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夢か、真か

作者: A
掲載日:2026/04/18

「その傭兵は、哀しき剣を胸に抱く」の後日譚に続くIF?的話です。

本編:「その傭兵は、哀しき剣を胸に抱く」

https://ncode.syosetu.com/n6026hl/


後日譚:開かれた箱

https://ncode.syosetu.com/n0235mb/

 

 南方の駐屯地から届いた伝令には、名前がなかった。


 身元不明の重傷者。

 団の記章が刻まれた胸当て。

 国境付近の村で保護された男。

 そして、うわごとのように繰り返された、たった一つの名。


 ――レイア。


 それだけで、二月かけて積み上げた平静は、音もなく崩れた。









◆◆◆◆◆








 凱旋から二月が経っていた。

 紙吹雪はとうに掃き清められ、大通りを飾っていた旗も外され、王都は何事もなかったかのように日常を取り戻している。


 朝が来るたびに、少しずつ上手くなっていった。

 あいつがいない朝を、普通の顔でやり過ごすこと。

 半馬身うしろを振り返らないこと。

 くだらない軽口を待たないこと。

 空いた席を見ても、息を止めないこと。


 『暁の剣』の名は、確かに広まっていた。


 帝国の英雄を討ち取った傭兵団。

 王国を救った勇敢なる剣。

 民はそう呼び、若者たちは次々と門を叩いた。


 志願者は日ごとに増えている。


「……二本持つ意味がない。それなら盾を持ったほうがいい」


 訓練場で、私は淡々と告げる。

 目の前の若い志願者は、左右の手に剣を握っていた。握り方も、立ち方も、重心も、すべてが甘い。だが、その目だけは真剣だった。


 最近、明らかに増えた。


 双剣を選ぶ者。

 粗野な口調を真似る者。

 傷だらけの英雄に憧れる者。


 歪な幻影だった。


 誰も、あいつの真似などできない。

 誰も、あいつの代わりにはなれない。

 そう言いそうになるたび、奥歯を噛んだ。


「次」


 短く告げると、志願者は肩を落としながら下がっていく。


 強く握った手に、誰も気づかない。

 気づく必要もない。

 飲み込んで、次の者に目を移した。









◆◆◆◆◆










 夜更けの執務室には、紙をめくる音だけが残っていた。


 机の上には書類の山。

 補給の申請。新規志願者の名簿。訓練計画。王国軍からの要請。

 そして、新たな副団長候補の名が並んだ羊皮紙。


 私は、そこに視線を落としたまま動けずにいた。


 誰もが優秀だった。

 誰もが、団のために命を張れる者たちだった。

 古くからの仲間もいる。冷静に考えれば、早く決めるべきだということも分かっている。


 団は大きくなった。

 副団長の空席を、いつまでも感傷で残しておくわけにはいかない。


「………そろそろ、決めないといけないのにな」


 声は、誰にも届かなかった。


 引き出しの鍵を開ける。

 中には、小さな箱があった。


 グレンの部屋から持ち出した、安い短刀の入った箱。

 かつて私が、気まぐれで渡したもの。

 あいつは「こんな安もん、すぐにダメにしちまうぞ」と笑って、それでも受け取った。

 そして結局、一度も使わなかった。


 箱の底には、柔らかな布が敷かれていた。

 短刀の形に合わせて、丁寧に折り込まれていた。

 壊れ物を扱うように。


 あいつが何を思っていたのかなんて、今さら確かめようがない。

 確かめなくていい。

 そう決めたはずだった。

 それなのに、私は毎晩のように箱を開けている。


「…………我ながら、女々しいことだ」


 蓋を閉じる。

 書類を再び山へ戻そうとした、その時だった。

 扉が乱暴に叩かれた。


「団長、失礼します!」


「入れ」


 副官が駆け込んでくる。

 息が乱れていた。普段なら、どれほど急いでいても姿勢を崩さない男だ。


「南方の駐屯地から、至急の伝令です」

「読め」


 副官は手にした紙へ視線を落とした。


「国境付近の村で保護された重傷の男が一名。身元不明。年齢は二十代後半から三十代前半。黒髪。体格は痩せているものの、元は相応に鍛えられていたと思われる。左脇腹から胸部にかけて深い傷痕。複数の裂傷、骨折痕あり」


