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レゾナンス・ドール  作者: iohara
一章 目覚め
5/13

4 棺の少女と眠りの病

 ゆりかごの館。

 今はもう誰も知らない、最初の名前。


 昔昔。

 しずかに音もなく、国中に広がってしまった病があった。


 ある日突然、前触れもなく子供が眠りから覚めない。

 目が覚めねば食事を取ることも叶わず、辛うじて粥を流し込み命を繋いだとしても、衰弱し、次々と死を迎える。

 親たちは半狂乱になり、子を目覚めさせようとするが、どんな刺激にも瞼を開けることはなかった。

 病は、すなわち死を意味した。


 そんな悲愴的な事態を救ったのは、いにしえの錬金術師たちだった。

 彼らは知恵を絞り、箱を用意した。

 深く眠る子供たちは、その箱に収められる。するとこの館に運ばれて命をながらえる。

 そうして子らがすぐさま死ぬことはなくなった。

 だが、どんなに朝がこようとも開くことのない瞼、どんなに呼びかけようと開くことのない唇、どんなに抱きしめようと動くことのない手足。

 だが唯一の希望。そして親の願い。

 動かぬ子供たちを箱に収め、眠りに落ちていてもなお生きていける環境を与えた。いつか目を覚ます時まで、命を繋げられるように。


 その箱を納める場所が、ゆりかごの館。

 今は忘れられた名前。


 どうして忘れられてしまったのか。

 願いよりも悲しみにより心は染まる。それが人だからだと、最後の錬金術師が言った。

 ゆりかごは、永遠を保障するものではなかった。


 なぜか。

 箱には期限があるのだ。

 箱の寿命である期限までに目覚めない者は、眠りについたまま死を迎える。

 長く待ち焦がれた末に迎える死。それが残された者にとって、どんなに残酷な事か想像に難くない。事実、目覚めを迎えられない者も多いのだ。奇病が現れた頃に比べればその数は次第に増え、そしていつしかゆりかごの館は名を変えることになる。

 棺の館と。

 白い館に墓のように並ぶ箱。

 再び時を経て、絶望から目を背けるように、再び名を変えた。

 『白の館』へと──



 湯あみをして清潔な衣に着替えさせられたイシュマが最初に連れてこられたのは、頑丈な扉に守られた部屋の前だった。

 白い髪の女、ヘルガが手をかざすと、城門と同じくらいの厚みをもつ分厚い金属の扉が、触れてもいないのに開かれた。

 言葉すら出せずに驚くイシュマに、ヘルガは薄く笑った。


「外からは私でないと開けられない仕組みになっている。さあおいで、おまえの眠り姫に会わせてやろう」


 ヘルガの言葉を受けて、イシュマに緊張が走る。

 そして己のなかにある、古い記憶に想いを馳せた。


 物心つくより先に、イシュマのそばには、常に彼女がいた。同じ年に産まれ、両親が志を共にするとなれば、共に育つ理由には充分すぎる。

 まだ互いの両親が誰一人欠けてはいなかった、あの幸せな日々。それがイシュマが今生きるための理由すべてだ。

 どんなに辛い事に襲われようと、穏やかで陽だまりのような記憶だけが、イシュマを支えてきた。それは天涯孤独となった今、この瞬間ですらも変わりはない。

 母を喪い、更に父までも目の前で亡くしたイシュマにとって、唯一の存在と言っていい。


 幼馴染みとの再会が果たせると言われて、にわかに緊張するイシュマ。

 しかし開かれた扉の向こうにあった世界は、圧倒的な質量をもって彼を呑みこんでいた。


「…………!」


 一枚扉を隔てた先には、むせ返るような湿度と、汗ばむくらいの熱。

 足を踏み入れればそこは、まるで生き物の胎内を思わせるような景色だった。広い空間を樹木の幹のように管が伸び、不思議なにび色に輝きながら、無数に並ぶ卵形の大きな容器へと繋がっていた。

 イシュマは足元に這ういくつもの管を避けながら、ヘルガの後に続く。


「棺は増える一方だ。まるで人質のように」


 ヘルガの言葉は、イシュマにとって理解できるものではなかった。だが想像していたよりも遥かに多いその数に、ヘルガの嘆きなのだと漠然と思う。

 並ぶ卵はガラス張りで、通路に正面を向けられている。嫌でも目に入るのは、眠りにつく子供たちの鶏ガラのように痩せた姿だ。思わず足を止め見上げれば、多くの者たちが、微睡みつつイシュマを見下ろしているかのように感じられたのだった。


