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八重の予言が的中した。否、予言と呼ぶ程のものでもないのだが。擦り硝子に当たる雨粒、淡く淀んだ空の色。窓から見える濁り滲んだ景色を眺め、遣る瀬なく溜息を吐いた。こなせない日課は、退屈を募らせる。焦燥感。閉じ込められた感情は、解放されたいと願っているにも拘らず。
打ち付ける雨の音が木霊する。食い終えた昼餉を廊下に出し、僕は独り、耳を澄ました。八重の声が聞こえるのではないか。そう、思いながら。
併し、当然のように。八重の声は聞こえない。代わりに、こつこつと響く足音が聞こえた。食器を取りに来た、使用人のものであろう。此処で生活をするようになって初めて聞いたと云う事実に、些かの戸惑いを覚えた。僕はいつも、外に出ていたのだ。此の時間は。
部屋の扉を薄く開け、廊下に現れた人影を確認する。長話が出来るとは思わないが、僅かな時間を潰すだけならば適うであろう。例え形式的な挨拶だけでも、多少の気を紛らわすには。或いは、何某かの。
「……勝之助、様、」
突き刺さる、刃の如き声。初日に此の部屋へと導いてくれた女中が、まるで化物を見るかのような眼で、僕を睨み付けていた。
「今日は、いらしたんですか、」
ああ、そうだ。僕は大事なことを忘れていた。蔑み疎まれて当然であると云うことを。
「ええ。天気が、悪いので。」
奇異の目を隠そうともしない女中を一瞥し、其の儘僕は背を向けた。此れ以上係わっても仕方がない。互いに、不快になるだけだ。理解していたはずの大前提を、僕は何故忘れていたのか。侮蔑や奇異の感情。当り前に存在する、其れらを。
否、違う。僕は慣れてしまったのだ。八重と過ごす時間に。受け容れられる、状況に。其れが常ではないのであると、忘れてしまう程度には。
部屋の奥へと向かっていると、左足に視線を感じた。嫌な感覚。食器を片す音に混じり、女中の呟きが聞こえる。
「……此の、狐憑きが、」
吐き出すような口調。僕の耳に届いていないと信じているのか、或いは態と聞かせているのか。振り返り確認してみると、件の女中は何食わぬ顔で食器を手にしていた。
まるで僕には感情すら存在していないと言わんばかりの行動。僕が一体何をしたと云うのであろうか。僕は唯、片足として産まれて来ただけで。
「其れでは、失礼致します。」
否。其れ自体が罪なのだ。一人前になることも叶わず、何もなせない存在は。
「彼の、……夕餉は、要りませんので。」
肢体が不自由な僕より、眉目が不自由な八重の方が、恐らくは通常に近い。専用の履物がなければまともに外を出歩くことすら適わぬ僕より、八重の方が。
「畏まりました。」
此処での生活に、少なくとも八重との出会いに。いつの間にか、僕は希望を見出していた。いつか通常になれる。いつか誰も僕を蔑視しなくなる。そう、信じていた。
しとしとと降る雨粒が、僕の胸に溜まっていく。息苦しい。抜け出したい。何も術がないことを、知っているにも拘らず。願いは募る。いつか絶望に変わることを、知りながらも。
其れこそ、狐憑きのようなものであろう。憑かれているが如く、叶わぬ願いを追い求めてしまうのだ。そう。僕は屹度、気が狂れている。
*
雨天の翌日の空気は、湿り気を孕みしっとりとしていた。何処からか仄漂う磯の香りと相まって、海辺にいるような心地になる。風が吹く度雫を散らす庭木が、余計にそう、思わせているのかもしれない。
泥濘んだ庭を注意深く、泥に塗れた下駄で歩く。雨に打たれてでも八重に会いに行けば良かったと、仄僅か、後悔しながら。
「お暑いですわね、今日は。」
窓から顔を出し、八重が微笑む。一日顔を合せなかっただけにも拘らず、何故か懐かしく感じる。
「ええ、蒸しますね。」
濡れていない人形屋敷の壁に背を預け、僕は自室に目を向けた。
「昨日の雨の所為ですわ。」
誰もいない、がらんどう。其処迄広い部屋ではないが、縫い包みには大き過ぎて。セルロイド人形のように大事に可愛がられるものであれば、或いは丁度良いのかもしれない。
どうかしている、僕は。八重にすら、嫉妬しているとは。
「……雨は、好きではありません。」
掃除婦が、僕の部屋へと足を踏み入れた。窓を開け、畳の上を履き始める。
「濡れるのが、お嫌いですの、」