 淡々と読み上げられる言葉を、私は無言で聞いていた。


 ありふれた特徴だ。

 黒髪の男など珍しくない。

 傷だらけの傭兵も、戦場帰りならいくらでもいる。

 そう、思おうとした。


「所持品は、破損した胸当て一つ。泥と血で判別困難だったものの、洗浄の結果、内側に『暁の剣』の記章を確認」


 呼吸が、止まった。

 副官が、一瞬だけ言葉を切る。

 その間が、妙に長く感じた。


「……続けろ」

「はい。男はいまだ意識が混濁しており、氏名の確認は取れておりません。ただ……」


 副官の目が、わずかにこちらを見た。

 それから、伝令の紙に視線を戻す。


「高熱の中、うわごとのように、同じ言葉だけを繰り返していたと」


 手元の筆が、書類の上で止まっていた。

 黒いインクが一点に溜まり、小さな染みを作っていく。

 それを、どこか他人事のように見ていた。


「何と」


 自分の声が、ひどく遠い。

 副官は、ゆっくりと告げた。


「――レイア、と」


 音が、消えた。







◆◆◆◆◆








 覚悟は、とうにできていた。

 そう思っていた。


 遺体は戻らなかった。

 戻ってきたのは、折れた剣と、血の染み込んだ外套だけだった。

 あの戦場から引き上げられた者は、誰一人として、グレンの最期を確かめていない。


 だから皆、死んだのだと決めた。

 決めなければ、前に進めなかった。


 私も決めた。

 泣いた。

 泣いて、息ができなくなって、それでも立った。


 副団長の席は空けたままにした。

 いつか必要になれば、私が決める。

 だが今はまだ、王国の都合であの席を埋める気はなかった。


 そうやって、どうにか立ってきた。

 なのに。


「……容貌の特徴は、他には」

「右肩に古い刀傷。左手の甲に裂傷痕。背に矢傷と思われる古傷が二つ。詳細は、駐屯地の医師が確認中です」


 ひとつ。

 また、ひとつ。

 重なっていく。

 偶然だと言い聞かせるたびに、心臓が喉元までせり上がった。


「……南方の駐屯地に伝令を返せ。いや、違う。馬を用意しろ」

「団長」

「私が行く」

「明日は王国軍との会議が」

「副団長代理にアルドを据えろ。会議にはお前が出ろ。必要な書類は机の右の束だ。志願者の選別は一日延期。訓練は通常通り。王国軍から文句が来たら、私が戻ってから聞くと言え」


