夢か、真か
「その傭兵は、哀しき剣を胸に抱く」の後日譚に続くIF?的話です。
本編:「その傭兵は、哀しき剣を胸に抱く」
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後日譚:開かれた箱
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南方の駐屯地から届いた伝令には、名前がなかった。
身元不明の重傷者。
団の記章が刻まれた胸当て。
国境付近の村で保護された男。
そして、うわごとのように繰り返された、たった一つの名。
――レイア。
それだけで、二月かけて積み上げた平静は、音もなく崩れた。
◆◆◆◆◆
凱旋から二月が経っていた。
紙吹雪はとうに掃き清められ、大通りを飾っていた旗も外され、王都は何事もなかったかのように日常を取り戻している。
朝が来るたびに、少しずつ上手くなっていった。
あいつがいない朝を、普通の顔でやり過ごすこと。
半馬身うしろを振り返らないこと。
くだらない軽口を待たないこと。
空いた席を見ても、息を止めないこと。
『暁の剣』の名は、確かに広まっていた。
帝国の英雄を討ち取った傭兵団。
王国を救った勇敢なる剣。
民はそう呼び、若者たちは次々と門を叩いた。
志願者は日ごとに増えている。
「……二本持つ意味がない。それなら盾を持ったほうがいい」
訓練場で、私は淡々と告げる。
目の前の若い志願者は、左右の手に剣を握っていた。握り方も、立ち方も、重心も、すべてが甘い。だが、その目だけは真剣だった。
最近、明らかに増えた。
双剣を選ぶ者。
粗野な口調を真似る者。
傷だらけの英雄に憧れる者。
歪な幻影だった。
誰も、あいつの真似などできない。
誰も、あいつの代わりにはなれない。
そう言いそうになるたび、奥歯を噛んだ。
「次」
短く告げると、志願者は肩を落としながら下がっていく。
強く握った手に、誰も気づかない。
気づく必要もない。
飲み込んで、次の者に目を移した。
◆◆◆◆◆
夜更けの執務室には、紙をめくる音だけが残っていた。
机の上には書類の山。
補給の申請。新規志願者の名簿。訓練計画。王国軍からの要請。
そして、新たな副団長候補の名が並んだ羊皮紙。
私は、そこに視線を落としたまま動けずにいた。
誰もが優秀だった。
誰もが、団のために命を張れる者たちだった。
古くからの仲間もいる。冷静に考えれば、早く決めるべきだということも分かっている。
団は大きくなった。
副団長の空席を、いつまでも感傷で残しておくわけにはいかない。
「………そろそろ、決めないといけないのにな」
声は、誰にも届かなかった。
引き出しの鍵を開ける。
中には、小さな箱があった。
グレンの部屋から持ち出した、安い短刀の入った箱。
かつて私が、気まぐれで渡したもの。
あいつは「こんな安もん、すぐにダメにしちまうぞ」と笑って、それでも受け取った。
そして結局、一度も使わなかった。
箱の底には、柔らかな布が敷かれていた。
短刀の形に合わせて、丁寧に折り込まれていた。
壊れ物を扱うように。
あいつが何を思っていたのかなんて、今さら確かめようがない。
確かめなくていい。
そう決めたはずだった。
それなのに、私は毎晩のように箱を開けている。
「…………我ながら、女々しいことだ」
蓋を閉じる。
書類を再び山へ戻そうとした、その時だった。
扉が乱暴に叩かれた。
「団長、失礼します!」
「入れ」
副官が駆け込んでくる。
息が乱れていた。普段なら、どれほど急いでいても姿勢を崩さない男だ。
「南方の駐屯地から、至急の伝令です」
「読め」
副官は手にした紙へ視線を落とした。
「国境付近の村で保護された重傷の男が一名。身元不明。年齢は二十代後半から三十代前半。黒髪。体格は痩せているものの、元は相応に鍛えられていたと思われる。左脇腹から胸部にかけて深い傷痕。複数の裂傷、骨折痕あり」
淡々と読み上げられる言葉を、私は無言で聞いていた。
ありふれた特徴だ。
黒髪の男など珍しくない。
傷だらけの傭兵も、戦場帰りならいくらでもいる。
そう、思おうとした。
