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ノア商会  作者: 高温動物
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6.方舟

 山、というには大げさだが、丘というには高度がある。町民からはその中途半端な高度から富士小(ふじこ)と呼ばれている。

「……ハ……ハァ……これも……違う」

 激しい雨と、そこから発生する激流が木々をざわつかせる。普段の穏やかな山道とは異なるもう一つの顔。今、長閑(のどか)なはずの自然は(ことごと)く生命に牙を剥いている。

 そんな吸い込まれそうな闇の中にぽつりと存在する人影。這いつくばったその姿は酷く虚ろで、頼りなく見えた。

「私がっ! 今度は私が……永遠を助ける番――っ、きゃっ!?」

 立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、沈み込むような形で泥濘に足を取られる美姫。

 顔中に泥がこびり付き不快極まりない、と普段なら感じたかもしてない。

 しかし、ここに来た時点で桜譲院の令嬢が持つイメージなど捨て去っている。

「ぅ……こんなこと、くらいでっ!!」

 手の甲で泥水を拭う。長い睫毛に整えられた瞳、淑やかさと純朴さの合間に灯るのは諦観を許さぬ深甚(しんじん)たる意思だった。

(きっと、見つかる……ううん、たとえ見つからなくたって、永遠なら絶対に諦めたりしない! あの時だって……!)

 そうだ。初めて出会った時、あの瞬間から美姫という人間は誕生したのだ。

 それまでの自分は単なる惰性。魂はあれど意思のない不完全な人間、もしくは紛い物の人形か。疑問を持ったことはある。しかし、だからといって解を見つけようとはしなかった。与えられた命なら、与えられるままに生きればいい。

『お前は私のクローン。そう考えれば出来は悪くはない』

 母である謳妃にそう言われた時、美姫は何も感じなかった。否、反応する機能を持ち合わせていなかった。内に存在したのは静かな水面だけ。透き通り、美しいが、そこには生命も酸素も存在しない。伽藍(がらん)の如く深々と広がる虚無の溜まり場。

「永遠は、私が――っ!」

 千切れそうに揺れる草花の中に、それはあった。

 幾度となく求め、幾度となく救われた。今一度、美姫の希求に応えたのは二対の二葉(ふたば)を広げたクローバー。

 吹き荒ぶ風雨にあって、凛然と立つその姿は挫けかけていた美姫を奮い立たせた。

「よかった。永遠は私を許してくれるでしょうか? ……おこがましいですね。私は永遠のことを何も分かっていなかった。勝手に助けたようなフリをして、偽善に浸っていたに過ぎない。許されなくて当然……」

 それでも、美姫は動かずにはいられなかった。

 永遠は美姫を必要としていないかもしれない。顔も見たくないかもしれない。それだけのことをしたのだから。

「……いや…です。私は、永遠を失いたくない!!」

 千切られた四つ葉の約束。今一度、絆を取り戻そうと伸ばした手が葉に触れた。

 ――瞬間、大地が傾いだ。

「――えっ?」

 無論、地面が傾いたわけではないだろう。地震が発生したわけでもない。

 まるで眩暈のように視界が揺れ、美姫の身体が浮遊する。

 外出禁止が発令されるほどの嵐だ。規模だけみれば小規模でも、個人に対しては致命的な土砂崩れは十分起こりうる。ましてや美姫のいる場所は整地された山道から外れた場所。そこは幾度となく四つ葉のクローバーと巡り合えた聖地でもあった。

「――っ、永遠っ!!」

 小さな悲鳴を上げながらも、美姫は手を伸ばした。

そうして掴み取ったのは、激流と化した大地ではなく小さな緑草。悲壮な決意の象徴であった。

 ああ、間もなくこの身は濁流に飲み込まれるだろう。助かる見込みは――考えても詮無いことか。

 だが、たとえ大地に呑み込まれようと、意識を深淵の彼方に奪われようと、この小さな緑葉だけは離さない。

 そう思いながらも、脳裏に焼き付いた親友の顔を思い描き涙を浮かべたのだった。


「――十二時の鐘には、ちょいと早いんじゃない、姫さま?」


 え? と瞼を開いた。涙と泥がフィルターとなって視界を妨害する。

 それでもわかる。その声。幾度となく握った手の感触。何より他では得ることの出来ない安寧感。

「――と、わ……っ! 永遠っ!!」

「のああぁっとぉ!? 危ないから! 動かないで、ね? いくら姫が綿毛のごとく軽いとはいっても、腕一本で支えるのは結構辛いんだ」

 泣きじゃくる子供をあやすように優しく語りかける永遠。目を凝らしてみれば、細い枝を片腕で掴み、もう一方の腕で美姫を支えていた。

 地面は踏ん張りの利かない状態だ。二人分の体重を支えるにはあまりに枝は頼りない。

「痛っつ……! 姫、すぐに……引き上げるから!」

「だめ……ダメ! このままでは二人ともっ! 手を離してください、永遠!」

「馬鹿いっちゃいけないよ。そんなことしたら、謝れなくなっちゃう……じゃんっ!」

 美姫は悲鳴を上げそうになった。永遠の掴んでいる枝が今にも折れそうに軋んでいることもあるが、何より枝を強く掴む永遠の手の平から、雨に混じって赤黒い液体が滲み出ていたからだ。

