呼ばれているのか、この場所がどういうところなのか、それは二の次である。最初に知っておきたいのは生き残る為に必要なことであり、戦う為のルールであった。その重要な部分を他人に任せて、騙されていては話にならない。
「嘘は吐いてなかったんだ。よかった」
だが、シィドは福城の発言を真実だとも認めていない。恐らく、問い質しても無駄だろうとスイカは思った。
「わたしにも福城さんみたいなことが出来るの?」
「勿論だとも。スイカ、君は運がいい。ヨイマチはA.D.の中でも特に素質がある。駆除にも初回から参加し、今まで生き延びている古強者だ。彼女と出会い、力の使い方をイメージ出来たのは幸運だと言えるだろう」
「……初回?」
スイカは疑問に思っていた。先の福城や車椅子の少女といい、自分と比べて明らかに差がある。力の使い方、この世界を生き抜く術を多く持っている。そして疑問は氷解した。自分とはスタートラインが違うのだ。
「いい機会だ。前回は時間がなかったが、今回はまだ始まったばかりだからな。スイカ、君たちは『化物』を『駆除』するのだ。そうしなければ、ここからは抜け出せない。だが完全に消去してしまえば、『元の生活に戻れる』。分かったかね」
時間がある。説明を受けられる。自分にとって、生きる為には必要なことのはずだ。
しかし、スイカの全身が沸騰する。冷静になろうとしても、我慢しようとしても駄目だった。
「元の、生活に……!?」
「スイカ? どうしたと」
どうして、そう淡々としていられるのかが分からない。分からないから八つ当たりしたくなる。いけないことだと頭では理解している。
「無理だよ、そんなのっ。バカ言わないでよ!」
「現に戻れただろう。君は」
「林檎ちゃんたちがっ、人がたくさん死んだのに!?」
「……何?」
無くなった物が返らないように、亡くなった者も帰らない。
夢か、偶然かとも期待していた。だが、たとえここから戻れたとしても、日常は完全な形にはならないと分かった。生きて戻れたとして、欠けて、歪な状態の日常に放り出されてしまう。スイカにはシィドの取り繕ったような物言いが許せなかった。
「スイカ。君、記憶が連続しているのではあるまいな?」
シィドの声音には動揺が含まれていた。
「それが? 覚えてたよ、ちゃんと。みんなが殺されたところも見た。わたしが空を飛んでるのも……忘れられるはずがないじゃない。こっちで死んだ人たちが、あっちで死んだんだ。こんなことって……」
記憶が連続。関連。そのようなことをシィドは口中で呟いた。
「く。はっ、なるほど、そうか。くく、なるほど、なるほど」
「わたし、怒ってるんだけど」
「は、ああ、すまなかった。いや、謝っても許される問題ではなく、そも、私は君たちに『すまない』という感情を持ち合わせたことがない。だからスイカ。事実を事実として受け止めるといい。ああ、間違いない。これは事実だ。君の現実だ。化け物はいるし、君たちのような力を使う者がいる。死んだ者は戻ってこない。ここで死ねば、向こうでも死ぬ。どんな形になるのかは私には知る由もないが、化け物を消去した時、君たちの世界とやらに戻る段階で命を落としていた者は確実に死ぬ。そういう風に出来ているんだ、ここは」
シィドはずっと笑いを堪えていたが、その言葉は冗談でもなんでもなく、厳然たる事実であった。少なくとも、スイカにとっては。
事実をそうだと認識すれば、甘い期待や夢が粉砕されたのならば、先までの怒りは嘘のように引っ込んでしまった。
「……ひどいね」
「私を恨むといい。憎むといい。我慢出来ないのなら力を振るってもいい。好きなように、君の気の済むように。しかし、約束しよう。ドアパンチカ・ラクサック・ルゥシィドが、タチワリ・スイカを元の世界に帰すと誓おう。君には力がある。素質がある。誰にも負けない、強い想いが」
スイカは拳を作った。シィドを殴れば、あるいは殺してやれば、少しは気が晴れるかもしれない。
殴り合うような激しい喧嘩をしたことはない。何かと戦うことに対して葛藤はある。ここで動かずにいられたならどんなに楽だろう、激情をぶちまけるのはどんなに楽しいだろう、とも思う。しかし、理不尽な状況に負けたくなかった。
