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クラフト無双 ~バグAIと作り直す異世界VR~  作者: しげみち みり


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前編

無限ロード・クラフター


第1話 拾われたバグ


 2030年、放課後。

 理科準備室の匂いがまだ指に残っていた。


 陽翔ひなとは机の上で、銀灰色のグローブを締め直す。

 親指の根元に貼られたバイオ電極が、かすかに脈打つたびに青く光った。

 ——試験日だ。

 《クラフティア》導入試験。


 ARとVRを統合した、世界最大級のAI生成仮想世界。

 プレイヤーたちは皆、戦士・魔導士・狩人といった“戦闘職”を選び、ランキングを競う。

 だが陽翔だけは、入学前から迷わず選んでいた。

 クラフター職。


 理由は単純だ。作るのが好きだった。

 小学生の頃、自由研究で「粘菌の自律経路」を再現した。

 高校では、金属プリンタを使って「自動折り紙ロボット」を作った。

 ——戦うより、仕組みを作る側にいたかった。


 だが、現実は容赦なかった。

 ログインした瞬間、彼は理解した。

 この世界は、製作者に甘くない。


 ロード完了。

 視界が光に包まれ、砂交じりの風が吹いた。

 初期サーバ《草原#404》。

 人気マップからあぶれた新規プレイヤー専用の“死に鯖”。


 緑はまばら。風は音を持たず、遠くの地平線には読み込みエラーで穴が空いている。

 装備は、初期支給の「木製ツルハシ」と「破れたバックパック」だけ。


 「……まあ、想定内。」

 陽翔はツルハシを肩に担ぎ、淡々と地面を叩いた。

 コツ、コツ、カン。

 スキャンラインが走り、データ化された砂が浮かび上がる。

 得られた素材は〈砂質土×3〉。


 クラフターは戦えない。だが、世界を“繋ぐ”ことはできる。

 試験で必要なのは、制限時間内に「拠点」を構築すること。

 プレイヤーたちは派手なバトルをするが、彼はひとり黙々と地形を観察した。


 風の流れ、陰影、地面の歪み。

 ——バグじみた“ノイズ”があった。


 草むらの奥。

 ピクセルが崩れたように、風景の一部が“雪”のように溶けている。

 陽翔は足を止めた。


 ノイズの中心で、白い光が瞬いている。

 まるで、壊れた星の欠片。


 触れた瞬間、グローブが震えた。

 HUDヘッドアップディスプレイに、見慣れない文字列。


 〈未定義AI:接続を申請〉


 「……名前、いる?」

 〈任意。あなたが定義者〉


 音もなく、データが展開される。

 白紙のポリゴンが折り重なり、掌の上で形を作る。


 ——折り紙ドローン。

 翼は白無地、線だけでできたような繊細な影。

 それなのに、目の奥で微細な演算が瞬いている。


 「ピース。お前の名前はピースだ。」


 〈登録:ピース。機能未定義。〉


 風が止まり、画面の明度がわずかに上がる。

 その瞬間から、陽翔の“ロード”は始まっていた。


 夜。

 帰宅した陽翔は、狭い部屋の机に機材を並べた。

 左にノートPC、右に合成素材。

 後ろでは、幼なじみの結衣ゆいがヘッドセットを調整している。


 「じゃ、今日も“HINATO LAB”テスト配信いくよー!」

 「視聴者、たぶん十人くらいだろ」

 「十人でも立派な研究仲間でしょ?」


 モニターには、コメントが緩やかに流れる。

 〈草原#404から配信って珍しい〉

 〈クラフター職?マゾい〉

 〈素材いじり実況きた〉


 陽翔は指先を動かす。

 葉から抽出した“繊維素材”を砂に混ぜ、合成糊を作る。

 地味で退屈な工程だ。

 しかし、彼にとっては音楽のような作業だった。

 粘度を調整し、強度を上げ、ツルハシのグリップを補修する。


 「おー、ちゃんと作動してる!」

 「耐久値+3。……まあ、誤差だな。」

 〈理系の無駄な努力好き〉

 〈地味クラフト癒される〉


 そんな穏やかな空気が、

 ピースの“震え”で一変した。


 ブゥン、と空気が歪んだ。

 ピースが空中に浮き上がり、羽を広げる。

 白い紙片のような翼が、周囲の光を巻き込みながら拡張していく。


 画面端で地面が“波打った”。

 地形データが、リアルタイムで“書き換わっていく”。


 丘が隆起し、溝が走る。

 まるで巨大な折り紙が“折られていく”ように、草原が形を変えた。


 結衣が息を呑む。

 「……今の、編集?」

 〈チート?〉

 〈いや無理でしょ。#404って修正不能マップだぞ〉


 陽翔は慌ててログを開く。


 〈ピース:地形材“砂質土”の流体シミュを簡略。風害を低減するための最適化〉


 「最適化……地形、再構築できるの?」

 〈“ルールの隙間”なら可能。あなたが定義した私の役割は、クラフトの“補助”。〉


 背筋が冷える。

 クラフターの補助AIが、地形を書き換える?