 まくし立てるように指示を出す。

 無茶なことを言っているのは分かっていた。

 団長が護衛もなく駐屯地へ走るなど、褒められた判断ではない。

 それでも、一瞬が惜しかった。


「しかし」

「……頼む」


 副官は目を見開いた。

 やがて、何も言わずに深く一礼した。


「直ちに」


 扉が閉まる。

 一人になった瞬間、手が小さく震えていることに気づいた。


 引き出しへ手を伸ばす。

 鍵を開ける。

 箱がある。

 持っていけば、期待することになる。


 あれがグレンなら、渡せばいい。

 あれが別人なら、私は何を持って帰ればいい。

 蓋に触れた指が、止まった。


「…………置いていく」


 声に出さなければ、手が勝手に掴んでしまいそうだった。


 箱は、引き出しの中に戻した。

 鍵をかける。


 期待するな。

 違った時に、耐えられなくなる。


 そう言い聞かせて、私は部屋を出た。








◆◆◆◆◆








 護衛も付けず、使い潰す勢いで馬を飛ばして二日。

 南方の駐屯地は、王都の喧騒とは別の世界だった。


 乾いた風。

 土埃の匂い。

 粗末な木柵の向こうに、兵舎が並んでいる。

 兵士たちは私を見るなり姿勢を正したが、その視線には戸惑いが混じっていた。


 当然だろう。

 王国で英雄扱いされている傭兵団の団長が、供も連れず、土まみれの格好で駆け込んできたのだから。


「レイア団長ですね。こちらです」


 駐屯地の士官が、硬い声で案内する。


「男はいつからここにいる」

「三日前です。国境の村から荷車で運ばれてきました」

「村で保護されたのは」

「正確には、もっと前です。村の薬師によれば、戦場から数日後、南へ抜ける森の外れで倒れていたと」


 足が、わずかに止まりかけた。


「倒れていた?」

「はい。帝国兵の死体の下に、半ば埋もれるように。最初は死体だと思われたそうです。ですが、わずかに息があった」


 喉が乾く。

 士官は続けた。


「胸当ては砕け、泥と血で記章も分からなかった。男は高熱が続き、身元を示す言葉もなく、村でしばらく看病されていたようです。回復の兆しが見えたため、こちらへ運ばれました。そこで装備を洗い直したところ、記章が見つかりました」