「戦うって、前にも決めたんだ。だから、教えて」
戦う相手は化物だけではない。スイカはこの状況とも、この世界とも戦うと決めた。
「いいかね、スイカ。フクギ・ヨイマチの言っていたことは嘘でも間違いでもない。不可能だと思うから不可能なのだ。出来ると信じていれば、なんだって出来る。ここでは肉体をどれだけ鍛え上げたところで大した意味はない。重要なのは心だ。君たちの好きな愛と正義。無垢な希望こそが物を言う」
スイカは息を吸った。
「A.D.とは力を自在に操れる者のことを指す。資格あり、素質あり。そう判断された者には私のような……ヨイマチの言うところのファミリアがつく。私と君で一人前のA.D.なのだ。君たちが最初にすべきことは、真っ向、化け物と戦うことではない。自らの力を知ることだ」
スイカが息を吐いた。
「力を、自らを信じるといい。さあスイカ。イメージするんだ。常識を捨てろ。鎧を纏え。意識を切り替えろ。そうすることで君はもっと高く飛ぶことが出来る。君は、もっと――――」
「イメージ……」
胸に炎。四肢に光。
秘めた願いが具現する。誰に憚るともなく、ただ想像する。
宿ったものを否だと断ぜず、己の在り方を全て是とする。
戦う為の術を、法を。
ここで生き抜く為のものをイメージする。
まずは、上半身。スイカの体が淡い光に包まれる。彼女の着ていた服は掻き消え、瞬時に別のものと入れ替わる。現れたのは白とピンクを基調にした、現世のアイドル衣装にも似たミニドレスだ。
次いで下半身。露わになっていた部位がフリルのついたスカートで隠される。
次に足元。スニーカーは編み上げブーツに。
次に頭。スイカの頭頂部に羽根のついた宝冠が乗る。
最後に首元。深紅のスカーフがスイカに巻きつく。
「ほう」とシィドは感嘆の声を漏らした。
スイカは自分の手足や服装を注意深く見遣った。
「すご、ホントに服が……でもさ、なんか変じゃない? 大丈夫かな?」
「ああ、恐らく、そうなのだろう。君たちの感覚では変なのだろうな」
「ええっ!?」
「服を変えることは大事だ。常に着ているものを脱ぎ去ることにより、今までに身についた常識を捨てやすくなる。おおよそ普通ではありえない、派手で奇抜なものを纏うことによって非日常に没入出来る。つまり衣装は鎧であり、スイッチでもある。より良く力を行使するには必要な儀式なのだと認識するといい。ともあれ、おめでとうタチワリ・スイカ。君も今日から立派なA.D.だ」
「立派な、かあ」
行こう。そう言ってシィドが糸を伝った。中空に上った彼を追いかけるようにして、スイカも飛翔する。心なしか、初めての時よりも自由に体を動かせている気がした。
シィドの移動速度は鈍い。スイカは彼に合わせる形で、泳ぐようにして空を進む。
「ね、シィド。今回って、何回目なの?」
「これで八回目だ。君たちの時間で数えるなら、今回の駆除が始まって一か月程度が経っている。何回戦えば終わるのか、それは私にも分からない。ただ、大抵の場合は三か月か、長くとも一年で終わる」
「今回……前にも、今までにもこんなことがあったの?」
「ああ。日本の貫木ではない、君の知らない場所で行われていた」
「それってさ」
「いや、この話はここまでだ。君にはまだ伝えるべきことがある」
シィドが下を指す。真白の建物、病院から異音が発せられていた。スイカが以前にも聞いたことがあるものだ。人の悲鳴であり、魂の四散する音であり、感情を爆発させた大音声である。自分の真下、見えないところでは既に戦いが始まっているのだ。
「来るぞ」
病院の屋上部分にひび割れが入る。スイカが身構えた。女性の荒っぽい声と共に、それが現れる。
最初に見えたのは炎であった。スイカにはとぐろを巻いているように見えた。
それは巨大なタイヤであった。輪形の火焔の中心には巨大な顔があり、身の毛もよだつような形相で歯を食いしばっている。
「おっきい、輪っかだ」
「誰かと戦っているな」
喉から苦鳴を迸らせる。同時、少女の顔には狂喜が貼りついていた。彼女は、スイカが追っていた車椅子の少女であり、スイカと別れてからすぐにワッカと遭遇し、戦い続けていた。
少女は他のA.D.とは違い、スイッチを切り替えていない。つまり、学生服のままである。