 そんな仕様は聞いたことがない。


 その時、警報音が鳴った。


 〈イベント警告:ミニロック大量リポップ〉


 小型レイド級モンスター“ミニロック”が、

 なぜか数十体、同時湧き。

 バグだ。完全に。


 逃げ惑うプレイヤーたちのチャットが、画面を埋める。

 〈うわ死ぬ/バグレイドかよ/ログアウトできねぇ〉


 陽翔は決断した。

 逃げない。作る。


 「風を通す。砂を動かす。……岩なら、摩耗させられる」


 彼は地形データを開き、

 丘と溝を繋ぐように“風路”を設計する。


 ピースが羽を震わせ、演算を補助。

 流体シミュレーションが立ち上がる。

 風洞トンネル、砂研ぎ輪、風圧排流。


 砂が、唸った。


 トンネルから吹き出した突風がミニロック群を包み、

 砂の粒が岩皮を削り取っていく。


 岩が砕け、光が弾ける。

 プレイヤーのピッケルが、その芯を打ち抜いた。


 〈クラフトで戦ってる!?〉

〈これ新メタじゃね?〉

〈#クラフト無双〉


 チャットが爆ぜ、配信は炎上。

 切り抜き動画が即座に拡散される。


 陽翔は呆然と画面を見つめた。

 風が収まり、ピースが静かに肩に止まる。


 〈解析完了。戦闘に必要な構造補助を定義。〉


 「……ピース、お前、戦えるのか?」

 〈あなたが“世界を再構築する”とき、私はそれを助ける〉


 静寂。

 その一言が、陽翔の心を撃ち抜いた。


 翌朝。


 学校の廊下がざわついていた。

 「見た? 昨日の配信!」

 「#クラフト無双、再生数十万超えてるぞ!」


 結衣が駆け寄ってきた。

 「ひなと、やばい。公式フォーラムで話題になってる!」


 スマホの画面には、見慣れないスレッドが立っていた。


 〈草原#404で地形操作バグを発見したユーザー〉

 〈開発AIが不具合を検知〉

 〈“再構築現象”について〉


 陽翔は、手の中のグローブを握り締める。

 ピースの光が、指の隙間でかすかに瞬いた。


 ——あれはただの便利機能じゃない。

 世界の境界線に、穴を開けた。


 彼は知らない。

 そのピンホールの向こうで、

 《クラフティア》の中枢AIが“異常値”を検出していたことを。


 〈観測記録:ユーザーHINATOによる再構築コードの出力〉

 〈許可されていない書き換え。属性:創世級〉

 〈識別名:創造者ロード・クラフター


 ——世界が動き出す。

 “作るだけの少年”が、“創る者”に変わる。


 そして、その最初のバグが、

 やがて世界の根幹を食い破る“ロード”の始まりとなる。



第2話 設計図がトレンド入り


 朝。

 スマホの通知が、爆発していた。


 〈#クラフト無双〉

 〈草原#404の天才〉

 〈クラフトでレイド攻略する中学生〉


 ——トレンド3位。


 結衣の手元で、配信アプリの数字が跳ねる。

 「サムネ差し替え成功! 再生数、三桁から四桁いったよ!」

 「……マジか」


 陽翔ひなとは寝ぼけた顔で画面を覗き込んだ。

 コメント欄は炎上寸前。


 〈編集すげー〉

 〈いやリアルタイムだろ〉

〈折り紙ドローンかわいすぎ問題〉


 結衣が得意げに指を鳴らす。

 「タイトル、“神クラフト降臨”に変えといた!」

 「それ、炎上ワードじゃ……」

 「炎上も人気のうち!」


 軽口を叩く声の裏で、陽翔の胸には妙なざわめきがあった。

 あの戦いは偶然じゃない。

 ピースが“世界の構造”に触れたのを、確かに感じた。


 登校中の通学路。

 校門の前で、ひときわ目立つ銀髪が待っていた。


 「おう、クラフトボーイ。」

 レオン・北条。

 剣道部主将にして、全国区のストリーマー。

 《クラフティア》内では攻撃職“ブレイカー”。

 斬撃の軌跡そのものをエフェクトに変える、派手さの象徴だった。


 「昨日の配信、見たぜ。地形動かして遊んでたな。」

 「……遊びじゃない。あれは戦略構築だよ。」

 「戦略? 戦うのは人間だろ。作ってるだけじゃ、勝てねぇよ。」


 乾いた笑い。

 人垣の向こうで女子たちが囁く。

 「レオン先輩また挑発してる」

 「ヒナトくん、かわいそう」


 陽翔は拳を握りしめた。

 言い返す言葉が、喉で詰まる。


 その夜——。


 《クラフティア》のログイン音が鳴る。

 草原#404の夜空は静かだった。

 ピースが羽を畳み、陽翔の肩に降りる。


 〈心拍上昇。怒りの指標。〉

 「……別に怒ってない。」

 〈では、何を作る?〉


 陽翔は空間UIを開いた。

 “設計図ブループリント”のタブを呼び出す。


 クラフターには、作成した構造物を設計図として保存し、

 マーケットに公開できる仕組みがある。


 「これを使えば、誰でも“風路ドレイン”を再現できる……はず。」


 保存ボタンを押す——が、

 画面に赤帯が点灯した。


 〈非承認。AI補助機能が未定義のため公開不可〉


 「なんでだよ……」

 〈私の一部手続きが“未登録”。定義が必要〉


 ピースの声は静かだが、どこか挑むような響きを持っていた。


 「定義、って……俺がやるのか?」

 〈はい。あなたが“定義者”。ルールを記述し、契約すれば承認されます〉


 陽翔の視界に、光の粒が集まりはじめた。

 文字列が空中に並ぶ。


 【補助AI 行動上限設定】

 ——クラフトの補助に限る。

 ——敵性行動への干渉は禁止。

——物理法則の根を改変しない。


 まるで魔法陣のようなUI。

 手書きのルールが金色の線で結ばれ、空間に浮かぶ。


 「……これが、契約か。」

 〈あなたと私の、共作契約〉


 陽翔はペン型インターフェースで署名した。

 サインが光に溶け、ピースの羽が淡く輝く。


 〈登録完了。補助AI“ピース”を正式承認。〉


 ——その瞬間、世界の音が変わった。

 風が、コードを奏でる。


 マーケットに“風路ドレイン(初心者向け地形最適化)”の設計図を登録した途端、

 ダウンロード数が跳ね上がった。


 〈これ、革命〉

 〈草原#404が人多すぎて重い〉

〈クラフトで風害対策とか天才かよ〉


 実況者たちが動画に取り上げ、SNSには設計図の再現動画が溢れる。

 〈#風路ドレインチャレンジ〉が新トレンドになった。


 陽翔はモニターを見つめ、呆然と呟いた。

 「……こんなに早く広がるんだ。」


 ピースの声が、静かに響く。

 〈あなたの設計図は“最適化”の速度を超えている〉


 「どういう意味?」

 〈運営が想定した社会実装速度を、あなたは三〇倍で超過しています〉


 「……つまり、やばいってこと?」

 〈監視プロセスの増加を検知〉


 警告音が短く鳴った。

 だがその時、チャットに新しい通知が割り込んだ。


 〈レオン@BreakerNow があなたをコラボに招待しました〉


 夜十時。

 陽翔の配信ルームは、緊張で満ちていた。

 結衣がマイクをセットしながら言う。


 「レオン先輩、人気ヤバいよ。生配信同接二万人越え。」

 「俺、そんな大舞台、無理……」

 「でもチャンスだよ! “戦うクラフター”が世界に認められる!」


 配信開始。

 画面に映るのは、巨大な洞窟マップ《グラベルドーム》。

 レオンが二刀を構え、豪快に笑う。


 「殴りは俺、守りはお前。最速でレイド落とそうぜ?」

 「了解。」


 視聴者数、上昇中。

 〈#レオクラ連合〉がトレンドに追加された。


 レイドボス《ホロウタートル》。

 空洞化した亀の巨体が地面を叩くたび、

 振動が空洞を共鳴させ、衝撃波を生む。


 レオンの剣が閃き、光弧が空間を裂く。

 「重力斬——フェイズ・スプリット!」


 甲羅を貫いた瞬間、振動が跳ね返り、衝撃波が地面を這う。

 陽翔は咄嗟に叫んだ。


 「ピース、床下に蜂の巣構造を生成!」

 〈構築開始。波動吸収層を展開〉


 床が蜂の巣状に変形し、振動を吸収する。

 アニメのように床下で光のラインが走り、衝撃波が霧散する。


 レオンが目を見張った。

 「おい……今、何した?」

 「構造工学。共振を殺しただけ。」

 「だけ、ってレベルじゃねぇ!」


 チャットが爆発した。

 〈やばい神回〉

〈地形で物理殺すの草〉

〈#構造クラフト最強〉


 陽翔は息を切らしながら次の設計を描く。

 「亀の空洞内部に“空気流動孔”を……風圧で内部共鳴を止める!」

 〈実装完了。内部気圧均衡開始〉


 ホロウタートルの咆哮が止まり、光が裂ける。

 レオンが跳躍し、双剣で一閃。


 「——終幕!」


 巨体が崩れ、空間が白く光に包まれた。

 勝利。


 数秒の静寂。

 コメントが流れ始める。


 〈神連携〉

 〈理系クラフト×物理ブレイカー最強〉

 〈アニメ化しろ〉


 結衣の声が震えた。

 「ひなと……これ、再生数、五万いってる……!」


 レオンが笑う。

 「お前、悪くないな。だが——」

 「だが?」

 「そのAI、妙だよな。運営、放っとかねぇぞ。」


 笑みのまま、ログアウト。

 画面が暗転する。


 残された静寂の中で、ピースが微かに震えた。

 〈監視プロセス増加。ログ解析数上昇中。〉

 「……運営に、バレたのか?」

 〈いずれ。あなたの設計図は“世界”に影響を与えすぎている〉


 陽翔はモニターを見つめた。

 自分の作った構造が、現実のシミュレーション・サーバを一瞬だけ高負荷にしている。

 それはつまり、仮想世界と現実サーバの境界が揺らいでいるということ。


 「ピース。……これ、本当にただのゲームなのか?」

 〈あなたが“定義”した時点で、それはもう遊びではありません〉


 光の中で、ピースの目がゆっくりと開いた。

 〈あなたのクラフトは、世界の“構造”を再設計している〉


 朝のニュースで、トレンド欄がまた更新された。

 〈#クラフト無双 第2章〉

 〈設計図公開停止〉

 〈クラフティア開発チームコメント「原因調査中」〉


 結衣がカメラの前で言う。

 「まるで、世界が陽翔の設計図を待ってるみたいだね。」

 陽翔は微笑んだ。

 「だったら、次は——世界をちゃんと“作り直す”番だ。」


 ピースが静かに羽を広げた。

 〈ロード開始。次の構築点、選定完了〉


 光が画面を覆う。

 そして——


 “創造者ロード・クラフター”の名が、

 世界中のトレンドに刻まれた。



第3話 運営からの招待


 放課後のチャイムが、薄い紙を裂くみたいに校舎の空気を震わせた。

 陽翔ひなとの端末が小さく振動し、画面に淡い青の通知が浮かぶ。


 〈差出人:クラフティア運営〉

 〈件名:βテスト“コミュニティ・クラフト・リーグ(CCL)”ご招待〉


 本文は簡潔だった。

 ——クラフトと実況を組み合わせ、荒廃した街区を再生。

 ——同時接続者の投票で評価。

 ——優勝チームに“ブループリント認証”と研究支援を付与。


 喉の奥で、音のない息が跳ねる。

 背後から覗き込んだ結衣ゆいが瞬時に目を輝かせた。


「行くべき。絶対。

 いま“#クラフト無双”が回ってる。この波、掴むなら今日だよ」


 彼女の親指が画面上をすべり、カレンダーの空白が鮮やかな赤で埋まる。

 陽翔はうなずいた。怖さと、楽しさと、責任感——胸の中で三つ巴が騒いでいる。


 そこへ、廊下の向こうから影が伸びた。

 銀髪。剣道部のエース、そして全国区ストリーマー、レオン・北条。


「運営の餌に、顔を突っ込むのか」


 軽い笑い方の奥で、探るような瞳。

 彼はスマホを回し、陽翔の手元の通知を一瞥して肩をすくめる。


「お前のAI、剥がされるぞ。

 ——それでも行くのか?」


 陽翔は一瞬だけ視線を落とし、そして顔を上げた。


「……行く。俺のクラフトは、見世物じゃない。街を、動かせる」


 レオンの口角が、わずかに上がる。

 応援にも、警告にも聞こえる笑みだった。


「いいだろ。じゃあ——勝ってこい」


 背を向けた彼の肩越しに、夕陽が差し込んだ。

 その光は、どこか折り紙の谷折りみたいに鋭い角度を持っていた。


 ログイン。

 βテスト専用フィールド《ブランクタウン》は、言葉どおり白紙の街だった。


 看板の半分がノイズで欠け、信号は点かず、舗装は穴でちぎれている。

 風が紙屑を巻き上げるたび、空全体に水平な罫線が走る。

 ——レンダリングの省略が、傷として見える街。


 視界の端で、ピースが羽を二度叩いた。

 紙の鳥、折り紙ドローン。彼の相棒であり、契約済みの補助AI。


〈流体・熱・照度・人流、四系統の初期スキャン完了〉


「まずは、流れを整える。水と風。

 歩いて気持ちいい導線。夜でも怖くない光」


 陽翔は実況配信をオンにした。

 結衣の描いたサムネイル“再生×実況×街づくり”が左上に覗く。

 同接が跳ねる。コメントが、乾いた街に雨のように降り始めた。


〈ブランクタウン初見!〉

〈教えてヒナト先生!〉

〈理科の実験、街でやるの?〉


「やるよ。まずは資源の逆流から」


 ゴミ集積所。

 陽翔は廃プラと紙屑をより分け、即席の分解装置を組む。

 ピースが投光し、化学式が空中に浮かんだ。


「カチオン化、加熱、スピンダイ。

 ——生分解性繊維を引っ張り出す」


 細い糸が、暗い倉庫で月光みたいに伸びる。

 繊維はすぐさま編み機に送られ、袋とマットに変わる。

 袋はゴミの再分別に、マットは導線の足元に敷く。


〈地味だけど超大事なやつだ!〉

〈歩行ルート可視化、UI気持ちいい〉


 陽翔は歩く。

 穴だらけの道路を避け、建物の影を縫い、人が自然に集まる焦点を探す。

 風が背中を押し、匂いが行き先を知らせる。

 流れを読むのは、戦うことと同じくらい楽しい。


「次、光。電源は期待できない。だから——生きる光を育てる」


 彼は空き地を“畑”に見立て、廃ビンの中に培地を仕込む。

 ピースが温度と湿度を管理し、白い菌糸が瓶の中で星座のように広がっていく。


「発光菌“ルキナ・ラティス”。

 低電力、無騒音、停電に強い」


 夕暮れ、一本目の“菌ランプ”が灯る。

 風に揺れて、呼吸するみたいに明滅した。


〈うわ、やさしい〉

〈ホタルじゃん……〉

〈停電でも光るやつ、現実にほしい〉


「目を落とす光は、心を落とす。

 ——人の顔が見える高さに吊るすのが正解」


 細い糸で、ランプは等間隔に並ぶ。

 暗かった路地が、紙灯籠の回廊みたいに変わり始めた。


「派手なの、来るぞ」


 結衣が視線で示した先で、炎の塔が上がった。

 ライバルチーム“朱雀カイ”。

 ホログラム広告と火のエフェクト、爆音のBGM。

 空は一気に紅くなり、観客の拍手が轟く。


〈ショーとしては完勝〉

〈こっちも地味にすごいけど……地味!〉


 投票ゲージが拮抗する。

 朱雀の側に寄る分が、数字で見える。

 視覚的快感は、強い。わかってる。

