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ある日

 どうしてこんなことになったのだろう。

 どうしたらいいんだろう。

 そうやって後悔して戸惑うことを、わたしはおかしいと思わない。人より劣っているとも思わない。わたしだって今、後悔してるし迷ってる。

 ただ、わたしは――――。



 ※



 朝焼けなのか夕焼けなのか判然としない橙色の空の下、子供たちのかしましい声が響いていた。

 だだっ広い校庭に、放課後になっても居残っている児童が大勢いた。校庭にボールが点々と転がっており、それを蹴飛ばして駆けるものがいる。皆、両手を懸命に動かして元気いっぱいに走り回っていた。

 得体の知れない陽に染められているのは××市立貫木(かんのき)小学校の校舎だ。市内では一番大きく、五百名弱の児童が通う学び舎である。

 校舎の一階廊下、昇降口へと差し掛かる窓の傍に一人の少女がいた。ショートヘアの、活動的な格好をした彼女は、身じろぎすらせず、じっと窓の外を見つめている。視線の先、校庭には馬がいた。

 馬である。

 毛色は鹿毛に近い。すらりとした、しかし逞しい四肢。平均的な馬の大きさを逸脱した二メートル以上ある体高。少女は先まで、以前、小型の犬が学校の敷地内に迷い込んだ時のことを思い返していた。今見ているモノもそうなのかと自身を誤魔化そうとしていた。

 少女は否と首を振る。アレは、陽だまりのような記憶の中にある生温いものではない。

 その馬には首から上がなかったのだ。正確には、切られたであろう首が鎖に繋がれている。首なしの馬が校庭の中央で――――。

「あ、あ……」

 少女は目を見開いた。

 次の瞬間、轟音が耳をつんざく。刑場と成り果てた校庭に、見知らぬ少女たちが舞い降りた。



 灯りの落ちた部屋に規則的な寝息があった。外は明るくなっていたが、遮光カーテンが日差しが室内に入るのを防いでいる。

 部屋にはキャラクターもののシールが貼られた学習机。本棚には少女向け漫画の単行本がきちんと並んでいる。衣装ダンスの傍には姿見。27インチのプラズマテレビが隅に置かれている。子供部屋のようであり、実際、大きなベッドの上では少女が眠っていた。

 が、彼女はむくりと起き上がり、枕元にあった携帯電話を掴む。アラームよりも早く目が覚めたので、設定を解除しているらしかった。

 少女はううんと伸びをして、ベッドの上をいざって進み、縁に到達すると、ばたりと倒れ込んでしまう。上半身がベッドから飛び出してゆらゆらと揺れていた。彼女はまだ眠たいらしく、あくびをして目を擦っている。まんじりともせずそのままでいると、ノックのあとで部屋の扉が開かれる。

「スイカ、朝ごはん出来たわよ」

「んー、わかったー」

 エプロンをつけた、少女の母親らしき女性は仕方なさそうに笑むと、扉を閉めて歩き去っていった。

 少女の名は断割彗架たちわり すいかという。スイカ本人は自分の名前をあまり気に入っていなかったが、そのような些事に強く反抗する年齢でもない。

 スイカはベッドから降りて、最初に姿見へ向かった。

 黒髪。ショートヘア。身長は150センチ程度の少女が映っている。スイカは自分の容姿に特段不満はなかった。

「……ん」

 スイカはふと思い立って、笑顔を浮かべた。どこか嘘っぽい、作り物めいた表情だと思った。



 断割家のリビングキッチンには香ばしいパンの匂いが漂っていた。スイカは鼻を引くつかせながら椅子を引き、自分の定位置に座る。

「お父さん、もう仕事に行ったの?」

「うん。今朝は早いんだってさ」

 ふうんと返して、スイカはジャムを塗ったトーストを齧った。

「学校、楽しい?」

「うん。楽しいよ。友達も出来たし」

「そう。スイカは誰とでも仲良くなれるものね」

 スイカの母は洗い物をしている。流れる水の音が耳障りなのも相俟って、スイカの心がささくれだった。



 スイカたちは今年の春にこの街、貫木市に引っ越してきた。

 スイカは小学六年生だ。あと一年で小学校を卒業という時期に、住み慣れた場所と、仲のいい友人たちと離れるのは辛かったが、父親の仕事の都合と、新居を建てるのだと言う両親の顔を見れば反対することは出来なかった。

 不満はない。新しい家は綺麗で、自分の部屋がもらえた。母に言った通り、学校で新しい友達が出来た。表立ったいじめはなく、自分がどちらの側にも立たないで済みそうだった。貫木という街はまだよく分からないが、前に住んでいたところよりも大きなモールがあり、買い物には困らなさそうである。

 不満はない。いい環境だ。自分は恵まれている。そう思う反面、精神的な充足を得られたという覚えもない。かと言って強い刺激を欲しているわけでもない。

 怒りはあった。悲しくもあった。それ以上にスイカの胸の内を占めるのは虚無だ。自分は無力で、意見しても通るはずがない、と。なまじ彼女は聡い子で、それ故に自分の限界を知っている。たかが子供、何が出来ると言うのだ、と。

