二十九本目
15時。公園で合流した二人は、雫が以前「現場」を目撃したという場所へ向かった。冬の低い日差しが、二人のランドセルを長く、不格好に伸ばしている。
一向に姿を見せない対象に焦れ始めた頃、それは唐突に現れた。
雫の母親と、派手な身なりの男。30代半ば。長めの髪に、どこか浮世離れしたミュージシャンのような風貌。二人は親密そうに肩を寄せ合い、楽しげに笑いながら歩いてくる。
「あ……」
雫はその場に縫い付けられた。自分に向けるものとは違う、一人の「女」としての母親の笑顔。それが雫の心を、音を立てて砕いた。
だが、薫は違った。震える雫の腕を感じた瞬間、怒りが恐怖を上回った。九歳の正義感は、時に残酷なまでに真っ直ぐだ。
「待てよ!」
薫は路地裏から飛び出した。鋭い声が街角に響き、母親は真っ青になり、男は不快そうに顔を歪める。
「おばさん! なんでその男の人と一緒にいるんだよ! 不倫だろ! 娘が泣いてるんだぞ! おじさんも、人の親に何してるんだ!」
探偵の本で読んだような「正論」をぶつける薫。だが、大人の世界は、子供が思うほど理性的でも、道徳的でもなかった。
「なんだ、このガキ……」
男の瞳に、薄暗い苛立ちが宿る。自分の遊び場を邪魔された怒り。隠しておきたい自分勝手な快楽を暴かれた屈辱。
男は一歩踏み出すと、薫の細い喉を、その大きな手で力任せに締め上げた。
「カハッ……!」
地面から足が浮く。視界が真っ赤に染まり、喉の奥に熱い鉄を流し込まれたような痛みが走る。探偵ごっこで生まれる正義感なんて、大人が本気で振るう暴力の前では無力であった。
「生意気なんだよ、ガキのくせに」
男の冷たい声が、遠のいていく意識の中で響く。
雫の悲鳴と、母親の取り乱した声が空虚に響く中、薫の体はただの物のように宙に浮いていた。
一度は意識が遠のきかけた薫だったが、地面に叩きつけられた衝撃で、本能的な何かが弾けた。必死に息を吸い込み、視界の端に映った「割れた瓶」を掴む。
手が切れて血が滲むのも構わず、薫はそれを男に投げつけようと振り上げた。九歳の少年の、精一杯の、そしてあまりにも危うい反撃。
「もうやめて!」
静寂を切り裂いたのは、雫の絶叫だった。
彼女は涙を流しながら、薫の前に立ち塞がった。
「私は大丈夫だから。もう……やめて。お願い……!」
雫はそう言いながら、小刻みに、ガタガタと震えていた。その震えは、母親への怒りよりも、目の前で自分のために傷ついていく薫を失うことへの、根源的な恐怖から来るものだった。
男は何の罪悪感も見せず、服の埃を払うと、足早にその場を去っていった。残されたのは、震える子供たちと、崩れ落ちる母親だけだった。
そこで初めて、母親は自分が見ていたものが何だったのかを理解した。
「ごめんね……雫。ごめんね……。この人とは、もう縁を切るから」
泣き崩れながら、母親はそんな言葉を口にした。その身勝手な謝罪が、薫の神経を逆撫でする。
「おばさん……ふざけんなよ……!」
それが、薫が最後に放った言葉だった。
隠してはいたが、極限の緊張と首を絞められたダメージが限界を超えた。薫の意識はそこでぷつりと途切れ、次に目を覚ましたときには、夕闇を切り裂く青白い光と、救急車のサイレンの音が響いていた。雫の母親が、パニックになりながら呼んだのだ。




