夜明け
海に行きたいの。
少女はそう言った。
嫌だよ。
女はそう言った。
闇夜の中、橙色のテールランプが尾を引いている。貫木市内を好き勝手に駆ける一台の車があった。行く当てもないのか、ただただひた走っていた。
その車には二人の女が乗っていた。
「なあ」と運転席の女が声をかけると、助手席の少女は今まで眠っていたのか、少しだけ目を開ける。
「なあに」
「どっか行きたいところとかねえの?」
「ねえの」
少女は再び目を閉じる。
「あっそ」
「そう。ほら、わたしの気の済むまで走ってて」
「あたし、明日も仕事あるんだけどなあ」
「ふうん。あっそ」
少女の口元は緩んでいた。
あれから(・・・・)、五年が経過していた。
当時十二歳だったスイカは十七歳になり、高校生になっていた。背も伸びて、体つきも女らしく丸みを帯びている。声も少し低くなって、妹が出来た。そう。彼女は『大人』になったのだ。子供らしい純真さも、何事をも下に見ていた万能感も鳴りを潜めた。
最後の駆除から五年が経ったが、スイカが虫垂に呼ばれることはなかった。シィドが言っていたとおり貫木の門は封鎖されたのだろう。貫木にいる限り、スイカたちが忌まわしい惨劇の舞台に上がることはない。失ったものもあるだろうが、これ以上失うこともない。
……だが、スイカはそう考えてはいなかった。
何故ならば、スイカは記憶を消さなかったからだ。彼女は全て忘れることを拒んだのだ。自分のやったことを、自分を構成している要素を、自分の夢を拒絶することが出来なかった。
後悔もした。迷いもした。
否、スイカは今でも後悔していて、迷っている。
ただ、もう決めたのだ。辛い選択かもしれなかったが、スイカは虫垂という世界を、魔法使いの作った仕組みを敵に回したままでいたかったのだ。
「着いたぞ」
その声でスイカは目を覚ました。彼女の顔を覗き込んでいるのは、眼鏡をかけた女――――不二美祈だ。
美祈は十九歳になっていた。彼女は中学卒業後、リハビリの末、一人で歩けるまでに回復した。それが虫垂で受けた影響によるものなのかどうかはスイカにも分かっていない。……今、美祈は施設を出て介護施設でパートをしながら貫木市に一人で暮らしている。たまにスイカにせがまれてドライブに行く。
「……着いたって、どこ?」
スイカは窓を開けた。ふと、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。潮のそれであった。車が停まったのは海浜公園の近くらしかった。
「海。行きたいって言ってたろ」
「行きたくないって言ってたじゃん」
「気づいたら着いてたんだよ」
スイカと美祈はどちらともなく車を降りて体を伸ばす。二人以外に人はいなかった。空気が澄んでいる。スイカはそう思った。
五年前、この近くには水族館と活気があったが、その水族館の生物が次々と死に、気味悪がられて客足が遠のいた。水族館が閉館したのはつい最近のことだった。
「なあ、最近お前さ。あたしといる時ってだいたい寝てるよな」
ふと、美祈がそんなことを口にした。
「いや、別にいいんだけどさ」
「何。美祈はもっとわたしと話したい感じ?」
「……気になっただけだよ」
「美祈の隣だとね、安心して寝られるんだ。ね、さっきも言ったけどさ、わたしと付き合わない? つーか結婚して欲しいなあー」
スイカは笑っていた。美祈は少しだけ嫌な予感がした。
「女同士なんてヤだよ」
「とはいえ、美祈よりかっこいいヤツなんか見つかりそうにないんだよね」
「言ってもよ、まだ二年くらいの付き合いじゃねえか。学校にはいるんじゃねえの、色々と」
美祈はメガネを外してスイカを見据える。スイカは目を合わせようとしなかった。
「別に。気持ちよくなるだけだったら男じゃなくてもいいし」
「…………ヤなガキだよな、お前って」
「ガキじゃないよー。美祈よりスタイルいいんだし、わたし」
「殺すぞ」
車に戻ったスイカは別の場所に行きたいと言った。美祈は死んでも嫌だと言ったが、スイカは口答えせず、安心したかのように目を瞑った。