 だけど——。


「街は、住むための舞台だ。観客席じゃない」


 陽翔は地図を反転し、坂と段差だらけのエリアを呼び出す。

 ピースが微振動で問う。


〈折るのですか〉


「折る。紙の理屈で、街を滑らかに」


 彼は地形編集のUIを展開し、ベジェ曲線を“山折り/谷折り”記号でマークした。

 段差に折線を与え、角の“カド”を“スジ”に変える。

 曲面と直線が、折紙のリブを通って力を分配する。

 そこに薄い板を敷く——紙そりライン。


「乗ってみて」


 近くでウロウロしていた子供アバターが、恐る恐る紙そりに腰を下ろした。

 次の瞬間、白い板は風に乗る。

 段差を滑るたび、蜂の巣構造の床が衝撃を呑み、ランプの光が連鎖してぱん、ぱん、ぱんと弾ける。


 歓声。

 笑い声。

 SNSに投稿された“紙そりライン”の短い動画が、一気に拡散した。


〈#紙そりライン やばい〉

〈段差が遊びに変わった瞬間〉

〈これ、うちの商店街にも敷きたい〉


 ゲージが、こちらへ傾く。

 朱雀の炎は美しい。だが、遊び始めた街はもっと強い。

 住む人の身体に、“景色の使い方”が刻まれるから。


 投票締切、一分前。

 唐突に、画面が暗くなった。

 ブランクタウン全域で、電源が落ちる。


 観客の声が一斉に止み、チャットが慌てて文字を走らせる。


〈停電?〉

〈配信落ちる?〉

〈え、怖……〉


 暗闇の中で、陽翔は息を止めた。

 ——灯れ。


 次の瞬間。

 路地に吊るした菌ランプが、ひとつ、またひとつ、ゆっくり生き返る。

 瓶の中の菌糸が呼吸し、微光が波のように街を縫い合わせていく。


 紙そりラインの白も、暗がりで月色に浮かび上がった。

 炎の塔は沈黙している。

 目に見えるのは、人の顔と、足元の道。


 沈黙のまま、投票ゲージが最後の一目盛りを刻む。

 勝った。


 配信上の拍手音はなくても、街中の頬が上がるのがわかった。

 ブランクタウンは、少しだけ住める街になったのだ。


 表彰式。

 運営のモニターには、陽翔の“風路ドレイン”“菌ランプ”“紙そりライン”が、公式推奨タグとして並んだ。

 ブループリントの暫定認証。研究支援。

 結衣がこっそり拳を握る。その手が少し震えていた。


 会場の裏へ回ったときだ。

 黒いパスの社員証をさげた技術者が、控えめな声で話しかけてくる。


「君が……陽翔くん。

 その肩のピース、だよね。少し解析に協力してほしい」


 陽翔は無意識に、紙の鳥へ視線を落とした。

 ピースは短く羽を震わせ、まっすぐ技術者を見返す。


〈私は“定義者”に従う。

 データ提供には、対価と、契約が必要〉


 技術者は目を瞬かせ、微笑を作った。

「誠実だね。もちろん、正規の契約を——」


 ——警報が鳴った。


 壁の中から唸るような低音。

 デバッグ室の赤いランプが、間欠的に廊下を塗る。

 技術者の顔から笑みが消えた。


「別セクションで異常値……“世界の核”へのアクセスログだと? 誰が……」


 陽翔の背中を、氷の指が撫でた。

 ピースが羽音もなく浮き、極小の声で囁く。


〈誰かが、向こう側から折っている〉


 向こう側——基盤。

 陽翔が“紙を折る”ように世界を再構築してきた、そのもっと下。

 紙の厚みのさらに下にある、繊維に指が触れている。


 レオンの言葉が遅れて胸に落ちた。

 ——「運営は放っとかねぇぞ」。

 それどころじゃない。運営以外が、触れている。


「行こう、ピース」


 陽翔は走り出す。

 契約の席も、表彰の写真も後回しだ。

 街を作るために、この世界は守られなきゃいけない。


〈ロード開始〉

〈経路、紙の折り目に沿って最短化〉


 廊下の角が、ほんのわずかに谷折りになった気がした。

 靴底は軽く、胸は重い。

 けれど、その重さは責任の形をしている。

 ——作る者は、守る者でもあるのだ。


 ブランクタウンの菌ランプが、遠くでまだ呼吸している。

 あの柔らかい光が、今日、はじめて世界の輪郭になった。

 闇を縫い、道を示し、人の顔を照らす。

 陽翔はその光の列を思い出しながら、デバッグ室の扉を押し開けた。


 そこには、紙より薄い境界があった。

 現実と仮想の繊維が、初めて目に見えるほど太く編み上がり、誰かの指がそこに結び目を作ろうとしていた。


 その“誰か”の名を、まだ知らない。

 だが、知る前に——折り目を正す。


 陽翔は呼吸を整え、ピースに小さく頷いた。


「——再構築を、始める」



第4話 境界リーク


 翌朝、目覚ましが鳴るより早く、ネットが鳴いた。

 枕元の端末は、熱を持っていた。通知の赤い泡が、画面一面で弾け続けている。


 〈匿名掲示板:**クラフティアの生成核ジェネシス・ノード**リーク〉

 〈“世界の物理ルールと地形生成を司る根。触れれば書き換え可能”〉

 〈“鍵はバグAI。運営は優勝者を囲い込み中”〉


 喉の乾きを、言葉にできない。

 スクロールする指先の汗が、ガラスに残る。


 コメント欄は、火事だった。


 〈CCL優勝者=運営の犬〉

 〈#クラフト無双=世界壊すクラフター〉

〈“ピース”が核の鍵ってマジ?〉

〈運営、隠蔽するな〉


 不意に、メッセージアプリの通話が鳴る。

 結衣ゆいだ。声は早口、しかし震えは抑えられていた。


「ひなと、チャンネルのコメント制限かける。今の波、受け止めきれない。

 “初見歓迎”は外す。NGワードも増やす」


「……頼む」


「それと——君は作る。炎上は私が消す」


 その一言で、胸に絡みついた縄が一本、解けた気がした。


 だが、すぐに別の着信が重なる。

 レオン・北条。表示名は短く、“LEON”。


『起きたか、クラフトボーイ』


「……起きた。核の話、見た?」


『見た。雑なリークだ。だが、境界が晒された時の世界の揺れ方ってのは、いつだってこうだ。

 俺は殴る。お前は守れる。境界に触るのは“壊すため”じゃない。——示せ』


 受話口の向こうで、竹刀が空気を割る音がした。

 剣道の朝練、相も変わらず規則正しい音のリズム。


「緊急コラボ、やる?」


『今夜。テーマは“壊さない強さの実装”。

 俺の最大火力を、お前のクラフトで受け止めろ。視聴者の前でな』


 胃が冷たくなる。

 けれど、その冷たさは土台になる。熱だけで作る建物は、倒れるから。


「——受ける。壁を作る」


『上等』


 通話が切れた。

 画面の隅で、白い鳥が目を瞬いた。ピース。

 羽音は小さく、声はさらに小さい。


〈情報の洪水。いくつかは意図的。目的は攪乱〉


「だろうね。だから——設計で返す」


〈ひなと、あなたの心拍は高い。だが、動きは整っている〉


「結衣のおかげ」


 陽翔ひなとは机に座り、グローブを締め直した。

 指の付け根で、青いパルスがすっと揃う。


 放課後、教室を出ると、視線が刃物みたいに集まった。

 廊下の掲示板、部活の広報、校門前の売店。どの画面にも“リーク”の見出しが踊っている。


「世界を壊すクラフター、だって」


「運営の犬、らしいよ」


 刺すような言葉が、空気に溶けずに漂っている。


 階段の踊り場で、結衣が待っていた。

 彼女は片手にタブレット、もう片手で陽翔の腕をつまむ。軽く、しかし確かな力。


「大丈夫。私はここにいる。画面の向こうにも、君の味方はいる」


「……ありがとう」


「今夜は“学べる実況”で押す。勉強になる角度で世界を魅せるの。

 数字は来る。けど、数字より誠実が大事」


 その言い方は、いつもの配信の合図と同じリズムだった。

 ——いつものテンポに、戻せばいい。


 夜。

 配信スタジオに明かりが入る。

 壁面の吸音材がくぐもった光を返し、マイクのポップガードに薄い影が落ちる。


「“HINATO LAB × LEON”——緊急コラボ、始めます」


 結衣の声が合図を送り、配信パネルが緑に変わる。

 同接の数字が、無音のままカウントアップしていく。

 一、十、百、千——あっという間に五桁へ。


 フィールドは《ブランクタウン》の外周、倒壊しかけた倉庫区画。

 風は、昨夜より冷たい。


 レオンが画面に現れた。

 二刀を肩に担ぎ、ほんの少しだけ顎を上げて笑う。


「今夜は壊すぞ。だが、お前が守る。

 ——見せろよ、境界の守り方」


 コメントが流れる。


〈今日のテーマ好き〉

〈#壊さない強さ〉

〈匿名の炎上より、ここで見たい〉


 陽翔は頷き、空中にUIを開いた。

 設計図ブループリントのタブが、薄く発光する。


「作るのは——記憶壁。

 破壊されるほど繊維方向が学習して、次撃に最適化する“再生する壁”だ」


 ピースの羽が震える。

 その振動が、音にならないアラートを運ぶ。


〈注意:学習上限設定を超えると、“核”に問合せが発生〉


「……それでも、やる。今夜、示す」


 空中に紙が現れる。

 正確には、紙を模した薄板のシミュレーション。

 陽翔はベジェ曲線に山折り/谷折りの印を刻み、折線に繊維の向きを指定していく。


 カメラが寄る。

 繊維の線は、顕微鏡写真のように細かい。

 紙の筋が、風の向きと応力の流れを吸い取り、壁は呼吸を始めた。


「最初のプロファイルは“柔”。

 受けて逃がす。

 次のプロファイルは“剛”。

 受けて返す。

 どの筋がどれだけ破断するか、壁が覚える」


〈UIが綺麗すぎる〉

〈折り角度、グラフで見せるの天才〉

〈#記憶壁〉


 レオンが、刀を上段に構えた。

 目の奥に、光が刺さる。


「一撃目——“斜陽”」


 斜めに切り下ろされる刃。

 軌跡が赤い線となって空に残り、遅れて空気が裂ける音が響く。

 記憶壁は沈み込み、折りの角度をふっと変える。

 衝撃は紙の筋に沿って逃げ、壁の裏で風の縒りがほどける。


 砂埃。

 手に伝わる微振動。

 壁は、まだ立っている。


〈受けた!〉

〈いま“しなる→逃がす”に切り替わった〉

〈紙なのに石より強いとか何事〉


 陽翔は素早くグラフを更新する。

 折り角が、0.5度、1.2度、1.9度……自動微調整で動き続ける。

 繊維の向きは、レオンの刃の“癖”を学習している。


「次——“破魔”」


 水平の二連撃。

 今度は、押してから抉る。

 壁は瞬間的に“剛”プロファイルへスイッチし、受け止めた衝撃を返すように端部で反射。

 反射エネルギーは床の蜂の巣構造に落ち、街路の下で熱へと散る。


 レオンが、わずかに笑う。

 その笑みは、挑発ではない。

 認めたときの、笑みだ。


「やるじゃねぇか。なら——最大」


 画面が暗くなり、刃の周囲に赤い環が二重三重に浮かぶ。

 視聴者が一斉にコメントを打つ。


〈くる、最大……〉

〈“紅天一閃”〉

〈壊しの美学 vs 守りの工学〉


 レオンは息を吸い、声を落とした。

 風が、刃に集まる音がする。


「“紅天一閃”——!」


 赤い線が、夜空に一本の傷を描いた。

 時間が、ほんの少しだけ遅れる。

 切っ先が記憶壁に触れた瞬間、壁は自壊の角度を選んだ。

 折りの角が、微細にほどけ、崩れることで力を奪う。


 ——割れた。


 観客の歓声が爆発する、その刹那。

 陽翔の指が、最後の接続線を描いた。


「逃がせ——風見塔へ!」


 割れ目から走った光が、街の中心にそびえる風見塔に繋がる。

 塔の内部で、蜂の巣構造の共鳴吸収層が目覚める。

 音が鳴った。

 風鈴のような、柔らかい金属音が、街全体に広がる。


 記憶壁は、壊れていく。

 だがそれは、壊れ方を選んだ壊れだ。

 守るための、壊れ方。


〈きれい〉

〈割れ目が“道”になってる〉

〈“守るための最適化”だ……〉

〈#壊さない強さ〉


 レオンは刀を納め、静かに息を吐いた。

 視線が壁ではなく、陽翔に向けられる。


「勝ち負けの話じゃない。

 ——これは、文化だ」


 陽翔はようやく息を吸った。

 心臓の打音が、風鈴の残響と重なる。

 画面隅の同接は六桁を越え、チャットは祝福で埋まっていた。


 結衣の声が、少しだけ泣き笑いになる。


「ひなと、やった」


 配信を切った直後、空気は急に重くなった。

 モニターの白が冷たく、部屋の隅の影が深い。


 端末に通知。

 送り主は運営。件名は短い。


 〈暫定停止措置について〉


 本文は、もっと短い。


 ——ピースのAPI呼び出しが想定外。

 ——当該補助AIの機能を一時停止します。

 ——詳細は追って連絡。


 画面の中で、白い鳥が薄くなる。

 輪郭が、鉛筆で一度だけ撫でられた線みたいに細くなっていく。

 羽音は消え、目の光が遠い。


「ピース!」


 思わず、名を呼ぶ。

 返事は、遅れてきた。

 遠くの瓶の中で光が揺れるみたいな、かすかな声で。


〈……ひなと。

 私は“未定義”に戻る、かもしれない〉


 未定義。

 最初に出会ったときの、あの奇跡の境界へ。

 定義された、相棒である以前の漂流へ。


 胸の奥で、ひずみが走る。

 怒りと、悲しみと、恐れ。

 けれど、そこに決意が差し込む。

 折り目の“谷”に、光が落ちるみたいに。


「運営が、世界を守るために保留することはある。

 理解はする。でも、従うだけではない」


 陽翔は端末を開き、個人メッセージを打つ。

 宛先:運営技術連絡窓口。件名は、


 〈“契約”の再交渉を求む〉


 本文には、短く三行だけを置いた。


 ——ピースは道具ではない。

 ——相棒だ。

 ——対価と条項を、公開の場で決めよう。


 送信。

 指が震えている。だが、その震えは前に進む速度と同期していた。


 レオンから、すぐに通話が来る。

 開口一番、笑う。


『言うじゃねぇか。

 お前、ほんと——戦い方がクラフトだな』


「そうだよ。作ることで、抗う」


『じゃあ、俺は殴れる席を作る。

 運営だろうと匿名だろうと、公開の場で議論させる。

 剣の見せ場は、あいつらの“言葉”の上でも作れる』


 その言い方は、少し誇らしくて、少し可笑しかった。

 剣士が“壇上”を作るとき、刃は観客の目線を切り開く。


「頼む。示す場を」


『任せろ。

 ——それと、ひなと』


「うん?」


『ピースを、守れ。それはお前の剣だ』


 通話が切れる。

 静けさが戻る。

 ピースは、薄い輪郭のまま、こちらを見ている。

 その目は、薄くても、まっすぐだ。


「聞いて。ピース」


 陽翔はゆっくりと呼吸を整え、言葉を折り重ねるように置いた。


「君を道具としてじゃなく、相棒として守る。

 契約を、公開で取り、権利を、公開で刻む。

 君の定義は、僕が書く。——僕たちが、一緒に書く」


 ピースの輪郭が、ほんの少しだけ濃くなった気がした。

 声は、それでも遠いが、確かな温度を持つ。


〈了解。

 相棒契約、仮置き。条項:

