5.ノア再び
電話越しでよかった。永遠は卒倒しそうな胸中でそう洩らす。もしあの傑物の前に一対一で立っていたらと思うと全身が総毛立った。
「ぁ……えぇ………なんで……?」
『どうした? 電話越しとはいえ久しぶりに話すんだ。もっと喜べよ。笑えよ。そして喜びに打ち震えながら絶えてくれよ』
「ハ……ハハハ……はぁ。お久しぶりです、謳妃さん」
渇いた笑い声を洩らす永遠。知り合いといえば知り合いだが、少なくとも紅茶片手に談笑する仲ではない。
『ふん、息災のようで実に遺憾だよ。二年前のあの日以来、美姫は口を開けば貴様の話ばかりだ。反吐も悪態も無限に零れそうだったが家を汚すわけにもいかぬゆえ、我が社のブログに書き込むに留めてやっている』
「あ、あの~、そちらの会社のブログといいますと、不特定多数の目に留まってしまうのでは?」
『ああ、そうだ。喜べ、今や貴様の名は我が全社員の知る所だ。酸いも甘いも、な』
ぐらりと視界が揺れる。桜譲院の会社、世界各国の支社を含めれば社員数は万に上るだろう。しかもこの御方、実名を晒してらっしゃる……。
「それはともかく、どうして姫の携帯から謳妃さんが掛けてくるんですか? いくら娘だからってプライバシーってものが……」
『貴様のような恥も外聞も知らぬ不敬娘と一緒にするな。美姫の部屋から何度も何度も着信音が鳴っていたのでな。見かねて部屋を訪ねてみるも美姫は不在。携帯電話を不携帯というのが妙だった故に、やむを得ず検分させてもらった』
「それで私からの着信があったと。大人しく放置しててくれればよかったのに――って、ちょっと待ってください。今、何ていいました?」
永遠は食って掛かるように訊ねた。そして後悔した。わざわざ会話を引き延ばしてしまったことに。
『先の奇怪な物言い、そして今の反応……。貴様、やはり何か知っているな?』
「へ? い、いやぁ、なんのことやら。あぁああぁ、ごめんなさい! 急な用事を思い出しちゃったのでこの辺で」
『――二度は言わん。これ以上煩わせるようならば、タルタロスに堕ちた方がマシだと思えるような至福をくれてやるぞ?』
「……原因はワタクシめの至らなさにありまして」
こええぇぇぇ、電話越しなのに大蛇に睨まれた気分。しかもタルタロスて……たしか冥界より過酷な監獄じゃなかったっけ?
赫赫云々(しかじか)と機械のように告解を始める永遠であった。
そして、病のことを除いて全てを語り尽くした永遠は、子猫のように震えながらお叱りの言葉を待っていた。
『……ふん、どちらに非がある、とは言い難いか』
しかし、返って来たのはストレートではなく奇襲めいたフックだった。
「え? お、怒らないんですか?」
『なんだ貴様? 生憎とそういう趣向には対応しかねる。まあそれはいい。どちらが悪というつもりがないだけで、貴様が色恋に現を抜かす愚鈍な不貞者であることに変わりはない』
「……不貞て……」
失念していた。フックにも十分に相手を沈めるだけの威力があるということを。
『それにしても、まったくもって馬鹿な娘共だ。我が娘の杓子定規さも、貴様の自己喪失も、な』
「自己喪失? どういうことですか?」
『そのままの意味さ。貴様は無知蒙昧、無芸無能、馬鹿正直な上に浅慮、列挙しきれぬほどの愚か者だ。――だが、その生き汚さだけは評価できる』
再起不能なほどに落とした後で垂らされる蜘蛛の糸。実はお釈迦様というのはこういう人格なのかもしれない。
「……それって褒めてるんですか?」
『やれやれ、それすらもわからぬとは……やはり貴様に物事を説くなど無用。貴様はあの時、娘と共に私の前に立ち塞がった。経験も、知も、権力も、財も、全てにおいて雲上の存在たるこの私にだ。あの時の貴様の目は、紛れもない野犬であった』
「…………?」
『野良犬は己が本能にのみ傅く。ならば、貴様の根幹に根付く本能は何を望む?』
「っ――!!」
永遠は絶句した。ではない。あの女傑が、忌み嫌い蔑む自分に対して激励を述べたことが信じ難い。だが、それは永遠にかつてない程の活を入れてくれる。
気付けば思考より先に永遠は動き出していた。
「ありがとうございます、謳妃さん! 急用が出来たんで、これで切りますね。あ、それと、美姫がどこにいるか心当たりあります?」
『さて、な。望む場所へ往ったのだろうよ。それを詮索するのは、ある時から禁じているのでな。――それと、心当たりもない礼など不要だ、気色の悪い。どうしても礼を尽くしたいのなら、雷雨にでも裂かれて絶えるがいい』
「あはは、手厳しいですね、本当に!」
通話を切る。文句をいいながらも永遠の口元には笑みが窺えた。
永遠はレインコートに腕を通すと、荒れ狂う豪雨と旋風に臨んだ。
「絶える、か。多分、すぐにご希望に沿えると思いますよ。一月と待たずに」
しとどに全身を濡らしながら、永遠は走り出した。
「さぁて、と。この嵐の中どこに行ったんだい、お姫さま?」
予想はしていたが凄まじい雨と風だった。傘など開こうものなら確実に破壊されてしまうだろう。美姫は何の為にこんな状況で外出したのだろうか?