「おおおああああああぁぁぁぁっ、が……!」
少女は、両腕だけでワッカを押さえつけていた。着ているものも髪の毛も肌も、ワッカの身体から常に放出される炎によって焼け焦げている。一秒ごとに熱が襲い、苦痛を与えていた。
それだけではない。少女はワッカの車輪を掴んでいる。ワッカは彼女から逃れようとして、速度を上げる為に車輪を高速で回転させていた。その摩擦に素手で対抗している為、少女の掌の皮が剥がれて、煙すら上がっている。皮だけではない。肉も、骨ですらも回転に耐えられずに弾け飛ぶ。少女の周囲には血煙が立ち上っていた。
耐え難い熱と苦痛が襲っているはずだ。だが、少女の身体は焼かれる度、擦り減る度、自動的に回復している。剥がれた肌も焼かれた肉も砕けた骨も流れた血も消失した部位でさえも、傷を負った瞬間に治癒されていた。それはもはや時間を巻き戻しているかのような有様であった。
少女とワッカが戦っている。スイカは、彼女の援護には向かえなかった。気圧されていたのである。スイカは病院の別の棟の屋上に着地し、戦闘を見守っていた。
「無様よね」
スイカが振り向くと、すぐ近くに三人の少女がいた。その内の一人は福城宵町である。彼女の左右には二人の少女がいた。
左方、黄色を基調とした衣装を着ている、ショートヘアの中性的な容姿をした少女。
右方、マーチングバンド風の衣装を着た少女。
彼女らだけでなく、少女とワッカを囲むようにして、数人の少女――――全員がA.D.であろう――――がいた。
「A.D.になれたのね。いえ、なったのね」
「はい。あの……」
「助けにはいかないわ。だって私、キンパツのこと嫌いだもの」
福城だけでなく、残り二人の少女も険しい目つきをしていた。スイカはごくりと息を呑む。キンパツとは、今、ワッカと戦っている少女のことを指すのだろう。
「あの子、すごく乱暴なのよ。言動だって荒っぽいし、戦い方だって、ねえ? 見れば分かると思うけど、回復能力と言うのかしら。それに特化してる。たぶん、痛みを感じないように魔法をかけているんだと思うわ。あの子、とびきり壊れてると思わない? 北欧神話のベルセルクって、きっとあんな感じなんでしょうね」
神話では、狂戦士は野獣になり切り、理性を捨て去って戦う。近づくもの、動くものなら敵味方どころか肉親の区別ですらつかず、ただ暴れて殺すだけの存在なのだ。
「知ってる? ベルセルクの語源って、何も着ない者って説があるらしいの。だったらほら、あの子もそうじゃない。A.D.のようで、実際、そうじゃない。気が触れたような戦い方をしてるのに、服ですらそのままなのに、あの子はきっと人間として戦っているとでも思っているのよ。ああ、おぞましい」
福城は歌うように、そう言った。
「私たち、ここであの子がリタイアするのを待つつもりよ。死のうが、逃げようが、どうなろうと構わない。一番いいのは相討ちになってくれることかしら。あ、薄情なんて思っちゃ嫌よ。あの子の戦いに巻き込まれて、私だって酷い目に遭ったことがあるんだもの」
スイカは息を吸う。確かに、キンパツと呼ばれている少女には協調性がないのだろう。それどころか意思の疎通すら難しいのかもしれない。だが、見捨てる道理はない。時間をかければ彼女だけでなく、自分たち以外の力のない人まで犠牲になるのだ。義憤に駆られたつもりはないが、傍観するつもりもない。
スイカはじっと福城を見つめた。やがて見下されるような彼女の視線を背にすると、スイカはワッカを見据えた。
「好き嫌いとか、ベルセルクだとか、そういうことはよく分かんないです。けど、そういうことを言ってるような場合じゃないってのは、分かるんだ! シィド!」
「君の好きにやるといい。好きなことを好きに思うといい。それが君の力になる」
「分かった!」
スイカが飛ぶ。周囲からどよめきが起こった。シィドは他のA.D.たちの驚愕を認めて、くつくつと笑う。
そうだ。お前たちとはレベルが違う。力とは、努力でどうにかなる問題ではない。持って生まれた資質だけが物を言う。正義も友情も、奇跡も愛も、そんなものはどうだっていい。必要なのは、あくまで個人の才である。
