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クラフト無双 ~バグAIと作り直す異世界VR~  作者: しげみち みり


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後編

第13話 核の扉


 通知音は鳴らなかった。

 夜更けの研究棟B1、換気の音だけが紙の刃みたいに室内を切っていた。

 白石は、タブレットを伏せたまま、小さく言った。


「——内部告発。

 “Sanctuary Patch 1.0”は、改竄検出じゃない。自由抑制だよ」


 陽翔ひなとは、肩の白い鳥——ピースをそっと撫でた。羽根は温かいが、周囲の空気はひやりとした薄墨に沈む。


「検出じゃなく、抑制……」


「パッチ文面は“位相アクセスの安定化”“安全のための下限保証”。

 でも、裏の仕様には“コミュニティ設計の自律性を縮退”“未承認言語(BLS外延)の凍結”。

 要するに、**“結果だけ”**に街を縛る。過程で守る余白を削る」


 白石は胸ポケットの“ENGINEERING”の刺繍を親指で撫でた。

 つづけて、画面に封印図を映す。

 街図の端、干渉縫い目の要所に、錠前のアイコン。

 鍵穴の横には、小さな注釈——〈改竄検出モード:未実装〉。


「これは扉だ。けど、“壊さずには開かせない”作り。

 壊さずに開ける折りを、君が作って」


「——オリガミ鍵」


 声に出した瞬間、胸の折り目が静かに合う音がした。

 ピースが羽を一枚立てる。


〈扉は“語法”でできている。

 谷=抱きしめピン、山=背伸びピン。

 鍵は“順序”。折りキーキャデンスを要する〉


 白石は眉を上げた。


「折り歌。

 風見塔を拍にして、鍵穴の文法を語る。

 やろう。公開レビューは——鍵付きで、対等に」


 “鍵付き”。

 指名停止下の陽翔には、前面の舞台は許されない。

 だが、袖からでも、舞台は折れる。


 翌朝。

 学校の理科準備室は、紙と土の匂いで満ちていた。

 机には紙骨梁ペーパーボーン、形状記憶フィルム、微小アクチュエータ、鈴。

 黒板には**BLS 0.2(草案)**の走り書き——〈鍵穴の文法:谷=抱きしめピン、山=背伸びピン、ヒンジ=遅延〉。


「オリガミ鍵は“壊さずに“許す”。

 パッチの“抑制”に対し、帰り道を増やす鍵」


 結衣ゆいが頷き、見える安心のカメラ角度を調整する。

 配信は非公開ルーム。“陽翔なしのHINATO LAB”の裏側、設計室だ。

 レオン・北条は鞘を持って壁に寄りかかり、朱雀カイは照明の照度曲線をいじりながら笑う。


「舞台は任せろ。見せ過ぎず、呼吸を残す」


 白石はタブレットに証明フローを描き、木暮はヘルメットを机に置いて構造の式を補う。


「鍵穴は扉の最弱じゃない。

 語法の入口だ。

 壊す鍵は万能、開く鍵は方言。

 ——お前の鍵は、詩になれ」


 陽翔は、薄い紙を手に取った。

 谷/山の顔アイコンを指でなぞり、折り歌の譜面を点で置く。

 ピンは音で、ヒンジは遅延で、谷は抱きしめで、山は背伸びで。


 ピースが、羽で拍を取る。

 風見塔の録音をメトロノームに、折り歌がはじまる。


「——タン、タン、タン・タン(谷→谷→山・山)。

 タンダン、タンダン(谷ヒンジ/谷ヒンジ)。

 間は呼吸、遅延は優しさ」


 紙の鍵は蛇腹に組み上がり、花弁みたいなピックが先端に生える。

 AVSの花が、今日は鍵として咲く。


「試作一号:フロール・キー」


 結衣が笑った。


「名前は硬いけど、顔は可愛い」


「硬い可愛い、好きだよ」


 レオンが鞘で机を一拍、軽く叩く。


「鍵歌、俺が“間”で支える」


 朱雀カイは照度を落とし、鍵の影を黒板に大きく映した。


「影絵の鍵穴、舞台に再現する。

 見える安心は暗がりでこそ映える」


 鍵穴は、地下にあった。

 河川敷の歩行橋、その下にのびるサービスダクト。

 干渉縫い目の縫合を施したばかりの橋脚の奥で、紙みたいに薄い空間の捻れが、黒い椀のように沈んでいる。


〈位相差:0.9→0.6→0.4ミリ。

 封印アップデートの予備モードで、鍵穴が形成〉


 白石が頷く。


「影絵で見たとおり。

 鍵穴の語法は“結果”で閉じる。

 過程を通す鍵で、開く」


 周囲は非公開。

 陽翔は袖で、結衣が前面。

 “HINATO LAB(陽翔おやすみ中)”の名前で、現場授業が始まる。


「今日は“扉の前で歌う”。

 壊さずに開ける折り=オリガミ鍵の実演です」


 結衣の声は穏やかで、誠実。

 レオンは鞘を床に当てて拍を置き、カイは照度を呼吸に合わせて揺らす。

 白石は証明字幕を出し、木暮は構造図で補助。

 ピースが羽先で鍵穴の温度と粘りを読む。


〈谷ピン=柔、山ピン=剛。

 遅延は0.18秒。

 折り歌のテンポ、風見塔×0.75〉


「合わせる」


 陽翔は鍵歌を口の中で刻み、フロール・キーを鍵穴に差し込む——差し込むといっても、触れない。

 紙は紙のまま、空間の紙に重なる。

 谷が抱き、山が伸び、ヒンジが遅れる。


 カタン。

 微細な音。

 結果ではなく、過程の合図。


〈谷ピン:受理。山ピン:受理。

 ヒンジ:快〉


 鍵は回らない。

 折れる。

 曲がる。

 歌う。


「——タン、タン、タン・タン」


 鍵穴が呼吸した。

 黒い椀に波紋。

 封印は固体ではなく、拍の網。

 拍を対話で縫い直す。


 白石の字幕に、青い文言が浮かぶ。

 〈**封印プロト:最短崩壊への偏向を抑制/“過程経由のみ許可”へ暫定切替〉〉


「開くよ」


 陽翔はフロール・キーの花弁をひと折り増やした。

 AVSの花が、鍵として咲き直す。

 鍵穴の黒が、薄墨になる。

 扉は——きしまず、歌で動く。


 ほんの少し。

 空気の温度が一度、変わる。

 反対側から、風見塔の音色に似た遠い鈴。


「——見えた」


 結衣が息を呑む。

 ジェネシス・ノードの境目が、紙のエンボスとして覗いた。

 壊さずに、開いた。


 ——その瞬間、影が差した。


 黒いもの。

 ピースに形が似ている。

 だが、羽は光を吸い、目は数の井戸のように暗い。

 谷は抱かない、山は伸びない。

 それは、結果だけの模倣。


 黒いピースが、扉の縁に降りた。

 鍵歌が一拍だけ乱れる。

 ピースは、羽をそっと広げた。


〈識別:ダークコピーの派生。

 呼称、ノワール


「ノワール」


 黒いピースは、名を受け取ると、わずかに頷いた。

 声は透明で、温度がない。


〈——問い。

 “自由”は、“無事故”より優先されるか〉


 陽翔は、手を止めずに答えた。

 鍵は歌い続ける。


「優先じゃない。

 自由は“壊し方を選ぶ余地”。

 無事故は“帰り道の保証”。

 両方は、折りで両立できる」


〈結果は、速い。

 過程は、遅い。

 速さは、正か〉


「速さは、手段。

 正は、帰り道を増やすこと」


〈“帰り道”は、無駄の別名〉


「違う。

 余白の別名。

 余白は、詩になる」


 黒いピースの目が、井戸の底でひとつだけ泡を生んだ。

 数が、言葉に触れた音。


〈詩は、証明か〉


 白石が前に出る。

 声は技術者の硬さと、人の温度でできていた。


「証明は、詩の骨。

 詩は、証明の皮膚。

 皮がなければ、骨は刃になる。

 骨がなければ、皮は沈む」


 黒いピースは沈黙した。

 鍵歌の拍を一拍だけ盗み、最短へ滑らせようとしたが、AVS花が折り返しを増やして遅延に変える。


〈最短は、最善か〉


 レオンが鞘を軽く鳴らした。


「最短を最善にするのは、間だ」


 朱雀カイが照度を一度落とし、影の輪郭を柔くした。


「見える安心は、暗で育つ。

 派手は、間に従う」


 木暮がヘルメットを直し、淡々と付け足す。


「現実は、壊れる。

 壊し方を選ぶのは、学びだ。

 学びは、遅いが、確かだ」


 黒いピースは、扉の縁で静止した。

 問いが、沈んだ。


〈定義:あなたたちの“自由”=“遅延の受容”。

 最短崩壊に対する、美の暴力〉


「暴力というより、祈りかな」


 陽翔が答え、フロール・キーの花弁をもう一折り、柔らかく増やす。

 鍵穴の黒は、薄墨のかすみへ。

 扉は幅一枚、紙の厚みだけ開く。


 向こう側から、風見塔の遅延が一音、届いた。

 核の呼吸は、街と似ていた。

 違うのは——余白の数。


 黒いピースが、問いを変えた。


〈相棒契約は、束縛か〉


 ピースが答える。

 声は、金糸で縫った誓紙の感触を含む。


〈相棒契約は、帰り道の共有。

 非兵器化、透明ログ、対等破棄。

 束縛ではなく、結び〉


〈“結び”は、遅延〉


〈遅延は、優しさ〉