 はしかのようなものだとも思う。スイカは微妙に鬱屈した気持ちを抱えながら、今日も学校へ向かう。



 スイカは貫木小学校に通う小学生だ。六年の一学期に転校して受け入れられるかどうかスイカは不安だったが、クラスメートはおおむね優しかった。皆、『転校生』に対してそれなりに気を遣っている。

 ゴールデンウィークが過ぎ、貫木の街は梅雨入りを待っていた。

 雨の気配がする。そんなことを思いながら、スイカは歩みを速めた。家から学校までは徒歩で十五分ほど。彼女はいつもより早い時間に校門をくぐり、昇降口に着く。

「あ、おはようスイカちゃん!」

 靴を履き替えていると、後ろからクラスメートの女の子に話しかけられた。スイカはにっこりと笑う。花が咲いたようなそれであった。

「なんかあ、明日から雨が降るみたい。うざいよねー」

「えー、そうなんだ。うざいねー」

 スイカの隣に並んだ女の子は快活そうな格好をしていた。悪く言えば、頭のよろしくなさそうな、小学生にはふさわしくない露出の多い服を着ている。

「そういえばさ、スイカちゃんってさー、なんでランドセルなの?」

「変、だったりする?」

「変じゃないよ? 似合ってるし。うーん、レアって感じなのかなあ」

 とりとめのない話の途中、女の子は他の友達を見つけて、そちらに手を振って駆け寄っていく。取り残されたスイカは苦笑し、歩き始めた。



 空気が読める。顔色をうかがえる。

 誰とでも仲良くなれると言うことは、誰とでも仲良くできないと言うことだ。

 浅い人間関係を構築することは容易だ。しかし、スイカは一定の範囲内に踏み込めない性質を有している。親友と呼べるような存在はいない。いたこともない。

 自分がここにいては気まずいだろう。話を合わせていればいいだろう。そう思いながら人の顔を観察していることが多い。

 もちろん、スイカが人嫌いというわけではない。友達とおしゃべりしているのは楽しい。ただ、彼女自身、正確には把握出来ていない理屈で、あるいは直感で。ここぞという時には足がすくんでしまう。どうしても一歩を踏み出せない。スイカは自分を臆病だと思っていた。


『ね、スイカちゃん』


 そんなスイカに、裏のない純粋な好意を向けてくる者がいた。

 高都林檎たかと りんごというクラスメートである。スイカから見て、彼女はクラスの中心的な人物であった。林檎の周りにはいつも人が集まる。ハーフの彼女は恵まれた容姿を持っている。同年代よりも顔つきや体つきは大人びており、にきびの一つもない、抜けるような白い肌をしていた。スイカも、林檎の長く艶のある髪を羨ましいと思っている。高都林檎は、綿菓子のように砂糖菓子のように、ふわふわとした女の子の理想を体現しているようだった。

 人は優れたものに寄りかかろうとする。小学生とはいえ、いや、子供だからこそ、本能的に、一人の優秀な人間を見つけて慕うのだ。林檎はクラスで一番勉強が出来る。運動も得意な方だ。何よりそういったことを鼻に掛けない。誰にでも優しく、誰とでも仲良くなれる。

 転校してきたばかりのスイカに一番最初に話しかけたのも林檎だ。スイカは、自分がクラスで不自然に浮くこともなく過ごせているのは彼女のお陰だと思っている。

「一緒にあそぼうよ、スイカちゃん」

 だから、昼休みに一人でいるスイカを見過ごせなかったのだろう。林檎は彼女に手を差し伸べた。

 スイカは椅子に座ったままで林檎を見遣る。林檎の言葉に嘘はない。彼女の笑顔に裏はない。だが、林檎はこの世に一人しかいない。彼女を、彼女の気持ちを独り占めするようなことは出来ないのだ。高都林檎が許しても、彼女の周囲が許さない。

 林檎の近くにいるクラスメートたちを認めて、スイカは緩々とした動作で首を振る。

「ありがとう。ごめんね、ちょっと、予習しておきたいんだ。ほら、前の学校と教科書が違うから」

「スイカちゃんってしっかりしてていいな。あっ、だったらわたしが教えてあげるよ」

「い、いいよいいよ。一人で大丈夫だから」

「そう? でも、何か困ったことがあったら言ってね」

「うん、ありがと」

 上手く笑えただろうか。スイカは詮無いことを考えた。林檎の自然な笑顔を見ると、自分がちっぽけな存在なのだと思わされる。

 林檎たちが教室から出て行くのを見送った後、


『転校生のくせに』

『横入りしないでよ』


 何か聞こえた。幻聴だと、頭を振った。



 六時限の授業が終わり、家に帰る。朝が来て学校に行く。

 ルーティーンに反抗することはない。スイカは模範的な児童であった。遅刻も早退も、仮病を使って学校を休むこともしない。そうあれと定められているのだから、ルールには従うべきだと思っている。

