三十本目
薫は病院へ運ばれたが、幸い命に別状はなかった。雫は一人、崩れ落ちた世界に取り残されていた。病院に運び込まれた薫は、幸い命に別状はなかった。けれど、目を覚ました彼の瞳には、あの日路地裏で起きた凄惨な光景も、自分が命を懸けて雫を守ろうとした記憶も、一切残っていなかった。
「……無理に思い出させようとしてはいけません」
白衣を着た医者は、深刻な面持ちで大人たちと雫に告げた。
強烈なショックと物理的なダメージが重なったことによる、脳の防御反応。もし無理に記憶を呼び起こせば、激しいパニック状態に陥り、精神が壊れてしまう危険があるという。
「薫くんが自然に思い出すのを待つしかないです。それまでは、あの日何があったのか、誰も彼に話してはなりません」
その宣告は、雫にとって、残酷な沈黙の義務を意味していた。薫の両親も、雫の母親も薫を壊さないためにその「嘘」を共有した。首に残った生々しいあざについて、薫が不思議そうに尋ねても、周囲は「不運な事故だった」とはぐらかし続けた。あの日、薫がどれほど勇敢だったか。自分のために命を懸けて戦ってくれたこと、そのすべてを封印して覚えているのは、世界でただ一人、雫だけになった。
その後、雫の家庭は音を立てて崩壊した。
母親は結局、例の男と縁を切るどころか、新たな男を見つけてそのまま家を出ていった。離婚。雫は父親に引き取られたが、そこにあるのは「家庭」ではなく、ただの冷たい「箱」だった。出張を繰り返す父はほとんど家に帰らず、雫は暗いリビングで、コンビニ弁当を一人で啜る夜を重ねた。