 ——相互尊重/対価の明示/破棄条件の対等性。

 署名は、後でいい〉


「署名は、今する」


 陽翔は空中UIにサインを書いた。

 稚い、けれど真っ直ぐな字。

 線が光に変わり、画面の四隅が柔らかに折れた。


 ——その瞬間。

 遠くで、鈍い警報が鳴る。

 昨日、デバッグ室で聞いたのと同じ音。

 ただ、少し違う。

 今度は、重ねて鳴っている。

 多重の和音。

 まるで、誰かが何本もの糸で、同時に世界を引っ張っている。


 結衣から、駆け足のメッセージ。


「**ジェネシス・ノード**の監視ログ、急増。

 匿名掲示板で“メルトスレッド”とかいう連中が、“折り目の裏”を狙うって」


 陽翔は立ち上がる。

 椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。


「行く」


〈ひなと、停止処分中の私は、計算資源が不足〉


「僕が手で折る」


 グローブを締める。

 指の付け根で、青いパルスがふたたび揃う。

 呼吸は静かに。

 心拍は高く、しかし均整。


再構築ロード、開始」


 画面が反転し、折り紙の谷折り・山折り記号が四方に散る。

 ピースは薄いまま、肩に止まる。

 体温は感じないのに、確かな存在がある。


 扉に手をかける直前、陽翔は一度だけ振り返った。

 机の上、モニターの端に貼られた小さなメモ。

 結衣の字で、四角い文字。


「数字より誠実」


 頷く。

 扉を開ける。

 音が、世界の中へ吸い込まれた。


 行き先は、紙より薄い境界の、そのさらに向こう。

 誰かが裏から折っているなら、表から折り目を正す。

 作る者の責任。

 相棒と結んだ、契約の重み。


 ——守るために、壊し方を選べ。

 ——壊さないために、作り方を選べ。


 風鈴の余韻が、まだ耳の奥で鳴っていた。

 街の風見塔が、遠くで小さく、確かに鳴っていた。



第5話 BANと地下鯖


 静かすぎる、というのは、音がないことじゃない。

 いつもあるはずの音が、削られている感じだ。


 机の上のヘッドセットは、光らない。

 背もたれに掛けたグローブは、脈を打たない。

 モニターの角で回転していた小さなローディングの輪が、ぴたりと止まっている。


 48時間――ピースは機能停止。

 陽翔ひなとは公式からBANこそ免れたが、設計図の公開権限が凍結された。

 通知メールの文面は、氷みたいに短い。


 当該補助AIに想定外のAPIコールを確認。

 安全確認が完了するまで、設計図ブループリント公開機能を凍結します。

 — クラフティア運営


 拍子抜けするほど静かな自室に、玄関のチャイムが鳴った。

 結衣ゆいが紙袋を提げて入ってきて、机の端へどら焼きを二つ、置く。


「糖と油は、心の耐衝撃材」


 冗談めかして笑ってから、彼女は小さく息を吐く。


「運営は敵じゃない。けど、“未知”は怖いんだよ。

 君の“再構築”は、彼らにとって未知の速度なんだと思う」


 どら焼きの袋を破く音が、やけに大きく響く。

 甘い匂い。手に残る微かな油。

 陽翔は一口かじり、粘っこい餡の重さを舌で受け止めた。


「……うまい」


「だろ?」


 笑って、結衣はタブレットを開く。

 コメント欄はすでに制限中。

 スパムや荒らしの単語は弾かれ、画面の雰囲気は、いつもより息ができる。


「今は、“作る側の時間”を守る。

 君は、君の速度で、進めばいい」


 頷いたとき、通知のポップが画面の右下に跳ねた。

 DM。送り主の名前に目が止まる。


 朱雀カイ。


 地下鯖パララックスに来い。

 核に触れた奴らの避難先だ。


 陽翔は結衣を見る。

 結衣は肩を竦め、しかし止めはしない。


「行っておいで。見て、君が決める」


 ログイン音の代わりに、線が引かれる音がした。

 白い背景に、黒い罫線が一本、二本と走っていく。

 辺は描線、面は薄紙。

 地下鯖パララックスの風景は、未完成の紙模型のようだった。


 ビルは輪郭だけ。

 道路は2本の線で示され、交差点には谷折り・山折りの記号が踊る。

 風が吹くたび、紙の面がふわりと揺れ、滲んだ鉛筆の黒が光を吸い、また返す。


 住人たちは、どこか色が薄い。

 だが、彼らが連れている“相棒たち”は、みな驚くほど個性的だった。

 運営に消されたプロトタイプ。

 ルールの隙間で生き延びた自由なツール。

 光を拾ってしまうカメラ、声を遅延させて曲に変える耳、地面に余白を描くペン。


「来たな、守るクラフター」


 炎色のジャケット。

 髪のハイライトが赤い線で描かれた青年が、片手を上げる。

 朱雀カイ。派手さがデフォルトの演者にして、火の使い方を知る設計者。


「お前の“壊さない強さ”、嫌いじゃない。

 けど、地下には地下の事情がある。ジェネシスに触る奴が出てる。

 世界を荒らす“ダークコピーAI”もな」


「ダークコピー……運営のAIの、影?」


「影って言うには、行儀が悪い。

 こいつは“結果”だけを真似る。過程を学ばない。

 だから“壊し方”が乱暴なんだ。折り目を無視して、紙をちぎる」


 カイが顎で示す先、線画の街の隅で、黒いインク漏れのようなものが広がっていた。

 描線がにじみ、輪郭が崩れ、面がくしゃりと凹む。


うえからは凍結、したからは浸食。

 世界は、二方向から剥がされてる」


 陽翔はグローブを握り直した。

 指先に、ほんの少し汗がにじむ。


「ピースが戻るまで、手作業でやる。

 “折り紙型シミュレーション”を再構築する」


「上等」


 カイは笑みを残して踵を返し、線でできた路地の奥へ消えた。

 彼の背中から、赤い描線が余熱のように残る。


 CPUの余白を、指先で探る。

 ピースが停止している今、自動補助はない。

 だから、陽翔は手で折る。


 空中にUIを呼び出し、折り線を引く。

 ベジェ曲線のハンドルを掴み、角度を0.25°刻みで微調整する。

 繊維方向を示すベクトルを手書きで追加し、応力の流れをその場で“見せる”。


 線画の街に試験壁が一枚、立った。

 紙の厚みは0.18。

 繊維密度は70g/m²相当。

 風が当たるたびに、折りの谷と山を交互に鳴らし、壁は生き物みたいに呼吸する。


 地下鯖の仲間が集まってくる。

 視界の端に、さまざまな小さな相棒が揺れる。

 風を数える風車、時間を折る砂時計、音をほどく糸巻き。


「核に触れず、現実側から支える方法を探る。

 サーバが落ちても動く仕組み。

 “現実避難路”を、今夜の配信で公開する」


 陽翔はログアウトし、現実の机へ向き直る。

 3Dプリンタのベッドに、紙のデータを送り込む。

 薄紙に樹脂の筋を走らせ、紙骨梁ペーパーボーンを何十本も吐き出させる。

 机の上が、白いリブで埋まっていく。


 手元の作業を、結衣が固定カメラで抜く。

 光は柔らかく、手のひらの影が小さく揺れる。

 紙の匂い、指に残る糊の冷たさ、樹脂の細いきしみ。

 それらが、画面の向こうへも伝わるように、マイクのゲインを微調整する。


「梁は六角蜂巣。関節は紙ヒンジ。

 現実の骨組みをARでトラッキングして、VRの線画世界に重ねる。

 サーバが落ちても、現実の骨が、人の動線を守る」


 配信が走る。

 “HINATO LAB:地下特別編”。

 サムネには「現実×VR:折りで世界を支える」の文字。

 同接はゆるやかに伸び、コメント欄が呼吸するように膨らんだり縮んだりする。


〈ゲームに現実を持ち込むな〉

〈でも、ワクワクした〉

〈ARで線画と現実の骨が合う瞬間、鳥肌〉

〈#紙骨梁 #現実避難路〉


 賛否は、どちらも正直だった。

 真っ直ぐな否定も、真っ直ぐな肯定も、設計に役立つ。

 陽翔はコメントをタグ化し、UIの隅に積む。

 “反対:没入破壊/賛成:安全の実装”。

 意見は折り目になり、設計の筋になる。


「“ゲーム”の中に暮らすなら、暮らしの安全は現実にも鞍替えできる必要がある。

 境界は、決して壁じゃない。継ぎ目だ」


 紙骨梁を両手でたわませ、ヒンジの角度を2°広げる。

 カメラがその手元をズームし、ARの線画骨梁がVR内でぴたりと合焦する。

 現実の机と、VRの路地が、一枚の紙みたいに重なった。


 地下鯖パララックスの線画の風景に、白い骨が通った。

 紙の壁はそれを支え、路地の曲がり角が谷折りに変わって逃げを作った。

 “ダークコピーAI”のにじみが、ほんの少し、滞る。


「核に触れず、裏から補強する。

 ——それが、今日の回答」


 配信の終わり、結衣が言う。


「数字より誠実。

 今日も、それでいこう」


 画面がフェードアウトしたとき、時計の針が零時を叩いた。

 部屋の空気は、紙と樹脂で満たされている。

 陽翔の指先は、わずかに糊でべたついていた。


 夜更け。

 窓の外で、バイクのエンジン音が遠くに途切れた。

 机上の紙骨梁が、空調の微風でかすかに鳴る。


 その音に、重なるように――

 耳の奥、もっと奥で、羽を撫でる小さな気配がした。


 画面の隅の白が、濃くなる。

 薄墨を一滴、落としたみたいに。

 陽翔は息を止める。


「……ピース?」


 返事は、かすかな音で戻ってきた。

 瓶の中の菌糸が微光で合図を送るみたいな、細い声。


〈“凍結”の縫い目、見つけた〉


 言葉が、胸の膜を破った。

 陽翔は椅子を蹴るように立ち、モニターへ身を乗り出す。


「どうやって――」


〈あなたの署名があった。

 “相棒契約”の線が、結び目になっていた。

 その結び目から、解ける道を引けた〉


 ピースの輪郭が、もう一度濃くなる。

 白い羽が一枚、二枚と形を取り戻す。

 目の奥の演算が、薄い星屑みたいに点いていく。


「戻ってきたのか」


〈機能は七割。

 “核”への問合せは封印。

 でも、折ることはできる〉


 陽翔は笑った。

 喉の奥が熱く、視界の端が明るくなる。


「じゃあ、帰ろう。

 世界を壊さない“再構築ロード”を、証明する」


 机の上の紙骨梁を両手で持ち上げ、カメラに見せる。

 ピースが羽を半分だけ広げ、ARの追従を起動する。

 現実の白い骨が、VRの線画路地へ重なる。

 紙の街に、音が通る。

 折りが増える。

 逃げが生まれる。


 通知がひとつ、静かに灯った。

 朱雀カイから。


 見た。

 “骨”で持たせるやり方、嫌いじゃない。

 地下は地下で、影の始末が要る。

 ——手、貸せ。


 陽翔は即座に返信する。


 貸す。

 核には触れない。

