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レゾナンス・ドール  作者: iohara
二章 二人旅
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10.イシュマとリュン

 深い水底を蹴って水面に顔を出したイシュマは、大きく咳き込みながら息を継ぐ。腕に抱えたリュンはぐったりと力なく、イシュマに身体を預けている。

 二人が落ちたそこは、幾つもの水路から水が流れ込み、排水路の中継地点のようだった。

 丸く掘られた石壁に囲まれた空間は、どこにも出口はない。

 あるのはすべて排水路であり、しかもイシュマが浮かぶ水面から、かなり高い位置だ。足場のない水の中から手を伸ばしても、届きそうにない。

 ならばと大きく息を吸い、リュンを抱えたまま再び水の中に潜る。

 暗いなか壁に手をついて探っていると、中に大きな水路があり、水はそこに向かって流れ込んでいっている。

 それだけを確かめ、イシュマはもう一度水面から顔を出す。


「行くしか、ないか……」


 この場所は、排水を集め一定量の排水となるよう調節する施設なのだろう。この先……外に出るためには、流れに身を任せるしかない。

 ある程度進めば、また空気のある大きな水路に出る可能性は高い。だが、それまで息が持つかどうかだ。

 イシュマは抱えるリュンの顔を見る。

 彼女を連れて帰郷せねばならない。もし間に合わねば再び……いや今度こそ、失うことになる。ならば悩む必要はないと、大きく息を吸う。

 そして一気に流れに身を任せた。


 真っ暗な出口の分からぬ水路のなか、気が遠くなりそうなほどの時間に感じられた。

 次第に上下も、先に進んでいるのか戻っているのかすら分からない。

 もうこれまでかと思った時、再びイシュマは圧迫感のある水から解放された。


「うわっ」


 ザブンと水音をたてて再び出た先は、まだ暗い水路の中だった。

 だが欲した空気がある。イシュマはとっさに肺いっぱいに息を吸い込み、助かったのだと安堵する。

 肩で荒い呼吸を繰り返しながら周囲に気を配れば、微かではあるが明かりが入ってきているようだった。それに今までと違い水路は、石を掘った粗削りの壁から、掘り出した石を組んだ構造に変わっている。

 それらに気づいたイシュマは、水から出て立ち上がろうとしたところで、苔に脚を取られて転びそうになった。それでもなんとか踏ん張り、リュンを落とすことなく体制を整え、そこから一歩一歩、下流を目指して歩き出す。


「……はあ、はあ……もう少し」


 水に足を取られながら歩くのは、考えているより体力を消耗する。

 イシュマはなんとか明るい水路の出口まで辿り着いた。


「ここは……そうか、東の断崖とユレィシア川の支流」


 足元から水路を流れる水が、はるか眼下に広がる森の中へと、放物線を描いて落ちていく。

 その高さは十メートルほどはあろうか。滝のように落ちる水の先には、大きな滝壺。水はその先にある川に繋がっていた。都の西川から南に沿うようにして流れる「ユレィシア」と呼ばれる大河がある。イシュマが見下ろすのは、その大河へと流れ込む、支流の一つだ。

 イシュマが出たところは、ちょうど川を望む断崖絶壁。見上げれば、イシュマがいる場所からさらに高く、城塞都市らしい灰色の壁がそびえ立つ。その壁の向こうから微かに聞こえるのは、蒸気機関車が線路を走る振動音。

 ここからなら、誰にも見られることなく、脱出できるかもしれない。

 イシュマは絶壁を見下ろし、喉を鳴らす。

 万が一滝壺の浅い位置に落ちれば、命はないだろう。だが上手く川まで逃れられれば、その先は森。身を隠して休むこともできる。


 イシュマはリュンをしっかりと抱き直し、その頭を腕で覆う。

 彼女が決して傷つかぬように。

 そうして、イシュマは水の流れとともに、跳んだ。


◇ ◇ ◇


 イシュマが断崖を飛び降りたその頃、白の館は血の海と言って過言ではないほどの惨状を呈していた。

 巨大な化け物のような男が、次々にグリーンハットの男たちを次々に襲いかかり、その爪で引き裂き、裂けたような口で噛み千切る。

 最初に現れた者たちも巨人に習うかのように、逃げ惑う人々に群がり、捕まえては巨人への生け贄とした。

 そうして次々に流れる血が、大理石の広場を赤く染め、石の繋ぎ目を沿うようにして流れていく。


 目を覆うような阿鼻叫喚の末、いつしか白の館に静寂が訪れる。

 幾人かは逃げ延びただろうが、屍の数はゆうに二十はあっただろう。

 立ち尽くしていたヘルガは、踞ったまま動かない巨人の元へと歩み寄る。

 その姿はみすぼらしく、肌はささくれて褐色。刺繍の施された高位の衣をまとってはいるが、擦りきれ、破れた袖から膨れ上がった二の腕がはみ出ている。髪は長く、ぼさぼさで広がった先は血で赤く染まる。