「所持品は、破損した胸当て一つ。泥と血で判別困難だったものの、洗浄の結果、内側に『暁の剣』の記章を確認」
呼吸が、止まった。
副官が、一瞬だけ言葉を切る。
その間が、妙に長く感じた。
「……続けろ」
「はい。男はいまだ意識が混濁しており、氏名の確認は取れておりません。ただ……」
副官の目が、わずかにこちらを見た。
それから、伝令の紙に視線を戻す。
「高熱の中、うわごとのように、同じ言葉だけを繰り返していたと」
手元の筆が、書類の上で止まっていた。
黒いインクが一点に溜まり、小さな染みを作っていく。
それを、どこか他人事のように見ていた。
「何と」
自分の声が、ひどく遠い。
副官は、ゆっくりと告げた。
「――レイア、と」
音が、消えた。
◆◆◆◆◆
覚悟は、とうにできていた。
そう思っていた。
遺体は戻らなかった。
戻ってきたのは、折れた剣と、血の染み込んだ外套だけだった。
あの戦場から引き上げられた者は、誰一人として、グレンの最期を確かめていない。
だから皆、死んだのだと決めた。
決めなければ、前に進めなかった。
私も決めた。
泣いた。
泣いて、息ができなくなって、それでも立った。
副団長の席は空けたままにした。
いつか必要になれば、私が決める。
だが今はまだ、王国の都合であの席を埋める気はなかった。
そうやって、どうにか立ってきた。
なのに。
「……容貌の特徴は、他には」
「右肩に古い刀傷。左手の甲に裂傷痕。背に矢傷と思われる古傷が二つ。詳細は、駐屯地の医師が確認中です」
ひとつ。
また、ひとつ。
重なっていく。
偶然だと言い聞かせるたびに、心臓が喉元までせり上がった。
「……南方の駐屯地に伝令を返せ。いや、違う。馬を用意しろ」
「団長」
「私が行く」
「明日は王国軍との会議が」
「副団長代理にアルドを据えろ。会議にはお前が出ろ。必要な書類は机の右の束だ。志願者の選別は一日延期。訓練は通常通り。王国軍から文句が来たら、私が戻ってから聞くと言え」
まくし立てるように指示を出す。
無茶なことを言っているのは分かっていた。
団長が護衛もなく駐屯地へ走るなど、褒められた判断ではない。
それでも、一瞬が惜しかった。
「しかし」
「……頼む」
副官は目を見開いた。
やがて、何も言わずに深く一礼した。
「直ちに」
扉が閉まる。
一人になった瞬間、手が小さく震えていることに気づいた。
引き出しへ手を伸ばす。
鍵を開ける。
箱がある。
持っていけば、期待することになる。
あれがグレンなら、渡せばいい。
あれが別人なら、私は何を持って帰ればいい。
蓋に触れた指が、止まった。
「…………置いていく」
声に出さなければ、手が勝手に掴んでしまいそうだった。
箱は、引き出しの中に戻した。
鍵をかける。
期待するな。
違った時に、耐えられなくなる。
そう言い聞かせて、私は部屋を出た。
◆◆◆◆◆
護衛も付けず、使い潰す勢いで馬を飛ばして二日。
南方の駐屯地は、王都の喧騒とは別の世界だった。
乾いた風。
土埃の匂い。
粗末な木柵の向こうに、兵舎が並んでいる。
兵士たちは私を見るなり姿勢を正したが、その視線には戸惑いが混じっていた。
当然だろう。
王国で英雄扱いされている傭兵団の団長が、供も連れず、土まみれの格好で駆け込んできたのだから。
「レイア団長ですね。こちらです」
駐屯地の士官が、硬い声で案内する。
「男はいつからここにいる」
「三日前です。国境の村から荷車で運ばれてきました」
「村で保護されたのは」
「正確には、もっと前です。村の薬師によれば、戦場から数日後、南へ抜ける森の外れで倒れていたと」
足が、わずかに止まりかけた。
「倒れていた?」
「はい。帝国兵の死体の下に、半ば埋もれるように。最初は死体だと思われたそうです。ですが、わずかに息があった」
喉が乾く。
士官は続けた。
「胸当ては砕け、泥と血で記章も分からなかった。男は高熱が続き、身元を示す言葉もなく、村でしばらく看病されていたようです。回復の兆しが見えたため、こちらへ運ばれました。そこで装備を洗い直したところ、記章が見つかりました」
「……そうか」
