2.苛立ち
「へ~、じゃあシャム猫シャミィはお母さんになっちゃったわけだ」
「そうなんです。私、感動しちゃって。お母様に無理を言ってよかった」
「あ~、そんなこともあったっけ。良い人だけどおっかないんだよねぇ、姫のお母さん」
学校からの帰り道。夕焼けの空の下を二人は歩いていた。最近は陽が高くなり、部活終わりの時間でもまだ空は赤い。
「にしても姫、いつも言ってるけど、わざわざ部活終わりまで待つことないんだよ?」
「そっちこそ、いつも言っているじゃないですか。――私が勝手に待ってるんです。私は永遠とこうやって一緒の時間を過ごしたいんです」
そういって腕を絡めてくる美姫。周囲にはまだ人もいるため何とも気恥ずかしいものがある。
一度言い出すと聞かない娘だ。永遠も説得に関しては半ば諦めている。
「いつも図書室にいるんだよね? 独り?」
「え? ええ、そう、そうなんです。最近は自分で本を持ち込んだりしていますけど」
そっか、と美姫の柔らかい髪を撫でてやる。こうするとくすぐったそうに、それでいて幸せそうな顔を見せてくれるからやめられない。
(独りで、か。別に隠すことなんてないのに……)
美姫は嘘を吐いている。永遠は別にそのことを怒る気もない。なぜなら、想い人達の逢瀬を邪魔するほど野暮ではないつもりだから。
先週のことだったか。早めに部活が終わり美姫を迎えに行った矢先、見てしまったのだ。美姫と正紀が夕陽の差し込む図書館で、それも真剣な面持ちで話している姿を。その時の美姫のわずかに上気した頬の色は今でも鮮明に思い出せるほどだ。
(命短し恋せよ乙女、か。ん? それって私のこと?)
「……トク……トク……トク……」
「……あの~、姫さま? 何をなさっていらっしゃるので?」
「感じているのです。永遠の鼓動、命の音を」
目を伏せ、長い睫毛を小さく揺らす美姫の顔が永遠の左胸に押し当てられていた。あまりスタイル、特に胸部に自信のない永遠としては複雑な気分である。
「そ、そんなに良い音、してる?」
「ええ、とても。ずっと聞いていたいくらいに」
「っ……!」
そ、と永遠は美姫の身体を優しく離した。これ以上、自分の命の音を感じ取って欲しくはなかった。
「……永遠?」
「あ、あぁっと、私、こっちだから、ね? そ、それじゃあまた明日!」
幸いにも二人の帰路の分かれ道に辿り着いていた。
そして、挨拶もそこそこに立ち去ろうとした永遠の背中に毅然とした声が届いた。
「――永遠! 忘れないでくださいね。私は、血の一滴、髪の毛一本に至るまで、全てを貴女に捧げる。あの日、そう誓ったのですから」
「姫?」
振り向いた永遠の目に映ったもの。それは美姫の手に握られた携帯電話、否、そこから垂れ下がる二人の絆。
それを見た瞬間、危うく全てを彼女に打ち明けそうになった。
だが、出かかった言葉を呑み込み、永遠もまた携帯電話を翳した。そこにもまた、同様のアクセサリーが揺れていた。
「知ってるよ! 姫は一番の、ううん、数字なんかじゃ表せない友達だからね!」
ストラップの形状に改良されたロケット。互いに蓋を開くと、そこには新緑の輝きを保つ四つ葉のクローバーが嵌め込まれていた。
美姫の最も愛する四つ葉の誓い。別れを惜しむかのように揺れる二つの影は、永遠の心に安寧と寂寞を与えていた。
初めて出会ったのは中学三年の夏だった。
その日は特に陽射しが強く、コンビニアイス片手に永遠は夏期講習から帰宅の途に就いていた。町中を横断する河川――渡瀬川を横切った時、川辺に立つ白いワンピースと帽子が目に入った。陽炎の中に浮かぶその姿は蜃気楼か、はたまた妖精か。そんなことを思い、気が付けば足を止めていた。
そうしてアイスが粘液のごとく溶け出した頃だろうか。永遠はゆっくりと白い少女に歩み寄り、驚かさないよう慎重に口を動かした。
『…………シャル、ウィーダンス?』
十と数年の永遠の人生の中でも、間違いなくベスト3に入るであろう理解不能な行動であった。当時を思い出すたび「暑さのせい」と言い訳をしている。
そんな一見して不審者にしか見えない永遠の言葉であったが、振り返った少女は陽光さえも吸い込むような黒髪を靡かせながら、
『――I'd love to』
気が付けば、流暢な発音と共に差し出された手を取り、二人は演奏一つない舞踏会場にいた。