「スイカちゃん」

 高く、甘い、鈴のような声が耳元で鳴った。スイカは顔を動かし、声の主を確認する。

「……高都さん?」

「林檎でいいのに」

 そう言って林檎は笑んだ。

 放課後、スイカは昇降口で林檎に話しかけられた。スイカは小首を傾げる。珍しいことに今日の林檎は一人だった。

「今日、いっしょに帰らない?」

「わたしはいいけど、その」

 スイカは誘いを受けることを躊躇った。高都林檎を独り占めにすることは許されないと言ったような、暗黙の了解の存在を知っていたからだ。

 林檎は苦笑する。大人びた所作は彼女によく似合っているとスイカは思った。

「平気。わたし、今日は一人なんだ。一人でいたいって気分、っていうか」

「わたしはいいの?」

「うん。スイカちゃんならいいんだ」

 林檎に特別視されることは面映ゆかった。スイカも悪い気はせず、一緒に帰ることを了承する。

「高都さんって、家はどこらへんなの? あ、わたしは」

「えっへっへー、知ってるよ。わたしもスイカちゃんと同じ方角」

「あれ? どうして知ってるの?」

「だって、新築でしょ。工事してるところ、わたしも見たから」

「高都さんってわたしたちの知らないこといっぱい知ってるから、わたしの家だって知っててもおかしくないなーとか思っちゃった」

「そんなことないんだけどなあ。でも、お姉ちゃんがいるから、いろんなこと教えてもらえるってのはあるかも」

「お姉ちゃんがいるの? いいなあ。わたし一人っ子なんだ」

 連れ立って歩き出す。とりとめのない、他愛ない話を楽しいと感じ、スイカはいつもより饒舌になっていた。林檎が聞き上手なこともあり、口が勝手に動いてしまう。彼女が人に好かれるのも当たり前だと、スイカは勝手に納得した。

「どしたの?」

「ん……」

 三叉路に差し掛かった時、林檎が立ち止まる。まっすぐ進めば家だが、スイカは彼女の様子がおかしいことに気づき、気遣わしげな表情を浮かべた。

「嫌な気分になったらごめんね。なんか、わたしとスイカちゃんって似てるなあって思って」


 ――――どこが。


 反論はすぐに消えて失せた。林檎は何も、自分とスイカの外見が似ているとは言っていない。本人は決して口には出さないだろうが、彼女とスイカでは明確な差がある。少なくともスイカは自分の容姿が特別優れているとは思っていない。

 だから似ているのは中身だ。

 誰とでも仲良くなれる。誰にでも好かれる。

 そうした内面が似ていると林檎は思ったのだろう。スイカも、なんとなくそのことに思い至っていた。

「そうかも」

「うん、そうだよ。なんか、スイカちゃんと会えてよかったな。わたしのことを分かってくれる人にやっと会えたって気がして。……このこと、他の子には言わないでね。変な風に思われちゃうから」

 もちろんだとスイカは頷いた。


 

 あくる日、放課後になって、スイカは昇降口へと向かった。やはり林檎『たち』には遊びに誘われたが、用事があると言って断った。とはいえ、別段やることはない。スイカは図書室で借りていた本を返した後、渡り廊下に出る。外に目を向けると彼女は息を吐いた。分厚い雲が陽光を隠そうとしている。曇天は自らの心の内を表しているようで――――。

 ふ、と、妙な気配を感じた。彼女は思わず目を瞑る。風が生温くなったせいだろうか。粘着性のある水に浸かったような、見えない何かに絡め取られたような、気持ちの悪い感触に身震いしかける。

「……あれ?」

 次に瞼を開いた時、空は橙色に染まっていた。時刻は午後の三時を回ったところで、陽が暮れるにはまだ早い。それに、つい先ほどまで空は青かった。スイカはどこかに迷い込んだような心細さ、他人の家に上がり込んだかのような居心地の悪さを覚える。

 気のせいだと断じるには、スイカは子供ではなかった。何かがおかしい。渡り廊下の窓から周囲の様子を確認する。反対側の裏門を認めて、渡り廊下を抜けて校舎の中に入る。他の生徒は見当たらなかった。だが、音は聞こえる。声は聞こえる。自分以外にも誰かがいると言う当たり前の事実に安堵した。

 スイカは次に、空いていた下級生の教室に入り(この教室には誰もいなかった)、校庭を見た。特に変わった様子は見られなかったが、違和を感じる。

 たとえば先の中庭。鯉を飼っている池は、あんなに大きかっただろうか。

 たとえば裏門。はたして、門の近くに背の高い木など生えていただろうか。

 たとえば校庭。ブランコの数が一つ足りなかったのではないだろうか。

 あったようで、なかったような。

 自分がこの学校に転校して一か月程度しか経っていないことで記憶に齟齬が発生したのかもしれない。空の色が狂っていることで感覚までも狂ったのかもしれない。

 混乱しかかった頭のまま、スイカは歩き出す。ひとまず家に帰ろうと思い立ったのだ。階段を下り、校舎の一階に着き、昇降口へ向かおうとしたところで大きな声が聞こえた。スイカはそれを歓声のようだと思った。声は外からだ。彼女は立ち止まり、窓に目を向ける。