「恐ろしいか?」

「そんなことは、ない……」


 先をゆくヘルガが、身をすくめたイシュマを振り返った。そして目を細めながら最奥にある扉に手をかけた。


「この奧だ……」


 気を取り直し続くイシュマの目の前に現れたのは、ひときわ大きな棺だった。

 引き寄せられるように近づき、曇るガラスの向こうに見たのは、イシュマと同じ年頃の少女。十年の歳月でも失われることのなく、懐かしい面影がそこにあった。

 薄衣をまとって寝かされている少女は、透けるような白い肌をしていた。外の少年たちのように痩せこけてはいなかったが、生気に溢れてもいない。だが固く閉ざされた瞼の奥に、微かに揺れる眼球を見たイシュマ。それだけで少女の確かな生を感じ取り、イシュマはガラスにすがり付いた。

 触れられないその長いカーヴェイ色の髪を、撫でるようにガラス越しにさするイシュマ。


「やっと、会えた。リュン……」


 いつしかイシュマの頬には、とめどなく溢れる涙が伝っていた。

 陽だまりのように明るかった幼子は、少女へと形を変えてイシュマの前に現れた。何も知らず眠り続ける彼女の瞳に、早くこの世界の色を映して欲しい。

 イシュマは少女を見て、心からそう願っていた。


「ユーレリアス期十八年、水の月十日。それが発病の最初の記録か……今日は二十八年、花の月に入って三日」


 ヘルガが手に持つ分厚いノートをめくり、告げた言葉は最後通告だった。


「……あと、三か月しかないのか」

「それが最悪のラインというだけで、早ければ早い方が良いに決まっている」


 あと七日のうちに目覚めなければ、病に冒された身体は死を迎える。

 ────十年、それが錬金術師たちの限界だった。


「心がここに無いのに残された身体。精神を伴わない肉はただ腐るのみ」


 ヘルガの容赦ない言葉に、つい今しがた打ちのめされた喪失感に再び襲われた。


「どうしたらいい? ……俺に出来ることなら何だってする」


 イシュマにとって最後の肉親にも近しい者。それが幼い頃の記憶のみに頼るもだとしても、このまま打ち捨てることなど出来なかった。

 目の前の少女が己にとってだけでなく、世界にとってどんな存在なのか。イシュマは父から聞かされている。

 リュン・メディストリュス・カーヴェイ。奇跡の鉱石の名を持つ彼女は、ロランからはるか南方に位置する山脈の峰にある、奇跡の鉱石を採掘できる断崖都市カーヴェイ。そこを代々治める領主の娘だった。

 イシュマの父であるレイザック卿は、先代領主の片腕として、長く領主カーヴェイのために尽くしてきた。

 レイザックと領主は年も近いこともあり、一部の有力者だけが利益を占有することがないよう、世界を席巻する勢いで普及してゆく技術へ鉱石を供給する道を、共に模索していたという。

 そんな父を、イシュマは長く誇りに思ってきたのだ。


 だがそれも十年前、領主の娘のリュンが病に侵された頃だ。

 幼いイシュマには、その時のことは深く理解しているわけではなかったが、何かが狂っていったのは分かった。

 領主と父レイザック卿は、共に生まれ育った都市カーヴェイを追われた。


「ここでできるのは、目覚めを呼ぶきっかけを与えるだけ……だがそれも空振りに終わるかもしれない」

「何もしないで死を待つなんて出来ない」

「娘が目覚めを望まないかもしれなくても?」

「……そんな事はあるわけないだろ、死にたい奴がいないのと同じだ」


 ヘルガはそう答えたイシュマを、呆れたような目で見ていた。


「なんだよ、何もおかしくはないだろ」

「浅慮よな、少年」


 侮蔑の含んだその言葉に、イシュマは小さなプライドを刺激された。


「何がだよ、俺は当たり前の事を言ってるだけだろ。永遠に覚めない夢なんて、早く目が覚めたほうがリュンの為だ。あんな……汚くて、おぞましい世界」

「お前はそれで夢見から弾かれたわけだ……」


 いつの間にかヘルガは薄い本を手にして、頁をめくる。

 背表紙には、イシュマ・フォン・レイザックと書かれてあった。


「……それは?」

「ふふ、おまえの病の記録だ」

「は? なんでそんなものがあるんだよ、ここに」


 イシュマもまた、病に冒された一人だった。

 だが二年ほどで目覚め、すぐに親元に帰された、数少ない子供。

 ヘルガが文字を追い、辿るのは、イシュマにとって正に悪夢としか言いようのない忘れたい記憶そのものだ。

 だが、忘れたくとも忘れられない。

 ヘルガからその記録の本を奪い取ろうと手を伸ばす。

 だがイシュマの腕を、黒塗りのステッキを持つ手が阻んでいた。

 それは全身漆黒の衣に身を包んだ背の高い人物だった。つばの広い帽子を被り、顔には嘴のついたマスクと光を通しているのか疑わしいほどの濃いゴーグル。異様に白い手袋の手が持つステッキは、持ち手部分が牛の頭骨を象っている。