力(多くの者は『魔法』と呼称している)を使うには精神力が必要だ。
何より、想像力が不可欠である。幼い子供がサンタクロースを信じるような『こうであって欲しい』という幼く、拙い願望だ。そうあれかし。何でも出来る強い自分をイメージすることが出来れば、力は上手く扱える。
また、力、A.D.にも格というものがあった。確かに福城宵町は優秀だ。しかし、彼女にも出来ないことがある。その一つが、先にスイカがやってみせた、己の身一つ、独力で空を飛ぶことだ。……人間にはどうしても不可能なことがある。福城は常識を捨てろと言ったが、他ならぬ彼女自身でさえも割り切れないことはあるのだ。その点で言えば、タチワリ・スイカに不可能はない。シィドはそう思っている。
雲を突き抜ける。
スイカはぐるりと反転し、空の中から、再び雲を突っ切った。勢いをつけてワッカを吹っ飛ばしてやるつもりであった。
人を殴ったことなどない。殴られたこともない。
だが、アレは違う。あの化け物は、そのようなことに構って、躊躇うことすら許されない。
「いっ、くぞおおおおおおおぉぉぉ……!」
景色が線になる。風が身を切る。拳を突き出して、ワッカに狙いを定める。強烈なGが負荷をかける。それすらを通り越して疾風と同化する感覚。吹っ飛びそうになる意識で、これだけでは足りないだろうとも判断した。だからスイカは強く願う。
眼下にはワッカとキンパツが。スイカは掌をかざした。瞬間、ワッカの真下に分厚く、長い鉄板が現れる。板の長さは十数メートル。中心の部分には鉄パイプで作られた支点があった。スイカの『召喚した』ものの正体は巨大なシーソーである。
「そこから、どいてえ!」
キンパツの少女がシーソーの存在に、次に、落下してくるスイカに気づき、後方へと跳躍する。板に乗せられたワッカも逃れようとするが、ぎりぎりまでキンパツに押さえられていたせいで反応が遅れた。
多くのA.D.が魔法と呼ぶ力。
この『魔法』を使うには、魔法の存在を信じられる強い想像力。魔法による結果をイメージ出来る強い願望。この二つと、もう一つ、欠けてはならないものがあった。それこそ、シィドが、スイカが他の何者にも劣らないと決定づけた、最後の条件である。
その条件とは、思春期の少年少女が所有する、全能感だ。
「こん……のォ!」
スイカが、ワッカとは反対側の板に着地する。落下の際の余波で、風圧と衝撃波が周囲に乱れ舞う。鈍い音が轟く。ワッカはてこの原理とスイカの想いによって呆気なく、空高くへと上昇を開始した。
ワッカはぐんぐんと高度を上げて雲の中へと消えていく。スイカはそれを見上げて、ふうと息を吐いた。ちらりと視線を横に流せば、キンパツの少女も同じように天を仰いでいる。
「おぉー、すっげ。バッカみてえなことになってんなあ。なあ?」
と、キンパツがスイカを見て笑みを浮かべた。
「今ので、倒せたかな」
「どうだろうな? けど」
キンパツは周囲を見回す。
「他の連中が動き出したぜ。あとはあいつらに任せてもいいんじゃねえかな」
「そう、かな」
スイカはその場に座り込んだ。彼女の緊張が途切れたことにより、巨大なシーソーが掻き消える。
「お前、すごかったんだな。どうすごいとかは分かんねーけど、嫌いじゃねえぜ。ああいうことやるやつはさ」
「あ、ありがと」
「あたし、不二美祈ってんだ。お前は?」
「断割彗架。スイカでいいよ。えーと、不二さん」
美祈はスイカの傍に屈んで、大げさなしぐさで手を振った。
「美祈でいーよ。ありがとな。正直、ちょっと助かった」
「どういたしまして、美祈ちゃん」
「……ちゃんづけはよせよ」
なんだ、と、スイカは胸を撫で下ろす。意志の疎通が難しい訳ではない。普通に話せる、仲良くなれるではないかと、彼女はほっとしたのだ。
「フジ・ミノリ。君は私のような使い魔を連れていないのか」
「うおっ、なんだこいつ! 殺すぞ!」
突如、上から視界に入り込んできたシィドに驚き、美祈は立ち上がる。
「こ、殺しちゃダメだって。わたしのなんだから」
「へー、お前のか。で、こいつ、何? あのワッカと同じようなもんなのか?」
「え? 何って、美祈ちゃんのは?」
美祈はシィドをねめつけたまま、目つきをより一層険しくさせる。