「びっくりするくらい可愛くて、お嬢様みたいに気品があって……ってか、ホントにお嬢様だったわけで。なんであんなことしたんだろ?」
浴室の白い天井を見上げながら、記憶に沈んでいた意識を戻した。
「あの後、ホントに川辺で踊ったんだっけ。つっても、私にゃ華麗なステップなんて別世界の技能は無かったけど……」
それが始まり。気付けば数年。
それまで平凡だった永遠の一本道人生が急激に蛇行し始めた瞬間である。中でも強烈なのは、美姫の母親に真っ向から相対した体験である。臨死体験に近いものを味わった。
けれど、そうして二人で困難をいくつも乗り越えた。二人でなら、どんな窮地も脱することが出来た。
「でもね、今回だけは、どうにもならんのですよ、姫……」
湯船の中で四肢が正常に動くことを確認し、虚ろな安堵を覚えた。
日曜日。相変わらず誰かに病を打ち明けることもなく、さりとて病院に通う気も起こらず、永遠は繁華街へと足を延ばしていた。電車を数駅跨げばそこはまるで夢の国、というのは大げさか。
「楽しい楽しいショッピング――のはずが、なんでこうなるかな……」
「……こっちの台詞だよ」
休日の活気とは裏腹に、重い足取りで繁華街を歩く二人の男女。ご近所付き合いの腐れ縁、神白永遠と谷村正紀である。
「私はね、姫に呼ばれて来たのよ! 楽しく二人でショッピングのつもりだったの!」
「桜譲院さんに? あ、もしかして――!」
「なによ? 何か知ってるわけ?」
「い、いや、なんでもない。それよりも……お前、これからどうするんだ?」
急にしどろもどろになる正紀に違和感を覚えつつも、永遠は淡々と答えた。
「どうって、決まってるでしょ。帰るのよ! 他にやることある?」
足早に立ち去ろうとした永遠。
その背中に、意を決したように正紀が声を掛けた。
「――え、映画! 行かないか? 一緒に」
結局その後、映画だけでなくカラオケやゲーセンといった一連のコースを巡ってしまった。映画のチケットの期限が今日までだというのだから仕方ない。使わなければ勿体ない。それはもう勿体ないお化けが出るくらいに。
(でも、なんか……デート……みたいじゃん……)
「ほら、永遠。特別に奢ってやるよ」
「は? アンタが奢りなんてどういう風の吹き回し……」
差し出されたものを受け取って、気付いた。
「これ、チョコキャラメルクレープ。アンタ、なんで?」
「好きだっただろ、お前? いらないなら、別にいいけど」
「い、いらないなんて言ってないでしょうが! 奢り菓子ほど美味いものはないのよ!」
なんだそれ、と苦笑する正紀。
――トクン、と永遠の胸が高鳴った。
(あ……やばい……今の顔見られるのは、絶対やばい!)
咄嗟に顔を逸らし話題を探す。
思わず目に入った店頭の雑誌に書かれた単語を棒読みした。
「あ、あ~の、その、『ノア商会』って知ってる?」
「ノア商会? ああ、最近噂のやつか。都市伝説だろ? 永遠がオカルトに興味があるとは知らなかったよ」
「わ、悪い? ちょ、ちょっと気になっただけよ……」
何とか話題を逸らすことには成功したようだ。正紀はこういった雑学にも強い関心があり、一度話し出すと長いのだが今回に限り助かった。
「なんでも、強い悩みを持った人の携帯電話に突然掛かってくるらしい。受信履歴にも残らず番号も残らない謎の電話。相手も男だったり女だったり……人によって違うそうだ」
「ふ、ふ~ん。『商会』なんていうからには何かを売ってるわけ?」
「そういう類じゃない。ただ、原因になった強い悩みが不思議と解決するらしい。しかも見返りを要求されることもない。文字通り『ノアの奇跡』ってわけだ。例えば、借金地獄の人が宝くじの一等当てたり、不治の病が治ったり」
「……バッカみたい」
シン、と二人の周囲にある空気が凍り付く。永遠自身が驚くほどの冷め切った声音だった。
「そんなの、たまたまじゃない。悪戯電話とラッキーを結び付けるとか、小学生でももう少し夢のあること言うわよ」
「なんだよ。お前が訊いてきたんだろ」
「……うっさい。正紀のくせに生意気」
「お、おい! なんだよ! 待てって、永遠!!」
奇跡? ノア? 馬鹿馬鹿しい。 電話一本で命買えるなら、今頃携帯会社が病院代わりになってる。
向け所のない苛立ちを溜め込みながら、永遠は繁華街から逃げるように足を動かした。