「……そうか」

「医師は、奇跡ではないと言っていました」


 思わず、士官を見る。


「死に損なっただけだ、と」


 その言い方に、胸の奥が小さく軋んだ。

 あいつなら、笑うだろうか。

 それとも、悪態をつくだろうか。


 ――死んでないだけマシだろ。

 そんな声が、耳の奥で聞こえた気がした。


「こちらです」


 案内された部屋の前で、足が止まった。

 扉一枚の向こうに、いるかもしれない。

 あるいは、全くの別人かもしれない。


 指先が冷たい。

 真夏の陽射しの中で、手だけが凍えていた。


 覚悟は、とうにできている。

 どちらであっても、受け止める。

 ここに来るまで何度も言い聞かせた言葉を、もう一度だけ胸の内で繰り返す。

 そして、扉を開けた。







◆◆◆◆◆









 薄暗い室内に、干し草と薬草の匂いが満ちていた。

 粗末な寝台に、男が横たわっている。


 痩せていた。

 頬はこけ、肌は日に灼けて荒れている。

 腕は枯れ枝のように細くなり、包帯の下から覗く左脇腹から胸にかけての傷痕は、生々しい赤を残していた。


 別人のようだった。

 けれど。

 寝癖だけは、変わっていなかった。


 愛想のないしかめっ面。

 無いはずの剣を掴むように、わずかに曲がった指。

 野営の夜、焚き火の向こうで何度も見た姿。


 膝が、笑いそうになった。

 歯を食いしばって堪える。

 一歩、近づく。

 また一歩。

 二月分の重さが、足にまとわりついた。


 笑顔を作り続けた凱旋の日。

 空の副団長席。

 誰も触れなかった名前。

 王国が作った勝利の形。

 あの部屋の、布の敷かれた箱。

 毛布に顔を埋めた夜。

 朝が来るたびに、あいつがいない世界に慣れていく自分。


 全部が、足元に積もっていく。

 寝台のそばに膝をついた。

 呼吸の音が聞こえる。

 生きている人間の、確かな呼吸が。


 震える指先が、包帯の巻かれた手の甲にそっと触れた。

 温かかった。


「…………ばか」


 声にならなかった。

 唇が動いただけだ。


 目の奥が焼けるように熱い。

 それでも、涙は落とさなかった。


 ここで泣いたら、この男が目を覚ました時に笑えない。

 泣き顔など見せたら、きっと何でもないふりをされる。

 だから、泣かなかった。


 どれくらいそうしていただろう。

 指先に、わずかな動きを感じた。


 手が、かすかに。

 本当にかすかに、握り返そうとしていた。


 顔を上げる。

 男の瞼が震えている。

 ゆっくりと、焦点の合わない目が開いた。

 天井を見て、壁を見て。


 こちらを、見た。


 数秒、何も動かなかった。

 瞳の奥で、ぼやけた光が少しずつ形を結んでいく。


 こちらの顔を認識した瞬間。

 グレンの目が、見開かれた。

 驚愕。

 困惑。

 そして、安堵とも、諦めともつかない何かが、瞳の奥を走った。


 唇が動く。

 掠れた声が、絞り出すように漏れた。


「……レイ、ア……」


 ――うわごとのように、同じ言葉だけを繰り返していた。

 伝令の一文が、頭の中で重なった。


「……なんだ、その顔は。幽霊でも見たような顔をしているぞ」

「……こういう顔だよ、ずっと」


 掠れた声。

 それでも、軽口が返ってくる。

 