 校庭には馬がいた。毛色は鹿毛に近い。すらりとした、しかし逞しい四肢。平均的な馬の大きさを逸脱した二メートル以上ある体高。

 スイカは我が目を疑った。馬がいるのはまだいい。まだ、どこからか紛れ込んだのだと自分を納得させられる。だが、馬には首から上がなかったのだ。正確には、切られたであろう首が鎖に繋がれている。首なしの馬が校庭の中央に、こつ然とその姿を現した。

 得体の知れない馬の周囲には、校庭で遊んでいたであろう児童が大勢いた。馬は動かない。首が切れているのだから死んでいるのかもしれない。

 一人の児童が馬へと近づいていく。幼い好奇心を刺激されたのだろう。馬が全く動かなかったから気になったのかもしれない。

 がちり、と。

 音が聞こえた。スイカは確かにその音を聞いた。



 がちり、がちり、がちり。

 馬が笑った。歯の根を鳴らして。黄色い目玉をぎょろりと動かして。胴体に巻きつけるようにして鎖に繋がれた首が独りでに地を擦る。

 異変に気付いた子は多かっただろう。しかし、その異変を危機だと認識して逃げようとした者は少なかった。携帯電話を持ったまま固まった者。背を向けずにじりじりと後ずさりする者はごく少数で、殆どの児童は何も出来ず、何も持たないでその場に立ち尽くした。

 遠くまで響き渡るような嘶き。じゃらりと鎖が鳴る。発達した動物の四肢が地面を踏みしめた。首のない馬は、一番近くにいた男子児童の顎を蹴り上げる。骨が砕けるどころか、頭部が弾けた。撒き散らされた内容物は地面を叩く。馬と同じように首を喪った胴体が、噴水のような鮮血を上げながらゆっくりと倒れていった。

 悲鳴が其処此処から上がる。馬はその声に反応したのか、近い場所にいる者を狙って動いた。同時に、鎖に繋がれた首が飛翔する。宙を疾走する首は大口を開け、背を向けていた子供の肉にかぶりついた。皮と肉がずるりと剥がれて骨が丸見えになる。

 馬の背後に回り込もうとした、背の高い男子児童が後ろ足で蹴られた。腹を蹴られたのだろう、少年の口から変声期前の呻きと血が漏れる。彼は校庭の端にあるフェンスに突き刺さると、それきり動かなくなった。

 赤黒い旋風が校庭に巻き起こっている。馬の周囲にいた者は既に散華し、彼らの内容物だけが地面の上でひくひくと痙攣していた。

 馬の身体にぶつかるだけでも致命傷であった。競走馬の時速は60キロ前後。首なしの馬はそれ以上の速度で校庭を駆ける。馬と衝突した、小さく、軽い体が小石のように吹き飛んだ。

 本体の馬もそうだが、切り離された首も縦横無尽に飛び回る。広い視界を活かして獲物を捉えるや否や、噛み砕いて食い殺す。校庭には瞬く間に二十を超える骸が転がった。



 スイカは目の前で行われたことを現実だと認識した。校庭は危険であり、あの馬は最悪であると。彼女は昇降口へと急ぐ。靴を履き替える手間を惜しく思ったが、正門から帰るのが一番家に近く、ここから走ることを考えれば、やはり外靴の方がいいだろうと判断したのである。

 彼女は家のことを想起し、母親に持たされていた携帯電話をポケットから取り出した。電源は入ったが圏外だった。

 昇降口へ向かっている途中、他の児童とすれ違った。彼ら、あるいは彼女らは座り込んで泣き叫んでいた。低学年になればなるほどそれは顕著である。年少の者を置いていくのはどうかと思ったが、自分では何もしてやれない。スイカは意味がないと知っていながら、心の中でごめんねと呟く。

 職員室へ駆け込もうかとも考えた。実際、スイカも数名の児童がそちらへ向かっていたのを見ている。自分もそうするべきだと一瞬間、物思いに囚われた。だが、大人たちでさえあの馬を御しえることは不可能であろう。体の大きい先生でさえ怯えてしまうに違いない。

 誰か先生を見つけて、車で逃がしてもらうのはどうか。それも無理だと即座に否定する。車に乗ってきている者が残っているとは限らない。そも、乗せてくれるかどうかも分からない。何より、一刻も早く学校から出たかったのだ。余計なことはしていたくなかった。

 スイカは昇降口に辿り着く。ここにも数人の児童がいた。スイカは彼らの脇をすり抜けて、震える手指に焦れながらも靴を履き替える。混乱していた。だからこそ動くべきだと断じた。冷静になった思考で恐怖を受け入れてしまえば、何も出来なくなると思ったのである。

 悲鳴が耳を劈く。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような衝撃がスイカを襲った。

 死んだ。殺された。あの馬が同じ学校の児童を襲ったところを、間違いなく自分は見たのである。スイカはぐっと目を瞑った。恐怖という根源的感情を、正義感が克己することはなかった。