 だがそんな化け物に、ヘルガはうやうやしく頭を下げた。


「始まりの王よ、凶事は去り、我が王国に平安が戻った。再びの目覚めの時まで、しばし棺に戻られよ」


 その声に、うずくまって山と化した背が震える。


『贄は無事、我が愛娘への供物とあいなったか』


 ヘルガは瞼を伏せる。


「充分に。陛下の愛し子の元へ届いておりましょう」


 絞り出すように、ヘルガはそう答えた。

 大理石の溝を伝って集められた血が行く先、そびえ立つ王宮の奥深くで、狂喜しながら血のシャワーを浴びる、女王を思いながら。


『我が大地ロラン、我がラナをこの身に代えて守れ、愛しい娘たちよ』


 ヘルガが頭を下げる前で、巨人……始まりの王が眠りにつく。

 地下へと開いた穴に、ゆっくりと沈みゆくのを



◇ ◇ ◇


 水のせせらぎを聞きながら、イシュマはつかの間沈んでいた意識を、浮上させた。

 上半身を起こして周囲を見渡す。

 鉄と鉛色の都市から一転、イシュマは草木生い茂る林の中にいた。足元はまだ川に浸かり、冷えきっている。重い身体をどうにかして動かし立ち上がろうとしたところで、自分に繋がった鎖に引き戻される。


「そうだ、リュンは……」


 鎖の先には、力なく横たわる少女……その(こころ)を宿したドール。

 うつ伏せの姿に慌てて手を伸ばし、泥にまみれた少女を引き寄せる。

 目を閉じて死んだように眠る姿に、居心地の悪さを感じつつも、このまま薄汚れたままで起こすのを、偲びなく思うイシュマ。

 幸いにも二人が流されてきた川は、よく澄んでいて魚影もよく見える。ヘドロのような泥を落とすには丁度いいかと、水を手ですくって彼女の顔にかけてやる。

 髪にこびりついた泥までは落ちないが、一通りきれいにしてやってから、イシュマは少女を抱き上げる。


「……っつ!」


 どうやら飛び降りた時に、足を捻ったようだった。イシュマは痛みに顔をしかめる。


「まだラナのすぐそばだ。長居は、禁物だな」


 今はまだ傷の手当てをしている余裕はない。

 一刻も早くどこか落ち着ける場所にたどり着き、そうしてからリュンを起こすのがいいと考えたイシュマは、川伝いに上流へと歩き出す。

 首都の北部に、確か小さな村があったはずだと記憶していた。

 カーヴェイ育ちの末に病にかかったイシュマは、首都周辺の地理にはさほど詳しくない。アギ率いる傭兵団の面々から、聞かされている知識がそのすべてと言ってもいいくらいだ。


「確か、アジトがあるって言ってたな」


 村との間、中間地点あたりに猟師小屋のようなものもあるはず。とりあえず服を乾かし、暖を取れる場所を見つけないと、夜は容赦なくやってくる。

 焦ってはいるが、森の中は視界がきかない。背の高い木々に視界を阻まれたままでは、方向すら見失うかもしれない。追手も心配だが、遭難はもっと避けたい。イシュマはそう割りきって視界の開けた川沿いを歩くことを選んだ。

 すると川がいくつか蛇行した先に、小さな小屋らしきものが見える。

 古く屋根は苔むしており、垣根も崩れかけているが、雨風を防ぐには十分なものだ。


「助かった」


 イシュマは痛む足を引きずりながら、小さな猟師小屋を目指した。


 小屋の鍵はかけられておらず、この辺りの猟師たちの共同休憩場所のようだった。

 きちんと薪が用意されており、外には井戸がある。小さな納屋には縄や斧、砥石などの道具がいくつか置かれている。

 小屋の中に一歩踏み入れれば、それなりに整えられており、定期的に誰かが使用しているだろうことが見てとれた。

 