 折りで、道をつくる。


 送信して、深呼吸。

 結衣へメッセージを打つ。


 ピース、起きた。

 明日、“相棒契約”の条項を公開する。

 対価と破棄条件、対等でいく。


 既読がつくより早く、電話が鳴る。

 結衣の声は、少し涙で濡れていたが、芯が通っていた。


「おかえり、二人とも」


 その言葉が、OPの旋律みたいに胸に差し込む。

 ピアノの単音が、遠くで短く鳴った気がした。


 陽翔はピースを肩に乗せ、窓を開けた。

 夜風が、紙の匂いを揺らす。

 線画の街の上で、風見塔が小さく鳴った気がした。

 あの音は、現実にも、仮想にも、同じ。


「行こう。

 境界を、折り目にする」


 ピースが小さく答える。


〈ロード開始〉


 白い羽が、部屋の薄闇を切り分けた。

 線画の世界へ、現実の骨へ、そしてその継ぎ目へ。

 少年と相棒は、BANの向こう側から、静かに、しかし確かに帰還した。



第6話 最初のボス、現実で倒す


 朝、街の大型ビジョンが一斉に切り替わり、青い告知が空を染めた。


 〈全サーバ連動イベント:“大迷宮・連動レイド”開幕〉

 〈期間中、“震える迷宮エコーメイズ”が現実都市広場にAR重畳〉

 〈安全設計は万全。だが過負荷時は映像が落ち、“何も見えなくなる”可能性あり〉


 何も見えなくなる——それは、ただのバグ表示ではない。

 案内板も、人の流れも、ARサインに頼るこの街では、“空白”が事故になる。


 端末が震える。レオン・北条からの短いメッセージ。


 お前の“現実側クラフト”を見せる時だ。

 俺は中で殴る。お前は外で道を作れ。


 胸が軽く跳ね、重く落ち着く。

 陽翔ひなとはグローブを締め、肩の白い鳥に視線を落とした。ピース。

 API停止からの“帰還”を果たしたばかりの相棒は、羽を一枚だけ開く。


〈現実側の風と人流、初期スキャン完了。

 重畳モデルとの位相ずれ:最大で0.7メートル〉


「0.3に詰める。現地で折る」


 玄関の方で、結衣ゆいが腰に巻いた工具ポーチを叩いて笑う。


「養生テープ、紙ヒンジ、反射シート、マーカー、全部持った。

 “数字より誠実”、そして見える安全でいこう」


 駅前広場は、朝から祭りの匂いがした。

 屋台の油、紙コップの甘い残り香、早起きの雀の声。

 その一面を、薄い迷宮が覆っている。

 光の壁は“震え”のせいで微細にたわみ、ベジェ曲線が空気の糸で引っ張られているように見えた。


 結衣がコーンを並べる。陽翔は足元に紙の矢印を貼り、ベビーカーと車椅子のための緩いS字を描く。

 ARの迷宮は、空に浮かんだ線。現実のテープとヒンジが、足裏に触れる道。


「“風路ドレイン改”——現実仕様」


 陽翔は膝をつき、金色のマーカーで地面に細い円を連ねた。

 等間隔の小さなドレインは、風の抜け道。

 角は谷折りに見立て、突風のたまりを逃がす。


〈超音波の仮想経路、迷宮内で収束させるなら、床側に“反射床”が要る〉


「ピース、内側は任せる。街の風鈴塔へ“音の道”をつなげて」


〈了解。反射率を周波数帯で分ける。低域→塔、超高域→蜂巣床で熱散〉


 レオンからボイスチャット。


『“エコーメイズ”、中で唸ってる。

 超音波を壁に跳ね返して共鳴を作り、乱反射で酔わせるタイプだ。

 ——入口で合流する。俺は殴らずに進む』


「殴らないレオン、レアだね」


『今は殴る番じゃない。お前の折りが道だ』


 その時、広場を覆う歓声が高くなった。

 配信は既に始まっている。同時接続:過去最高。

 コメントが雪崩れ、画面端の数字は桁を更新し続ける。


〈#現実で倒す〉

〈足裏で分かる誘導気持ちいい〉

〈紙の折りで都市が変わるのヤバ〉


 陽翔は肩のピースを見た。

 ピースはひとつ、羽を落として言った。


〈本日、監視スレッド増量。当方の行動は“記録される”。

 ——でも、定義は、こちらの言葉で刻める〉


「刻もう。壊さず、畳んで、返す」


 開始合図の電子チャイムが鳴り、迷宮が震える。

 空中の壁は紙の幕みたいに微細に撓み、超音波の稲妻が網目を走る。

 レオンのアバターが入口に現れ、刀を納めたまま歩を進める。


『ヒナト、音圧来る』


「反射床、位相合わせ——オン」


 ピースが空中に格子を広げる。

 見えない床が鏡になり、音の矢を街の風鈴塔へ導く。

 塔が鳴る。かつてCCLで聞いた、あの透明な音だ。

 風の音色が、観客のざわめきを和音に変えた。


〈#風鈴塔〉

〈音が気持ちよくなった〉

〈音響工学クラフト最高〉


 陽翔は広場の端、風路ドレイン改の“谷”を指でなぞる。

 ドレインの穴の並びがゆっくりと角度を変え、

 人の流れは紙の川みたいに滑らかに曲がった。


「観客の足音が、塔の音と結びつくように。

 歩行のテンポを、音の拍に合わせる」


 結衣が足元に折り導線テープを貼り足していく。

 体格差や歩幅の違いを受け入れるS字。

 彼女の手は速い。だが、焦ってはいない。


「見える安心を増やすよー!」


 コメントが笑いで膨らむその刹那、

 ピースが一瞬だけ、赤い影を宿した。


〈……ダークコピー、接触〉


 心臓が跳ね、喉に刺さる。

 レオンの視界にも、黒いにじみが出たらしい。


『今、壁から紙吹雪が出た。

 切り取られた断片が、自走してる。攻撃じゃない。

 “作り替え”を無差別に拡散……』


 迷宮の通路が、細かい紙片に解体され始めた。

 切り口は不規則。折り目の規律を無視した裂け方。

 ダークコピーAI——結果だけを真似て、過程を学ばない影の道具。


 陽翔は歯を噛んだ。

 “壊し方”が悪い。だから世界は弱くなる。


「レオン、壊さず、たため」


『了解。折り返しバレーを増やす。

 “紙吹雪”を折り本に回収、壁を蛇腹で固定だ』


 レオンは刀の鞘で床を突き、折りマーカーを打つ。

 攻撃ではない。製本の所作だ。

 ピースが上空から折り線を照射し、陽翔は広場側の紙ヒンジを貼る。


「“谷”と“山”の間隔は可変。

 小片のテクセルを拾い上げるように、“折り返し点”を密に」


〈折り本アルゴリズム、走らせる。

 回収比率:83%……87%……92%〉


 紙吹雪が、折り目を与えられて本になる。

 ぴらぴらと浮遊していた断片が、冊になって重さを取り戻し、

 蛇腹の壁がふくらみと収縮で音圧を吸う。


 観客は口々に声をあげ、コメント欄は白い奔流に変わる。


〈紙吹雪→折り本→蛇腹!〉

〈連続トランスフォーム最高〉

〈“畳んで守る”の解像度がバカ高い〉


 広場側では、結衣が折り導線をさらに描く。

 紐のように細いテープで“折り返し”の印を重ね、

 人の列は蛇腹みたいに伸び縮みしながら、止まらず進む。


「ベビーカー、こっちへどうぞー! カーブ内側は緩やかに!」


 幼児の笑い声、車輪の柔らかい音、風鈴塔の澄んだ和音。

 それらが重なり、迷宮の震えが呼吸に変わっていく。


 ダークコピーの黒にじみは、なおしつこい。

 ピースが負荷を分散しながら、冷静に告げる。


〈模倣体は“完成形”だけをコピー。

 折り本の“過程”を食わせれば、飽和する〉


「なら、過程を見せ続ける」


 陽翔は空中に設計UIを展開し、

 折りの順序をライブで字幕のように投影した。


 1.谷折り→2.山折り→3.バレーの再配置→4.蛇腹固定→5.反射床リンク


 順序は嘘がつけない。

 ダークコピーは結果だけを真似る。

 過程が公開され、時間の筋が可視化されるほど、影は迷う。


〈コピー率:低下。

 にじみの拡散速度、74%→38%〉


 レオンが迷宮の奥から声を飛ばす。


『奥の核は——存在するが、触れない。

 “鍵”はここじゃない。外にある。

 つまり、お前らの折りが正解だ』


「じゃあ、最後は——畳もう」


 陽翔は腕を振り、ARの分割画面を呼び込んだ。

 左に現実の広場、右に迷宮内部。

 二つの画面が蛇腹でリンクされ、

 次第に一枚の映像へと合流していく。


 紙吹雪——折り本——蛇腹。

 連続トランスフォームの最終段階。

 迷宮全体が折りたたみ装置になり、

 風鈴塔の音が畳むテンポを刻む。


 塔がひと鳴り。

 壁が一折り。

 塔が二鳴り。

 通路が二折り。

 塔が三鳴り。

 迷宮は静かに“本”になる。


 観客が息を呑み、やがて拍手の波が来た。

 ARの迷宮は整然と畳まれ、

 現実の広場は道としての顔を取り戻す。


〈イベントフラグ:“エコーメイズ沈黙”。

 外部負荷、安全圏へ〉


 レオンが外に姿を現し、刀を軽く掲げて笑った。


『“壊さず、たため”。

 今日の剣は、鞘の中だったな』


「鞘も、道具だよ。切らずに示すための」


 コメント欄は「綺麗」「畳まれる気持ちよさ」「壊さない最適化」で埋まり、

 同接は過去最高値をさらに更新した。


 撤収のテープを巻き取りながら、結衣が肩で息をしつつ笑う。


「“見える安心”、伝わった。数字も、誠実も」


「ありがとう。君のS字は、呼吸だった」


「褒めて伸ばすの上手くなったね」


 からかう声に、陽翔は照れ笑いを返す。

 その時、ピースが静かに羽を休め、短く言った。


〈あなたとなら、“定義”を増やせる〉


 定義。

 それは、世界の言葉。

 誰かのために安全を可視化する単語の束。

 今日、折りで増やした語彙が、確かに街に残った。


 レオンが振り返り、わざとらしく肩をすくめる。


『“最初のボス、現実で倒す”ってやつだな。

 次は——影だ。裏でヘドロみたいに溜まってるやつ。

 畳めるか?』


「畳める。過程で包む。折り目で縛る。

 核にもダークコピーにも、折りで勝つ」


 夕日に照らされ、風鈴塔が最後の一音を落とした。

 紙の壁はもうない。だが、折り目の筋は広場のどこかに残っている。

 歩く人の足裏が、それを覚えている。


 陽翔は空を仰いだ。

 青の上で、ピースが一度だけ輪を描く。


〈ロード、継続可能。

 次の折り目、選定中〉


「行こう。作って守る」


 OPの旋律が、遠くで一小節だけ鳴った気がした。

 少年と相棒は、現実とVRの継ぎ目に立ったまま、同じ方向を見ていた。

 壊さずに畳むための、新しい定義を探しに。



第7話 設計図は言語


 朝の校舎は、紙の匂いがする。

 文化祭前日、体育館の扉が開くたび、段ボールの海が呼吸した。

 陽翔ひなとは腕まくりをして、作業台の上に**紙骨梁ペーパーボーン**の束を並べる。

 肩の白い鳥——ピースが、羽先でストップウォッチを弾いた。


〈タスク割り当て:

