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レゾナンス・ドール  作者: iohara
一章 目覚め
6/13

5 縁(よすが)と赤い薔薇

 イシュマの父、レイザック卿が息子に託したものは小さなペンダントだった。

 紫水晶で瞳を模した紋章は、断崖都市カーヴェイのものだ。古くは封蝋に用いられていたそれは、蓋を開ければ中は小さいながらも容器として使われる。そこに入る何かを、父はヘルガに渡すつもりだったのだと、イシュマはここにきてようやく知った。


「父さんが命をかけたそれは、いったい何なんだ? あんたが示す道とはいったい」

「……精神こころの欠片だ」

「欠片……? それがあればリュンを目覚めさせられるのか?」

「可能性と言っただろう、確証はない。だが、これしか方法はないと卿も理解していた。彼女が目覚めなければ、再び世界の成り立ちが大きく変わることとなる、とな。私としてはそのような事はどうでもいい。ただここで朽ちていく子供たちを、一人でも多く生きながらえさせることが私の仕事」


 利害の一致。それがイシュマの父とヘルガとの間に交わされた契約そのものだった。 

 だが、肝心のペンダントの中身については、ヘルガは口を閉ざしたままだった。


「彼女を目覚めさせるには相応の準備が必要だ。それよりも今はレイザック卿と、先ほど息を引き取った子供を葬るのが先だ……別れを済ませておくといい」


 ヘルガは受け取ったペンダントをたもとにしまい、イシュマを促した。

 イシュマは幼馴染みの少女は気になったが、父の屍を捨て置くこともできない。

 急いで元来た道を引き返すと、部屋を出たところで双子の片割れと出くわす。どうやら道案内をするつもりらしく、顎でクイと道を指示した。

 おおかた大切な施設の中で迷子になられては困る、とでも言いたいのだろう。男はよそ見をするイシュマを気にしつつ、先導した。

 館を出ると、固く閉ざされた城門が正面に見えた。先ほどまでの騒ぎが嘘のように、しんと静まり返った中庭が広がる。どうやら外の広場には『傭兵団オルセリ』どころか、『グリーンハット』も既に引き払い、誰も残ってはいないのだろう。


「アギ……」


 イシュマは心配ではあるけれど、おとりになるかのように残ったアギが、無事に追手を逃れたことを祈るしかない。

 そう思うものの、血のにじむ包帯が巻かれたイシュマの拳は、不安を表すように固く握られている。


「我らにしか開けることはできない扉だ、お前の力ではどうにもならん」

「そんなの……分かっている」


 イシュマがふて腐れたように答えると、男は中庭へと進む。

 導かれるようにして戻った庭には、血塗りをきれいに拭われて白い棺に横たえられたイシュマの父レイザック卿。その側には仮面の医師ドクトーラがいた。

 そっとレイザック卿を覗きこむ仮面の下に、どんな表情が隠されているのかは分からない。だが、仮面の男はそっと遺体の手を取り、胸の上に組ませる。別れを惜しむかのように、ゆっくりと。

 仮面の医師は近づくイシュマたちに気づき、そっと棺のそばを離れた。


「あんた、父さんの知り合いなのか?」


 じっとイシュマを見つめている仮面の奥に、そう問いかけた。だが小さく頭を振る黒づくめの医師は、一言も発せず否を示す。

 だが代わりに答えたのは双子の片割れ──腕の筋肉が以上に発達した方の男だった。


「ドクトーラは傷口を綺麗にしていた。明朝には埋葬するために門から外に出す、そのつもりでいろ」


 そんなに早く?