「……離せ! 誰だよオマエ」

「止めておけ」


 マスク越しのせいか、くぐもった声が抑揚もなく言った。

 ヘルガは表紙を閉じ、壁に埋め込まれた書棚の一つを動かした。するといくつもの棚が連動して、膨大な書棚が引き出されてイシュマの事が書かれた資料をそこに収めた。


「ここにいたのか、ドクトーラ」

「……先ほど、一人逝った」

「そうか、助からなかったか」


 イシュマは出会ってから初めて、ヘルガの感情が滲む顔を見た気がした。哀しみを湛えた瞳が、沈む声が、失った命を偲んでいるようだった。

 一方、表情の全く見えない仮面の男が、イシュマを気にしている様子を見せた。


「何かあったのか」

「……卿が亡くなられた。」


 一呼吸して、ドクトーラと呼ばれた男が「そうか」とだけ答え、マントを翻して部屋を出て行った。ステッキを付きながら歩く姿は、どことなくぎこちない。


「あれは医者(ドクトーラ)だ。眠っていようと病気になったりするのでな、診させている」

「……あの仮面は?」

「あれか? あれは昔の医師が使っていた、ペストマスクと呼ばれるものだ。顔に残る傷跡のせいで、周囲を不快に思わせないよう使っているらしい。物好きなものよ」


 ヘルガはそう言って現れた書棚を元通りに隠してしまった。


「ここには全ての患者の資料が集まっている」

「でも俺は別の場所に入れられたはずだ」

「ああ、知っているよ。場所は関係ない。ここが全てを管理する所だと思うがいいい。お前は二年で回復。よほど辛い夢だったか、思い出したくないほどに?」

「……っそんな事は……」


 イシュマはそんな事はないという言葉を、どうしても吐き出すことは出来なかった。

 脳裏に甦る記憶は、どれも酷いものばかりだ。

 目覚めた幼いイシュマは、今は亡き母に縋りつきながら二度と戻りたくないと訴えた。両親に迎えられ、それが夢だったのだと聞かされ、どんなに安堵したことか。


「ただの夢ではないとしたら、どうする?」

「……? 何を言って」

「目覚めた最初に、居住地区を聞かれたろう? お前は確か……」

「ブルックリン」


 ヘルガは書棚とは違う位置にある、たくさんの薬品の入ったビーカーやらフラスコの置いてある机へとイシュマを手招きする。そして乱雑に置かれた道具を、これまた乱雑に掻き分けてその向こうの壁を押す。すると壁だと思っていた部分が回転したのだ。


「……これは……」


 イシュマが驚きのあまり言葉を失う。

 春色の空を模した瞳が大きく開かれ、いくつも書かれた地名をせわしなく目で追う。


「どうやってこれ……」

「簡単だよ。病から目覚めた子供たちに聞くのさ。どこに住んでいたのかってね」


 見覚えのある地図は、薄れつつある記憶のものと同じだった。

 イシュマが口にした地区は、見覚えのある国、そして見覚えのある地形のそこに間違いない。だがそれだけではない。数多の箇所に地名が付けられ、詳細な地形を象っている。

 ありえない。イシュマはそう口にした。


「先人もそう考えた。だが、長い年月の間調べつくした結果がこれだ。どう考えてもこれを否定できる材料がないのだ」

「地球」

「そうだな、それが子供たちの夢の正体だ」

「どういう、ことなんだ? 意味が分からない」

「……結論は、まだ出ない。病が頭の内の一定の場所を刺激するのかもしれぬし、違うかもしれない。それこそ夢物語のように、その地球とやらが、どこかに存在しないとも、否定は」

「ありえない!」


 イシュマは拳を握りしめる。

 悪夢として忘れる努力をしてきた世界が、己の見たたかが夢ではないと言われても、イシュマには信じられなかった。自然と振り返り、眠る少女を見上げていたイシュマ。


「じゃあ、リュンはどこに……」

「それは本人にしかわからない。だが、傾向はあるようだ」

「何?」

「……長期にわたる患者は、比較的良い環境を与えられていることが多い」

「治安が良い場所ってことか?」

「さてな。庇護者に恵まれるだけでも違うだろうし……目を覚ましたくない理由など、いくらでもできよう、十年だ」


 十年という言葉の重みに、イシュマは凍る。

 目を覚ましたくなくとも、このままでは身体が持たず朽ち果てる。身体が死んだら、夢見の子供たちは、リュンはどうなってしまうのだろうか。


「そもそも精神だけが生きる世界などあるのか……だが強制的に覚醒させる手段がないわけではない」

「本当か?!」


 ヘルガがイシュマに手を差し出す。


「卿から渡されたものを私に預けろ」


 イシュマは父が最後に願った事を思い出す。

 首にかけた形見ともいえる物を、服の上から握りしめるイシュマ。

 父から確かにヘルガに渡せと言われた。


「父さんの命そのものだ。必ず、リュンを取り戻して欲しい」


 そう言うとイシュマは懐に手を忍ばせ、ペンダントをチェーンごと引き出して外す。それをヘルガへと差し出したのだった。

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