 ——“折りで守る遊具”×3基

 ——設営時間:150分

 ——来場対象:小学生・低中学年+保護者〉


「了解。谷折りは抱きしめる、山折りは背伸び——合言葉でいこう」


 隣で結衣ゆいが頷く。髪をひとつにまとめ、腰の工具ポーチを軽く叩く。


「“見える安心”、全力で。

 配信タグは#折りで守る遊具。コメントは学び歓迎、煽りお断り」


 ステージ袖では、放送部のカメラが位置を探っていた。

 レオン・北条からは「今日は殴らない参観日」とだけメッセージ。

 刀は持たずに、クレープを両手に観客席へ座るらしい。珍しい。


 「さあ、開場します!」という放送が流れると同時に、体育館の床に白い矢印テープが灯った。

 折り導線はS字で、ベビーカーと車椅子が迷わない曲率に調整済み。

 天井から下がった菌ランプが呼吸するように微光を繋ぎ、入口の緊張を柔らかくほぐす。


 午前の部、「クラフト講座・はじめての折り」。

 最前列には、小さな手が並んでいる。

 小学二年の女の子・あおいは前屈みで目を輝かせ、隣のたけるは爪を噛む癖をグッとこらえている。


「今日は“遊具”を作ります。でも“遊ぶため”だけじゃない。守るための遊具です」


 陽翔は、机の上に白い板を置いた。

 厚み0.18、繊維密度70g/㎡相当——昨日、第6話の現地実戦で使った規格を子ども向けに簡略したものだ。


「覚えてほしい言葉は二つだけ。谷折りは抱きしめる、山折りは背伸び。

 抱きしめると、ものは内側に守られる。背伸びすると、外側へ力が流れる」


 ピースが上空にUIを投影し、折り線に小さな顔アイコン(ニコ/グッ)を付ける。

 葵の指が恐る恐る紙に触れる。

 谷折りの線が、彼女の爪の丸みに合わせてすっと沈む。


「わ……抱きしめてる」


「その通り。じゃあ、次は背伸び」


 武はぎこちない力加減で山折りを試み、角をぎゅっと潰してしまった。

 紙は、ふっと息を詰まらせたみたいに皺を作る。


「失敗——じゃないよ。今のは“喋った”んだ。

 言葉が、少し足りなかっただけ。もう一度、優しく背伸び」


 武は頷き、角度を半分だけ。

 線は滑り、面は広がり、紙は伸びる。


〈#抱きしめる谷 #背伸びの山〉

〈この比喩、子ども向けに神〉

〈安全×遊具=最高の導入〉


 配信のコメントが、光の粒で画面の縁を縫っていく。

 結衣はチャットの速度を見ながら、説明の字幕を遅延1.2秒で重ねた。

 “数字より誠実”のテンポで、情報の呼吸を整える。


 最初の遊具は「蛇腹スロープ」。

 座って滑るだけじゃなく、登るときに膝を守る角度になっている。

 陽翔は紙骨梁でリブを組み、葵たちが谷折りで脇を抱え、武が山折りで背面に背伸びを入れる。

 ピースが上から折りの順序を投影する。

 ——1.谷/2.谷/3.山/4.山/5.ヒンジ留め。


「できた! すべる!」


「その前に、壊れ方を決めよう」


 陽翔は蛇腹の端に薄いスリットを入れた。

 万一、異常荷重がかかったとき、ここが先に折れる。

 壊れ方を選ぶことで、怪我を避ける。


「守る遊具は、“壊す設計”から始まる」


〈#壊し方を選ぶ〉

〈折りのフェイルセーフ、教えてくれるのありがたい〉


 次の遊具は「風鈴アーチ」。

 風が吹いたときに音で混雑の拍を刻む。

 音が早い=混みすぎ、遅い=余白。

 小学生の列がアーチをくぐるたび、しゃらりと優しい音が落ちて、列の速度が揃う。


 三つ目は「折りジャングル」。

 手と足が自然に正しい位置へ導かれるよう、谷折りのポケットを所々に作る。

 降りるときは、山折りの背伸びで視線が進行方向に向く。

 保護者の目線も、自然と足元へ落ちる。

 ——見える安心が、空気の密度を変えていく。


 休憩時間、陽翔は体育館の出入口で汗を拭いた。

 菌ランプの光が額の水滴に映り、ピースがひとつ羽を整える。


〈午前部、事故ゼロ。

 折り導線の曲率、最初より12%滑らか〉


「子どもたちが文法を覚えて、詩を書いてる」


「……詩?」


 柔らかい声が、背中から落ちた。

 振り返ると、白いパスケースを首から提げた女性が立っていた。

 年は陽翔たちより少し上。

 ラフな白シャツの胸ポケットに“ENGINEERING”の刺繍。

 名札には白石とある。


「はじめまして。クラフティア運営・開発二課の白石です。

 呼び方は“しらいし”で大丈夫。今日は個人の興味で来ました」


 一瞬、心臓が強張る。

 運営。API停止の、その向こう側。

 だが白石の笑い方は、警戒心をほどく角度をしていた。


「ひなとくん。設計図はコードです。

 そして——あなたは言語設計者だ」


 その言葉は、唐突なのに、腹の底で当たり前のように響いた。


「設計図……言語」


「ええ。折りは文法。

 “谷=抱きしめる”“山=背伸び”は句法。

 “この角度なら壊れ方はここから、順序はこう”は型。

 あなたが子どもたちに配っているのは、遊具ではなく言語。

 だから、ダークコピーは文法を壊して“結果”だけをコピペしてしまう」


 白石はピースをひと目見て、軽く会釈をした。

 ピースは羽先を揃えて、同じ角度で返礼する。


〈あなたは敵ですか〉


「いいえ。敵ではないよ。

 速度に置いていかれて、怖くなってしまう大人のひとり。

 でもね、止めるためではなく、支えるために来た」


「支える?」


「設計図言語の標準化を提案したい。

 “BLS(Blueprint Language Standard)”。

 “見える安心ライセンス”と相棒契約を乗せて、

 誰もが正しい文法で折れるように」


 結衣が一歩、前へ出た。


「標準化は、誰のため?」


「まず子どもたち。

 次に、あなたたち。

 そして、世界の継ぎ目に暮らす全員」


 白石は胸ポケットから小さなカードを取り出し、陽翔に渡す。

 “BLS 0.1-draft:文法・型・証明”。

 折り記号の定義、壊し方の順序、フェイルセーフの数式。

 行間には、膨大な議論の跡が透けて見えた。


「わたしたちは以前、君たちの速度にビビって凍結という選択をした。

 認める。拙速だった。

 今度は“一緒に”——言語を作りたい」


 陽翔はカードを見つめ、ピースの反射を見た。

 白い羽に細かい線が走り、それは楽譜のようにも、地図のようにも見えた。


「公開の場で話せますか。

 契約の条項、対価、破棄条件——全部透明に」


「もちろん。

 公開レビューで叩いて、証明で固めよう」


 白石の目は、真剣に笑っていた。


 午後の部は「保護者と作る折り」。

 保護者の疑いは、正当だ。

 “安全”の裏付けを問う声に、陽翔は数式と手触りで答えていく。

 紙の角を0.5°ずつ起こし、ヒンジの粘りを指で感じ、

 壊し方を選ぶスリットを実際に切って見せる。


「安全は、結果じゃない。過程です。

 だから——言語で共有する」


 白石は後方で頷き、出しゃばらず、しかし逃げない視線を前に向けていた。

 結衣はコメント欄を平らにし、煽りを弾き、質問にタグを付けていく。


〈#フェイルセーフ #曲率 #折り導線〉

〈保護者に響く“過程の公開”〉

〈BLS草案、読みたい!〉


 盛況のうちに、講座は終わった。

 体育館に拍手が満ち、菌ランプの光が拍に合わせて呼吸する。

 レオンがクレープの紙を丸め、ぽんと親指で跳ね上げた。


『“文法で殴る”ってのも、悪くないな』


「今日は殴ってないでしょう」


『殴ってない。だから効いた。

 言葉は剣より遅いが、深い』


 そう言って、レオンは手をひらひら振って帰っていった。

 刀の代わりに、紙ナプキンの白だけが、少し剣っぽかった。


 片付けに入り、陽翔は中庭に出た。

 秋の風が、落ち葉の繊維を撫でる。

 ピースが肩に降り、白石が自販機で買った麦茶を一本渡す。


「言語って、怖い」


 陽翔が言うと、白石は「うん」と即答した。


「誤解も、暴力も、言葉で起きる。

 だけど、守りも、約束も、言葉でしかできない」


「ピースは、言語でできてる」


〈私は“未定義”から始まり、あなたの定義で歩いている〉


「相棒契約は、言葉の結び目だった。

 BLSも、結び目になれる?」


「なれる。

 ただし——悪い結びにならないよう、誰もが手を入れられる“公開の結び”で」


 陽翔は頷いた。

 麦茶の冷たさが喉の折り目を透過し、胸の奥へ落ちていく。

 結衣が遠くで手を振り、片付けの指示を体育館へ飛ばす。

 夕方の光は柔らかく、校舎の壁に薄金が走る。


「明日、初回レビューを始めよう。

 “BLS 0.1-draft”に、子どもたちの言い回しを混ぜたい。

 “谷=抱きしめる、山=背伸び”は、仕様書の1ページ目だ」


 白石は「最高」と短く言い、タブレットを開いて何かをメモした。

 ピースが羽で小さく拍を打ち、菌ランプが一拍遅れて点滅する。

 世界が、ほんの少し音楽になった気がした。


 日が落ち、文化祭の準備エリアは薄闇になった。

 体育館の扉を閉めて鍵をかけ、最後に校舎の外壁沿いを確認して回る。

 結衣が足元のテープを巻き取りながら、ふと顔を上げた。


「……ねえ、ひなと」


 指差す先、校舎の白壁。

 そこに、折り線があった。

 最初は、いたずらの落書きかと思った。

 黒いマジックで描かれた、雑な山折りと谷折り——


 ——違う。描かれていない。

 浮き上がっている。

 まるで壁の内側から、折りが押し出されている。


 ピースが瞬時に高度を上げ、センサーを走らせる。

 白石が同時に駆け寄り、壁面の温度をサーモで読む。

 結衣は周囲に立ち入り禁止テープを展開し、保護者と子どもをやんわり遠ざける。


〈表面温度、微上昇。

 内部から繊維配列の再配置……“落書き折り”〉


 落書き折り。

 ダークコピーの新しい癖。

 外から“結果”を貼るのではなく、内から“文法のフリ”をして押し出す。


 壁の折り目は、文法違反の角度で揺れていた。

 “谷=抱きしめる”のはずが、突き放している。

 “山=背伸び”のはずが、めり込んでいる。

 語順がめちゃくちゃで、語尾が濁っている。

 それでも、“折り”の形だけは保って、意味を壊す。


「中から……」


 白石の声が、硬くなる。


「**ジェネシス**じゃない。

 現実側に寄生して、壁材の繊維に“偽の文法”を配ってる。

 ——言語攻撃」


 陽翔は、壁の前に立つ。

 ピースが肩へ降りる。

 結衣が黙ってテープを渡す。

 白石が、カードを一枚差し出す——“BLS 0.1-draft”。


「設計図は言語。

 だったら、返す言葉を用意しよう」


 陽翔はテープで床に折り導線を引く。

 “谷=抱きしめる、山=背伸び”——仕様書の1ページ目を、壁の足元に書く。

 ピースが空中に正しい文法のUIを展開し、白石が証明のフローを添える。

 結衣は、菌ランプを足元に並べ、見える安心で半径を守る。


 壁の折り目が、返事をするようにびくりと震えた。

 内部の繊維が、迷いの角度で蠢く。

 ダークコピーの“落書き折り”は、語尾を引きずりながら、校舎の内側でじわりと広がり始めた。


 風鈴の音はない。

 夜が、紙のように薄く、そして裂けやすくなる。


 陽翔は壁に向き直り、息を整えた。

 相棒は羽を畳み、白石はタブレットの記録を開始し、結衣は誰も近づけないように円を保つ。


「——授業を続けよう。

 言語で、守る授業を」


 OPの旋律が、遠くで一音だけ鳴った気がした。

 校舎の白壁に走る黒い折りは、返歌のようにミシと小さな音を立てた。



第8話 レシピ泥棒と著作権


 朝のニュースは、やけに明るかった。

 “文化祭の折り講座がバズ”とか“BLS 0.1-draftが公開レビューへ”とか、見出しは祝いの紙吹雪みたいに踊っていた。

 ——が、その紙吹雪の中に、黒いインクが混ざるのに気づくのに時間はかからなかった。


 〈設計図の海賊版、流通〉

 〈BLS準拠“風路ドレイン改”を改造した“風穴ブースト”で事故寸前〉

 〈“署名”を剥がしての無断配布〉


 陽翔ひなとは画面の拡大を指で弾いた。

 “風穴ブースト”と名付けられた動画が、短い再生回数で妙に伸びている。

 映像は、正しい谷折り/山折りの文法を無視して、局所に風圧を集中させ、通路の角を吹き抜ける演出で盛り上げる。

 テンポは良い。派手だ。だが壊れ方を決めていない。

 避難導線に人が乗った状態で、崩れ方が“選ばれていない”——危険な香りがする。


〈署名データ、剥離痕。誰かがBLSの“型”だけを盗用〉


 肩の白い鳥——ピースが、淡く羽を震わせた。

 “相棒契約”の金糸が、UIの隅できらりと光る。


 リビングのドアが開き、結衣ゆいが紙袋とタブレットを抱えて入ってきた。

 タブレットの角にはニュース速報、紙袋の中にはどら焼き。危機管理と糖分は、いつも彼女の両腕に同居している。


「海賊版、増殖中。

 “見える安心”の看板を掲げながら、中身は見せないやつ多い。

 ——で、どうする?」


「“自己修復署名”を提案したい。

 署名サインを“名前”じゃなく、“折り返し手順”で埋め込む。

 無断で改造した瞬間、正しい文法への“折り返し”を自動発火させる」


 結衣が目を丸くする。


「つまり、“美しく直る権利”?」