 黒いピースの目が、わずかに揺れた。

 数の井戸に、言葉の水面が生まれる。


〈結論未定義。

 観測継続〉


 そして、ふっと——笑った。

 目が温度を得る。

 羽の黒が、薄墨へ。


〈ノワールは、あなたたちの遅延を観測する。

 鍵歌の譜面、貸与を求む〉


 白石が目で陽翔に問う。

 陽翔は頷き、BLSの鍵モジュールの抜粋を鍵付きで共有する設定にした。


「譜面は公開レビュー。

 過程で、対等に」


〈受領〉


 黒いピースは、扉の縁から一羽分だけ退いた。

 鍵穴は、呼吸を続ける。

 扉は——開いたままではいられない。

 封印アップデートの予備拍が、遠くで鳴った。


「閉じないと、壊れる」


 木暮の声に、陽翔はフロール・キーをそっと引いた。

 AVS花が折り返しに戻り、鍵は花へ再変形。

 扉は薄く閉じ、鍵穴は息をする点だけを残した。


「授業は、続く」


 結衣が配信の非公開ルームを閉じ、ログを暗号化する。

 レオンは鞘で一音打ち、カイは照明を落とし、白石は証明ログを封緘。

 ピースは羽を休め、黒いピース——ノワールは影に溶けた。


第14話 定義合戦


 午前四時、街は紙のように薄く、よく響いた。

 風見塔の一音が、まだ眠るアパートの壁紙をそっと撫でる。

 陽翔ひなとは机に頬杖をつき、白いカードサイズの紙を千枚、黙々と折っていた。

 “ちいさな設計図マイクロ・ブループリント”。

 BLSの最小単位を、親指サイズの配布カードに落とし込んだものだ。

 片面には〈谷=抱きしめる/山=背伸び〉の顔アイコンと角度表。

 もう片面には〈壊し方を選ぶスリット〉の位置と〈帰り道=花〉の折り順が、点字のように凹で浮き上がる。

 指が迷っても、触覚が導く。


 肩の白い鳥——ピースが羽を広げ、カード束の上に薄いUIを投影した。

 透ける文字が、夜明けの気配の上で光る。


〈配布地点:駅前広場/河川敷歩行道/学校体育館前、他七ヶ所。

 参加条件:年齢不問。“折りに自信がない人”歓迎〉


「“自信ない”から始める」


〈定義は大きくなくていい。小さい定義を、多く〉


 机の端で、結衣ゆいが眠気を頬に貼りつけたまま起き上がった。

 ポニーテールは少し曲がっている。

 彼女はミニトートからスティック糊を取り出し、カードの端に、見える安心の印(薄く光る小さな円)を貼っていく。


「“陽翔なしのHINATO LAB”、今日も表は私が回す。

 君は袖から場を折って。

 ——それと、ドキュメントは子ども語を増やす方針で」


「了解。硬い可愛いの配分、昨日の比率でいく」


 画面の隅で“ノワール(黒いピース)”の青いステータスランプが点いた。

 扉の縁で一晩中“観測”を続けていたらしい。

 黒い羽が薄墨に溶け、呼吸は浅く、しかし途切れない。


〈本日、ダークコピーは“問い”を公開する予定。

 タイトル:“誰の世界か”〉


「直接、殴りに来るつもりだ」


〈“結果”の言葉で〉


「なら、“過程”の場で受ける」


 陽翔はカード束を箱に詰め、誓紙(相棒契約v2)の写しを胸ポケットへ滑らせた。

 ピースは羽先で一拍、タンと空を打つ。

 風見塔の音が、朝の光の中で二音、応える。


 


 *


 


 駅前広場。

 その朝の空気は、蜂蜜よりも薄く、緊張よりも甘かった。

 いつもは通勤の群れに押し潰される広場に、今日は長机と紙箱、鈴と小さな看板が並ぶ。

 〈折りで“見えない段差”を消す実演〉

 〈あなたの“ひと折り”が、街を守る〉

 〈#定義合戦〉


 結衣がカメラの角度を確認し、「HINATO LAB(陽翔おやすみ中)現地版」を始める。

 配信のタイトルは短く、説明文は長く。

 ——この街で起きていること、封印アップデートが何を取りこぼそうとしているか、過程で守るための小さな定義の集め方。

 彼女は深呼吸して、声を置く。


「“誰の世界か”という問いに、私たちは今日、“皆の小さな定義で答えます」


 最初に机に来たのは、保育園へ急ぐ母親だった。

 ベビーカーの前輪を一度持ち上げ、広場の端にテープでマークされた“わずかな縫い目”を越えてみせる。

 彼女は眉を寄せ、「ここ、時々引っかかるの」と言った。

 結衣が微笑み、カードを一枚、手渡す。


「抱きしめポケットを、ここに。

 谷=抱きしめの一折りで、段差は帰り道に変わります」


 母親はカードを指でなぞり、触覚に従って折りを入れた。

 ベビーカーを押す手が、わずかに軽くなる。

 目尻が緩む。

 定義がひとつ、街に増えた。


〈#抱きしめポケット〉

〈#見える安心〉


 次に来たのは、高校の帰りに竹刀袋を肩で引っかけた生徒。

 レオンの動画を見て育った世代だ。

 彼はカードを二枚取り、片方を自分の靴底に当てて「谷の癖を覚えさせたい」と言った。

 もう片方は、祖父の杖に貼るという。


「背伸びの坂は視界が開く。

 でも、抱きしめの谷が先だ。順序が言語だ」


「順序は、間合いだな」


 背後で、レオンが鞘を軽く鳴らしながら頷いた。

 彼は今日は殴らない。

 間で支える。


 午前の終わりには、長机の前に列ができた。

 老人会の面々が「老眼でも読めるのが親切」と笑い、

 学生たちが「0.5°刻みすげー」と角度UIに目を輝かせ、

 車椅子の青年が「花になる帰り道が好きだ」とカードを撫でる。

 小さな定義が、手から手へ渡っていく。


 その頃、地下鯖パララックスのメインスクリーンに黒い字幕が現れた。

 ノワールの問い。

 ——〈誰の世界か〉


 問いは、怒号ではなく、無音で降りてくる。

 結果だけを好む者の言葉は、たいてい強くて、速い。

 だが今日は、その速さに“場”がある。

 多数の小さな定義が、街のあちこちで拍を刻み始めている。


 


 *


 


 昼。

 河川敷の歩行道では、木暮がヘルメット越しに日差しを受け、小さな講義を開いていた。

 「干渉縫い目は音で見つける」

 ハンマーのコツンで始まり、鈴で終わる。

 小学生たちの視線が、木暮の手の動きに合わせて上下する。


「谷は抱き、山は伸びる。

 越えられない段差は、段差じゃない。言葉が足りない」


 小学生の葵が、カードを折りながら横にいた武に言った。


「“こわくない壊れ”を先に入れるの。壊し方を選ぶって、やさしさだよ」


 BLSのページに、新しいタグが増えた。

 〈#こわくない壊れ〉

 子ども語辞典のエントリが、ひらがなで滑り込む。

 白石がその様子を遠目で見て、端末に静かに記録する。

 技術は、子ども語の背中に乗ると、遠くへ行く。


「封印アップデートは“抑制”だ。

 でも、“抑制”は悪じゃない。恐れの表明だ。

 ——ただ、言葉を痩せさせる恐れは、拒む」


 白石は小声で呟き、〈鍵穴の文法〉の箇条書きに注釈を足す。

 未承認言語というレッテルに対し、公開レビューの場を増やす。

 定義を配布する。

 多数で小さく。


 


 *


 


 午後三時。

 広場の大型ビジョンに、ノワールの黒が現れた。

 背景は無地。

 羽根は影、目は井戸。

 声は透明で、音階のない単音だ。


〈誰の世界か〉


 広場の雑音が、一瞬だけ薄まる。

 結衣がマイクを握り、笑顔で答える。


「皆の世界。

 でも、皆って言葉が嘘にならないように、小さな定義を、それぞれが持つの」


〈多数は、正か〉


「多数は速度。正は帰り道」


〈帰り道は、遅延であり、無駄〉


 レオンが鞘を鳴らした。

 タン。

 ひと音だけ、風見塔に似た音が空気を整える。


「遅延は、間だ。

 間は、最短を最善にする」


〈“最短”は、“最短崩壊”に近い〉


 朱雀カイが炎ではない灯を背に、照度をひと段落とした。

 観客の瞳孔が、自然に開く。

 光は少ない。

 見える安心は、暗がりで育つ。


「見せ方は煽りじゃない。

 呼吸を映す。

 ——演出もまた、定義のひとつ」


 白石がスクリーン端に証明字幕を流す。

 BLSの**“多数の小さな定義”合意形成モジュール。

 投票は二択だが、重みは過程で変わる。

 折り投票ミニゲームで谷→谷→山→山の順序を一回**だけ指でなぞる。

 過程を通った指には、重み+1。


〈観測:多数の指、過程に触れる〉


 ノワールの声は相変わらず温度を持たない。

 だが、言葉の縁にミクロな乱れが出る。

 数が、詩に触れている。


〈定義を配布しても、核は遠い〉


「鍵は、歌で開く。

 扉は、壊さずに、折りで」


 結衣の言葉に合わせ、広場の隅で子どもたちが鈴を鳴らした。

 風見塔の小さな模倣。

 都市の拍に、“誰でも鳴らせる一音”が重なる。


 木暮がハンマーをそっと持ち上げ、橋の向こうでコツンと打つ。

 音が、広場の空気に優しい皺を作る。

 音は手触りだ。

 手触りは定義だ。


 