 ああ。

 こいつだ。


 目頭が熱くなるのを、唇を噛んで堪えた。


「……聞こえないぞ、グレン」

「……死んでないだけ、マシだろ」

「……そうだな」


 思わず、笑みが零れた。

 繋がれた手。

 逃げていきそうになる手を、もう一度ぎゅっと握りしめる。


「帰るぞ、グレン」

「……おう」


 手を離そうとした。

 離せなかった。

 指が、言うことを聞かなかった。

 グレンは、何も言わなかった。







◆◆◆◆◆








 帰路は、ゆっくりだった。

 グレンはまだ馬に乗れる体ではなく、荷馬車の荷台に横たわったまま、ほとんどの時間を眠って過ごした。


 駐屯地の兵たちは、護衛を付けると申し出た。

 私は断らなかった。


 ここへ来る時のように、一人で走る必要はもうない。

 急ぐ必要も、もうない。


 時折、幌の隙間に目をやる。

 相も変らぬしかめっ面がそこにある。

 それだけで、胸の奥にあった何かが少しずつほどけていく。


 二日目の昼が過ぎたあたりから、グレンは目を覚ましている時間が増えた。

 荷台の縁に背を預け、流れていく景色をぼんやりと眺めている。


「起きていたのか。体は」

「まあ、なんとか。あんまり寝てると、向こうに連れてかれそうだ」

「ふん。その時は私が連れ戻すから大丈夫だ」

「そうかい。なら、お前もちゃんと寝て英気を養っておくんだな」

「なに?」

「目の下、隠しきれてねえぞ」


 軽口だ。

 いつもの調子。

 だが、その声の奥に、優しさとも呼べない、もっと静かなものが滲んでいた。


 この男はいつもこうだ。

 自分のことは何でもない顔で流して、こちらの心配だけをする。


「……余計な心配をするな。自分の体だけを心配しろ」

「お前の体の方が、大事に決まってる」


 ひとり言のような呟きだった。

 言ってから、グレンは少しだけ目を逸らした。

 胸の奥が、鈍く痛む。


「…………なら、あんなことをするな」


 弱い声だった。

 自分の口から出たとは思えないほど、頼りない声。

 思わず口元を押さえる。


 グレンの目が、わずかに揺れた。

 やがて、何とも言えない表情が返ってくる。


「……悪かった」


 その一言は、あまりに静かだった。

 軽く流されると思っていた。

 仕方なかっただろ、と笑われると思っていた。

 俺が残らなきゃ全滅だった、といつもの調子で言われると思っていた。

 だが、グレンは笑わなかった。


「謝れば済むと思っているのか」

「思ってねえよ」

「なら、なぜ謝った」

「……他に、何を言えばいいか分からねえ」


 風が幌を揺らす。

 荷車の軋む音だけが、しばらく続いた。


 視線を落とす。

 繋いでいるわけでもないのに、指先が、あの部屋で触れた手の温度を覚えていた。


「…………一つだけ、訊いていいか」


 グレンの声がした。

 いつもの軽口を叩く雰囲気ではなかった。


 顔を上げる。

 真っすぐな瞳がこちらを向いていた。


「……何だ」

「俺がいない間――泣いたか?」


 心臓が、跳ねた。

 あの夜を思い出す。


 グレンの部屋。

 箱の中の布。

 毛布に顔を埋めて、声を殺して泣いた夜。


 頬が、熱くなる。


「……泣くわけないだろう」


 言ってから、嘘だと分かった。

 グレンにも、わかってしまっただろうか。


 少しだけ間があった。

 風が幌を揺らす音だけが、二人の間を通り抜ける。


「……そうか」


 グレンは目を伏せた。

 その声は、諦め混じりで、どこか納得したようでもあった。


「そりゃ、浮かばれねぇなぁ」


 胸が、痛んだ。


 目線は合わせなかった。

 合わせたら、嘘がばれると思ったから。








◆◆◆◆◆








 王都に着いたのは、出発から六日後の夕暮れだった。


 最初に気づいたのは、門番だった。

 次に、近くにいた団員が叫んだ。

 その声が、波のように広がっていく。


「グレンだ!」

「副団長だ!」

「生きてるぞ!」


 団員たちが駆け寄ってくる。

 涙を流し、名前を呼び、荷馬車の周りに集まっていく。

 騒ぎを聞きつけた者が次々と顔を出し、やがて小さな歓声が上がった。


 凱旋の時よりもずっと小さい。

 紙吹雪もない。

 白馬もない。

 整列した兵士も、磨かれた甲冑も、王国が用意した美しい言葉もない。


 けれど、ずっと本物だった。

 囲まれたグレンは、面倒臭そうな顔をして頭を掻いている。


「おい、押すな。傷が開くだろうが」

「副団長!」

「生きてたんですね!」

「うるせえな。見りゃ分かるだろ」


 泣きつく団員の頭を乱暴に撫でる。


「男に抱きつかれても嬉しくねぇ」


 あれだけ痩せ細った体で、声だけはいつもの調子を作ってみせる。

 いつだってこうだ。

 自分がどれだけ傷ついていても、周りに心配をかけまいとする。

 優しすぎるのだ、こいつは。


 不器用で。

 度が過ぎていて。

 時に、残酷なほどに。


 私はその輪から一歩離れて、腕を組んで見ていた。


 目が合った。

 団員たちの頭越しに、まっすぐに。


 グレンが、口を開きかけた。

 何か、いつもの軽口を言おうとして。