 イシュマにとってそれが正直な思いだった。

 闇が広がる空の元、寄り添い見下ろす父の顔。血の気こそないものの、もう二度と目覚めることがない事実を、イシュマは未だ実感できずにいる。

 だが皆の見守る前で、レイザック卿の首に巻かれたスカーフが風に揺れる。

 紳士然とした生前の姿そのままに、汚れのないシャツにベスト。いつも付けていたカフスボタンには、レイザック家の紋章が光る。

 それら、死者となった父親へ払われた数々の畏敬を見て、イシュマは口を引き締めて結ぶ。

 ここで駄々をこねることは、己に全てを託してくれた父の顔に泥をぬることだ。そうイシュマは思い直し、頷くしかなかった。

 

「卿が出るにはそれなりの許可が必要になる。今晩ヘルガ様がそのとりなしに出向かれる。それ次第ではあるがな」

「とりなし? あんたがさっき門は開けられないって……」

「サコンだ」


 男は己の名をそこでようやく名乗る。


「サコン……じゃあもう一人がウコンか」

「死者はこの門をくぐることはない。地下を通ってあそこへ」


 サコンがそう言って指し示したのは、白い館のはるか向こう。黒く聳え立つ宮殿だった。


「そんな……あれはだって王宮じゃないか。そんな場所に行ったら治安部隊(ガーディアン)たちが待ち構えてるだろう!」

「それでも、出口はそこだけだ」

「俺たちを売るのか?」

「……そうではない」


 サコンは表情をひとつも崩すことなく言う。

 だがイシュマにとって今日初めて出会ったこの男のことを、信用するには時間が足りないのだ。

 一度疑い出せば、あれもこれもと疑心暗鬼になれる。そもそもなぜ、あのタイミングだったのだろうかと。もう少し早くあの門が開けば、父は死なずに済んだのではないのか、と。

 イシュマが胸の内に膨れ上がる、どす黒いものを抑えきれなくなったその時。


「卿に何も手出しをさせない確約を出せるのは、女王ただ一人」


 振り向くと、ヘルガが立っていた。

 もう一人の双子──屈強な太腿をした男ウコンを従え、ヘルガは帯をほどき、白い衣を脱ぎ捨てる。衣擦れの音とともに足元に落ちた衣をそのままに、イシュマの方へと歩み出すヘルガを追うようにして、ウコンが新たに広げた衣をまとわせていた。

 薄手の襦袢姿をさらすことに全く抵抗がないのか、そのまま袖を通して帯を巻かせる様子に、一片の恥じらいも見てとれない。

 かえって頬を赤らめるのは、年若いイシュマの方である。


「私はこれから女王陛下の元へ行く。新たに運び込まれる患者もおるようだしな、お前はウコンと共にここで待て」


 ヘルガはそう言い終わる頃には、真っ白な出で立ちから華やかな花をあしらった着物へと着替え終わっていた。

 ウコンが大きな指でヘルガの髪をまとめて結い、赤いサンゴの簪を刺す。すると見た目の歳がいかに幼いものであるかを強調させてしまう。


「お前の闘いはこれからであろう……時間のあるうちに休むがいい。行くぞ、サコン」


 イシュマの側にいたサコンを連れ、ヘルガは颯爽と中庭の奥へと歩き去っていった。

 棺のそばに残されたイシュマへと、数輪の花を差し出す黒い手が伸びる。見上げれば仮面の男だ。


「手向けを」

「……いいのかよ、勝手に」


 くぐもった声で花を押し付ける男が摘んだのは、中庭に咲いていた花だった。だが二人の様子を黙って見守るウコンは、まるで石像のように動かない。ならば問題はないのだろうと、イシュマは仮面の医師ドクトーラから花を受け取ると、父の眠る棺に納めた。