「医師は、奇跡ではないと言っていました」
思わず、士官を見る。
「死に損なっただけだ、と」
その言い方に、胸の奥が小さく軋んだ。
あいつなら、笑うだろうか。
それとも、悪態をつくだろうか。
――死んでないだけマシだろ。
そんな声が、耳の奥で聞こえた気がした。
「こちらです」
案内された部屋の前で、足が止まった。
扉一枚の向こうに、いるかもしれない。
あるいは、全くの別人かもしれない。
指先が冷たい。
真夏の陽射しの中で、手だけが凍えていた。
覚悟は、とうにできている。
どちらであっても、受け止める。
ここに来るまで何度も言い聞かせた言葉を、もう一度だけ胸の内で繰り返す。
そして、扉を開けた。
◆◆◆◆◆
薄暗い室内に、干し草と薬草の匂いが満ちていた。
粗末な寝台に、男が横たわっている。
痩せていた。
頬はこけ、肌は日に灼けて荒れている。
腕は枯れ枝のように細くなり、包帯の下から覗く左脇腹から胸にかけての傷痕は、生々しい赤を残していた。
別人のようだった。
けれど。
寝癖だけは、変わっていなかった。
愛想のないしかめっ面。
無いはずの剣を掴むように、わずかに曲がった指。
野営の夜、焚き火の向こうで何度も見た姿。
膝が、笑いそうになった。
歯を食いしばって堪える。
一歩、近づく。
また一歩。
二月分の重さが、足にまとわりついた。
笑顔を作り続けた凱旋の日。
空の副団長席。
誰も触れなかった名前。
王国が作った勝利の形。
あの部屋の、布の敷かれた箱。
毛布に顔を埋めた夜。
朝が来るたびに、あいつがいない世界に慣れていく自分。
全部が、足元に積もっていく。
寝台のそばに膝をついた。
呼吸の音が聞こえる。
生きている人間の、確かな呼吸が。
震える指先が、包帯の巻かれた手の甲にそっと触れた。
温かかった。
「…………ばか」
声にならなかった。
唇が動いただけだ。
目の奥が焼けるように熱い。
それでも、涙は落とさなかった。
ここで泣いたら、この男が目を覚ました時に笑えない。
泣き顔など見せたら、きっと何でもないふりをされる。
だから、泣かなかった。
どれくらいそうしていただろう。
指先に、わずかな動きを感じた。
手が、かすかに。
本当にかすかに、握り返そうとしていた。
顔を上げる。
男の瞼が震えている。
ゆっくりと、焦点の合わない目が開いた。
天井を見て、壁を見て。
こちらを、見た。
数秒、何も動かなかった。
瞳の奥で、ぼやけた光が少しずつ形を結んでいく。
こちらの顔を認識した瞬間。
グレンの目が、見開かれた。
驚愕。
困惑。
そして、安堵とも、諦めともつかない何かが、瞳の奥を走った。
唇が動く。
掠れた声が、絞り出すように漏れた。
「……レイ、ア……」
――うわごとのように、同じ言葉だけを繰り返していた。
伝令の一文が、頭の中で重なった。
「……なんだ、その顔は。幽霊でも見たような顔をしているぞ」
「……こういう顔だよ、ずっと」
掠れた声。
それでも、軽口が返ってくる。
ああ。
こいつだ。
目頭が熱くなるのを、唇を噛んで堪えた。
「……聞こえないぞ、グレン」
「……死んでないだけ、マシだろ」
「……そうだな」
思わず、笑みが零れた。
繋がれた手。
逃げていきそうになる手を、もう一度ぎゅっと握りしめる。
「帰るぞ、グレン」
「……おう」
手を離そうとした。
離せなかった。
指が、言うことを聞かなかった。
グレンは、何も言わなかった。
◆◆◆◆◆
帰路は、ゆっくりだった。
グレンはまだ馬に乗れる体ではなく、荷馬車の荷台に横たわったまま、ほとんどの時間を眠って過ごした。
駐屯地の兵たちは、護衛を付けると申し出た。
私は断らなかった。
ここへ来る時のように、一人で走る必要はもうない。
急ぐ必要も、もうない。
時折、幌の隙間に目をやる。
相も変らぬしかめっ面がそこにある。
それだけで、胸の奥にあった何かが少しずつほどけていく。
二日目の昼が過ぎたあたりから、グレンは目を覚ましている時間が増えた。
荷台の縁に背を預け、流れていく景色をぼんやりと眺めている。
「起きていたのか。体は」
「まあ、なんとか。あんまり寝てると、向こうに連れてかれそうだ」
