三十一本目
学校にも居場所はなかった。他人の笑い声が、すべて自分を嘲笑っているように聞こえた。
だからこそ、そろばん塾だけが彼女の聖域だった。事件の記憶を失い、何も知らないまま微笑みかけてくれる薫。その無邪気な笑顔を見るたびに、雫の胸は締め付けられた。
現実は何一つ良くならなかったけれど、あの日、自分のために動いてくれた薫の行動だけが、彼女を支える唯一の光だった。
(本当は、薫くんが助けてくれたんだよ……)
喉元まで出かかったその言葉を、雫は何度も飲み込んだ。周囲は「真実を話せば薫が壊れてしまう」と危惧していたが、雫だけは確信していた。あの日、割れた瓶を掴んで立ち上がった薫が、それしきのことでパニックになるほど弱いはずがない。
それでも、雫は真実を話せなかった。
「彼に嫌われるのが怖い」「今の関係が変わってしまうのが怖い」。そんな自身の臆病さを、医者の診断というもっともらしい口実で覆い隠しているだけなのだと、雫は痛いほど自覚していた。真実を伝える勇気がない自分に、都合のいい言い訳を与え続けている。そんな自分の狡さが、雫は嫌でたまらなかった。
だが、薫が中学に上がるタイミングで塾を辞め、学校も離ればなれになると、雫を繋ぎ止めていた細い糸はぷつりと切れた。
中学卒業後、雫は高校へは行かず、フリーターとして社会の片隅に放り出された。
整ったルックスを持つ雫には、放っておいても男たちが群がった。雫は彼らの卑屈な欲望を冷めた目で見つめながら、あえてその波に乗った。食事を奢らせ、孤独を埋めるために便宜的に付き合う。やさぐれた毎日の中で、雫の心は摩耗し、透明になっていった。
たまに、中学時代の知人から誘われて食事に行くこともあった。
だが、そこで交わされる「普通」の話――進学のこと、サークルのこと、バイトの愚痴。そのすべてが、雫には未知の世界の言語に聞こえた。
「最近、いいことなくてさ」
笑って話すそんな些細な悩みさえ、雫には耐え難いマウントのように感じられた。
真っ当に生き、真っ当に悩み、真っ当に愛される。そんな「当たり前の世界」から自分だけが永久に追放されているような、ひどい疎外感。
そんな空白だらけの毎日を過ごしていた、ある日。
駅へ向かう人混みの向こう側に、見覚えのある背中を見つけた。
あの頃よりもずっと大人びて、けれどどこか自分と同じように「ここではないどこか」を見つめているような、寂しげな横顔。
(薫くんだ……)
鼓動が、あの日の夕暮れの公園と同じ速さで打ち鳴らされた。
叫び出したいような、泣きつきたいような衝動が雫を襲う。
けれど、雫はその日、声をかけることができなかった。
(今の私を見て、彼は何を思うだろう)
あの日、彼が命懸けで守ろうとした「雫」は、もうこんなに汚れてしまった。
雫は立ち尽くしたまま、人混みに消えていく薫の背中をただ見送った。込み上げる涙を、吸い慣れないタバコの煙と一緒に飲み込んで。
彼が何も覚えていなくてもいい。あの日の真実が永遠に闇の中に消えたままでもいい。
ただ、いつかもう一度、今度こそは「嘘」のない場所で会いたい。
また彼の隣にいられるのなら...........




