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六十センチの距離

作者: 山太郎
掲載日:2025/12/14

【第1話 雨、六十センチの距離】


雨、六十センチの距離


月曜の朝。

バス停の屋根を抜けた雨が、スニーカーの先を冷やした。


折り畳み傘を開きながら時刻表をにらんでいると、

「忘れちゃって」

栗色の髪の子が、ずぶ濡れで滑り込んでくる。


傘を傾けた。

狭い透明の屋根の下、距離は六十センチ。


「助かりました」

シャンプーの匂いに軽くむせる。

名前を聞くタイミングを逃し、会話は天気だけ。


駅に着く。

傘を返そうと差し出すと、彼女は僕の手を押し返した。


「お礼は今度。預かってて」


そう言って改札へ走る。

水たまりが跳ね、イヤフォンのコードが揺れた。


名前も知らないのに、月曜日が急に色づく。


電車の窓に映る僕の頬は熱かった。

カメラを一度も構えていないのに、

胸のシャッターだけが切られたまま。


――次に会えたら、今日の雨粒を全部写してやる。


バス停に戻った視界の端、

置き傘ポケットに彼女の雫がまだ光っていた。


【第2話 再会はフィルムの中で】


日曜の浅草。

酒蔵を改装したギャラリーで卒業制作を展示中。


来場者の表情を盗み見るのが密かな楽しみなのに、

スタッフ用エプロンの彼女を見つけて心臓が暴走した。


「傘の人!」

「えっと、その……」


やっと交換した名前。蒼井美咲、同い年。


彼女は僕のモノクロ写真を見つめ、

「こんな瞬間、どうやって探すの?」ときらきら聞く。


照れ隠しにカメラを撫で、

「探すんじゃなく、待ち伏せするだけ」などと格好をつけた。


「じゃあ私も待ち伏せされてみたい」


言葉に背中を押され、

「次の休み、一緒に撮り歩かない?」と口が滑る。


浅草スナップデート成立。


帰りぎわ、彼女はラムネ味キャンディをくれた。

「溶けちゃう前に食べてね」


傘とキャンディ。

湿った再会の証拠がポケットで転がる。


【第3話 ピントの合わない想い】


土曜。浅草寺の大提灯。


生成りワンピースの蒼井をファインダー越しに追った。

逆光が髪を縁取り、

絞りを開いても心臓の震えはボケてくれない。


「そんなに撮ったらフィルム足りないよ」

笑う彼女の頬に、僕の鼓動が写り込みそうだ。


甘味処で黒蜜白玉を半分こ。

そのときスマホが震え、“拓真”の文字。


「ごめん、少し出るね」


店の外へ消える背中。

ガラス越しに見える微笑み。


彼氏、なのか?

聞けないまま夕暮れの隅田川。


「今日は楽しかったね」

「次は夜の街で撮られたいな」


ピントリングが空回りしたまま、

モノクロの雲だけがやけにくっきり浮かんでいた。



【第4話 現像液と本当の関係】


暗室。赤いセーフライト。

フィルムを現像液に沈めるたび、蒼井の笑顔が浮かぶ。


そこへLINE。

〈話せる?〉


荒川の河川敷。

工場灯が水面に揺れるベンチで、彼女は袖を握った。


「京都の会社に内定が出たの。行くか迷ってる」


胸がにわかに沈む。


続けて彼女は言う。

「拓真は従兄だよ。誤解させたよね」


頬が熱い。


「春くんの写真を見ると、遠くにも行けそうで怖い」

「でも離れたら、傘みたいに置き去りかなって」


僕はカメラを構えた。


「距離も時間も、焦点を合わせ直せば写る。

京都に行くなら、僕が京都までピントを合わせに行く」


シャッター。無音のフラッシュ。


彼女は泣き笑いでこう返した。

「じゃあ、手振れ補正つけて待ってる」


夜風が現像液の匂いをさらい、

二人の声だけがネガに焼きついた。



【第5話 傘の下、もう雨は気にならない】


四月一日、桜と雨。

蒼井の引っ越し前日。


出会ったバス停で再集合すると、

空はあの日と同じく灰色だった。


今日は大きな透明傘を持ってきた。


「返却じゃなくて共有ね」

彼女の指が柄を握る。


バスが来るまでの十分、

トランクの中身から京都の喫茶店まで、

話題はフィルムを巻く速さで流れた。


「向こうで寂しくなったら?」


新品ポジフィルムを見せる。

「毎月一本送る。

君の日常を撮って、僕の空白を埋めるから」


「私は感想を手紙にする。文字と写真の往復書簡だね」


信号が青。

横断歩道の真ん中で彼女がつま先立ち。


短いキス。

クラクションも人影も滲み、

透明傘が巨大なレンズみたいに世界をぼかした。


「行ってきます」

「いってらっしゃい」


傘の骨に溜まる雫を最後に一枚。


未来の光が屈折して、

僕らの物語はネガでもポジでもなく、

ただ静かに、現像を続けている。

ここまで読んでいただきありがとうございます!

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