二十六本目
雫は「さようなら」と小さく告げると、昨夜の嵐が嘘だったかのような、どこか満足げな顔で家を出て行った。
バタン、というドアの閉まる音。再び静寂に包まれた部屋には、微かに残る味噌汁の匂いと、彼女の体温の余韻だけが漂っている。
薫は、21時からのバイトまでもう一度眠ることにした。
枕に顔を埋めると、この数日間に起きた出来事が、泥をかき混ぜるように脳裏に蘇る。
(俺は……なんて浅ましい男なんだ)
雫が自分を好きでいてくれる確信。昨夜、眠りに落ちる寸前に聞いた、祈るような愛の告白。
まだ彼女に返事をしていないのは、彼女を大切にしたいからではない。ただの「保留」だ。
一方で、優衣。
ブロックされ、タバコの味を否定された。普通ならそこで終わりだ。
なのに、まだ諦めきれないのは、彼女への純粋な想いがあるからなのか? それとも、手に入らないものへの執着なのか?
薫の頭の中で、冷徹な自分が計算を始める。
雫なら、100%の確率で付き合える。傷つくことはないし、この孤独も埋まるだろう。
優衣なら、0.1%も望みはない。追いかければまた惨めな思いをするだけだ。
(……最悪だ)
そんな風に、「付き合える確率」や「傷つくリスク」を天秤にかけている自分に、猛烈な嫌気がさした。
世間に迎合して、好きでもない相手と付き合う奴らを、俺は一番嫌っていたはずだ。
なのに今の俺はどうだ?
優衣という「理想」に届かないときの保険として、雫という「安全な場所」を確保しようとしている。
雫の献身的な愛さえも、自分の心を癒すための便利な道具として利用しようとしている。
「筋を通す」なんて、よく言えたものだ。
俺がやっているのは、ただの卑怯な計算じゃないか。
一目惚れした優衣に感じる、あの現実をミュートするような共鳴。
幼馴染の雫がくれる、痛いほどの安らぎ。
選べる立場でもないのに、どちらを失うのも怖くて、結局どちらに対しても不誠実なまま、どっちつかずの場所で震えている。
「好きな人」の定義もわからず、ただ「自分が損をしないこと」を優先している。
そんな自分の醜さに、吐き気がした。
薫は、思考を強制終了させるように、重く、濁った眠りの中へと逃げ込んだ。
夢の中でさえ、自分自身から逃げられないことを知りながら。
窓から差し込む冬の光が、自己嫌悪にまみれた彼の背中を、無慈悲に照らし続けていた。