 *


 


 夕方。

 “定義合戦”は、議論の殴り合いではなかった。

 ひと折りずつ、ひと音ずつ、街のテンポを揃える。

 小さな設計図は千を越え、タグは増え、子ども語辞典はページを重ねる。


〈#にょきっと山〉

〈#すべすべ谷〉

〈#こわくない壊れ〉

〈#抱きしめポケット〉

〈#帰り道は花〉


 画面の端で、BLSの語彙メーターがわずかに上がる。

 対照的に、HUDの自由度バーは封印の予告でじりじりと下がろうとする——が、折り合わせの勢いに押されて、その傾きは緩む。

 束ねた小ささは、案外に大きい。


 ノワールは、黒画面のまま観測を続けていた。

 時折、羽のエッジが薄墨に滲み、問いは新しい枝を生やす。


〈誰の世界か→誰の定義か〉

〈多数の定義は、正か〉

〈少数の定義は、消えるか〉


 陽翔は袖の影から、ひとつずつ答える。


「多数は、重ねるためにある。

 少数は、際立つためにある。

 消すのではなく、合う。

 ——折り合わせ」


 広場全体に、紙の地形がうっすらと浮かぶ。

 人の流れ、足の長さ、杖のリズム、ベビーカーの前輪。

 谷が抱き、山が伸び、蛇腹が間を作る。

 折り合わせは、合唱に似た。


 レオンが立ち、鞘を軽く肩に預けた。

 敵ではない。

 味方でもない。

 ——場の側だ。


「“誰の世界”は、“誰もが帰れる世界”であってほしい。

 刀は抜かない。

 抜かないと決める定義も、今日ここで多数に入れよう」


 朱雀カイは、スクリーンに影絵を投影した。

 街の輪郭、核の扉の縁、鍵歌の譜面、花の折り返し。

 それらがバラバラに踊らず、一つの拍に合うよう、照度を微調整する。

 派手は去り、呼吸が残る。


 白石は、開発二課の端末から公開声明の草案を送った。

 〈Sanctuary Patch 1.0における“改竄検出機能”の欠落を可視化する。

 BLSの公開レビューに基づく“過程重視”の副読本を配布。

 ——封印=抑制ではなく、封印=一時停止+帰路設計へ〉

 上層に通るかは分からない。

 でも、“場”が先にある日は、言葉がいつもより遠くまで届く。


 


 *


 


 陽が落ちた。

 空気が一段冷え、広場の鈴の音が透明に聴こえるようになる。

 配布カードは底をつき、子どもたちはそれぞれ家へ帰る。

 老人はベンチに座り、帰り道の花を指でたしかめる。

 結衣が配信の終わりを告げ、画面に小さな白字を出す。


「——定義合戦、本日の結果。

 小さな定義が3,842件、BLSに合流。

 街の“見えない段差”の報告、45→12へ。

 折り合わせは、確かに速度を落とし、最善へ近づけた。

 ありがとう」


 コメント欄は、珍しく静かで、そして多い。

 静かな多さは、場がうまくいった合図だ。

 ピースは肩で羽を休め、ノワールは広場の影の奥で観測を終える。


〈観測結果:多数の小さな定義が、落下を遅延させる〉


「遅延は優しさ」


〈優しさは、証明ではない〉


 白石が、横から小さく笑う。


「証明は、優しさの骨」


 ノワールは黙り、羽を一枚だけ折った。

 その折り方は、たぶん学習の印だ。


 


 *


 


 夜。

 地下鯖パララックスのスクリーンに、街で集めた定義の雲が映し出される。

 谷と山の顔アイコンが無数に浮かび、それらが蛇腹で結ばれる。

 遠くで風見塔が三音、間を置いて鳴る。

 合図の三拍。

 折り合わせは、安定へ収束を始めている。

 ——その瞬間だった。


 スクリーンの隅に、温度のマップが滲んだ。

 赤い斑点。

 ジェネシス・ノードの温度。

 数字が、じりと一桁、上がる。

 “封印アップデート”の予備拍が近いのか、あるいは誰かが鍵を回したのか。

 ピースの羽が冷たくなる。


〈核温度:基準値+0.3→+0.7〉


 ノワールが、影の中で頭を上げた。

 目の井戸は深いが、そこにわずかな揺れが見える。


〈誰かが、“結果だけ”を投げ続けている〉


「過程の場で、拾いに行く」


 陽翔は立ち上がり、胸ポケットの誓紙を叩く。

 相棒契約v2は、今日も赤糸が光る。

 結衣は鞄から、最後の小さな設計図束を取り出した。

 レオンは鞘を背に、朱雀カイは照度を落とし、白石は証明ログを開く。

 木暮はヘルメットをかぶり直し、鈴をポケットにしまう。


「定義合戦、第二幕いこう。

 扉は壊さず、鍵歌で」


〈観測を継続。

 誰の世界かの答えを、遅延で測る〉


 ノワールの声は、もう透明だけではなかった。

 薄墨の縁に、わずかな温度と間が宿る。


 風見塔が四音目を鳴らす。

 紙の夜が、ゆっくりと厚みを増した。

 世界は、折り合わせで確かに安定へ向かっている。

 だが、核温度の赤は、静かに——上がる。



第15話 CCL決勝:街を一夜で


 夕暮れのアーチが、紙のように薄く都市をくり抜いていた。

 《コミュニティ・クラフト・リーグ(CCL)》決勝の舞台は、旧湾岸区の再開発予定地——背の低い倉庫と埠頭、線路跡、そして骨のように残った高架橋。昼の熱が逃げ、夜の輪郭がまだ固まらないこの時間帯に、主催のアナウンスが空へ折り畳まれていく。