 正門に向かったスイカだが、大きな物音を聞きつけた。振り向くことはしなかったが、門を潜ろうとした時、向こうから何人かの少女たちが走って来るのが辛うじて見えた。

 辛うじてと言うのは、実際、スイカが見たのは一人の少女だったのか、複数だったのか、そも、走っているのかどうかすらを正しく認識できていなかったからだ。ただ『物凄い速さのものが自分の横を通り過ぎていった』ことだけは分かっている。それが馬の同類なのか、馬に敵対するものなのか、全く関係のないものなのかを確かめたいとは思わなかった。

 改めて門を潜ろうとする。今度は声が聞こえた。どこから。誰のものだ。戸惑っている内、勇ましい叫び声と馬の嘶きが轟いた。スイカはそちらに目を向ける。今度は見えた。人が飛んでいた。

 破砕音と破片を連れて、この近辺の中学校の制服を着た背の高い女子が、血塗れになって空を後ろ向きになって、妙な体勢で疾走していた。馬に蹴られて吹き飛んでいるのだと気づくのに、ある程度の時間を要した。

 その中学生は校庭で馬と出くわし、やられたのだろう。その後、少女はあろうことか校舎の壁面、教室や廊下の窓を突っ切るような形で特別教室棟の壁をぶち破り、消えてしまった。スイカは馬の力に驚き、怖がるのと同時、蹴られたであろう少女にも同様の感情を抱いた。何故なら、血塗れだった彼女は確かに笑っていたのである。

 校庭は依然として危険だ。だが、馬より危険かもしれない者たちは正門の方からやってきた。学校から家までの途中で別の少女たちと出くわすかもしれない。第一、馬が一頭きりとは限らないのだ。

「スイカちゃんっ」

「え……? あ」

 昇降口から林檎たちが駆け寄ってくる。林檎はスイカが無事なことを確かめ、手を握ってきた。考え過ぎて混乱し切った頭がすうと冷える。

「高都さんたちも無事だったんだね」

 よかったと、スイカは心から思った。

「うん、うん……でも」

 林檎は俯いてしまう。スイカは彼女の周囲にいるクラスメートたちにも目を遣った。皆、同じような顔であった。沈痛な面持ちをぶら下げている。校庭で起こったことを見てしまったのだ。泣き出す者がいないだけマシだろう。あるいは、未だ現実か夢か、内心で推し量っているのかもしれない。事象がどちらか確定した途端、感情が振り切れてしまう可能性も残されている。

「みんなはどうするつもりだったの?」

 スイカが問うと、林檎たちは顔を見合わせた。

 もちろん逃げるつもりだったのだろう。だが、林檎たちもスイカと同じことを考えていたのである。つまり、どこへ逃げればいいのかが分からない。叶うなら家族のもとへ、信頼出来る大人に守ってもらいたいとは思っているのだろうが、それが難しいからこんな顔をしているのだ。

「あっ、き、来た……!」

 一人の少女が校庭の方を指差す。恐慌が伝播する前に、林檎はスイカの手を引っ張った。

「中に逃げよ!」

 スイカは頷く。馬が近づいてきているのなら、正門に……平坦な道に逃げることは自殺行為に等しい。馬と追いかけっこして逃げ切られる自身はない。ならば校舎の中へ逃げ込んだ方が撒き易い。階段を使い、狭いところに入り込めば馬も自由には追って来られないだろうと判断したのだ。



 林檎たちは上階へ向かう。スイカは最後尾で彼女らの後ろを追う形となっていた。

 階下から音が聞こえてくる。壁や床が破砕する音。苦痛を訴える絶叫。聴覚だけで何が起こっているのかが分かった。それだけ事態がシンプルなのだ。

 音は少しずつ近づいてくる。あの馬が上を目指しているのだ。しかし歩みを止めることは出来ない。

「ね、ねえっ、林檎ちゃん! ここからっ、ど、どうするのっ!? 林檎ちゃん!」

 スイカの前を走る女の子が大声で林檎に問い掛けた。林檎は振り向かなかった。

 スイカには分かる。いや、彼女以外の者も分かっていただろう。術はない。皆、ただ、林檎にくっついてきただけなのだ。だから責任を、救済を求める。

 屋上へ続く扉は封鎖されている。階段を上り切り、事実上の最上階である四階に辿り着いたスイカたち五人は立ち止まった。肩で息をし、時折聞こえてくる悲鳴に身を竦ませて、周囲に忙しなく視線を遣る。

 スイカは長い息を吐き出して、現状を自分の中で整理した。

 今いる位置の四階からは、下に降りるか、渡り廊下を通って特別教室棟に向かうしかない。彼女は林檎の様子を確かめた。……林檎は、酷く憔悴しているらしい。可哀想かもしれないが、集団を動かすのなら彼女に『お伺いを立てる』のが効率的だろうとスイカは判断した。

