3.ノア
「おい、待てってば! いい加減にしろよ!」
腕を掴まれ歩みを止める。すでに繁華街からは随分と離れ、周囲は薄暗くなっていた。
耳に届く小さな水音。無意識の間に美姫と出会った川辺まで来ていたようだ。
「……離してくんない? もう用も無いでしょ?」
顔も見ずに言い放つ。誰かと話したい気分でもなければ、出歩いていたい気分でもなかった。
「永遠、お前変だぞ? 桜譲院さんも心配してたみたいだし――」
「姫のことは関係ないでしょ!!」
空気が張りつめ、シン、と静まり返る。
やめろ、と自分に言い聞かせるが、止まらない。
「最近、二人仲いいもんね。それで? 私のことを話題に出して気でも引こうとしたの?」
「お前……なにを……?」
「ああ、別にいいよ。私には二人を止める権利も必要もないし。心配しなくても、姫とアンタはお似合いだしね。見た目じゃなく趣味の話だけど」
「――っっっ!?」
(最悪だ……。多分、今凄い嫌な顔してる……)
胸を締め付ける痛みは嫉妬か寂寥か、はたまた死への恐怖か。
正紀は激怒するだろうか? いいや、それはない。そんなことは永遠が一番よく知っている。こういう時、彼はいつも無言で待っていてくれる。
じっと――虫も殺さないような顔で。
どれほど経っただろう。ぽつりと永遠が呟いた。
「話したっけ? 此処、私と姫が初めて会った場所なんだ。それで、二人してダンスを踊った場所」
「……なんだそれ? 昔っから、永遠のやることは意味不明だ」
「うっさい。そんで、毎日会うようになって、互いの事知ってく内に信頼し合って。ああ、そういえば姫のお母さん説得する時、正紀にも一肌脱いでもらったっけ?」
「あの時は……驚いたよ。急に助けろ~、なんていうから」
あはは、とおどけてみせる。多分、自然に笑えているはずだ。
「あん時の正紀の顔、カメラに撮ってやりたかったくらいよ。姫の可愛さに緊張しっぱなしだったもんね~」
「なっ……!? ち、違う! あれは――」
「こうして考えてみれば、私ってもしやキューピッドってやつ? なんか妬けちゃうわ、ホント。うん……ホント……」
次第に窄んでいく声量を感じ取り、正紀は息を呑んだ。
永遠はそんな様子に気付くこともなく、
「正紀。これだけは言っとくよ。姫は私の親友だ。泣かせてもいいけど、それは嬉し涙だけ。悲し涙は絶対に許さないからね」
「…………」
言ってやった。我ながら良い去り際ではないだろうか?
そんな自画自賛でもって立ち去ろうとする永遠だったが……、
「……悪ぃ、多分それ、無理だ」
「……なんですと?」
目を丸くして振り返る。今、この男は何と言った?
「もしお前の言う通り、俺と桜譲院さんが付き合ったりしたら、俺は絶対に彼女を泣かせるよ。それも、最悪の形で」
「な、なに言ってんの? 意味わかんないんだけど?」
「言葉の通りだよ。具体的には……そう……浮気、とか」
本当なら怒りに身を任せたいところだが、永遠は思わず吹き出してしまった。あまりにも正紀の言が滑稽だったから。
「ぷっ、はは、あっはははは! アンタ何馬鹿言ってんの? 頭は良いと思ってたけど買い被りだったかもね! よりにもよって浮気って……そんな甲斐性いつどこで身に付けたのよ?」
「いや……だから……」
「冗談か見栄か知らないけど、もう少しマシな言い分あるでしょうに。だいたい、姫みたいな気立てのいい美少女捕まえといて、いったい誰と浮気するってのよ? 私だったらハリウッドスターでもお断りするわ」