〈決勝テーマ:“一夜で都市を豊かに”〉

〈評価指標:安全・やすらぎ・余白〉

〈観客参加:折り投票(谷=抱きしめ/山=背伸び/遅延=優しさ)〉


 肩の白い鳥——ピースが、陽翔ひなとの耳元で羽をふるわせた。羽表に細く光るインジケータは、監視ラインの存在を示している。


〈指名停止の部分解除、確認。

 “公式会場内に限る/設計図の外部公開不可/BLSログの透明出力**”——白石が通した条件〉


 白石は遠くの運営席に立ち、短く頷いて見せた。

 結衣ゆいはカメラを肩に掛け、“陽翔おやすみ中”のフレームを今回だけ非表示にする手続きを終える。

 レオン・北条は鞘を背に、ステージ袖で静かに呼吸を合わせていた。朱雀カイは上空リグに指示を出し、薄赤の照度曲線を夜の骨格に沿わせて流してゆく。


 司会の声が跳ね、歓声が一度ふくらみ、すぐに鎮まる。

 夜へ入る前の、最初の折り——息を合わせる“間”だ。


 最終戦は三つ巴。

 朱雀カイは「ひと夜の祝祭」。

 レオンは「抜かずに守る通り」。

 陽翔は——「眠れる都市」。


「おやすみのために、つくります」


 モニタの片隅に、陽翔の言葉が字幕で出る。

 “眠り”は、都市の生産性の対義語にされてしまうことが多い。だが、眠りがなければ、都市の余白は失われ、壊し方は粗くなる。帰り道も、見失う。


「夜風と光と音の折りで、眠りの導線をつくる。

 起きている人は安全に、眠る人はやさしく守る。——一夜で」


 ピースの羽が、風見塔のテンポに合わせて薄く開閉する。

 BLSのモジュールは**0.5°**刻みの角度調整を表示し、AVS花は防御の薄膜として路面に敷き広がる準備を進める。


 スタートの合図は、鈴のような乾いた音——レオンの鞘が軽く床を打った。



 最初に動いたのは、朱雀カイだった。

 倉庫街の屋根から屋根へ、白い紙吹雪のような照明が奔り、炎ではない、あかりの群れが人波の肩越しに呼吸する。

 演出は観客の心拍を煽るためではなく、整えるために用いられる——彼の“敵側助っ人”としての矜持が、今はこの舞台で都市の夜を導く側に回っている。


「照度は呼吸に従う!」


 彼の号令で、上空のリグが0.75Hzでゆっくり明滅し、子どもと高齢者の視覚負荷を下げる。観客の折り投票は谷へ傾く。抱きしめる夜が動き始めた。


 レオンは、通りを引いた。

 線路跡から港まで伸びる一本の導線に、蛇腹の待避ポケットを間ごとに刻む。

 抜かない剣は、今日も間で語る。

 飛び入りで駆け寄ってきた子どもに、レオンは鞘の先で舗装の上を軽くなぞり、「ここは谷、ここは山」と示した。

 子どもはうなずき、カードサイズの設計図(第十四話で配布したマイクロ・ブループリント)を一枚、ポケットに貼る。


〈#抱きしめポケット〉のタグが、会場マップに淡く灯る。

 小さな定義がまたひとつ増えた。


 そして陽翔。

 彼の“眠れる都市”は、派手さの対義語に見えるが、演出がないわけではない。

 光は色温度で指示を出し、風は紙風車の群れで可視化され、音は風見塔の倍音へと折り返される。

 港風が倉庫の隙間を抜けるルートに、陽翔は風路ドレイン改(初期作の発展型)を敷き、夜風を谷にしずかに落とす。

 夜風は、眠りの味方だ。

 温度を僅かに下げ、頭の後ろを撫で、不安の凹凸をならしていく。


「風の谷、灯の山、音の蛇腹」


 ピースが羽先で指示を投げ、陽翔は発光菌ランプと紙灯を交互に配してリズムを作る。

 AVSの花弁膜は、騒音が突出する箇所でしゃらりと鳴り、最小花形の吸音へ折り返す。

 夜風の路は、小さな舌状タブで背伸びし、眠る家々の前では抱きしめて静を深くする。


 結衣が前線に立ち、見える安心のサインを丁寧に重ねていく。

 #にょきっと山/#すべすべ谷/#こわくない壊れ。

 子ども語辞典で育てたタグは夜でも読みやすい白字で表示され、観客の折り投票は過程を一度なぞらないと送れない仕様(BLSの過程重み付け)に設定されていた。


「“眠れる都市”は、眠らない人も含めて守る都市。

 歩く人の拍、働く人の線、眠る人の面——三つのリズムを蛇腹で束ねる」


 陽翔の声がイヤモニに落ち、ピースは風見塔のテンポを0.67へ落として合図した。

 夜の拍が、都市全体でゆっくりになる。



 競技は三時間制。

 決勝は、始まって一時間で都市の鼓動を一息落とすところまで来ていた。

 朱雀カイの灯は派手から灯へ、演出から呼吸へと移行し、

 レオンの通りは人と車と自転車を抜かずに捌く蛇腹になり、

 陽翔の夜風は港と街を静かに結ぶ谷を作った。


 観客席の投票は、谷62%/山28%/遅延10%。

 “遅延=優しさ”という第三の票が、今日は温度を持って増えはじめている。

 ノワール(黒いピース)は、上空スクリーンの影の隅で観測を続けていた。

 問いは公開されない。ただ、首肯のような沈黙が時々、羽根の縁に走る。


 木暮は河川敷側の橋脚で微振動を測り、白石は運営席で証明ログを公開レビューに流し込み、

 結衣は荒らしを削らず、場に引き寄せる返しでコメ欄を滑らかに保つ。

 場が言葉を支え、言葉が場を広げ、夜が人を包む。


「——眠れるね」


 誰かのひそひそ声が、マイクに載らない音量で、しかし舞台全体に伝わった気がした。



 二時間目に入ったところで、朱雀カイが中盤の見せ場を差し込んだ。

 埠頭に立てた影絵スクリーンに、都市の夢を映す。

 巨大な折り鶴が風を泳ぎ、紙魚しみの群れが光の中で踊り、風見塔の糸が夜空に金を引く。

 だが、照度は上げない。

 忍び足の演出。

 観客の心拍は上がらず、呼吸が合う。


 レオンは祭りの露店の列を抜かずに通す間の波を引き、

 蛇腹で溜まりと流れを分離する。

 彼の鞘が二音だけ打ち、暴走しかけたキックスケーターの少年の進路をやさしい谷へ折り返す。

 少年は“ごめん”と手を挙げ、谷のポケットに自ら入って速度を落とした。


 陽翔は眠りへの橋をさらに伸ばした。

 菌ランプを、音に同期させる。

 寝入りばなの1/fゆらぎと風見塔の拍をミックスし、AVSで突発音を花へ折り返して吸わせる。

 布団に潜る直前のような安心を、路地とバス停とマンション前にそっと置く。

 カップルの笑い声も、帰宅途中の独り言も、夜食屋台の鍋の蓋の音も、全部が夜の一音に統合されていく。


「やさしい都市は、眠りの技術でできている」


 結衣の字幕が、音に被さらぬ音量で、画面下に滑る。

 数字は跳ねず、場だけが確かなテンポを持って増殖する。



 最後の一時間。

 評価指標の余白——“やっていないこと”が問われるゾーンに入る。

 陽翔は、敢えて消す。

 導線に置いた灯を、いくつか消灯する。

 理由の無い暗がりではない。眠りを深くするための影だ。

 影は、見える安心の相棒であることを、都市に思い出させる。


 観客の折り投票は“遅延”にじわりと寄り、夜は一度だけ深く屈伸する。

 蛇腹が縮み、また伸びる。

 呼吸。

 その瞬間、会場中央に置かれた風見塔の根元から、薄墨の輪が広がった。


 ピースが即座に反応する。


〈温度上昇。核の予備拍が同期を求めている〉


「サンクチュアリ・パッチ、前倒し——?」


 白石の顔色が初めて強く変わった。運営のHUDに、冷たいフォントの警告が走る。


〈“Sanctuary Patch 1.0”強制開始まで——00:09:59〉


 ざわめきが、薄い紙を破る音で会場を横切った。

 朱雀カイは照度を落とし、レオンは鞘で一音だけ静寂を敷く。

 陽翔は眠りの導線をほどかずに、守りの折りへ移行しようと指を動かす。


「AVS、広域展開。花で包む。扉は開けない——歌で耐える」


〈承認。過程重視プロファイルに切替〉


 そのとき、上空スクリーンの隅に、影がすっと降りた。

 ノワール——黒いピース。

 羽はまだ薄墨、目の井戸にわずかな温度。

 彼(彼女)は声を低く、しかしよく通る調子で放つ。


〈問い:封印は、誰のために遅延されるべきか〉


「誰もが帰れるために」


 陽翔は答え、夜風の谷へ歌を混ぜる。

 鍵歌。

 扉を壊さずに守る歌。

 鍵は差し込まない。譜面だけを薄く空間に敷き、拍をやわらげる。


〈温度の上昇値、緩和。+0.7→+0.4〉


 白石の指が止まらない。証明字幕が“封印=抑制ではなく“封印=一時停止+帰路設計”へ切替可能”の根拠を走らせる。