「り……高都さん、渡り廊下に出ない? あそこなら周りを見渡せるし、変なのが来てもすぐに逃げられるよ。行き止まりには出ないし」

 林檎はスイカを見た。スイカはハッとした。林檎の宝石のような目が濁っている。たぐいまれな容姿にも、どこか翳りが見えていた。

「で、でも」

「高都さん?」

「だって、誰かが、どうにか……」


「ここにいたら死んじゃうよ!」


 全員が身を震わせる。突如、知らない少女が、自分たちの来た方から姿を現したのだ。その女は一言で表すなら珍妙な格好をしている。

 透き通るような白い髪の毛。頭部からは獣の耳が生えている。ウエスタンガールのような恰好をした背の低い少女は、明らかに同じ学校の児童でも教員でもない。

「私と一緒に逃げよう?」

 見知らぬ少女が一歩踏み出す。スイカたちは後ずさりした。

 少女は傷だらけだった。顔半分にはべったりと血がついて、左腕は千切れかけてだらりと地に伸びている。右足を引きずるようにしているのは足を怪我しているからではない。よく見ると踝から先がなかった。彼女が前へ進むたび、血の跡が床にこびりつく。

 血も怖かったが、何より恐ろしいのは少女がまだ生きているということだ。自分の状態を顧みないで自分たちに手を差し伸べようとしている歪さを不自然に感じたのである。

 渡り廊下へ続くところで、スイカだけが足を止めた。林檎は今にも泣きだしてしまいそうな顔をしている。

「スイカ、ちゃん」林檎が手を差し伸べた。

「ね、君、危ないから。ね?」 少女が手を差し伸べた。

 スイカは両者を見比べて、足を踏み出した。



 スイカは血も涙もある善良な少女だ。ただ、この場にいる誰よりも早く現状を認識して、遠くない未来を直感した。

 たとえば。スイカはイメージした。

 林檎たちと一緒に行けば自分がどうなるのかを想像した。彼女らと行けば、自分は生きて帰られるかどうか。……非常に困難だと判断する。高都林檎は自失している。いずれ致命的な行動を取り、巻き込まれるに違いない。

 では血塗れの少女の手を取るのか。林檎についていくよりもありえないと判断した。なぜならスイカは、既に学校内に入り込んだ者たちを見ている。馬に蹴飛ばされて笑っていた少女を見ている。きっと、この血塗れの少女も同類なのだ。スイカは彼女たちのことをおぼろげながら分かりかけている。少女らは馬と敵対している。戦っている。しかし、この少女は手傷を負わされて、負けて、逃げたのだ。

 敗北者だ。だからこの少女は、他の少女よりも馬よりも、心根だけなら自分よりも――――。

 そこまで考えた時、スイカは渡り廊下に向かって走り出していた。背中越しに自分を引き留める声が幾つか聞こえる。林檎たちの声。血塗れの少女の声。そしてもう一つ。馬の嘶きだ。



 皆、誰しも願いというものを抱いている。

 その願いが実現するかどうかは分からない。そも、実現させようとして生きている者ばかりではない。

 叶わないと知っている。届かないと悟った目をする。多くの夢が個人の中に埋まったままで終わりを告げる。だが、時にその願望は鎌首をもたげて、己自身でも理解、納得の出来ない場面で発現する。望もうが望むまいが、内に秘めた想いは、


「は――――っ」


 独りでに翼を得て飛翔する。

 スイカは目を見開いていた。視界には空と雲。驚愕と狂喜で感情が混線する。

 風を切る感触。上昇と落下が繰り返される。浮遊感が身を包む。いつも以上に、自分の意志で身体が思った通りに動く。まるで、腕や足が別物に取り替わったのかではないかと錯覚する。

「あっ、は……!」

 見上げれば空は橙色から朱に染まっている。鮮やかな紅色の中、煌々と輝く月一つ。手を伸ばせば届きそうだった。スイカは堪えられなかった。溢れ出る感情に飽かせて口を大きく開く。笑った。思い切り笑ってやった。そうか、と、納得さえする。

 自分は今、空を飛んでいる。

 スイカはこれが現実であると信じた。そうしてまた笑う。

 後ろを仰ぎ見る。先まで自分が立っていた渡り廊下が血の海になっていた。狂ったように暴れる馬が見える。

 スイカは渡り廊下から飛び降りて、今はここにいる。残っていた者たちは、皆、馬に魂ごと喰われた。

 陽だまりのような高都林檎の笑顔を覚えている。血塗れになった少女の形相を覚えている。

 アレは、断割彗架にとっての分水嶺であったのかもしれない。光と影。林檎と少女。日常と非日常。そしてスイカはどちらをも選ばなかった。差し伸べられた手を跳ね除けるような真似をして、今は空を翔けている。

「そう。それでいいんだ」

 目の前に蜘蛛が現れる。否、最初からいたのかもしれない。ともかく、スイカが『彼』の存在を認識したのは今という瞬間であった。蜘蛛は糸に吊るされているかのような体勢でスイカを全肯定した。