 眠るように静かな表情の父は、生前のままだ。

 死に至る苦痛はイシュマの想像以上のものだったろう。だがそんなものを感じさせない顔が、いかにも父らしく思い、イシュマのまぶたを再び濡らす。


「父さん……俺はこれからどうしたらいい? たった一人で……」


 そう呟きながら、イシュマは爪に煤が残る汚れた己の手を見る。

 何も出来なかった子供でしかない手。ようやくスチームエンジンを組むのがやっとの、見習いでしかない手、そして銃を持っていても何ひとつ守れなかった手。


「その手が空いているのなら、掴めばいい」


 くぐもった声がイシュマに届く。

 初めて耳にした、ドクトーラの声だ。


「何を掴めというんだ」


 黒い手袋をはめた指が差すのは、白い館だ。


「独りなのはお前だけではない」

「リュン……?」

「まだお前を必要とする者がいる。手を引いてくれる者ではなく、その手を頼りにする者のために生きろ」


 その日、その言葉がイシュマにとっての生きる意味となった。

 ヘルガが告げたように、たとえ彼女自身が望まぬ目覚めであろうとも、イシュマはもう後戻りはしない。そう心に決めた。

 十六の少年でしかない彼にとって、今はなにより、生きるよすがが必要だった。


◇◇◇◇


 白い館を覆う城壁の地下深く、湿った石の道をひたすらに進むのはヘルガとサコンの二人。

 暗い石の道をランタンで照らしながら歩む。その音が反響して、その空間が視界よりも長く続くことを知らしめる。


「どうした、サコン。あの少年が気になるか?」


 僅かに後ろを気にしたサコンを、ヘルガは嗤う。

 サコンは短く頷いてから、前をゆく主へと注意を戻す。


「今頃、ドクトーラに何ぞ吹き込まれておるだろうの。卿も奴も、ある意味非情だ」

「荷が勝ちすぎて、折れるやもしれません」

「そうだな、目的を達することなく心折れるかもしれん。だがそれならそれで良し、成るようにしか成らん」


 それでも良いのかと問いたげなサコンであったが、それ以上問うことはしなかった。なぜなら長い道を行き着いた二人の前に、大きな扉が現れたからだ。

 黄金色に輝く扉の中央には、硝子細工の赤い薔薇が大きく象られている。その中央にヘルガが取り出した鍵を差し込むと、重い錠が外れる音が響いた。

 サコンがゆっくりと押して扉を開ければ、冷たい地下に明るい光が射す。

 発光する鉱石がこうこうと照らす廊下に、扉と同じく赤い薔薇が織り込まれた絨毯が敷き詰められている。

 誰もいないその廊下をまっすぐ進むと、もう一つ扉が据えられていた。その手前で、お仕着せを着た侍女が、ヘルガとサコンの二人を迎える。


「お待ちしておりました」

「……開けてくれ」


 ヘルガはそのまま開けられた扉の向こうを視界に入れると、あからさまに眉を寄せた。そして着物の袖でそっと己の口元を隠す。


「悪趣味は相変わらずだな」

「ヘルガか、待っていたよ、お入りなさい」


 部屋の主である初老の女がヘルガを認めると、上機嫌に招き入れる。ヘルガが不快を隠そうともしないことなど、まるで眼には入っていないようだ。

 女は艶やかな紺の髪を下ろし、豪華なナイトドレスの肩口を広げさせて、侍女に香油を塗り込ませる。長椅子に寝そべるようにして足を投げ出し、これまたかしずく若い侍女に何やら怪しげな薬湯で、丁寧に洗わせている。

 そして老いた細い手をドレスの袖から伸ばして、かしずく女性の頬を滑らせる。すると、うっとりとしたその娘の表情に満足したのか、わずかに年齢を感じさせる目を細めながら、女がはべらせた者たちを下がらせた。