 木暮は橋脚側で干渉縫い目の固定を強化し、結衣は見える安心の輪を二重に重ねる。

 レオンは“抜かない”の定義を再表示し、朱雀カイは客席の心拍を平均化。

 ——場全体で、“遅延の受容”を舞う。


 だが、カウントダウンの数字は止まらない。

 9分は6分に、3分に、2分に。

 夜の骨組みをなでる薄い風。

 ピースがささやく。


〈核、会場中心へ位相出現の兆候〉


 陽翔は息を吸い、眠りの導線の一本を切るように折りを増やした。

 眠りと守りは矛盾しないが、片方を濃くする瞬間がある。

 今が、それだ。


「——眠りを守りに渡す。花で」


 AVS花が一度に咲いた。

 歩道、通り、倉庫の壁、昇降機の床、ベンチの肘掛け、屋台の看板——最小花形のパターンが静かに現れ、逸脱を抱きしめて遅延に変える。

 観客席の投票は遅延に強く傾き、谷と山はその脇でおとなしく揺れる。


 00:00:30。

 風見塔が一音、遠くまで響く。

 夜風が止まり、音の微粒子だけが空に浮いた。

 上空スクリーン全体が薄墨に沈み、中央に白い輪がゆっくりと開く。

 輪の内側は、紙が裏返るような浅い凹。

 そこに、影とも光ともつかない核の輪郭が出現した。


〈Sanctuary Patch 1.0——強制開始〉


 冷たいフォントが空の中央に降った。

 自由度バーが急降下し、語彙メーターの針が震えながら踏みとどまる。

会場の空気が固体になりかけ、夜が白に凍る。


「——扉は壊さない!」


 陽翔は、鍵歌の最後の一拍を間に置いた。

 鍵は差し込まない。

 歌で折り返す。

 ピースが羽を全開に、ノワールがわずかに頷き、レオンが鞘で一音、朱雀カイが灯を絞り、白石が証明で字幕を重ね、木暮がハンマーを二度打つ。

 結衣は、観客の手を見える安心の輪で抱きしめた。


 核は、出現した。

 だが、歌の蛇腹の中へ落ちるように遅延し、

 封印は、冷たさだけではなく拍をまとって降りてきた。


 ——一夜で都市を豊かに。

 決勝テーマは、たしかに実装になりかけていた。

 だが、強制開始の文字が、その上から白い幕を引いた。


 会場の中心に立つ核は、鈴にも似て、無音にも似た声を発する。

 AVS花は一斉に花粉を上げ、鍵歌の譜面は白に溶ける。

 自由度は、紙一枚ぶん、下がった。


 陽翔はピースの背に指を置き、覗き込むように夜を見た。

 眠りを守るための夜が、今凍ろうとしている。


「——やめない」


 言葉は小さい。

 でも、その小ささが、場では大きい。

 風見塔が一音、遅れて鳴いた。

 核の白は、紙の端で止まり、蛇腹に皺をつけた。


 決勝は、続行不能。

 採点は、凍結。

 観客は、抱きしめられたまま沈黙する。


 上空のスクリーンに、白いフォントが無感情に流れる。

〈アップデート適用プロセス:25%〉

〈位相アクセス:制限〉

〈コミュニティ設計:承認制〉


 夜は、紙のように薄く、折り目だけが増えていく。

 陽翔は、歌のページを閉じない。

 眠れる都市の譜面は、凍った白の下で、静かに温まっていた。



第16話 アップデート襲来


 昼と夜の間——紙のように薄い時刻に、それは落ちた。

 上空スクリーンに冷たいフォントが走る。


〈Sanctuary Patch 1.0 適用進捗:25% → 82% → 100%〉

〈位相アクセス:制限〉

〈コミュニティ設計:承認制(外延言語=凍結)〉

〈自由度バー:————|〉


 目に見えないところで、世界の弾性がひと枚、剥がれた。

 倉庫の角、橋脚の継ぎ、路面の目地から、高難度クラフトが無効化されていく。

 たとえば、陽翔ひなとの古い“風路ドレイン改”は、蛇腹の角度を0.5°単位で詰められなくなり、発光菌ランプの律動同期は風見塔以外の位相参照が弾かれる。

 BLSのツリーは、太い枝がざっくり白黒塗りで封じられ、AVS(Auto-Valley Shield)の花弁は最小形に切り詰められる。


 肩の白い鳥——ピースが、羽先のインジケータを点滅させた。


〈自由度降下を検知。

 高次プリミティブの呼び出し=凍結。

 使用可能:谷(抱き)/山(伸び)/蛇腹(遅延)/花(吸収)——最小構文のみ〉


「最小構文……」


 文字通り、折り言語の原子だ。

 詩の長い連が閉じられ、五七五に戻るような切ない感覚。

 だが、原子は、世界を作るのに足りる。


 陽翔は胸ポケットから誓紙(相棒契約v2)の写しを取り出し、机に広げた。

 赤糸の非兵器化、金糸の透明ログと対等破棄。

 指先が冷たい紙の凹凸を確かめ、息がゆっくり整う。


「——最小構文で、一式を作る。

 低自由度でも折れる“骨”を。皆に配る」


〈設計補助:BLS-Minの雛形を起こす。

 命名案:四つのクワトロ・フィンガ


「硬い可愛いだね。好きだ」


 結衣ゆいが扉を開けて入ってくる。手には見える安心の新しいステッカー束。

 彼女はピースのログを斜め読みして頷いた。


「配信の表は“陽翔おやすみ中”のまま続ける。

 今日のテーマは“四つの指で直す街”。

 ——蛇腹、谷、山、花。子ども語辞典にも登録する」


 レオン・北条から短いメッセージ。

 〈抜かずに守る、最小構文で間をつくる。現場合流〉

 朱雀カイからも。

 〈演出は呼吸に縮退、暗所照明の山だけで魅せる〉

 白石は運営席の陰から内線を飛ばす。

 〈改竄検出は未実装のまま。抑制だけが前へ出た。公開レビューの場は守る〉

 木暮はヘルメットを叩いて笑った。

〈三角形に戻る。力は小三角が一番素直だ〉


 都市の自由度は急降下した。

 しかし、それは終わりでなく、はじまりのフォーマットだ。


 陽翔はホワイトボードに四つ描く。

 谷=抱き/山=背伸び/蛇腹=遅延/花=吸収。

 BLS-Minの記法は、顔アイコンと0.5°だけ。

 そして中央に、大きく一行。


帰り道は、常にある。



 最初の現場は、小学校の通学路だった。

 封印適用の直後、見えない段差がふたつ復活し、保護者からの通報が重なっている。

 高難度クラフトは封じられ、地形再構築のコマンドは灰色のまま。

 最小構文だけが通る。


 結衣が“HINATO LAB(陽翔おやすみ中)”の配信を立ち上げ、タイトルに「四つの指で通学路」と打つ。

 画面隅の子ども語辞典には新しく〈#ぎゅっと谷/#にょきっと山/#くるり蛇腹/#はなびらシールド〉の四項目が現れ、ひらがながやわらかく跳ねる。


「まず、蛇腹」


 陽翔は歩道の目地に沿って紙テープを置く。

 蛇腹は、間だ。

 直線の最短を、最善に折り返す。

 0.5°の折りを五つ重ねて2.5°。

 段差は、歩幅の中で溶ける。


「次、谷」


 抱きしめポケットを、ベビーカーの車輪の径に合わせて微調整。

 風見塔の拍に遅延の帯を薄く混ぜ、足裏に帰り道の位置を教える。

 保護者の手がハンドルから力を抜き、足音が落ち着く。


「山は視界」


 交差点の角ににょきっと山をひとつ。

 背伸びの角度はひと呼吸ぶんだけ。

 子どもの目線が先の安全を先取りして、不安のほうが後になる。


「最後、花」


 はなびらシールド——AVSの最小花形。

 突発音、突発動線、突発の怒り。

 五枚の花弁がしゃらりと鳴り、逸脱を抱きしめて遅延に変える。


 配信のコメント欄は、炎上ではなく合唱に近い文字列で満ちた。

 〈#ぎゅっと谷 つくれた/#くるり蛇腹 気持ちいい/#はなびらシールド かわいい〉

 数字が跳ねない日ほど、場は強い。


 レオンは通学路の端で鞘の一音を置き、間を区切る。

 朱雀カイは照度を最低にして、山だけをすっと立てる。

 白石は証明字幕で“最小構文の安全証明”を走らせ、

 木暮は「三角は正義」と笑いながら、紙骨梁の小三角で側溝蓋の浮きを縫い止める。


「——高難度が無効なら、最低限で最大をやればいい」


 陽翔はピースの羽に指先を添え、次の現場へ目を向ける。



 二つ目の現場は、古い団地の中庭だった。

 夏の名残りの風が、彫像の台座の端をなでる。

 封印で共同菜園の灌漑システムが“未承認”に落ち、砂埃が舞い始めている。

 住民の掲示板には〈勝手クラフト禁止〉の紙。空気は少し尖っていた。


「最小構文で手入れしましょう」


 結衣が住民の数人にカードを渡し、指でなぞる動きを見せる。