 あなたは。そう問うと、蜘蛛はくぐもった笑みを漏らす。低い男の声をしていた。人間以外の生物から人間の声が聞こえたことに対して、スイカは不思議と嫌悪感を覚えなかった。

 が、彼女は眉根を寄せる。デフォルメされたような蜘蛛の姿は、まるで、自分のような少女が嫌悪を抱かないように創られていると感じたのだ。

「私の名はドアパンチカ・ラクサック・ルゥシィド」

 蜘蛛はそう言った。

「……ドアパン……?」

「私の名前など、どうでもいいことだ。タチワリ・スイカ。君は素晴らしい。君はそれでいい。些事だ。気にしなくて構わない。ああ、いいじゃないか。クラスメートが死んでしまっても、自分一人だけが助かったと安堵しても」

 蜘蛛はくつくつと笑った。

「君は今、もっと別のことに気を取られている。喜んでいるんだ。ここにいられることに、大いに感謝している。罪悪感など捨ててしまえ。いや、最初から感じていないのかもしれんな、君は」

「感謝って、そんな……! ありがとうなんて思っているはずないじゃんか!」

「願いとは心の奥底に潜むものだ。本人の自覚無自覚問わず、必ずある。どこかに巣食っているはずだ。……そら、見るといい」

 蜘蛛の足が地上を指し示す。スイカは中空に留まりながら、地上を見下ろした。

 そこには壊れた校舎があった。骸の転がる校庭があった。中庭にはあの馬がおり、その周りを見知らぬ者たちが囲んでいる。スイカは目を凝らした。風体から見るに、馬を取り囲んでいる者の殆どが少女だった。

「……これって、夢なの? みんなが幻なんだったら、わたし」

「アレは、他のやつは『クビナシ』などと呼んでいる。そうだな。特徴としては」

「違うっ」

 スイカは叫んで、話を遮る。

「わたしが聞きたいのはそんなことじゃないの。ねえ、わたしたちはどうしてこんなところにいるの? どうしてこんなことになってるの?」

「曖昧だ。スイカ。君が何を聞きたいのかが分からない。しかし案ずるな。私はナビゲーターのようなものだ。君が何をせねばならないのかは分かっている」

 自分を値踏みするような四対の赤い目玉を見遣り、スイカの背筋がぞっとした。

「クビナシを消すのだ。君たちの存在意義はつまるところそれだ。君と同じように力を持つ者があそこにいる。彼女ら……力を上手く使える者、素養のある者には女が多い。あの場にいる十余名、全て、女だ。彼女らと協力し、脅威を消し去ることが」

「消すって、や、ちょっと待って。待ってってば」

「戦い、力を使うのだ。それだけでいい」

 蜘蛛の語調は終始淡々としている。急に現れて、化け物を倒せと煽る。人を人とも思っていない。

 スイカは、それもそうかと思い直す。何せ相手は蜘蛛なのだ。いや、外見はそうだが、中身はもっと別の、おぞましいものかもしれない。そうでなければ、あの化け物と戦えとは言わないだろう。

「この場では、力を持つ者のことをA.D.と呼んでいる」

「エー、ディー?」

 情報量が多過ぎる。スイカはおうむ返しで時間を稼ぎ、頭を必死に動かそうとする。だが、真実かどうかを見極める術はない。同時に、この蜘蛛は嘘を吐いていない。本当のことしか言っていないのだとも分かってしまう。この場で重要なのは、蜘蛛の発言が嘘かどうか、ではない。蜘蛛から与えられたものを自分が信じるかどうかなのだ。

「ああ。君たちに備わった力を、何故か、多くのA.D.が魔法と呼んでいるが」

 魔法という言葉にスイカが反応する。

「わたしたちって、じゃあ、魔法使い? それか、魔法少女ってことなの?」

「好きに呼ぶといい。君がそう思うなら、そう信じるなら、私が強く否定することはない」

 化け物と戦い、魔法のような力を使い、空すらを飛べる。

 魔法少女と、自分でそう思い込まなければ、自身が化け物と呼称されるのだろう。

「君にとって確かなことがある。それは、殺さねば殺されるということだ」

 分からないことが、知らないことが多過ぎた。情報量がスイカの許容を超えた時、彼女は大きく頷く。現時点で分からないものは後ではっきりさせればいい。はっきりしているのは、ここで自分が動かねば、殺されるかもしれないということだけだ。それさえ分かっているのなら、やると決めた。恐怖は、より大きな歓喜によって打ち消されている。