 この淫らな楽しみにふける女こそが、宮殿の主であり国の元首たる女王。

 ヘルガたちは地下道を通り、夢見の館の地下を通じ宮殿の最奥、女王の居室の一部にたどり着いたのだった。この場所へ訪れることができるのは、限られた者のみ。

 女王は来訪者を前にくつろいだ様子を正すことなく、長椅子の上でヘルガを見て極上の笑みを作る。


「色々と話は聞いている。門を開けたとは、ずいぶん珍しいことよなぁ、お姉さま?」


 慣例に従い膝を折って見せたヘルガに対し、砕けた調子でそう切り出した女王。顔を上げたヘルガは、上機嫌な様子の女王とは対照的に無表情のままだ。


「陛下には本日、お願いがあって参りました」

「およそ見当はついておるが……まあ、言うてみよ」

「本日死亡した夢見患者とともに、レイザック卿の遺体を速やかに荼毘に付したいと思っております。許可を賜りたく」


 その言葉に女王は、扉と同じ薔薇を模した指輪をはめた指を組み、しばし考える仕草をした。赤い薔薇は女王の印。


「猟犬どもには餌がいる、相応の対価をもらおうか」

「……対価とは。卿の遺体にさほどの価値はないはず」

「レイザックにはな……だが、ヘルガ。お前の真意には大いに価値がある。どうして扉を開けてやるほどにカーヴェイに肩入れする?」

「肩入れ……それは陛下こそでは? ベイヤーン卿に乞われるまま、カーヴェイ鉱石の流通特権をお与えになったと、聞いておりますが」


 呼称こそ敬ってはいるものの、ヘルガの態度は家臣のそれではない。質問に質問で返したヘルガに、女王は気にした様子もなく鼻で笑う。


「そろそろ潮時であろう、いいかげん夢見の病に贄を取られるのも飽きた。くだらぬ幻に振り回されることにもな。あの世界を切り捨てられるなら早いほうがいい。それに犠牲は少ないに越したことはないとは思わぬか?」

「……それを私に相談もなく?」

「ふふふ、それを言うのか? 命をかけることを承知でレイザックを遣わしたのはヘルガ、お前だろうに」


 ヘルガがほんの少し怯んだ。それを見逃さずに女王は続ける。


「なに、動けないお前に変わって私からも、手の者を貸してやろうというだけだ。目的は違えども、あの忌まわしき夢と縁を切りたいのは、わらわもお前も同じであろう? ならば協力をしてやろうというのだ、悪い話ではなかろうに。レイザック卿とその息子を少しの間だけ見逃してやる。もちろんいつもの薬もつけてもらうが」

「強欲ババア」

「なあに、館に閉じこもってばかりのお前と違って、人をだますのが仕事みたいなもの。それにババアとは心外だな、ヘルガ姉上」

「なにが欲しい?」

「話が通じて嬉しい、なに、簡単なことよ。夢見の患者のリストが欲しい」

「……次に訪れる時にでよければ」

「それでよい、姉上。薬も忘れないようにな」


 ヘルガは早くよこせと催促する女王に内心舌うちをし、サコンに持たせてあった薬の瓶を受け取る。

 その薬を女王に差し出すのはいつもの事だったが、毎回出し渋るのには訳がある。『若返りの妙薬』といえば聞こえはいいが、それはひどく不安定で副作用のある未完成品なのだ。

 だがそれでも、女王は欲してやまない。


「ああ、これでまたしばし若返ることができる」

「陛下、くれぐれも使いすぎぬように」

「分かっている、足りぬ時は若い娘と戯れて、心を紛らわすことにするゆえ」

「……陛下」


 渋い顔をさせたヘルガを見て、女王はさも愉快そうに笑った。


「冗談よ、ヘルガのそのような顔を見られるのなら、真実にするのもやぶさかではないが」

「……お好きになさいませ」


 ヘルガは表情をすっと冷えさせて、再び膝を折ってから女王の居室を後にする。

 上機嫌な赤薔薇の主が見守る中、豪華な扉を再びくぐれば、そこは元の冷たい石の通路だ。そしてヘルガとサコンの帰りを待ち構えていたかのように、大きな棺を乗せた台車がそこに置かれていた。

 ヘルガはその棺の一部、ガラス張りになっている部分をのぞき見る。


「ようこそ、ゆりかごの館へ。我々はおまえを歓迎する、いつか目覚めるその日まで」


 曇りガラスの向こうに眠る、小さな少女へ微笑かけるヘルガ。

 長い眠りを見守って過ごすことになるだろう幼子へ、届かぬ挨拶をもって迎えたのは、既に百を超える。飽きるほどにくり返してきたその言葉を、ヘルガはこれからも決して止めることはないだろう。


「帰ろう、サコン」


 答えることのない棺を載せた車を押すサコンとともに、ヘルガは館への道を戻るのだった。

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