「わたしさー、外国に行きたいんだー。貫木以外の場所で暮らすのが夢なの」
唐突に。スイカが口を開いた。カーラジオに遮られた彼女の話を聞き流すと、美祈はアクセルを強く踏み込む。
「なんつった。外国?」
「そう。外国。島国を出てさ、飛行機で空飛んで海を越えんの」
「ああー、別にアレか。それだけか。自分探しの旅に出るってやつみたいだよな、それって」
「馬鹿にしてる?」
美祈はスイカを無視して煙草を口に咥えた。スイカは、美祈の吸う煙草の臭いが好きだった。
「そういや、こないだ種田と会ったわ。なんか今、看護学校に通ってるんだってよ」
「へえ。そうなんだ」
「元気そうだった。お前のことも聞かれたわ」
「ふーん。わたしのことなんて言ってた?」
スイカは携帯電話を操作しながら、気のない素振りで尋ねた。
「聞いたら怒りそうだなー、お前」
「……だから、なんて?」
美祈はなかなか話をしなかった。痺れを切らしたスイカはグローブボックスに電話を突っ込んで声を荒らげた。
「もー、わたしホントあの人ダメ。嫌い。わたしのこと馬鹿にするし邪険にするんだもん」
「ええー? そうかあ? 可愛がってもらってるんじゃねえのかなあ」
「子供扱いされんのがムカつく」
けらけらと笑う美祈に腹を立てたのか、スイカは彼女の肩を小突いて髪の毛先を指でつまんで引っ張った。
美祈の車は市内をしばらく走った後、別の場所で停まった。木造の建物の前だった。その古めかしい二階建ての建物がスイカの行きたかった場所だ。
「この駄菓子屋に来るのも久しぶりだし、もう来ねえと思ってたけどよ。こうしてまた来ちまうんだよな」
美祈は建物の看板を見上げる。暗くて文字を読み取ることは困難だったが、確かに『洲桃野商店』と書かれていた。
スイカは電話で目的の人物に連絡を取ってみたが返事はなかった。無理もない。現在時刻は午前零時に差し掛かろうとしていた。しかしスイカは電話を鳴らし続けていた。出るまで続けるつもりだった。
ややあってから物音がして、店の入り口が開かれた。がらがらと硝子戸がスライドして、その隙間から陰気な顔がスイカたちを覗き込む。
「……帰ってください」
「すーもーもーちゃーん」
「あ、ちょ、やめ……やめろ!」
スイカは隙間から、店の中にいた人物を外に引っ張り出す。色気のないジャージを着たその人物は、洲桃野商店の現店主、洲桃野李であった。
李は現在、スイカの一つ下で十六歳だ。彼女は中学卒業後、他界した祖母の遺産を使って洲桃野商店を再建した。遺産はそれだけで全てなくなったが、ひとまず、李は貫木から引っ越した家族と別れて気ままに一人暮らししている。そして、その自由気ままな一人暮らしを邪魔しているのがスイカというわけだった。
「もう、もーう! また来たんですかあなたは! 何も買いもしないのに居座って邪魔ばっかりして!」
「こないだアイス買ったじゃん」
「こ、高校生がアイス一本で駄菓子屋の閉店まで粘るな!」
「仲いいなー、お前ら」
美祈は他人事のように言ったが、李は彼女をねめつけた。
「あなたもですよ不二さん。おばあちゃんが言ってましたよ、あいつには気をつけろって。ブラックリストに入ってますからね」
「何もしてねえぞ、あたしは」
ふん、と、李は鼻を鳴らす。
「断割彗架さん。あなたと出会ってから面倒なことばかり起きてる気がします。あなたのせいですよ」
「ああー、それなんだよね。わたしってさ学校じゃあ色んな意味で敵なしなんだ。だからわたしに口答えとか毒づいてくれる人とかって、すごい好き」
「……あなたのそういうところがヤなんですよ。自信過剰で、人を見下して……小学生の時から私の後ろや横をちょろちょろとつかず離れず……中学の時もそうでした。確かあの時は……」
李はグチグチとスイカの欠点や痛いところをあげつらう。スイカは両手で耳を塞いだ。
「うるさいし生意気だなあ。年下のくせに」
「私はもう十六です。結婚も出来る大人です。だいたい、あなたと一つしか変わらないじゃないですか」
「ああっ、もう減らず口をー!」
