二十八本目
九歳の薫にとって、「不倫」や「浮気」といった言葉の正確な意味はまだわからなかった。けれど、雫が流している涙の理由は理解できた。その「知らない男」は、彼女の温かな家庭を壊そうとしている「敵」なのだ。
「……明日、お母さんが『買い物に行くから遅くなる』って言ってたの……」
雫はマフラーに顔を埋め、震える声でこぼした。
薫は、じっと自分の手のひらを見つめた。そろばんの練習で、指先は少しだけ硬くなっている。
「わかった。俺も行く」
「えっ……?」
「一人じゃ怖いだろ。証拠を見つけて、その男を追い払うんだ。そうすれば、お母さんも元に戻るかもしれない。……それに、全部ただの誤解かもしれないだろ」
それは、あまりにも幼く、無垢な解決策だった。現実という巨大な壁を前に、子供たちが持てる武器は、勇気という名の「無謀」だけだ。
「でも、どうやって……?」
「尾行だよ。探偵の本で読んだことがある。見つからないように後をつけて、カメラ……は持ってないけど、俺たちがこの目でしっかり見れば、それが証拠になる」
薫の瞳には、強い光が宿っていた。
自分がイライラしていた原因である「雫の涙」を止めるには、その源を断つしかない。それが、九歳の薫なりの、精一杯の「一貫性」だった。
「……うん。わかった」
雫は、ようやく涙を拭った。
街灯のオレンジ色の光が、二人の小さな影を地面に長く伸ばす。そのシルエットは、まるで大人たちの汚い世界に立ち向かう小さな戦士のようだった。
「作戦決行は明日。学校が終わったら、すぐにこの公園に集合だ」
「……薫くん、ありがとう」
雫が初めて名前を呼んだ。その響きは、冷たい夜の空気の中に、静かに、けれど確かに溶けていった。
翌日。
放課後のチャイムが鳴ると同時に、二人はランドセルを背負い直して駆け出した。
別々の学校から、磁石に引き寄せられるようにしてあの公園へと急ぐ。
自分たちがこれから直面する真実が、どれほど二人の心に深い傷を残すことになるのか。その時の二人は、まだ知る由もなかった。