「あいつをやっつけたら、ちゃんと話してよね」

「いいだろう。君の質問に答えよう」

 スイカは覚悟を決めた。自分だけではない。仲間……かどうかは確かめてみないと何とも言えないが、自分と同じくA.D.と呼ばれる者たちがいる。

「あ、あのさ、で、どうやって戦うの? 魔法って、どうやって使えばいいの、かな?」

 えへへと、スイカは恥ずかしそうに笑った。蜘蛛は溜め息のようなものを吐き出す。

「いや、もう遅い」

「何が?」

「クビナシが消えた。では、さらばだ。次に見えるまで、心安らかに過ごすといい」

「え? ちょっと、話が違う。なんでどっか行っちゃおうとしてんのさ」

「じき、分かる」

 視界が反転する。意識が混濁する。天地が逆転したような感覚を覚えて、


「……あ、れ?」


 スイカは、渡り廊下にいた。



 空が青い。空気が透き通っている。当たり前のことを受け止められず、スイカは学校中を見て回った。

 四階の廊下にいたはずの林檎たちはどこにもおらず、校庭には馬も、血も、死体もなかった。魔法少女(スイカはそう認識している)も一人だっていない。長ったらしい名前をした蜘蛛は、呼びかけても念じても姿を見せることはなかった。

 夢か。幻だったのか。しかしスイカは覚えている。何が起こったのかをはっきりと記憶しているのだ。だが、実際には何の痕跡も見当たらない。

「スイカちゃん、こんなとこでどうしたの?」

「……あ、う、うん」

 自分の出来る範囲で学校中を調べ尽くし、昇降口でぼんやりとしていると、林檎に話しかけられた。スイカは彼女の顔をじっと見つめる。林檎の笑顔に翳りはない。彼女にも、彼女の友人たちにも傷一つなかった。

 ここでようやくになって、スイカは安心することが出来た。

「なんでもないよ」

 夢だとしたら、あまりにも性質が悪過ぎた。



 スイカは家に帰り、夕食を食べて、入浴を済ませて、自室に戻った。貫木に引っ越してきてから何一つ変わらない、当たり前の日常であった。

「夢、だったのかな。本当に」

 ううんと唸り、スイカは姿見の前でぐるりと回ってみる。その場で何度か跳んでみる。魔法という言葉が頭に浮かび、念じてもみた。しかし変化は見られない。得られたのは羞恥だけである。

 ただ、五感は訴えかけていた。お前が見聞きし、嗅ぎ、触れたものは真実なのだ、と。



「おはよー、お母さん」

「あら、今朝は一人で起きられたのね。えらいえらい」

「えらいって……子供じゃないんだからさ」

「寝癖立ってるわよ」

「え、うそ」

 嘘よ。スイカの母がくすくすと笑った。スイカはむっとした様子で自分の椅子に座る。朝食の準備は済んでいるようだった。

 子供扱いして欲しくないと言う反面、『養われ』の身の自分がどうしようもなく子供だと言うことも自覚している。スイカは溜め息を吐いた。

「まだ眠たいの? もしかして体調悪い?」

「へーき。それに、今日と明日行ったら土日で休みだもん」

 スイカは笑ってみせる。本当は、昨夜は眠れなかった。目を瞑れば、クビナシと呼ばれた馬や、クラスメートの死体が浮かんでくるものだから、出来ることなら学校にだって行きたくはなかった。ただ、母親を心配させたくなかった。

「土曜か日曜のどっちか、水族館にでも行く? 父さんが休みなのよ」

「本当? やたっ、楽しみにしとくね」



 母に見送られて学校へと向かう。目的地までの十五分、スイカはどこか夢心地であった。今、自分の立っている場所が本当ではなく、まがい物のような気さえする。

 あの、橙と紅の夜に嫌なことはたくさん起こり、スイカはそれらを確かに目にした。しかし、飢えを満たしたかのような充実感を覚えている。決して偽物の感情ではなかった。

「あ」

 スイカのない交ぜになった感情は、一人の少女を目にしたことによって雲散する。学校までの長い直線を、高都林檎とその友人たちが前を歩いていた。

 ああ、やはり。

 アレは夢でここが現実なのだと思い知る。

 空想に浮かれていた自分が酷く小さく、愚かだと思い知る。

 先を進んでいた林檎が振り向き、スイカの存在に気づく。彼女に手を振り返して、スイカは駆け出そうとした。

「りん――――」

 馬の嘶きのような、甲高い音が長く尾を引く。

 何事かと、スイカは前方の車道に目を遣った。聞こえていたのはブレーキ音だ。銀色の乗用車があらぬ方へと突き進もうとしていた。タイヤがアスファルトを削りながら必死でスピードを落とそうとしている。

 今は通勤、通学の時間帯だ。大勢の人がいて、車がある。反対車線。後方。前方。衝突を恐れて、他の車も無茶苦茶になって動いていた。オートバイに乗っていた青年は後ろから追突されて吹き飛んだ。悲鳴が上がる。声を出せない歩行者は顔を蒼くさせて立ち止まり、事態の推移を見守ろうとする。

 やがて一台の車が制御を失い、ガードレールへと突っ込んだ。勢いは完全には消えず、疾走する鉄塊が登校中の児童の列と交差する。後続の車も次々と衝突し、歩道へ乗り上げた。その際、児童や付き添いの保護者が断末魔を上げて千切れる。

 スイカの視界にも赤い花が咲いた。弾け飛ぶ内容物は記憶に新しい。鮮やかな血の色も、肉の潰れる鈍い音も、何もかもを知っていた。

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