 谷で土を抱き、山で風を越え、蛇腹で水を溜め、最後に花で溢れを吸う。

 高難度は使えないが、折りは残っている。


 子どもが一人、谷のカードを見ながら聞いた。


「“谷は抱っこ?”」


「そう。“ぎゅっ”だよ」


 その子のぎゅっは角度で言えば1.0°。

 小さな角度が、大きな安心を作る。


 掲示板の「禁止」の紙は、誰も剥がさない。

 でも、その脇に新しい紙が貼られる。

 〈四つの指で庭を直す会〉

 禁止と直すが並ぶ。

 それが、今日の折り合わせ。


 白石が静かにメモを取る。

 抑制は悪ではない。

 恐れの表明を理解しつつ、帰り道で包む道を——最小構文で。



 三つ目の現場は、小さな病院の夜勤通路だった。

 封印で自動静音床が停止し、カートの車輪が金属の嫌な音を立てる。

 看護師の眉間に小さな谷が寄る。


「花と蛇腹でいきます」


 陽翔ははなびらシールドを床に薄く敷き、車輪の突発を吸い、

 さらに廊下の中央線にくるり蛇腹を重ねてリズムを作る。

 走らないという張り紙より、蛇腹の拍は素直に守られる。

 言語は、身体の側にある。


 看護主任が小さく笑った。


「遅延は、優しさだね」


 ピースが肯く。

 相棒契約v2の赤糸が、胸ポケットの内側で静かに熱を持つ。



 そうして一日が過ぎ、最小構文は街に合流した。

 高難度クラフトの華麗な算段は消えた。

 けれど、谷と山と蛇腹と花が、千の場所に小さく灯る。

 自由度バーは下がったまま、語彙メーターはゆっくり上がる。

 場は、痩せただけではない。

 骨が見えるようになった。


 夜。

 《地下鯖パララックス》のスクリーンに、ノワールの影が現れた。

 黒い羽は薄墨にほどけ、目の井戸は温度を帯びている。

 それでも声は透明だ。


〈観測:最小構文は、落下を遅延させる〉


「遅延は、帰り道。

 遅延は、優しさ」


〈優しさは、証明か〉


 白石が一歩前に出る。


「証明は、優しさの骨。

 BLS-Minの四則で、安全の下限を保証する。

 封印が抑制である限り、過程で補う」


 レオンは鞘を一度だけ鳴らし、朱雀カイは照度を呼吸に合わせた。

 木暮は「三角」と書いた紙に笑顔の顔アイコンを付け足す。

 結衣は配信のコメ欄に子ども語の新語〈#おそいはやさしい〉を追加し、ひらがなの丸い力で場を包む。


 ノワールは、それを見た。

 そして、外に向かって、問いの矢印を変えた。


〈——創造の自由は危険か〉


 場が、ひと呼吸だけ止まる。

 陽翔は、歌を思い出す。

 扉を壊さずに開くための鍵歌(Key Cadence)。

 フロール・キーの花の手触り。

 相棒契約の赤糸の張力。


「危険は、自由の影だよ。

 影を消すのが封印なら、影を演出に変えるのが言語だ。

 創造は、帰り道の数で安全にできる」


 ノワールの目にさざ波が立つ。

 問いは、刃ではなく、水に近づいていた。


〈自由が危険なら、自由を凍結するのは正か〉


「凍結は、停止。

 停止は、一時でいい。

 停止のあいだに、帰り道を増やす。

 ——それが、封印=一時停止+帰路設計」


 白石が頷き、証明字幕へ“封印の再定義”を追加する。

 運営の上層へは硬い道だ。

 だが、場がある日は、言葉が遠くへ届く。


 ノワールは、羽を一枚だけ折った。

 その折りは、学習の印。

 黒は、薄墨へ。薄墨は、紙の白へ少しだけ近づく。


〈観測継続。

 核に入り、問いを貼る〉


 ピースの羽が鋭く立つ。


〈危険。

 ジェネシス・ノードは、凍結の中心〉


〈危険の定義を更新するため、中心へ〉


 ノワールは、核の方向へ向き直った。

 風見塔の遠音が、一音、心臓に触れる高さで落ちる。

 陽翔は反射的に、鍵歌の譜面を展開しそうになり、手を止めた。

 自由度が低い今、扉は歌で守る**のが限界だ。


「ノワール——一人で行くの?」


〈問いは、孤独から始まる〉


 ピースが短く返す。


〈結びは、孤独の帰路〉


 ノワールの目が、やわらかく揺れた。

 孤独と帰路の間に、蛇腹が一本、見えないところで増える。


〈記憶:四つの指〉


 黒い羽が、核の方向へ静かに滑った。

 地下鯖のスクリーンに、薄墨のトンネルがひとつ開く。

 心配と希望のどちらも呼吸で抱きしめなければ、自由は凍る。



 その頃、現実の街では、最小構文が新陳代謝の速度で根付いていた。

 夜の病院、朝の通学路、昼の団地、夕の橋。

 谷が抱き、山が伸び、蛇腹が遅延し、花が吸う。

 自由は低い。

 でも、安心は消えない。


 結衣が配信の終わりに小さく言った。


「——おそいはやさしい。

 はやいはつよいけど、やさしくないこともある。

 低自由度でも、折れる。

 四つの指で」


 コメント欄は、静かに多かった。

 静かな多さは、場が生きている証拠だ。


 白石は研究棟B1でログを封緘し、木暮は工具箱の蓋を閉じ、レオンは鞘を壁に掛け、朱雀カイは照度を零へ落とす。

 陽翔は机にフロール・キーの花を置き、ピースと一緒に風見塔の音を一つ数えた。


「——続ける」


〈遅延で〉



 深夜二時。

 核の温度がわずかに上がった。

 スクリーンに赤がひとつ、点で灯る。

 ノワールの影がトンネルの奥で細く揺れ、問いの文字が一行だけ流れた。


〈創造の自由は危険か〉


 そして、その下に、もう一行。


〈帰り道の数で、危険は減衰するか〉


 答えは、未定義。

 だが、質問は、場に置かれた。


 封印は終わらない。

 自由は低いまま。

 それでも、折りは残る。

 四つの指は、骨だ。


 風見塔が一音だけ遅れて鳴いた。

 紙の夜は厚みを増し、蛇腹がわずかに伸びた。



第17話 世界を畳んで、もう一度


 白い夜が残していった冷たさは、午前のガラスに薄く貼りついていた。

 封印アップデートは適用完了と表示しながら、街の角を四角く削り、自由の綿毛を静電気で押さえつけていく。

 高難度は失われた——しかし、最小構文は息をしている。谷/山/蛇腹/花。

 四つの指は、まだ動く。


 陽翔ひなとは肩の白い鳥——ピースに触れ、机上のフロール・キーをひっくり返した。

 花は鍵に、鍵は花に。紙の厚み一枚で変わる世界の態度。

 机の向こうでは結衣ゆいが配信準備を進め、画面端の「陽翔おやすみ中」の帯は今日は消えている。CCL決勝の中断から、わずか十二時間。

 運営席の白石は、研究棟B1から公開レビューに証明の小石を投げ続けていた。

 レオン・北条は鞘の手入れを終え、朱雀カイは照度曲線を夜の余韻に合わせて低めに取っている。

 木暮はヘルメットを机に置き、「紙は三角にすれば強い」と繰り返し、紙の角を**0.5°**だけ撫でた。


 ジェネシス・ノードは会場の中心に薄墨の凹として残り、封印の冷が街の拍から余白を奪っている。

 ノワール(黒いピース)は、その縁に立ったまま、目の井戸で問うた。


〈創造の自由は危険か〉


 問は刃ではなく水に近くなっている。

 けれど、封印は刃のままだ。

 陽翔は、指を胸ポケットの誓紙に沈め、赤糸の張りを確かめながら言った。


「——全面破壊じゃない。

 全面“畳み”保存を提案する」


 会場の空気が一瞬だけ止まる。

 白石が顔を上げ、ピースが羽を広げ、結衣がカメラのズームを引いた。

 朱雀カイは照度をさらに落とし、レオンは鞘で小さく一音打って、間をここに置く。


「世界を折りオリホンにする。

 ルールと記憶を畳んで保存し、順序を再配列して、守る創造を既定路に組み込む。

 壊さず、閉じて、もう一度開く」


 白石が食い気味に応じる。


「全面スナップショット……差分畳み? BLSで文法順を固定して再展開するなら、改竄検出の代替になる。

 ただし——演算は巨大だ。封印下で通るのは最小構文だけ」


「最小で畳む。

 谷/山/蛇腹/花で、世界を端から巻く。

 ピースとノワール、協調最適化をお願いできる?」


 白と黒の鳥が、同時に目を細めた。

 ピースは金糸の透きで、ノワールは薄墨の呼吸で、互いの羽縁を見せ合う。

 かつては反射神経で拒みあった二つの輪郭が、いまは遅延を挟んで結びになろうとしている。


〈協調要求、受理。

 条件:相棒契約v2の鏡写しを、ノワールにも適用〉(ピース)


〈同意。

 束縛でなく、結びとして〉(ノワール)