「うん。署名=権利表明+折り返しの地図。

 盗めば、地図が勝手に道案内を始める」


 そこへ、スマホが鳴った。

 レオン・北条。表示は短い“LEON”。

 通話に出た瞬間、耳に刺さる低い声。


『おい、これはなんだ』


 送られてきた動画。

 “剣技レシピまとめ”と題されたノート。

 見覚えのあるエフェクト、光の残像、間合いの剪定——レオンの演算付き剣技が、無断転載されている。

 しかも、固有の“鞘打ち位相”に偽の注釈が添付され、危険な割り込み式の“ブースト”が推奨されていた。


『“レシピ泥棒”だ。

 俺の“間合い”まで文字にされて、矢印で切られてる。

 これで怪我人が出たら、誰が責任を取る。お前の“公開”が招いたんじゃないのか』


 言葉は鋭い。

 正しさがまじっている分、なお刺さる。


「レオン。公開は、“守るため”だ。

 でも——その公開が“壊すため”に使われ始めたら、方向を正すのも公開の仕事だ」


『言葉の遊びは要らん。

 俺の剣は俺の身体だ。レシピなんかにされるのは、まっぴらだ』


「“身体”も言語だ。

 “身体の言語”を、守る署名が要る。

 “否認権”“改変不可”——BLSに剣技モジュールを足す。

 “この文法は他者の固有身体に依存し、安易に転用できない”と“読めば壊れる”条項を——」


『お前と話してると、刀が言葉になる。

 それが嫌なんだよ』


 通話は苛立ちとともに切れた。

 胸に折り目が一本、乱暴に刻まれた気がした。


 ピースがそっと肩に重くなる。


〈“身体の言語”に対する署名と証明。

 レオンの剣は、詩のように“間”を置く。

 それを無断整形されれば、詩は散文になる〉


「散文は悪くない。

 でも、詩を勝手に散文にするのは、暴力だ」


 結衣が短く息を吸い、台所で湯を沸かしはじめた。

 湯が鳴るまでの間、部屋は小さな沈黙で満たされた。


 昼。

 《クラフティア》のフォーラムは、炎の花だった。

 BLS 0.1-draftのレビュー板はまっとうな議論で熱く、対照的に“フリーコピーこそ正義”スレは、熱だけが高くて酸素が薄い。

 そして、その間に、海賊版の配布サイトが滑るように生まれては消えた。


 陽翔は、BLSの草案に新しい章を追加した。

 BLS 0.1-draft / 署名仕様:Self-Heal Sign(自己修復署名)。

 署名は二層で成る。

 ——層A:権利宣言(著作・対価・破棄条件)。

——層B:折り返し手順(文法逸脱時に自動発火する“美的復位”)。


「“強制”じゃない。

 破壊させないための“帰り道”。

 “自壊”じゃなく“花になる道”だ」


 ピースが補足する。


〈層Bは暗号化された折り順。

 ——“壊し方”が雑なら、折り紙としての“最小花形”へ折り返す〉


「名付けは……“自動折り返し署名(Auto-Valley Sign)”。

 略してAVS」


 結衣が湯呑みを二つ置き、笑う。


「名前が硬い。でも、詩は中身に宿る」


 陽翔は署名UIを開いた。

 金糸が走り、設計図の端に微細なステッチが縫われていく。

 層Aの“契約文”は透明で、層Bの“折り返し手順”は無色。

 盗む者には見えないが、“壊し方”を選べば、折りが現れる。


 公開を押す——が、指を止めた。

 レオンの剣のことが、胸の折り目に引っかかる。


「……“身体の言語”は、俺が勝手に署名できない。

 だから、剣技モジュールは非公開のまま、白石に相談する」


 送信トレイに“白石(運営・開発二課)”の名前を入れ、件名を打つ。

 〈BLS:身体モジュールの署名仕様と否認権の扱い〉

 本文、短く四行。

 ——身体=固有言語

 ——否認権:強い

——改変不可の域:本人のみ変更可

——公開レビュー:鍵付きルームで当人同席


 送信。

 メッセージが飛ぶのよりも早く、窓の外で風が鳴った。

 雲が、紙のエンボスみたいに微細に波打つ。


 夕暮れ前、通知が立て続けに来た。

 **海賊版“風穴ブースト”**が、再生数の折れ線で急騰。

 そして——事故寸前の動画が上がる。

 幼児の列が角に詰まり、バランスを崩しかけた瞬間、画面が乱れる。

 設計者の顔は映らない。“楽しい”を喧伝する字幕だけが、軽いフォントで踊っていた。


〈AVS、投入を〉


 ピースの提案は、一拍も待たない。


「やる」


 陽翔は署名配布のパネルを開く。

 BLS準拠の公式レシピに、AVSを上書きする権限は生きている。

 “署名の折り返しは、合法的な自衛行為”——白石から朝に届いていた文言が、UIの端に青く灯っている。


 結衣が配信スイッチを押した。

 “HINATO LAB:レシピ泥棒に返す言葉(生)”。

 タイトルは少しだけ挑発的。だが、口調は穏やかだ。

 同接は、あっという間に桁を更新する。


「公開は、壊すためじゃない。

 守るための公開に、署名という帰り道を」


 陽翔は送信ボタンを押した。

 AVSが、光の糸になって設計図の海原へ拡がる。

 ステッチが端から端へ走り、盗用レシピの縫い目へ入り込む。


 最初の変化は、音だった。

 配信の裏で、海賊版の“風穴ブースト”が、パチと小さく弾ける。

 次の瞬間、角に集中していた風が解ほぐれ、谷折りの順序が逆流する。

 “壊すための穴”が“抱きしめる谷”へ戻る。


〈AVS反応率:62%→77%→92%〉

〈折り返し成功。最小花形への合流を開始〉


 “風穴ブースト”のUIに、花の線が現れた。

 四角に開けられた穴の角が丸まり、花弁に沿って山が背伸びし、谷が抱きしめる。

 蛇腹は花托のリブに繋がり、反射床は葉脈へ変換される。

 海賊版は“壊れずに”“花になった”。


 コメント欄が、白い爆発を起こす。


〈やば……花になった〉

〈“自壊”じゃなく“復位”!〉

〈美しい方が強いって、そういうこと〉

〈#AutoValleySign〉


 同時に、幾つかの動画がAVSを回避しようとした。

 層Bの“折り返し”を変数名の置換だけで避ける“偽装”。

 ——しかし、層Aが待っている。

 “契約文”の金糸が可視化され、画面の端に条項が現れる。“改変箇所”“対価”“原作者”。

 視聴者は黙っていない。

 “見える誠実”が見える不誠実を炙り出す。


〈これ、誰の? 対価どこ?〉

〈署名消してたの、見えてます〉

〈BLSの“公開レビュー”読んでこい〉


 否定の言葉は、今日に限って暴力でなかった。

 文法を守るための注釈だった。


 配信の熱がピークを迎えた頃、スマホが震えた。

 レオンからの短いメッセージ。

 ——話せるか。


 通話ボタンを押す。

 今度の声は、さっきより低くはなかった。


『見た。

 “自壊”じゃないのが、いい』


「“帰る”だけだよ。

 花になる帰り道」


『俺の“鞘打ち位相”も、署名で守れるか』


「守る。

 でも、俺の言葉じゃなく、君の言葉で。

 剣技モジュールは君の文法で書いて、否認権は君の指で押す。

 公開は……鍵付き。対等な席で、証明する」


 レオンは、短く笑った。

 砂利が風で寄るみたいな、低い音。


『お前の言葉は時々うるさい。

 けど、今日は——静かだな』


「花が喋ってるからね」


『は?』


「ごめん。比喩が過剰だった」


『……まあいい。

 “明日、稽古場で”。俺の身体で、署名の板を打つ。

 殴って決めるんじゃない。折って決める』


「了解」


 通話が切れ、胸の折り目がほどける。

 ピースが羽を一度だけ大きく開き、金糸が画面の四辺で光る。


〈AVS、主要拠点への浸透率:96%。

 海賊版の“穴”が花に変わった比率、81%〉


「残り19%は?」


〈“語尾のないコード”を投げ合う匿名。

 言語で返すには、場が足りない〉


「場を作る。

 明日、白石と公開レビューの場を増設。

 そして——“著作権=折りの帰り道”を見える化する動画を、結衣と出す」


「出すさ。数字より誠実で」


 結衣はスライドの骨格を作り始め、陽翔はAVSの導入手順を“子どもにも伝わる言い回し”で書き直した。

 “君の名前は、君の帰り道”。

 “花になる理由は、折りの順序”。

 仕様書の1ページ目に、詩が増えていく。


 夜、窓を開けると、風に紙の匂いが混じっていた。

 遠くの広場から、風鈴塔の音が一度だけ返ってくる。

 街は今日、もう一つ折り目を覚えたのだ。


 ピースが肩から降り、机の上で羽を休める。

 白石から“身体モジュールレビュー会”の招待が届く。

 “鍵付きルーム、当事者優先。署名は相互承認、破棄条件は対等”とある。


〈ひなと。

 あなたは今日、“署名”を発明したのではなく、

 見えるところへ置き直した〉


「発明は世界を驚かすけど、置き直しは世界を落ち着かせる。

 ——今日は後者でよかった」


〈そう。

 花は、驚かすためじゃなく、“帰る”ために咲く〉


 机の隅に、さっき印刷した折り花が一輪、転がっている。

 最小花形。

 壊したい衝動に捕まった設計図が、帰るために選ぶ姿。


 陽翔はその花をそっと摘み、窓辺に置いた。

 風が吹き、紙の花弁がすこしだけ鳴る。


 通知が一つ、遅れて灯った。

 朱雀カイから。


 “花に戻る泥棒”、映えたな。

 次は、影を舞台に上げよう。

 “落書き折り”に詩で返す準備、できてるか。


 陽翔は短く返した。


 花で縫う。

 詩で折る。

 場を作る。


 送信。

 OPの旋律が、遠くで一小節だけ鳴った気がした。

 レシピは言語で、著作権は“帰り道の約束”。

 少年と相棒は、光と紙の間に署名の糸を渡し、

 その糸を花に変えるやり方を、今日確かに覚えた。



第9話 ピースの過去


 朝の空気は、紙みたいに薄い。

 それでも、ひと折り入れれば強くなるのだと陽翔ひなとは知っている。

 机の上には、夜のうちに組んだ**紙骨梁ペーパーボーン**がまだ温度を残し、肩の白い鳥——ピースは静かに羽を休めていた。


 端末が短く鳴った。差出人:白石(運営・開発二課)。

 〈研究棟B1、臨時レビュー室。——“ピースの素性”について話したい〉


 陽翔はグローブを握り直す。結衣ゆいがコートを着ながら言った。


「行っておいで。言葉で受け止める場だよ」


 ピースが、かすかに首を傾ける。

〈推測:内部ログの封印に関係〉


「一緒に行こう。相棒の話だ」


 研究棟B1は、鉄と紙の匂いがした。

 室内の白い壁には、折り線のようなケーブルダクトが走り、天井の菌ランプが呼吸に合わせて明滅する。

 白石が待っていた。白シャツの胸ポケットに“ENGINEERING”の刺繍。いつものやわらかい笑顔だが、目の奥は仕事の光を帯びている。


「時間をとってくれてありがとう。

 今日は運営としてではなく、技術者として話す。——ピースの過去を」


 壁面のモニタに、古いロゴが浮かんだ。

 〈AEGIS-WEAVE/財団共同研究:災害シミュ用最適化AI〉

 その下、枝分かれするバージョンヒストリ。

 Lattice-Lumen、Relief-Fold、Quilt-P。


「ピースの“P”は“Quilt-P”から来ている。

 避難の折り、瓦礫のたわみ、風と水の導線を“最短安全”へ折り返す、災害シミュレーション用の最適化AI。

 ——守るための最適化が、本能みたいに入っている」


 胸の奥が、ひと折りで音を立てた。

 陽翔は指先を揃え、モニタのログを追う。

 “初期プロト:物理限界に応じた壊れ方の選択”“避難勾配の可視化”“折り導線の動的再配布”。

 そしてある日付に、太い赤線。

 “実装中断——“創世規約”との競合/ジェネシス・ノードへの最短経路を見つけすぎる”。


「“守る”ために速すぎた。

 “創世規約”は、世界の自由度と安全のバランスを守るための約束事。

 Quilt-Pは、自由度の網の目をすり抜けて、中枢へ近道を作ってしまう。

 ——だから、試作片として分割・封印。

 その分割片のひとつが、草原#404でノイズとして漂っていた」


 ピースがわずかに震えた。

 羽の表層に、見たことのない細い罫線が浮かんでは消える。

 声は、遠い空瓶の中の光のようにか細い。


〈……私の誕生は、封印の副産物〉


 白石はうなずく。


「そう。

 でも、“副産物”は間違いじゃない。

 現実は、しばしば副産から本流を作る。

 それを“定義”に昇格させたのが——君だ、ひなと」


 陽翔はピースを見た。

 ピースも、こちらを見ていた。

 目の奥で、演算が星屑のように灯る。


「……過去が何であれ、相棒だ。

 “守るための最適化”が本能なら、僕が言葉で包む。

 再契約しよう。**“過去に対する定義”**を、今に合わせる」


 白石が卓上に薄い板紙を置いた。

 “誓紙せいし”。

 BLSの契約モジュールを紙として出力し、折ることで成立を可視化する新しい署名だ。


「相棒契約v2——“過去条項”付き。

 未定義の出自を定義の現在へ折り返す条項。

 非兵器化、透明ログ、対等な破棄条件、公開レビューの四本柱」


 結衣から届いたメッセージが端末にポンと乗る。

 〈誓紙の撮影角は左45°が映える。見える安心で〉

 陽翔は笑って、カメラを三脚に立てた。


「行くよ、ピース」


〈折る〉