「しらねー。いや、なんか前にちっこいのが出てきた気もするけど。ごちゃごちゃうっせーから殴りまくった。したら動かなくなった。死んだんじゃねーのかな。ああ、あいつがそうだったのか」
「……なるほど。だからフジ・ミノリは服を着替えていないのか。他のA.D.との交流がある訳でもない。ミノリは完全に自分の力だけで生き抜いてきたらしい」
シィドのようなものが現れて、人間の言葉を使っていきなり話しかけてきたことに驚くのは分かる。だが、それを問答無用で殴り殺すのはスイカには理解出来なかった。
「うわー、なんか怖い」
「いや、喋る虫のが怖くね?」
「む。それよりもスイカ、そろそろ終わりそうだ」
スイカは立ち上がって辺りを見回す。
「分かるの?」
「私にはな」
「へー、便利だな、そいつ」
美祈は何がおかしいのか、げらげらと笑っていた。スイカは早く帰りたいと思った。
「でも、今回は他の人があんまり巻き込まれないで済んだんじゃないのかな」
「……スイカ。それは」
「いや? お前さ、病院の中、見てねえの? あたしはずっとあいつを追っかけまわしてたから知ってんだけどさー。中はぐちゃぐちゃになってんぜ。病院っつったら動けねーやつらが多いから、あのワッカに轢かれまくってたかんな」
スイカの顔から血の気が引いた。
「よく分かんねーけど、そんな気にすんなって。いや、あたしもさ、ホントはこの病院に来てな、お礼参りしようと思ってたんだよ」
「お、お見舞い?」
「や、お礼参り。前にボコったやつが入院するとか聞いたから。徹底的にやんねーと駄目なのよ、こういうのは。手間が省けたなあ……ん? そういや、お前、あれ? っかしーなー、なんか、あれ?」
「美祈ちゃん、もしかして覚えてないの?」
美祈はその場に立ち尽くして、目を強く瞑る。
「覚えてって、ええと、なんだ?」
「だから、さっきみたいな化け物を倒して、その、そう! 中枢から戻った時のこと! ほら、前は学校でクビナシって馬を」
「え、ごめん。中枢って何?」
説明するのが面倒でもあり、難しくもあった。何せ、スイカも正確には事態を把握出来ていないのだ。
「ああっ、もう。とにかく、また向こうに……わたしたちのちゃんとした世界に戻るでしょ? その時、ここであったことって全然覚えてないの? わたし、向こうで美祈ちゃんと会ってるんだよ? 『あ?』 って睨まれたんだよ?」
「…………うーん? よく分かんねーんだけど」
「美祈ちゃんのバーカ!」
「ああっ!? 初対面だぞ、バカとか言うなやてめえ!」
「時間だ。スイカ、また見えるまで、どうか心安らかに過ごして欲しい」
ぐ、と、スイカは口元を押さえた。視界が反転し、意識が混濁したせいで吐き気を催していたのである。それはすぐに収まったが、じっと、自分を見ている少女を認めてたじろいだ。
「……お前さ、気分でもわりーの?」
「え? あ」
車椅子に乗った不二美祈が、面倒くさそうにスイカを見ている。スイカは、あの場所から戻ってきたのだと実感した。
「……あの、わたしの名前、覚えてる?」
美祈は訝しげにスイカを見遣った。
「やっぱ頭おかしいんじゃねえの? ガキ。てめえの名前なんか覚えてるもクソも、知らねーし興味ねーんだよ、バーカ」
なんとなく、予感はしていた。スイカは落胆しない。ただ、少しだけ虚しくなった。
スイカは思い出す。シィドは、自分の記憶が連続しているかどうかに興味を持っていた。やはり、世界が違うのだ。自分たちは恐らく、貫木とは似て非なる場所に連れて行かれている。そして、普通ならば、シィドの知る限りならば、記憶の齟齬は発生して当たり前なのだとも理解した。
自分だけが『中枢』の記憶を『日常』に戻っても覚えている。それはある意味、中枢で生き抜く為のアドバンテージなのかもしれないが、あまりにも残酷であった。
中枢での凄惨な光景もしっかりと覚えている。化け物に殺された者が、いつかこちらでも死んでしまうことを覚えている。自分だけが分かっているということが、スイカには酷く辛かった。
「……美祈ちゃんの、バーカ」
スイカは走り出す。後ろから美祈の声が聞こえた。彼女は、殺すぞ、なんてことを叫んでいた。