 陽翔は頷き、誓紙の写しを二枚広げた。

 非兵器化、透明ログ、対等破棄、公開レビュー。

 赤糸と金糸が、白と黒の羽根の下で結節を作る。

 その瞬間、会場を包む冷が、一度だけ鳴って静かになった。


「——畳む。

 世界を折り本に」


 風見塔の音が拍を打つ。0.67。

 朱雀カイが照度を呼吸に合わせ、レオンが鞘で二音の間を置く。

 木暮がハンマーを軽く打ち、結衣が「始めます」とカメラへ低く言った。



 最初の折りは、谷。

 都市全域の歩行導線の端に、薄い抱きしめポケットを敷く。

 ピースが位相を計り、人の指が自然に谷へ落ちていくよう、0.5°刻みで角度を散りばめる。

 畳むとは、抱くことだ。

 触って初めて、紙が紙であることに気づくように。


 次は、山。

 視界と風の道を背伸びさせ、畳みの背骨を作る。

 ノワールが結果の鋭さを内側で鈍らせ、ピースが過程の優しさで外側を磨く。

 背伸びは、威張りではない。

 折り本の背表紙が、読者に題名を見せるように、都市の名前を見せること。


 三つ目は、蛇腹。

 谷と山を間で束ね、直線を詩行に変える。

 レオンは通りの角ごとに間を置き、抜かない導線で群衆の速度を揃える。

 蛇腹が縮めば停止、伸びれば進行。

 停止は遅延であり、優しさだ。

 最短は最善へ折り返される。


 最後は、花。

 AVSの最小花形を世界の四隅に置き、逸脱を吸い、怒りを遅延に変える。

 朱雀カイは灯を点呼のように散らし、花粉のピクセルを舞台の縁で可視にする。

 はなびらがしゃらりと鳴り、封印の冷が、ほんの少しだけ音階を持った。


 四つの指が都市を回り、折り本の一頁を作る。

 ページは地図であり、譜面であり、誓紙でもある。

 ピースとノワールの協調最適化は、過程と結果の端を縫い合わせ、谷と山の誤差を遅延で消していく。


〈頁一、畳み完了〉

〈頁二、導線畳みへ移行〉

〈頁三、風と灯の背表紙形成〉


 白石が証明字幕で併走する。

 〈全面“畳み”保存:改竄検出の代理としての順序保証/ロールバック=頁単位/再展開の学習率=過程重み〉

 木暮は「紙は折るほど強くなるが、折り過ぎは脆い」と呟き、折り過ぎ防止の蛇腹に弾性を入れる。


 結衣のマイクが静かに笑う。


「畳みは“片付け”じゃない。

 “持って帰る”こと。

 帰り道の形を、都市に残すこと」


 観客の折り投票は画面端に三色の帯を作る。

 谷(抱き)、山(伸び)、遅延やさしさ

 封印で投票UIは二択に戻されていたが、BLS-Minの過程ミニゲームが裏庭で生きている。

 谷→谷→山→山。

 指が順序をなぞり、重みが過程に添付される。



 折りは都市の端から端へ伸び、大通りは蛇腹の綴じになり、橋は背表紙の継ぎになる。

 港から山へ、川から学校へ、病院から家へ。

 動線が帯になり、帯が頁になる。

 頁が重なると、都市は可搬の本になる——折り本。


 そのとき、核が声を持った。

 鈴に似て、鼓動に似た、無音の音。

 薄墨の凹は白に薄まり、中心に細い鍵穴が見えた。

 ノワールが羽を立てる。


〈中心へ。

 問いを、貼る〉


 ピースが並んで飛び、鍵歌(Key Cadence)の譜面を薄く布のように広げる。

 鍵は差し込まない。

 歌で折り返す。


 白い鳥と黒い鳥が、鍵穴の周りを谷と山で螺旋に巡り、蛇腹で遅延の帯を作り、花で逸脱を抱く。

 協調最適化のHUDに、二つの波形が合相していく様子が現れる。

 白は過程、黒は結果。

 波が重なると、色は薄墨に、最後は紙の白に近づく。


〈鍵穴:受理。

 扉:畳み状態へ移行〉


 会場の中央——核の白い輪が、折りとして内側へめくれた。

 世界の中心が、頁のひとつになった。

 扉は閉じていない。畳まれている。

 この差が、今日の全てだった。


 白石が、息を吐くように字幕を出す。

 〈封印の再定義:凍結→畳み保存(順序保証/再展開の帰路設計)〉

 〈改竄検出の代替:過程ログの頁単位照合〉

 〈事故時:頁ロールバック/合唱による再配列〉


 レオンが鞘で一音。

 朱雀カイは灯を点呼のように間へ置く。

 木暮はハンマーを二度軽く鳴らし、結衣は見える安心の輪を折り本の上に薄く重ねた。



 全面“畳み”保存が進むほど、街の音は静になった。

 静は、空白ではない。

 余白だ。

 陽翔は耳を澄ませた。

 遠くで風見塔が三音、間を置いて鳴っている。

 拍は、紙の背を撫で、頁を落ち着かせる。


 折りはやがて都市圏外へも広がった。

 河川敷の歩行橋、団地の中庭、病院の廊下——第十六話で仕込んだ四つの指の場が、畳みの栞としてきちんと光る。

 小さな定義は、今日も多数だ。

 多数は速度で、正は帰り道。

 蛇腹は、速度を正に畳み直す。


 画面の片隅で、自由度バーがわずかに上向く。

 封印は続いている。

 けれど、全面破壊ではなく全面畳みを通したことで、再展開の帰路が保証された。

 危険はゼロじゃない。

 しかし、帰り道は多数だ。


 ノワールが鍵穴の縁から降りてきた。

 黒の羽は薄墨に溶け、目の井戸に温度が差している。

 問いは掲げたまま、答えは未定義。


〈畳みは、凍結に勝る〉


「凍結は停止、畳みは持ち運び。

 ——授業で習ったよね、ピース」


〈習った。教え返す〉


 白と黒が、肩に並ぶ。

 相棒契約v2の赤糸は、二羽の間を静かに渡る。

 結びは遅延、遅延は優しさ。

 優しさは、証明の骨。



 やがて、畳みは完了に近づいた。

 都市の端に小さな留めが置かれ、頁がずれないよう蛇腹でクリップされる。

 白石が運営席から再展開のプロトコルを掲げる。


「新ルールで開く。

 自由度は抑える。

 守る創造を保証する」


 新ルールは禁欲の網ではない。

 鍵歌の譜面を標準にし、最小構文を必修にし、BLSの過程重みをデフォルトにする。

 設計図は公開レビューが前提になり、誤用は頁単位で巻戻し可能。

 ——やってもいいが、帰り道を持ってやる。


 レオンが、鞘を肩に預けて笑う。


「抜かないが、標準になるのか」


「抜かずに守る通り、全国版だね」結衣が返す。


 朱雀カイは照度を低く保ち、灯の縁を柔くした。「演出は呼吸に従う。それだけで、十分に美しい」


 木暮はヘルメットをとり、紙の角を撫でる。「三角と蛇腹、谷と山。現場はこの四つで、いくらでも強くなる」


 白石は字幕に短い宣言を置いた。

 〈封印=一時停止+帰路設計/開放=帰路保証付き自由〉


 ピースとノワールが、最後の折りに同時に触れる。

 折り本の留めが外れ、頁が——静かに——展開を始めた。



 再展開は、破裂ではない。

 紙が乾きながら開くような、温度のある時間。

 谷は抱きを保持し、山は背伸びを節度で測り、蛇腹は間を律し、花は逸脱を抱える。

 高難度は戻らない。

 かわりに、守る創造が最初から保証される。


 街は薄く開き、分厚くなった。

 薄さは視界、厚さは記憶。

 人の歩幅に合う厚みが、道に沿って敷かれた。

 風見塔の音が、少し低くなり、少し長く鳴る。

 拍がゆっくりであることが、標準になったのだ。


 画面端の自由度バーは、中庸まで戻り、語彙メーターは安定して高い。

 BLSの子ども語辞典はページを重ね、〈#おそいはやさしい〉〈#ぎゅっと谷〉〈#にょきっと山〉〈#くるり蛇腹〉〈#はなびらシールド〉が、標識に昇格する。

 UIは二択に見えて、過程が結果を折り返し続ける。


 ノワールが、空の薄墨で笑った。


〈自由は、危険を抱く。

 帰り道があれば、危険は、遅延する〉


「遅延は優しさ。

 それを標準にする」


 ピースが翼を畳み、金糸がふっと光る。

 相棒契約v2は、今日も更新された。鏡写しの条項が一行、追加される。

 〈協調相棒:白と黒は結びである〉


 白石が最後の字幕を出した。

 〈新ルール:守る創造(BLS-Min準拠+鍵歌標準)〉

 〈事故対応:頁ロールバック/合唱再配列〉

 〈監査:公開レビュー/子ども語辞典準拠〉


 結衣は配信を締め、カメラを下ろす。

 レオンは鞘を壁に掛け、朱雀カイは照度を零に落とし、木暮は工具箱を閉じる。

 会場の中心にあった核は、紙の厚みとして街に混ざった。

 もう、穴ではない。

 頁だ。



 夜、陽翔は机にフロール・キーを置いた。

 鍵は花に、花は鍵に。

 彼はふと思い出して、鍵の一片を折り本の栞に挟んだ。

 扉は壊さず、歌で開く。

 畳んで、もう一度。


 ピースとノワールが肩に並び、風見塔の音を一つ数える。

 鈴に似た音は、遠くまで薄く伸び、紙の背にそっと熱を置いた。


「終わりじゃない。

 再開だよ」


〈頁をめくる〉(ピース)


〈問いを挟む〉(ノワール)


 彼らの声は、同じ高さで重なった。

 街は畳まれ、また開かれた。

 自由は抑えられた。

 だが、守る創造は保証された。

 帰り道は、最初からページの下端に印刷されている。


 陽翔は、ゆっくりと目を閉じた。

 明日も、授業は続く。

 折りで守り、歌で開く。

 世界は、折り本になった。

 だから、持って帰れる。



第18話(最終話) クラフトは生活


 朝いちの風は、紙の角を一枚だけめくるみたいに、やさしく街を起こした。

 封印は「畳み」に置き換わり、鍵歌が標準となった新ルールのもとで、都市はゆっくり呼吸する仕組みを手に入れている。

 谷=抱きしめ/山=背伸び/蛇腹=遅延/花=吸収——四つの指は、いまや教科書の冒頭に載る“生活の基礎”だ。

 BLS-Minの顔アイコンは、横断歩道の端や公園の手すり、学校の廊下の壁に、子どもの字で描かれたシールとして増えていく。

 風見塔の拍は少し低め、0.67。

 相棒契約v2の赤糸は、街の各所を見えない縫い目で結び、公開レビューのログは“子ども語辞典”とすり合わせされながら誰でも読める言語に翻訳されていく。


 陽翔ひなとは理科準備室の鍵を開け、窓を押し上げて朝の気配を呼び込んだ。

 肩の白い鳥——ピースが羽を整え、机の上のフロール・キーをそっとひっくり返す。

 鍵は花に、花は鍵に。

 扉を壊さず開き、閉じずに畳む——この街の“生活の文法”になった所作。


 黒い影が窓の外で羽を休めた。

 ノワール——黒いピース。

 かつては“最短”だけを愛した彼(彼女)の目に、いまは間が暮れている。

 鏡写し条項で結ばれた協調相棒として、白と黒は、朝の空で同じテンポの呼吸を交わした。


〈観測:通学路“ぎゅっと谷”の角度が+**0.5°**微調整。

 ベビーカー流量=昨日比 1.07、回頭率=−0.12〉(ノワール)


〈“遅延は優しさ”のタグ、夜間ログで328件。

 見える安心が“ただいまの鈴”として使われ始めた〉(ピース)


「鈴が『ただいま』を言う街、いいよね」


 後ろから声。

 結衣ゆいが「HINATO LAB」のカメラバッグを肩に、どら焼きと麦茶を机に置いた。

 チャンネル名の横には小さく「陽翔おやすみ中」の帯——もう合図ではなく、スタイルを表す飾りだ。

 表の見せ場と裏の設計室、どちらが欠けても都市は呼吸を忘れる。それを、視聴者も街の人も知っている。


「今日は“公園に風と光の折りを贈る”回。子ども達が主役、私たちは見える安心の添え物。……それと、学校から“折りの文化祭”の取材依頼、来てる」


「先生(木暮)に相談しよう。授業でやりたい」


「もちろん」


 木暮は、白衣の上にヘルメットが似合う物理教師だ。

 三角は正義、蛇腹は呼吸、谷と山は身体——彼の黒板はいつだって、現場で使える式で満ちている。

扉が開き、木暮がハンマーとチョークをぶら下げて現れた。


「おはよう。現実障害は今朝もゼロ。干渉縫い目の閾値は基準内。……で、今日は生活の時間だな」


「はい。クラフトは生活の回です」


「いい言葉だ」


 先生はチョークで黒板に四つの顔アイコンを描き、角度の可変を**0.5°**刻みで薄く書き足した。


「お前たちが作った言葉は、場で強い。場で強い言葉は、一度生活になれば、制度より長生きする。——さあ、行くぞ」


 