そう云えば、昨日は誰も掃除に来なかった。僕がいた所為で、誰も寄らなかったのであろう。矢張り僕は、いない方が良いらしい。
唇を噛み締め、感情を抑え込む。自分の身の程を知らなければ。不要な存在。いつ迄も半人前のままの存在である、と。
「汚れるのが、好きではありません。」
汚れの染み込んだ縫い包みは、いくら洗っても綺麗にはならない。僕は日々汚れ、日々芥に近付くのみで。いくら経ても、通常には近付けない。人形はいつ迄も人形のまま、人間になることは出来ないのだ。
「……勝之助様、」
いっそのこと、本当に人形になってしまいたいと願う。そうすれば、この様に感情を擦り減らすこともなく、些細な夢を抱くこともなくなるのだから。寧ろ感情を失える分、今よりも心穏やかに過ごせるであろう。
通常を願うより、人形を願う方が、余程。
「少し、お疲れのようですわね、」
叶い易く、適い易い。
「御足下がふらついておりますわ。」
潮の香りと草いきれが入り混じり、鼻を刺激する。生の匂い、息吹の香り。僕がいくら望んでも、手には出来ない全ての芳香。
葉先の雫に、陽光が差した。煌き、光。目映く、眩しく。解放されたいと願う。
「否、大丈夫です、」
人形は人形らしく、戯れ合い絶望を抱え込めば良い。傷を舐め合い、傷口を広げ。余計な希望を胸に抱き、身の丈を弁えず。失う恐怖に怯えれば良い。判っている。知っている。けれども僕は。
「慣れております故。」
滑稽な程、人間を望んでいる。幾ら願っても何度医者に診せても、叶うはずのなかった願い。其れを手にする日が来ることを、絶望と共に祈り続けて。愚かしい。知っている。判っている。
柔らかな風、頬を撫ぜた。磯の香り、淡い情熱。密やかに願う、空虚な渇望。
「もし、勝之助様、」
見透かされる。当然のこと。
「御足、欲しゅう御座いますか、」
叶わぬ望みは、適わぬままに。けれども、縋る思いで耳を傾け。
「……私、方法を知っておりますの。」
恃む思いで八重を見遣った。
淡色に輝く亜麻色の髪。人外を思わせる。囁くような甘い誘惑。在り得ないと判っていながらも、心惹かれる魅惑の旋律。
「冗談は、お止め下さい。」
視線を落とし、両の足を見比べた。歪な均衡。若しも本当に手に入るのならば。
否、在り得ない。性質の悪い揶揄であろう。何故そんなことを言い出したのかは判らないが、いつもの如く、八重はころころと笑むはずで。
「違いますわよ、」
併し、八重の口調は真剣其のものであった。
「私、冗談で此のようなことは申しませんわ。」
笑みを含ませることもなく、淀みなく言葉を続ける。其れはまるで、露天商の口上のよう。
「勿論、其れ相応の犠牲は支払って戴きますけれど、」
セルロイドの誘い、人形の惑い。冷たくしなやかな手が、僕の頬に優しく触れる。強い風。葉に溜まっていた雫が、音を上げ一斉に落ちた。
「勝之助様なら、問題なく受け容れて下さるはずですわ。」
鈴を転がすように、八重が笑う。身体の芯から漣が立つ。判らない。人非ざる者に、拐かされているのであろうか。
否、八重は人間だ。色の薄い体質をしているだけの、唯の。
「……如何、なさいます、」
ああ、そうだった。僕も八重も人間なのだ。欠落を抱えているだけで、他は何一つ変わりなく。見目、肉体、精神。欠如の程度に差があれど、其処に埋められぬ隔たりがあれど。
「犠牲、とは、」
泥濘に取られた足を動かし、セルロイドに目を移す。比ぶ可くもない選択肢。望んでいるものは、唯一つ。疎まれない身体。健常な肉体。憐れみ、蔑まれない存在になること。
ふと思い、自室に目を遣った。掃除婦はもういない。綺麗に片付けられた部屋。居心地の悪い、閉鎖空間が目に映る。僕の存在を受け容れる者はおらず、僕の存在を認める者もおらず。いないことで初めて動く、何もかも。そう。僕は矢張り、不要でしかないのだ。
「簡単なことですわ。」
忘れてはならない。誰の目にも明らかな違いが、存在していると云うことを。僕も八重も、人形であると云うことを。
人間ではある。併し、人間ではないのだ、と。
「……簡単、ですか、」
簡単なことであろう、全てが。此の僕に支払える犠牲など、ほんの些細なものに過ぎず。此の僕の存在など、塵芥にも等しく。けれども。
「ええ、簡単ですわ、」
だからこそ。
「勝之助様になら。」
僅か持っている何かを、失うことが怖いのである。