「抱き着かないで! 来ないでっヘンタイ! レズビアン!」
うるさいスイカと李を黙らせると、美祈は周囲を見回した。
「近所迷惑になるぞ」
「じゃあ家に上げてもらおうよ。いいよね李ちゃん」
「勝手に上がらないでくださいよ!」
勝手に李の家に上がったスイカは、勝手にお茶を用意して勝手に居間である和室に入った。
「お前……なんかもう、そこまでやるとすげえな」
「勝手知ったる我が家、みたいなもんだね」
「もういいです。あなたの強引さには慣れましたから」
三人はちゃぶ台を囲んで同じタイミングで熱いお茶を啜った。
「で」と、李を眉根を寄せてスイカを見た。
「今日は何しに来たんですか」
「明日から春休みなんだよね」
「はあ、それで」
「明日からちょっとお出かけするの。一人で」
へえ、と、美祈は羨ましそうに目を細める。
「どこ行くんだ?」
「Espana!」
「ああ、いいな。土産とか気ぃ遣わなくていいぞ。ワインとかでいいからな」
「私はオリーブオイルとかでいいです。というか、一人で行くんですね。一緒に行く友達、いないんですか?」
スイカはじっとりとした目つきで李を見た。
「あー、いますよね。学校の外に出たら誰とも絡まない人って」
「……美祈ー、李ちゃんがわたしをいじめるんだー」
美祈にすり寄ろうとしたスイカだが、彼女に脇腹を叩かれて女子とは思えない声で呻く。
「いいもん。もういい。スペインの女の子と遊ぶんだ。浮気してやる」
「そりゃいいな」
「そのまま帰ってこなくてもいいです」
二人に構ってもらえなくなったスイカは居住まいを正した。
「まあ、ちょっと探し物があってさ。一人で行くことになったの。そんで今日は寂しいから二人に会いたかった、みたいな」
美祈と李は顔を見合わせる。
「この人って、たまーに、そうやって子供っぽいところを見せますよね」
「人たらしだな」
「えへへへ、わたしってかーわいいからなー。一週間くらい向こうに行ってるから、寂しくなったら連絡してね」
適当にあしらわれたスイカだったが、酷く嬉しそうな様子であった。
それから少しして、スイカと美祈は洲桃野商店を辞した。
「家まで送ってくよ」
美祈は自分の車を指差す。スイカは緩々とした動作で首を振った。
「んーん。歩いて帰るよ」
「もう暗いし、なんかあったら嫌なんだよ」
「……じゃあ、送ってって」
「おう。乗れよ」
運転席に乗り込んだ美祈に続こうとしたスイカだが、ふと、空を見上げた。
暗い、暗い、吸い込まれそうなほどに透き通った夜だった。しかし恐ろしいとは思わない。もう二度と、スイカがあの場所に呼ばれることはないのだ。
だが、何が起きるかは分からない。スイカにも、誰にも。
スイカは、記憶を残すと選んだ時から家族や友達を守ろうと決意していた。貫木市で起こったことや、虫垂という場所があるのを知っているのは彼女だけなのだ。
自分が呼ばれなくても、ある日、どこかで、自分の妹が魔法使いの作ったシステムに巻き込まれるかもしれない。その時、妹の助けになれるのは自分だけかもしれない。人間一人に出来ることは限られているが、出来る範囲のことは全てやりたかった。
A.D.としての役目は終わった。
己の欲望を存分に振るった『魔法少女』にはもうなれない。いや、ならないのだろう。
自らの力で勝ち取った平穏の中で、スイカはこれより先の人生、ただの断割彗架として戦うことになる。
年を経るごとに自分以外の誰かを見下すのは難しいことだと気づいて、自分がつまらないものだと認識させられて、思い通りにならないことばかりで、空を飛ぶような自由は欠片も感じられない。
――――でも。それがわたしの世界なんだ。
「おい、何してんだー」
「あ、うん。好きだよ美祈ちゃん」
「ああー、はいはい。あたしも好きだよ」
魔法を使えないただの少女でも、自分の世界と好きな人たちは守りたいのだ。その為になら頑張れる。胸に宿した炎は消えていない。彼女の願いは昔のままだ。蜘蛛の糸も空飛ぶ箒も、今のスイカにも、これからの彼女にも必要のないものだった。
(『断割のスイカ☆ぷろとてぃぽ』終わり)