「――お前」
ヒュッ、と風が頬を撫でた。
なんとなく、遠くで走り抜ける車の光を目で追ってしまう。
「俺は絶対に浮気をするよ。たしかに桜譲院さんは綺麗な人だけど、俺には好きな人がいるから。それは――」
「っ……!」
「永遠、お前だ。何を勘違いしてるかは知らないけど、俺が好きなのは昔からお前だけだよ」
「っっっ――!!」
それから家に帰り着くまでの道程を、永遠は一切覚えていなかった。
後日、永遠は学校を休んだ。永莉には気分が悪いと伝えた。。
嘘ではない。今の体調に比べれば、小さい頃に四十度の高熱を出した時の方がよほど気楽だったとさえいえる。
(……なんで……なんで……)
正紀からの連絡はない。美姫からメールと着信が来ていたが、返信はしていない。
(……なんでだよぅ……私なんか好きになって、どうするってのよ……! 私、私は――)
昨晩の正紀の見せた真摯な眼差し。それは永遠が幼い頃から見続け、今も憧れ続けている姿。
「――もうすぐ死んじゃうんだよぉ!!」
ピピピピピッ!! と、電子音が鳴り響く。
「――え?」
あまりにも唐突。いや、電話とはそういうものなのだが……。
「姫? それとも正紀? 今はそんな気分じゃ……えっ?」
携帯のディスプレイを見た永遠の口から間の抜けた声が洩れる。そこには文字だけが映し出されていた。震える唇がそれを読み上げる。
「『Noah』? の、あ……ノア?」
無論のこと、永遠の登録ナンバーに英語名の人間はいない。非通知であれば番号だけが表示されるはずだ。このように知らない名前だけが浮かび上がることなどありえない。
不可解な状況と、理不尽な心境が一気に永遠の精神を浸食した。
「……なん、なのよ? なんだってのよ!? そんなに私を苛めたい!? 殺したいわけ!? ご心配なく! どうせすぐ死にますよ!!」
部屋に響き渡る悲痛な声。永莉が買い物に出かけていたのは幸いだった。
永遠の荒い息と無情な電子音だけが空気を揺らしていた。
「は、はは……何言ってんだ、私は。やっばい、そろそろ末期かも……。ああ、はいはいわかりましたよ。別に今の私には恐い物なんてな~んにも無いんだから。ノアさんでもイエス様でもなんでも来なさい」
遊び半分興味半分。そんな面持ちで、永遠は通話ボタンを押した。
「はいは~い、こちらは神白永遠ちゃんの携帯電話だよ~。失礼ですが、どちら様で?」
『――――』
おや、と首を傾げる。聞こえてくるのは小さなノイズ音のみだった。
よくよく考えてみれば、最近は有難迷惑なアプリが氾濫しているのだから、手の込んだ悪戯という可能性の方が大きい。
「もしも~し? 後五秒で切っちゃうぞ~?」
『――――ぃ』
「ん?」
『三十三回。お前はワタシに空白を与えてくれた』
聞こえて来たのは怪しい勧誘ではなく、女の子の声だった。女の子、というには尊大に過ぎる物言いではあったが。
『なぜすぐに応答しない? この劣等生命体が』
「…………えっと、お嬢ちゃん、でいいのかな? 悪戯もほどほどにしとかないと、お母さんに怒られちゃうよ?」
『黙れ。男一人で己を見失う底辺級のド低脳に子供呼ばわりされる謂れはない。さのばびっち~、さのばびっち~』
「…………」
青筋が浮かびそうになるが、なんとか堪える。
今、電話越しに少女は何と言った?