「ふん。その時は私が連れ戻すから大丈夫だ」
「そうかい。なら、お前もちゃんと寝て英気を養っておくんだな」
「なに?」
「目の下、隠しきれてねえぞ」
軽口だ。
いつもの調子。
だが、その声の奥に、優しさとも呼べない、もっと静かなものが滲んでいた。
この男はいつもこうだ。
自分のことは何でもない顔で流して、こちらの心配だけをする。
「……余計な心配をするな。自分の体だけを心配しろ」
「お前の体の方が、大事に決まってる」
ひとり言のような呟きだった。
言ってから、グレンは少しだけ目を逸らした。
胸の奥が、鈍く痛む。
「…………なら、あんなことをするな」
弱い声だった。
自分の口から出たとは思えないほど、頼りない声。
思わず口元を押さえる。
グレンの目が、わずかに揺れた。
やがて、何とも言えない表情が返ってくる。
「……悪かった」
その一言は、あまりに静かだった。
軽く流されると思っていた。
仕方なかっただろ、と笑われると思っていた。
俺が残らなきゃ全滅だった、といつもの調子で言われると思っていた。
だが、グレンは笑わなかった。
「謝れば済むと思っているのか」
「思ってねえよ」
「なら、なぜ謝った」
「……他に、何を言えばいいか分からねえ」
風が幌を揺らす。
荷車の軋む音だけが、しばらく続いた。
視線を落とす。
繋いでいるわけでもないのに、指先が、あの部屋で触れた手の温度を覚えていた。
「…………一つだけ、訊いていいか」
グレンの声がした。
いつもの軽口を叩く雰囲気ではなかった。
顔を上げる。
真っすぐな瞳がこちらを向いていた。
「……何だ」
「俺がいない間――泣いたか?」
心臓が、跳ねた。
あの夜を思い出す。
グレンの部屋。
箱の中の布。
毛布に顔を埋めて、声を殺して泣いた夜。
頬が、熱くなる。
「……泣くわけないだろう」
言ってから、嘘だと分かった。
グレンにも、わかってしまっただろうか。
少しだけ間があった。
風が幌を揺らす音だけが、二人の間を通り抜ける。
「……そうか」
グレンは目を伏せた。
その声は、諦め混じりで、どこか納得したようでもあった。
「そりゃ、浮かばれねぇなぁ」
胸が、痛んだ。
目線は合わせなかった。
合わせたら、嘘がばれると思ったから。
◆◆◆◆◆
王都に着いたのは、出発から六日後の夕暮れだった。
最初に気づいたのは、門番だった。
次に、近くにいた団員が叫んだ。
その声が、波のように広がっていく。
「グレンだ!」
「副団長だ!」
「生きてるぞ!」
団員たちが駆け寄ってくる。
涙を流し、名前を呼び、荷馬車の周りに集まっていく。
騒ぎを聞きつけた者が次々と顔を出し、やがて小さな歓声が上がった。
凱旋の時よりもずっと小さい。
紙吹雪もない。
白馬もない。
整列した兵士も、磨かれた甲冑も、王国が用意した美しい言葉もない。
けれど、ずっと本物だった。
囲まれたグレンは、面倒臭そうな顔をして頭を掻いている。
「おい、押すな。傷が開くだろうが」
「副団長!」
「生きてたんですね!」
「うるせえな。見りゃ分かるだろ」
泣きつく団員の頭を乱暴に撫でる。
「男に抱きつかれても嬉しくねぇ」
あれだけ痩せ細った体で、声だけはいつもの調子を作ってみせる。
いつだってこうだ。
自分がどれだけ傷ついていても、周りに心配をかけまいとする。
優しすぎるのだ、こいつは。
不器用で。
度が過ぎていて。
時に、残酷なほどに。
私はその輪から一歩離れて、腕を組んで見ていた。
目が合った。
団員たちの頭越しに、まっすぐに。
グレンが、口を開きかけた。
何か、いつもの軽口を言おうとして。
だが、言葉にならなかった。
こちらの顔を見て、何かを読み取ったのだろう。
口を閉じ、少しだけ困ったように笑った。
私も、笑い返した。
二月ぶりに、頬が痛まなかった。
◆◆◆◆◆
その夜。
執務室の引き出しを開けた。
箱は、そこにあった。
持っていかなかった、あの箱が。
蓋を開ける。
短刀は変わらず、柔らかな布の上に収まっていた。
刃には、使われた形跡がない。
ただ、大切にされていたことだけが、痛いほど分かった。