「……ええい! 難しいこと考えるのはやめ! 謳妃さんの言う通り――ってのはちょっと癪だけど、どうせ私はお馬鹿さんなんだから!」
自然の猛威を感じさせる川の豪流。もしやと思ってもう再度訪れてみたが、この様子では美姫はおろか虫一匹いそうにない。
一先ず川の上を渡る橋の下で雨を凌ぎながら永遠は方法を探った。
――そして、ある可能性に至った。
「……幸いにも私の携帯は防水仕様。これって単なる偶然?」
今、自分は困窮している。それはもうどうしようもないくらいに。明日死ぬかもしれない我が身など比較にならないほどに。掛け替えのない友達を失わない為に。
「私の命ならいくらでもくれてやるわよ。だから、私たちを救ってみなさいよ!」
懇願には程遠い。それはまるで怒れる蜂起。人の子にして神に反旗を翻す不敬な行為であった。
そんな愚か者に対し――はたしてそれは訪れた。
「はぁい、神白永遠さんですよ~」
『……何の用?』
「一応そっちから掛けてきた形になるはずだけど、まあいいや。用件は一つ。姫の居場所を教えて。別に奇跡も超能力もいらない。居場所さえわかれば後は自力でやるから」
永遠は賭けたのだ。都市伝説たるノア商会に。今ならば、こちらからの訴えに応じるはずだ、と。
少女の声に続いて聞こえてきたのは、口調だけは柔らかな少年の声。
『永遠さま。以前申しました通り、我々は多忙なのです。失せモノ探しでしたら公的機関を当たって頂きたく思うのですが』
予想通り。私を助ける価値なんか無い、と。
永遠はにやりと八重歯を見せてから言った。
「アンタらは方舟とやらに乗せる客を探してる。私にはその資格がない、でしょ?」
『……仰りたいことが、計りかねますが?』
「乗客の条件。それが苦しんでる人なのか悩んでる人なのか、どっちにしろ私には無縁な話よね。でも、でもね――っ!」
美姫は、永遠の一番の親友はどんな気持ちでいるのだろうか? 自分はたかだか死ぬだけ。死ねば全部終了だ。
だが、美姫は――、
「あの子はね! たった独りで、ろくに友達も作れずに必死に生きてきたのよ! 生きることを許されなくて、同時に死ぬことも許されなかった!! 泣きながらそう話してくれたこと、今でも覚えてる。私が初めての友達だって……っ」
『…………』
少年も、少女も何も応えない。聞き入っているのか、はたまた無視を決め込んでいるのか。そんなことはどうでもよかった。
「そんな子を……私は突き放したっ! 大事な、二人だけの絆も引き裂いた! 本当にどうしようもない……全部あの子のせいにして……!」
携帯電話の下部。そこには千切れた紐だけが垂れ下がっている。
「姫は今苦しんでる! 死にたいくらいに絶望してる! 痛くて、痛くて……それでもあの子は誰にも甘えることが出来ずにいる!! アンタらはそんな命を救うんでしょ!? 足りないなら私の命も担保にしてやる!!」
『……永遠さま、仰ることは理解しました。ですが、救済にも順序が……』
「アンタらの救済なんて必要ない! ――あの子は私が助ける! それさえも出来ないっていうなら、アンタらに『ノア』を名乗る資格はないっ!!」
『っ……!』
気付けば息が荒くなるほど叫んでいた。それさえも、この豪雨の中では霧消する。
永遠は射殺すような目を空へと向けた。まるでそこに相対する何者かがいるかのように。
『……山……泥……葉っぱ……』
「え?」
『水が一杯。虫けらみたいに這い回って、泥だらけで何かを探してる。こんな暗くて雨の強い中で、ばかみたい』
それはあの少女の声であった。独り言のようだが、それは明確に何かを示唆していた。
『このままだと、きっと死んじゃうね。泥水に流されておしま~い。それが嫌なら走れ。お前は劣等バカだけど、ヤコブじゃない。いつだってエサウだ』
「っっっ!!」
少女が言い終わるより先に永遠は駆け出していた。
心の中で、小さく礼句を述べながら。