 無断で借りることを心の中で謝りながら、イシュマは奥の簡易ベッドにリュンを横たえた。

 そしてまずは囲炉裏に薪をくべて火を起こし、服を脱いで乾かす。それから棚の中を探って鍋を出してきて、湯を沸かすことにした。

 目が覚めれば、リュンはパニックを起こすだろう。恐らくイシュマを拒絶するかもしれない。いや、最初のことを思えばそれは当然覚悟する必要はあると考えていた。

 きっぱりと拒絶されたときのイシュマは、焦っていたのだという自覚はあった。だがそれでも大きすぎる期待に、自制することは叶わなかった。己もまた病を発症した身であるだけに。

 だが今はヘルガの助けはないのだ、何とかしなければと考えた末に出た案は、それほど多くなかった。

 湯を沸かし、身支度を整えるための手助けをしてやること。

 洗ってしまってあった手拭いを見つけ、拝借する。そして沸かした湯を、大きめな桶に湯を貯めた。


 そうして一通り準備をしてから、ベッドに横たわるリュンの元へ。

 ヘルガに教わった通り、イシュマはくったりと力なく傾げる頭の後ろに手を添えた。

 濡れたままの髪を掻き分けていると、指先に触れる小さな窪み。

 どういう仕組みなのかはイシュマにはさっぱりだったが、リュンは確かに動き、喋っていた。彼女の目まぐるしく動く表情を思い出し、今さらだがドールという存在の奇異さに、思い当たる。

 錬金術と呼ばれる技術は、世の中に浸透する技術からは一線を画していると、白の館への短い滞在でイシュマは感じていた。いまだ蒸気機関が現役のこの世界で、眠り続ける子供たちの生命維持の技術は、夢の世界でのものすら凌駕している。いくら奇跡の鉱石カーヴェイがあるからといっても、それだけで片付く問題ではないことくらい、イシュマにもわかる。

 そして恐らく、その錬金術師のなかでもヘルガは特に重要な存在なのではないだろうかと考える。確証はないが、だからこそイシュマを助け、こうしてリュンとともに逃がすことが出来たのだろう。

 困難がすべて去ったわけではなく、前途多難ではあるけれど。

 少なくとも詰んではいない。そう自らを鼓舞しつつ、イシュマはドールを起動するための窪みを押した。


 冷たくなっていた手足、真っ白い顔色。それらがイシュマの目の前で、徐々に温もりと生気を取り戻していく。

 もの言わぬ人形から人へ。水に流され、荷物のごとく抱えられるあいだでさえも、固く閉じられていた瞼が、ピクリと揺れた。


「リュン?」


 今日、二度目の目覚めもまた、少女は拒絶を示すのかもしれない。

 固唾をのんでイシュマが見守るなか、リュンの薄水色の瞳に光が差した。


「……こ、こは……ゴホッ」


 咳き込むリュン。

 イシュマは用意していた水を差し出したが、話すことも苦しいのか促されるままにうがいをする。


「大丈夫か、水がもっと必要なら持ってくる」

「……いい、もう、平気」


 しばらくすると呼吸も落ち着き、周囲を見回しはじめたリュンに、イシュマが大きめのシーツと手拭いを渡す。


「驚くと思うけれど、前にいた館が襲撃にあって、俺とおまえ──」

(すず)よ」

「俺とスズだけで脱出した。仕方なく排水溝を使ったから濡れてるし、汚れてる。俺はしばらく外で食料を調達してくるから、湯を使って服を乾かしてろ。詳しい説明はその後にしてやるから」

「……襲撃って」


 リュン……鈴の困惑した表情に、イシュマはどう答えたらいいのか分からなかった。女の慰め方すら知らない。


「それも、後だ。ここは安全だから」


 気の利いたことすら言えず、鈴の返事を待つイシュマ。

 一方鈴はというと、困惑しながらもぐっしょりと濡れた自分の状態に、悩みながらもイシュマの言うとおりにした方がいいと判断したようだった。


「わかった、そうさせてもらう」

「あそこに湯を用意してある。鍵をかけてから使って、終わったら外しておいてくれ」


 それだけ言うと、イシュマは小屋の外に出た。

 日は傾きはじめたばかりとはいえ、森の中では暗くなるのはあっという間だろう。早々に何か口にできるものを見つけることにした。

 ただ……ドールである鈴が口にできるものがあるのかは、疑問なのだが。イシュマはため息を一つ、こぼした。

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