二十七本目
パチ、パチ、パチ、と無機質な音が教室に響く。
小学三年生の薫は、そろばん塾の隅でパソコンに向かっていた。画面から流れる「読み上げ算」の音声に合わせて、指先を弾く。試験を控えた練習は、彼にとって自分を試す神聖な儀式のようなものだった。
だが、隣から漏れ聞こえる「ヒキッ……」という震える声が、彼の集中力を無惨に切り裂いた。
隣の席の女の子が、泣いていた。
最初は無視しようとしたが、一度気になると、パソコンから流れる数字の声が遠のいていく。薫の心に、子供特有の真っ直ぐで鋭利なイライラが込み上げた。
「……さっきからうるさいんだよ。音出すなら隣でやらないでくれよ」
終わった瞬間、薫は声を荒らげた。
九歳の薫にとって、泣いている女の子の事情を察するよりも、自分の完璧な練習を邪魔されたことへの憤りの方が勝っていた。
だが、女の子は泣き止まない。一向に収まらない嗚咽に、周りの生徒もちらちらとこちらを見始めた。
(先生に言いつけるのも、なんか違う)
そう思った薫は、衝動的に彼女の細い腕を掴み、そのまま教室の外へと引っ張り出した。
夕暮れ時の冷たい空気が、二人の頬を撫でる。
「……名前、なんていうんだ?」
薫がぶっきらぼうに尋ねると、女の子は顔を上げず、消え入りそうな声で答えた。
「……しずく」
その名前に、薫の脳内で何かが繋がった。
週に一度の競技会。掲示板の上位にいつも名前が載っている、あの「雫」か。
自分よりもずっと高い点数を叩き出す、どこか遠い存在。
「いつからそろばんやってるの?」
「……一年生から」
薫の心に、対抗心とは少し違う、奇妙な仲間意識のようなものが芽生えた。自分より長くこの「数字だけの世界」に身を置いている古参勢。それほどの実力者が、なぜこんなにもボロボロに泣いているのか。
「……なんで、泣いてたんだ」
一問一答のようなやり取り。雫は何度も呼吸を整えようとして、ようやく絞り出すように言った。
「お母さんが……知らない男の人と、一緒にいるのを見ちゃって……」
薫は息を呑んだ。
九歳の少年にとって、それは理解を超える重さを持った言葉だった。
首を突っ込むべきではなかった。そう後悔したものの、目の前で今にも消えてしまいそうな雫の姿を、他人事とは思えなかった。
家族という逃げられない現実。そこから溢れ出した彼女の涙。
「……作戦会議をするぞ」
薫は、彼女の腕を掴んだまま、公園へと歩き出した。
雫は拒むことなく、薫に引かれるままついてきた。
赤く染まった公園のベンチ。二人は並んで座り、日が沈んで街灯が灯るまで、作戦会議をした。
どうにかして、「その現場」を捉えるために。