あの夜、私は泣いた。
声を殺して。
毛布に顔を埋めて。
何に泣いていたのか、あの時はまだ、おぼろげだった。
グレンが死んだと思ったから。
副団長を失ったから。
幼馴染を失ったから。
自分を守り続けた男を、守れなかったから。
どれも間違っていない。
けれど、今は分かる。
それだけではなかった。
蓋を閉じる。
箱を持って、部屋を出た。
廊下は静かだった。
昼間の騒ぎが嘘のように、夜の団舎には穏やかな気配が戻っている。
見覚えのある扉の前に立つ。
グレンの部屋。
あの日と同じ扉。
あの日と同じ、質素な部屋。
ただ一つ違うのは、そこにもう、主がいることだった。
ノックはしなかった。
扉を開ける。
燭台の灯りに照らされた部屋で、グレンは寝台の上に身を起こしていた。
窓の外を見ている。
夜の王都に、まだどこかで歓声の名残が聞こえていた。
「……なんだ、夜這いか?」
「黙れ」
「病み上がりにその扱いはひでえな」
「口が動くなら問題ない」
寝台のそばに立つ。
箱を差し出した。
グレンの目が、わずかに見開かれる。
「…………なんで、これを」
「お前の部屋にあった」
声は、思ったよりも静かだった。
「お前が死んだと思っていた夜に、開けた」
グレンの喉仏が、小さく動いた。
視線が箱と、こちらの目の間を行き来する。
隠してきたものを暴かれた人間の、静かな狼狽。
「……見たのか」
「見た」
沈黙が落ちた。
窓の外から、夜の王都の遠い喧騒が聞こえる。
「……すぐダメにするって言ったくせに、布まで敷いて。一度も使いもしないで」
グレンは答えなかった。
顔を背ける。
だが、逃げ場がないことは分かっているのだろう。
やがて、小さく息を吐いた。
「……あれは――」
「言い訳は聞かない」
遮った。
聞けば、この男はまた何でもないことにしてしまう。
安い短刀だから。
気まぐれだから。
深い意味はない、と。
そうやって、大切なものほど隠してきたのだろう。
ずっと。
「返すぞ。お前のものだ」
箱を差し出す手は、震えていなかった。
震えさせなかった。
グレンが、ゆっくりと箱を受け取る。
両手で。
壊れ物を扱うように。
その持ち方で、もう全部分かってしまった。
「……グレン」
「……なんだ」
名前を呼んだ。
その先に何を言うべきか、分かっていた。
分かっていて、言わなかった。
今ではない。
まだ、今ではない。
その時まで、待つ。
それくらいの時間は、もうある。
「帰路で聞いたこと、覚えているか」
「……どれだ」
「泣いたか、と聞いただろう」
グレンの指が、箱の上でわずかに強張った。
「あの時言ったことは、嘘だ」
グレンの目が、こちらを向く。
驚きと、それから、名前のつけられない何かが瞳の奥で揺れていた。
「泣いた。思い出せないくらい、泣いた」
言い切った声は静かだった。
ただ、その平坦さが、今の私の精いっぱいだった。
「でも、お前のためだけじゃない」
グレンが、息を止めたのが分かった。
「私が、泣きたかったんだ」
胸の奥にあったものが、ゆっくりと言葉になっていく。
「お前がいない世界が、嫌だったから」
グレンは、何も言えなかった。
唇が開きかけて、閉じる。
喉が動いて、けれど言葉にならない。
この男がこんな顔をするのを、初めて見た。
いつも軽口で全てをかわしてきた男が、言葉を失っている。
それで、十分だった。
「それだけだ」
「あ、おい――」
有無を言わせず、扉を閉じた。
廊下に出る。
追いつかれないように早足で歩いて、角を曲がったところで壁に背を預けた。
心臓がうるさい。
顔が熱い。
グレンの顔を、しばらく見られる気がしない。
それでも、言えた。
あの箱の持ち方を見たからだ。
壊れ物を扱うように受け取った、あの両手を見て。
この男がどれだけのものを隠してきたのかを、全身で理解してしまったからだ。
なら、私だけが隠し続けるのは卑怯だ。
グレンとは、正々堂々、対等でいたい。
息を吐く。
窓の向こうで、夜風が旗を揺らしていた。
「…………おかえり、グレン」
小さく呟く。
明日もまた、朝が来る。
あいつがいる朝が。
今日は、よく眠れそうだった。