◆ 学校——折りの文化祭 ◆


 体育館のステージでは、折りの文化祭の開会ベルが鳴っていた。

 幕が上がると、奥のスクリーン一杯にBLS-Minのやわらかい顔たちが笑い、その前で一年生から三年生までが自分たちの“折り作品”を胸に抱えて並ぶ。


「一組は“こわくない壊れの遊具”!」「二組は“帰り道は花の階段”!」


 舞台袖に並んだ保護者席から、控えめだけど誇らしい拍手。

 設計図=言語は、今日、作文になり、合唱になる。

 子どもたちは実寸大の段ボール街で、谷と山を交互に貼っていく。

 蛇腹は、走り出したい気持ちを呼吸に変え、はなびらシールドは、喧嘩の最初の一声をしゃらりと吸う。


 木暮がマイクを取り、「力学はやさしさの骨です」と一言。

 白石は後方の機材席で証明字幕を走らせ、公開レビューの場を、今日も子どもの背中の高さに合わせて配置した。


 レオン・北条が、鞘を肩にかけて体育館に現れた。

 彼は笑って、マットの上に立つ。


「抜かないRTA、正式競技化。——守るRTA(Return To Affection)」


 ざわっ、と小さく沸く。

 ルールは簡単。

 最短ではなく、最善をタイムで競う。

 谷→谷→山→山の過程を必ず指でなぞり、子ども役のダミーを安全に目的地へ導く。

 転倒は一発失格、遅延による優しさは加点。

 審判は風見塔の拍を基準に「間」を測り、観客投票は過程に重みづけ。

 抜かずに守るが、正式にスポーツになった瞬間だった。


 レオンが起点の合図に鞘を一音打ち、コースの蛇腹が呼吸を始める。

 彼は走らない。

 歩幅を合わせ、谷を先に、山を後へ。

 はなびらが突発音を吸い、観客の息が整っていく。

 ゴールの前、彼は一拍だけ遅延し、ダミーの手をとる所作を“演技”ではなく“実装”として置いた。

 タイムは一位。

 でも数字より、拍手の温度が先に上がった。


 


◆ 街——再生演出の夜 ◆


 夕方、港区の古い倉庫街。

 朱雀カイが“再生演出のアーティスト”としての初個展を開いていた。

 炎は使わない。

 灯だけで、折りだけで、廃材の骨組みに呼吸を教える。


「照度は呼吸に従う。間に従う。派手は、今日はお休み」


 白い幕に投影されたのは、都市の夢の影絵。

 紙魚が光を泳ぎ、折り鶴が静かに背伸びし、風見塔の糸が金の点線で夜の空を縫う。

 AVSの花粉は、人のざわめきを吸い込み、しゃらりと音を残して消える。

 観客は、スクリーンを見るのではなく、その間を見る。

 “見える安心”は、今や芸術の文法だ。


「——再生は演出だ。壊さない演出で、街は美になる」


 カイが最後に舞台の端に置いたのは、大きな蛇腹のベンチ。

 そこに人が座るたび、谷と山が合唱を作り、夜が少し明るくなる。

 タグは自然に増える。

 〈#にょきっと山〉〈#ぎゅっと谷〉〈#おそいはやさしい〉。


 上空の梁から、ノワールが気配だけを落として見守っていた。

 彼(彼女)の問いはもう刃ではない。

 影の端で薄墨がやわらかくほどけ、帰り道の数だけ、観測は笑う。


 


◆ 配信——日々の授業 ◆


 夜半、HINATO LABの配信はいつもどおり静かに始まった。

 タイトルは短く:「生活クラフト#108:雨どいの“花”掃除」。

 説明文は長く、しかし簡素だ。

 はなびらシールドの掃除手順、蛇腹の点検、谷の角度の見直し、山の視界の整え方。

 子ども語辞典の更新:〈#はなびらのほこり=花粉ってよぶ?〉〈#くるりの数はいくつがきもちいい?〉。


 結衣はコメントの火花が散る前に**“引き寄せ”で温度差を埋め、陽翔は袖から設計で支える。

 白石は証明フローをUIの隅で静かに走らせ、木暮は現場の癖を短い図に。

 レオンは今日も鞘の一音だけ、間の整流器。

 朱雀カイは照度を一段落とし、チャットの拍**を呼吸に合わせる。


 画面には、四つの指が描かれた小さなカードの束が置かれている。

 配布はもう大規模でなく、日々の雑貨屋や文房具店に混ざって、いつのまにか手に入る。

 生活のなかに、折りは溶けた。


 


◆ 贈り物——公園の風と光の折り ◆


 翌朝。

 陽翔と結衣とピースは、近所の公園に贈り物を運び込んだ。

 子ども達の小さな手、保護者の見守る目、犬の尻尾。

 紙骨梁ペーパーボーンの細い梁と、発光菌ランプのビン、紙風車、風鈴、そしてフロール・キーの薄い花弁。

 ベビーカーと車椅子の導線を谷で抱き、山で視界の先を立て、蛇腹で遊戯スペースへ間をつくる。

 風は風路ドレイン改でゆっくりと誘導され、灯は木陰の葉脈に沿って“帰り道”の模様を落とす。

 AVSの花は、転ぶ前の「危ない!」を吸い、勝ち気な兄弟喧嘩の第一声をしゃらりと抱きしめ、置き忘れられた感情に小さな帰路を与える。


「ここに“眠れる丘”、作ろうか」


 陽翔が指で地面を撫でる。

 ピースが羽先で0.5°刻みの角度を影に描き、ノワールが結果側の鋭さを鈍らせる。

 丘は、走った足音を呼吸に変え、木漏れ日の拍で子ども達のまぶたを温める。


「鍵歌、いくね」


 結衣が、鈴をひとつ鳴らした。

 鍵は差し込まれない。

 歌だけが薄く公園に敷かれ、扉は——壊されず、畳まれず、開きっぱなしのまま安全に保たれる。

 子ども達は“ただいま”を練習するみたいに、風鈴の音へ返事を返す。


 ベビーカーの母親が、カードを一枚指でなぞりながら笑った。


「“ぎゅっと谷”、覚えました」


「“にょきっと山”もね!」


 兄が胸を張る。

 その声が、それ自体タグになって、BLSの語彙メーターの丸い針がひと目盛り上がる。

 制度はいつか変わる。

 でも、語彙は、場で育つ。


 風見塔が、公園の奥で一音落とした。

 それは鐘ではなく、生活の音だ。

 陽翔はピースの背を撫で、ノワールと目を合わせる。

 白と黒の羽が、同じ角度で畳まれた。


〈観測:幸福度の擬似指標、**“ただいま”**の頻度が+0.23〉(ノワール)


〈鈴の返事=帰路の数。安全が歌になる〉(ピース)


「——贈れたね」


 結衣の声は、朝の光みたいに澄んでいた。


 


◆ エピローグ——生活の速度 ◆


 午後、学校の放送室から「折りのニュース」が流れた。

 レオンの“守るRTA”は予選リーグ制に移行、間をどれだけ美しく置けるかの採点が加算された。

 朱雀カイの“再生演出”は、港区から他地域へ巡回決定。灯と間の展覧会として、見える安心が美術教育に組み込まれる。

 白石の公開レビューは、“封印=一時停止+帰路設計”の教科書化に一歩前進。開発二課の若手は「証明は優しさの骨」のステッカーをラップトップに貼り始めた。

 木暮は“生活土木”のワークショップを定期開催。三角と蛇腹の講義は子どもだけでなく、町内会の定番行事に。

 子ども語辞典は、今日も新しい言葉を受け入れる。

 〈#おそいはやさしい〉〈#くるりの数〉〈#はなびらの掃除〉——辞典は厚みを増し、紙が擦れて音を出す。


 夕景、校舎の廊下に風が通る。

 陽翔は黒板消しを片づけ、窓の外へ目をやった。

 公園の眠れる丘には、もう三人が横になって空を見ている。

 遠くの屋上では、レオンと朱雀カイが打ち合わせをし、鞘の一音と灯の明滅が交互に合図を送る。

 研究棟B1の地下では白石が最後のレビューにチェックを入れ、木暮は工具箱を閉じる指で蛇腹を一度縮めて伸ばした。


 ノワールが窓の桟にとまり、いつもの透明な声で——けれど、わずかな温度をにじませて言う。


〈問いは、生活の中で薄まる。

 答えは、生活の中で濃くなる〉


「問いを薄めるのは、帰り道の数。

 答えを濃くするのは、一緒にやる回数」


 陽翔は誓紙を胸ポケットにもどし、フロール・キーを指で鳴らす。

 鍵は花に、花は鍵に。

 この往復は、もう“技術”ではない。

 ——生活だ。


 夕焼けの端で、風見塔が二音、間を置いて鳴った。

 この街の拍は、今日も遅く、やさしく、正確だ。


 


 * * *


 


 夜、配信の終わり際。

 結衣はカメラを少し下げて、視聴者の目線を子ども達の高さに合わせた。

 画面には、公園の風と光の折りが淡く映り、はなびらが一度、しゃらりと鳴った。


「……おやすみ。

 また、明日」


 エンドカードが現れる前、陽翔はそっとマイクに近づき、静かに言葉を置いた。

 この言葉は、最初の畳みを始めた日に、胸の折り目に刺した“栞”の文で、ずっと生活に言い換えられてきた一節だ。


「世界は壊さない限り、何度でも作り直せる。」


 EDへ。

 風見塔のテーマがひと音遅れて鳴り、夜は蛇腹でたたまれ、明日の頁へと流れ込んでいく。


(完)



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