確かめようと口を開こうとした時、相手側から騒いでいるような音が聞こえた。
『――ちょ! なにやってるの!? 主がいないのに勝手に掛けちゃダメってあれほど……! ああもう、いいからお兄様に貸しなさい!』
「…………も、もしも~し?」
『まったく……あ! 申し訳ありません、神白永遠さま。妹が失礼をはたらいたようで』
次に聞こえてきたのは少年の声だった。妙に物腰が丁寧なのが逆に不気味だ。
即座に通話を切ればよかったのだが、なぜかそうしようとは思わなかった。
「どうして、私の名前を? 私と君、会ったことある?」
『いえいえ、ワタクシめは主に仕える神子が一人。失礼ながら永遠さまのような人種とは知り合いとうも御座いません』
「うん、なんかすんごい失礼なことを言われた気がするけど、とりあえずはいいや……。君らは私に用があるの?」
『……間違ってはおりません。貴女がワタクシどもの顧客足りえるか否か、それを査察する意図は存在します』
「顧客……? 何を売ってくれるっていうのさ?」
『永遠さまが必要となさっているもの。何なりと差し上げれるでしょうね』
淀みなく、少年はこう言った。
『我々『ノアの商会』は願望を蒐集し、救済の方舟へと導く者ですから』
夜になると、永遠は渡瀬川を訪れていた。別段理由はない。単に、自分にとっての分岐路はいつも此処にある気がしただけだ。
「『たかが死ぬ程度』か。私って恵まれてる方なのかな?」
少し前までは肌寒い風が吹き付けていたが、今は心地よい。じきに夏がやってくるのだろう。永遠にとっては二度と体験出来ないものだろうが……。
「着信履歴には……当然残ってないか。やっぱり本物だったのかな……?」
正紀から聞かされた都市伝説『ノア商会』。もし先程の電話がそれだとすれば、少なくとも希望は絶たれたことになるだろう。
『ノアの商会』。そう名乗った子供に、永遠は動揺を隠せずに訊いた。
「ノア……ノアってまさか!? じゃあ、君は――私の病気を治せるの?」
『ええ、造作もないでしょうね。ワタクシめには不可能でも、主にとっては』
「――っ!」
主、というのが何のことかは不明だが、永遠は一縷の希望を見た。単なる悪戯、嘘に尾ひれが付いただけの胡散臭い噂だと思っていた。
だが、だがもし本当に叶うならば――。
『ですが、それは永遠さまには無用。最終的には主がお決めになりますが、おそらく裁定は変わらぬかと』
「え……? どういう、こと?」
『先程、妹が申しましたように、ワタクシども――というより主は多忙の身。ゆえに、ワタクシどもが乗船すべき客を精査せねばならない』
「……あのさ、全然わかんないんだけど?」
正直に言うと、相手側から溜息めいたものが聞こえた。
『――わかりました。単刀直入にお伝えしましょう。永遠さまは乗船には値しない。それがワタクシどもの判断で御座います』
「っ……! じゃあ、なに? 私は、このまま死ねってこと?」
『そうは申し上げておりません。ただ、残る時間を思うようにお過ごしくださればと――』
「同じじゃない!! なんで? どうして助けてくれないのよ!?」
すでに永遠は相手の正体など気に掛けていなかった。諦めかけていた絶望の中垂らされた一本の糸。縋ることに罪などあろうか。
『お前、絶望ってしたことあるか?』
「――え?」
それは少年の声音ではない。最初に永遠に対し罵詈雑言を連ねた少女の声であった。
『生まれてすぐ死んじゃう命。理不尽に死んじゃう命。裏切られて苦しんで、死んじゃう以外に道がない命。なら、お前の命はなんだ?』
「なに、って……?」
『すぐ死ぬのか? 痛いのか? 苦しいのか? 裏切られたのか? 死にたいのか? 甘ったれてんじゃね~、ば~かば~か』
「なっ……!?」
ふざけるな! と叫びたかった。だが、声が出なかった。
言っていることは乱暴だが、少女の言っていることは永遠の胸を抉った。この恵まれ過ぎた国で、何不自由なく今まで生きて来た。そんな国でさえ理不尽に命を奪われる者は大勢いるのだ。
だが、永遠には少なくとも時間がある……。
『――と、まあそういうことです。まだ、何か仰りたいことは御座いますか、永遠さま?』
「…………」
『それでは、ワタクシどもはこれで失礼いたします。ああ、そうそう。お詫びといってはなんですが、一つだけ教えて差し上げます』
「……なに?」
『もうじき、嵐が来ますよ。お出かけのご用があればお早めに』
そんな天気予報を最後に、声は聞こえなくなっていた。
「バ、ッカかああああぁぁぁぁ!?」
思いっきり、手首のスナップを聞かせて石を投げた。水面を跳ねながら、石が視界から消える。
「台風の一つや二つ何だってのよ!? 天気予報がしたいなら気象庁にでも電話しとけぇぇぇ~!!」
ここ数日で溜まった色々なものを解き放った。川はただ静かに聞いてくれている。
「ゼェ……ゼェ……」
「凄い声でしたね。今までも、悩みがある時はそうやって川に向けて叫んでましたけど、今日は一段と大きな声」
「――へ? 姫?」
「こんばんわ、永遠。少し、お話しませんか?」
そういって微笑を浮かべた美姫は、異様なほど月下に映えていた。