 だが、言葉にならなかった。

 こちらの顔を見て、何かを読み取ったのだろう。


 口を閉じ、少しだけ困ったように笑った。

 私も、笑い返した。


 二月ぶりに、頬が痛まなかった。








◆◆◆◆◆






 その夜。

 執務室の引き出しを開けた。


 箱は、そこにあった。

 持っていかなかった、あの箱が。


 蓋を開ける。

 短刀は変わらず、柔らかな布の上に収まっていた。

 刃には、使われた形跡がない。

 ただ、大切にされていたことだけが、痛いほど分かった。


 あの夜、私は泣いた。

 声を殺して。

 毛布に顔を埋めて。

 何に泣いていたのか、あの時はまだ、おぼろげだった。


 グレンが死んだと思ったから。

 副団長を失ったから。

 幼馴染を失ったから。

 自分を守り続けた男を、守れなかったから。


 どれも間違っていない。

 けれど、今は分かる。

 それだけではなかった。


 蓋を閉じる。

 箱を持って、部屋を出た。


 廊下は静かだった。

 昼間の騒ぎが嘘のように、夜の団舎には穏やかな気配が戻っている。


 見覚えのある扉の前に立つ。

 グレンの部屋。

 あの日と同じ扉。

 あの日と同じ、質素な部屋。


 ただ一つ違うのは、そこにもう、主がいることだった。


 ノックはしなかった。

 扉を開ける。


 燭台の灯りに照らされた部屋で、グレンは寝台の上に身を起こしていた。

 窓の外を見ている。

 夜の王都に、まだどこかで歓声の名残が聞こえていた。


「……なんだ、夜這いか?」

「黙れ」

「病み上がりにその扱いはひでえな」

「口が動くなら問題ない」


 寝台のそばに立つ。

 箱を差し出した。

 グレンの目が、わずかに見開かれる。


「…………なんで、これを」

「お前の部屋にあった」


 声は、思ったよりも静かだった。


「お前が死んだと思っていた夜に、開けた」


 グレンの喉仏が、小さく動いた。

 視線が箱と、こちらの目の間を行き来する。

 隠してきたものを暴かれた人間の、静かな狼狽。


「……見たのか」

「見た」


 沈黙が落ちた。

 窓の外から、夜の王都の遠い喧騒が聞こえる。


「……すぐダメにするって言ったくせに、布まで敷いて。一度も使いもしないで」


 グレンは答えなかった。

 顔を背ける。

 だが、逃げ場がないことは分かっているのだろう。

 やがて、小さく息を吐いた。


「……あれは――」

「言い訳は聞かない」


 遮った。

 聞けば、この男はまた何でもないことにしてしまう。


 安い短刀だから。

 気まぐれだから。

 深い意味はない、と。


 そうやって、大切なものほど隠してきたのだろう。

 ずっと。


「返すぞ。お前のものだ」


 箱を差し出す手は、震えていなかった。

 震えさせなかった。


 グレンが、ゆっくりと箱を受け取る。

 両手で。

 壊れ物を扱うように。

 その持ち方で、もう全部分かってしまった。


「……グレン」

「……なんだ」


 名前を呼んだ。

 その先に何を言うべきか、分かっていた。

 分かっていて、言わなかった。


 今ではない。

 まだ、今ではない。

 その時まで、待つ。

 それくらいの時間は、もうある。


「帰路で聞いたこと、覚えているか」

「……どれだ」

「泣いたか、と聞いただろう」


 グレンの指が、箱の上でわずかに強張った。


「あの時言ったことは、嘘だ」


 グレンの目が、こちらを向く。

 驚きと、それから、名前のつけられない何かが瞳の奥で揺れていた。


「泣いた。思い出せないくらい、泣いた」


 言い切った声は静かだった。

 ただ、その平坦さが、今の私の精いっぱいだった。


「でも、お前のためだけじゃない」


 グレンが、息を止めたのが分かった。


「私が、泣きたかったんだ」


 胸の奥にあったものが、ゆっくりと言葉になっていく。


「お前がいない世界が、嫌だったから」


 グレンは、何も言えなかった。

 唇が開きかけて、閉じる。

 喉が動いて、けれど言葉にならない。


 この男がこんな顔をするのを、初めて見た。

 いつも軽口で全てをかわしてきた男が、言葉を失っている。


 それで、十分だった。


「それだけだ」

「あ、おい――」


 有無を言わせず、扉を閉じた。

 廊下に出る。

 追いつかれないように早足で歩いて、角を曲がったところで壁に背を預けた。


 心臓がうるさい。

 顔が熱い。

 グレンの顔を、しばらく見られる気がしない。


 それでも、言えた。

 あの箱の持ち方を見たからだ。

 壊れ物を扱うように受け取った、あの両手を見て。

 この男がどれだけのものを隠してきたのかを、全身で理解してしまったからだ。


 なら、私だけが隠し続けるのは卑怯だ。

 グレンとは、正々堂々、対等でいたい。


 息を吐く。

 窓の向こうで、夜風が旗を揺らしていた。


「…………おかえり、グレン」


 小さく呟く。


 明日もまた、朝が来る。

 あいつがいる朝が。


 今日は、よく眠れそうだった。






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