 痛覚を誤魔化すように、永遠は気丈に犬歯を見せながら言った。

「つれないよ、姫。クローバー探しにはいつも私を誘ってくれてたじゃん? 陽が昇ると同時に起こされた時もあったっけ」

「永遠……手を離してっ!!」

「私がいけないんだよね。姫に何にも話さないで、一人で悩んで、勝手に苛ついて。本当なら一秒でも長く姫と一緒に過ごすべきなのに」

 美姫は何も訊ね返さなかった。永遠の瞳をまっすぐに見つめ返す。出会った頃と何一つ変わらない黒く、それでいて蒼穹のように冴えた色を。

「ごめんね。そのクローバー、私の為に探してくれたんだよね? バカだなぁ、ほんと。何もこんな天気の悪い日にしなくてもいいのにさ」

「……待ってなんていられなかった! 永遠がいない、繋がっていない。そう考えるだけで、何もかもが色褪せてしまった……。淡白で、儚くて、心に空いた穴がただただ虚しくて。それに気付いた時、私が私である為に動き出していました」

「…………」

「永遠。貴女が何を背負い、何に戸惑っているのか、それはわかりません。ですが、これだけは覚えていてください。私には、貴女が――神白永遠が必要なのです! あの日貴女が私に手を差し伸べた、その瞬間から!」

 今度は永遠が黙り込んだ。言葉の一つ一つを噛み締めるように瞼を下ろしながら。そして永遠は小さく息を吐いた。

 柔らかな微笑はここ数日みせていた諦観の笑みではなく、充足感を顕にした苦笑だった。

「――そっか。そっかそっか。なぁんだ。同じか、私も姫も」

「え? 永遠?」

「やっとわかった。正紀に告白された時も、残りの時間を知った時も、妙に無気力になってた理由が」

 訳がわからず美姫が訊ねようとした瞬間、再び奇妙な浮遊感がその身を襲った。それは土砂に紛れて落下しかけた時とは真逆。重力に逆らう形の虚脱感。

 ――刹那の後、永遠と美姫の視点は逆転していた。

「――永遠っ!?」

「姫! 姫の生きている所が、私の生きる場所! 私はこの世界に未練を感じたわけじゃなかったんだ! 私が生きる価値のある場所があるなら、それは姫が一緒に――」

「永遠! 永遠、いやああぁぁ――――――!!」

 最後の声は届かなかった。

 ぽっかりと口を開けた暗闇が、永遠を呑み込んでいく……。



 奇妙な感覚だった。

 ジェットコースターの高速時に感じる浮遊感。風邪の時に感じる倦怠感。二つが交わり、綯い交ぜになって撹拌される。

 まるで、身体を失ってしまったかのようだ。

(……たはは、これが走馬灯ってやつ? の割には、何にも見えないけど)

 魂魄だけが漂っている。夢の中の方がまだしも機敏に動けるというものだ。

 死、というものはかくも緩慢としたものなのか。

(ま、別にいいけどね。ちょこっと予定が早まっただけだし)

 恐れはない。怒りもない。憐憫するほど自分に価値を見出してはいない。

(ああ、でも――)

 いつだって自分の感情を揺さぶるのは他者だ。神や仏には無頓着でいられるのに、身近であればあるほど、手触りも形もはっきりとわかってしまうから。

(姫に、謝る――のはもうやったか。じゃあ、なんで……)

 ほんの数年の付き合いのはずなのに、他の誰よりも踏み入り、踏み入られた。

 彼女だけは特別。非凡だの凡庸などという括りではない。

 あの日、あの場所で会った瞬間から、どこか欠けていた二つの世界が合わさったのだ。どちらか一方が欠ければ、それはもう全ての崩壊。

(なんで、こんなに寂しいのかなぁ。どうせ死ぬなら、最後にもう一回、姫の笑った顔を拝んでから逝きたいな……)

 自分がいなくなったら、美姫は寂しがるだろうか? あの豪胆な母親と上手くやっていけるだろうか? 将来は誰かいいお婿さんを……。

 ほら、やっぱり。いつだって他人のことばかりだ――。


『――主の仰せのとおりに。求むるは(つがい)を』


 薄ぼんやりとした視界を横切ったのは、燐光輝く船だった――。

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