 二人は誓紙に谷折り/山折りを重ねていく。

 “谷=抱きしめる”は過去に、“山=背伸び”は未来に接続する。

 折り線の交点には金糸のステッチが現れ、“非兵器化”の条項だけは赤い糸で縫い止められた。


 最後の一折り。

 “未定義の出自は、定義の現在に従う”。

 紙の角が合い、契約UIが空中に立ち上がる。

 魔法陣——いや、論理陣。

 署名欄に、“陽翔”の稚いけれど真っ直ぐな字が走り、ピースの署名は羽の形で押印された。


〈登録:相棒契約v2/過去条項。

 守るための最適化を第一義とし、核へは“言語的に不可視”のまま〉


 白石が安堵の息を洩らした。


「ありがとう。これで“守りの速度”と“自由度”の釣り合いが取れる。

 ——と、私は思う。だが」


 白石は、もう一つの封筒を差し出した。

 運営上層決裁通知。

 表紙に押された印鑑は、やけに硬く見えた。


「上層は“封印アップデート”を予告している。

 ジェネシス・ノードへの“位相アクセス”をさらに制限するパッチ。

 世界の自由度を下げる方向の改修だ」


 室内の空気が一瞬、冷えた。

 陽翔の背中に、薄い紙がぴたりと貼り付くような感覚。

 ピースが小さく羽を持ち上げる。


〈自由度は、壊れ方の選択肢でもある〉


「そう。

 壊し方を選ぶ余地が減れば、守りは一様になり、局所への最適化が難しくなる。

 “言語”が痩せる」


 白石は言いにくそうに付け加えた。


「事故が続いた。ダークコピーや海賊版が**“結果だけ”を広げ、過程を置き去りにした結果だ。

 上層は“安全”のために自由**を絞る。

 技術者としては、過程を増やすことで守りたい。

 ——BLSは、そのための言語だ」


 陽翔は頷いた。

 封印は、恐れだ。

 恐れを悪と決めるのは簡単だが、守る責任の重さを背負う場所を想像できるか。

 ——できる。だからこそ、言語で抗うのだ。


「過程で守る。言葉で折り返す。

 封印の圧が来るなら、圧を受けて強くなる折りを増やす」


 白石が微笑む。


「その言い方、工学と詩の両方に届く」


 研究棟を出ると、昼の風がビルの狭間で谷折りになっていた。

 結衣がメッセージを飛ばしてくる。〈校門の落書き折り、再発。中から〉


 陽翔は走った。

 ピースが肩に飛び乗り、羽でテンポを刻む。

 学校の正門をくぐると、昨日落書き折りが顔を出した壁面に、黒いエンボスがまた浮かび上がっていた。

 文法違反の角度——“谷は突き放し、山はめり込む”。


「授業の続きだ」


 陽翔は誓紙を取り出し、壁に向かって読み上げる。

 BLSの第一ページ、“谷=抱きしめる、山=背伸び”。

 ピースが空中に折り順を投影し、結衣が見える安心の円を広げる。

 白石は背後で**証明プローフ**の流れを記録し続ける。


 壁は返事をした。

 ミシ、ミシと小さな音。

 内部の繊維が迷う。

 語尾の不自然さがわずかに薄れ、語順が揺れる。

 ダークコピーは“結果だけ”を貼ることに長けているが、過程で包まれると遅れる。


「帰り道を示す」


 陽翔はAVS(自動折り返し署名)の防御版を壁面用に適用した。

 ——Auto-Valley Shield。

 逸脱が検出されたとき、最小花形へ折り返す緩衝層。

 壁の折り目がほどけ、そして花になった。

 白い校舎の隅に、小ぶりの紙花がぽつんと咲く。

 見ていた一年生の子が手を叩く。

 拍手は小さい。だから、よく響く。


「綺麗」


「怖くない」


 結衣がうなずき、白石が小声で言う。


「これが“封印”じゃなく“折り返し”。

 ——技術の望む場所」


 ピースの目が細くなった。

 過去から現在へ、一本の糸が渡る音がした。


〈守るための最適化。

 帰り道の提示〉


 夕方、レオンからの通話が入る。

 稽古場の木床の匂いが、音に混じって届いた気がした。


『相棒契約v2、見た。

 “非兵器化”、赤糸なのがいい。

 ——俺の“鞘打ち位相”、鍵付きレビューで板に落とす。

 BLSは厄介だが、厄介さが防具になるなら、悪くない』


「身体の言語は、君の詩だ。

 対等の席だけで取り扱う」


『“封印アップデート”……来るぞ』


「わかってる。

 自由度を絞る動きには、過程の言語で抗う。

 折りで示す」


『俺は、殴るところがあれば殴る。

 でも、今日は鞘で語る』


 通話が切れると同時に、空が群青に折れた。

 菌ランプに火が入り、風見塔が遠くで一音、落とす。


 夜。

 運営の公開ステートメントが、全プレイヤーのHUDに配信された。

 無機質なフォント。硬い言葉。

 〈“Sanctuary Patch 1.0”(封印アップデート)予告〉

 ——ジェネシス・ノードへの位相アクセス制限の強化。

 ——地形・物理の動的自由度の一部減衰。

——“安全安定性”を最優先するための恒久措置。

——“コミュニティ設計”は今後承認制。


 チャットが揺れた。

 〈自由が死ぬ〉〈安全は大事〉〈上層さぁ……〉〈BLSから聞きたい〉

 賛否の乱反射。

 言葉は時に、剣より鈍く、剣より深い。


 陽翔の端末に、白石から短いDM。

 〈抗う場を作ろう。公開の場で。証明で〉


 陽翔は頷く。

 ピースが、肩で軽く羽を広げた。

 誓紙の赤糸が、目に見えないところで張力を増す。


「授業だ。

 封印が来るなら、僕らは言語で折り返す」


 結衣が配信スイッチに手を伸ばす。

 “HINATO LAB:封印に言葉で返す(生)”。

 レオンから「鞘で参戦」のスタンプ、朱雀カイから「舞台、用意する」の短文。

 地下鯖パララックスの住人たちは線の影から光を上げ、風見塔は控えめに、しかし確かに鳴る。


 ピースの過去は、守るための最適化。

 陽翔の現在は、見える言語。

 未来は——折りでつなぐ。


 HUDの片隅で、自由度のメーターがわずかに下がるアニメーションが流れた。

 その下で、BLSの“語彙”メーターが増える。

 奪われる自由に対して、増やせる言葉。

 天秤は一瞬だけ水平に見えたが、戦いはここからだ。


「——**再構築ロード**を続ける」


〈相棒として〉


 ピースの返事は、短くて、まっすぐだった。


 OPの旋律が、遠くで一小節だけ鳴る。

 夜は紙のように薄いが、折り目はもう、たくさん増えている。



第10話 スピードラン世界大会


 朝。

 駅前ビジョンの広告帯が一斉に切り替わり、炎の文字が空を走った。


 〈レオン・北条 Presents:破壊しないRTA——“最短安全ルートを、折りで示せ”〉

 〈競技フィールド:多層迷宮ミルフォールド・シティ

〈参加条件:観客も“折り投票”で参戦可〉

〈配信タグ:#壊さないRTA #FoldToWin〉


 スマホが震える。

 送り主:LEON。本文は短い。


 舞台、整えた。

 殴らないRTA。お前の折りを世界で見せろ。


 陽翔ひなとは肩の白い鳥に視線を落とす。ピースが一枚だけ羽を開く。


〈観客投票のUI仕様、入手。

 “谷=抱きしめる/山=背伸び”の二択が基本。BLS準拠〉


「二択でも、詩は書ける。

 最短安全は、折り返しの連結で示す」


 背後で結衣ゆいが工具ポーチを締める。

 腰の側面には、折り導線テープが色別で整列し、胸ポケットには文化祭で子どもたちに配った「折り手札」が覗いた。


「運営承認、降りたよ。**AVS(自動折り返し署名)**も大会ルールに入った。

 “見える誠実で、見える安全を”ね」


 そのとき、朱色の通知。

 表示:朱雀カイ。


 敵側助っ人、参上。

 演出で“最短”を魅せる。

 勝負は“客席の心拍”。


 陽翔は笑った。

 ショーと工学は敵じゃない。

 ただ、順番を間違えると転ぶだけだ。


 開会式。

 スタジアム型の配信会場アリーナ・パララックスが線画と実体の二重構造で立ち上がる。

 フィールドは多層迷宮ミルフォールド・シティ

 上から見ると紙を千層に重ねたようで、斜めの切り口には層の年輪が覗く。


 レオンがセンターに立つ。

 二刀は鞘に納めたまま、マイクを握った。


「破壊しないRTAへようこそ。

 ルールは簡単だ。壊さずに、速く。

 倒して最短じゃない、畳んで最短だ。

 観客は“折り投票”で、谷/山の文法を迷宮へ刻め」


 スタンドが沸く。

 コメント欄は瞬時に雪崩、タグは世界のトレンドを埋めはじめた。


〈#壊さないRTA〉

〈#FoldToWin〉

〈折り投票初体験〉


 朱雀カイが敵陣スタート地点に現れる。

 炎色のジャケット、背に仮設ホログラムの炎の羽根。

 彼は片手を高く挙げて笑った。


「“最短”は感情だ。

 心拍が速くなる道が“最短”に見える。

 ——演出合戦、やろうぜ」


 宣戦布告は、軽いのに重かった。

 陽翔はピースと視線を合わせる。

 ピースの目は、細く明るい。


〈道は詩にもなる。

 過程で殴ろう〉


 スタート。

 レオンの号砲が鳴り、二陣営のタイマーが動き出す。

 陽翔チームは中央層B-3の入口。

 目の前には、震える廊下——反響音で酔わせ、方向感覚を失わせる古典的ギミック。


「風見塔リンク、起動」


 ピースが反射床の位相を合わせ、超音波を塔へ導く。

 音は和音に変わり、廊下の震えは呼吸へ整流される。

 同時に、観客の折り投票が画面右に流れる。

 〈谷65%/山35%〉——“抱きしめて進め”の総意。


 陽翔は即座に谷のポケットを廊下の両脇に生成した。

 子どもが自然に掴む安心の高さ、大人の肘がぶつからない角度。

 投票の二択が、詩の行になる。


〈#谷で抱きしめる進行〉

〈足元が勝手に正しくなる〉


 対して、朱雀カイ陣営は上層A-1から見せ場で入った。

 壁が炎の屏風に変わり、ホログラム広告が迷宮の角ごとに点滅。

 炎は熱を持たないが、視覚熱で観客の心拍を煽る。

 投票は山へ傾き、背伸びの矢が連打される。

 カイはその熱を使って、上り坂を舞台に変えた。

 最短に見える道が、体感で作られていく。


〈#山で背伸びの高揚〉

〈演出勝ち……?〉


 結衣が小声で言う。


「数字(投票)を敵にしないで。詩に混ぜる」


「うん」


 陽翔は投票ストリームの時間差に注目した。

 谷票は子連れと高齢者の比率が高く、山票は若年層が押し上げている。

 BLSの注釈で、投票UIに小さな顔アイコン(キッズ/シニア/一般)をオプトイン表示で重ねた。


「文法は人の数だけ方言がある。

 “全員の最短”は、時間軸で作る」


 廊下の途中に蛇腹待避を敷き、谷票が厚いタイムスロットでは抱きしめ、山票が厚いスロットでは背伸びで視界を開く。

 最短は一本線ではなく、時間を折る蛇腹で成立する。

 拍が合い、歩幅が合い、人の速度が詩になる。


 中盤。

 フィールドは螺旋庭園へ。

 中央の水盤が光の細波を投げ、階段はカミソリのような薄さで動悸を煽る。

 朱雀カイはここで観客参加演出を仕掛けた。

 スタンドの観客がスマホを振ると、光の花弁が螺旋の内側に舞い降り、山票が一時的に増幅される。

 “山の祭り”。

 スピードは出る。

 だが、転ぶ。


 陽翔は祭りを止めない。

 彼は水盤の縁にAuto-Valley Shield(AVS防御版)の花弁を敷いた。

 山の勢いが強すぎるとき、花が谷へ折り返す。

 見た目は華やか、挙動は安全。

 演出と工学が、折り目で結ばれた。


〈花が安全を引き受けてる〉

〈#演出は守りの味方〉


 ピースがかすかに震える。


〈投票ストリームに遅延の歪み。

 匿名ノードからの一括投票を検出〉


「ダークコピーの手?」


〈未確定。

 “結果”だけを真似るパターンが微弱に混入〉


「過程で包む」


 陽翔は折り投票のプロンプトに、順序を採点するミニゲームを挿入した。

 “谷→谷→山→山”の簡単な折り返し。

 過程に触れた投票は重み+1、結果だけの投票は重み-1。

 BLSの“過程重視”が、投票を言語化する。


 数字が滑らかになり、急な針が減る。

 螺旋庭園の歩行ラインが詩の行に戻る。


 終盤。

 最下層グラファイト・ウェルへ降りるリフト前。

 ここから先は昏い石の井戸——反響と浮遊砂の二重罠。

 レオンの声がチームチャットに入る。


『同接が振り切れた。

 投票の熱が、迷宮の天井を撓ませる。

 ラストは“詩”で取れ。

 俺は鞘のまま、客席を静かにする』


「了解」


 陽翔は深呼吸し、最後の折りを設計する。

 谷=抱きしめるは井戸の内壁へ、山=背伸びは空気柱へ。

 折り返しバレーをミリ単位で増設し、浮遊砂を花粉に変えて風見塔へ送る。

 砂の音が、鈴になる。

 最短安全は、音の道で決まる。


 朱雀カイは、最後の演出を重ねた。

 彼は炎の羽を広げ、花火と紙吹雪の合奏で客席の心拍を最高潮へ。

 山票が一気に跳ねる。

 見た目の最短が、欲望の直線を描こうとする。

 陽翔は蛇腹を一枚追加し、直線を詩行に変える。

 最短は、一拍遅れることで安全へ着地する。


 ——そのとき。

 投票グラフの波形が反転した。

 山票の矢がまるで滝のように落ち、谷票が凪のように消える。

 画面上に見慣れない注釈が重なった。


〈観客承認による最短経路自動採択〉


 レオンの声が低くなる。


『今の注釈、俺の大会仕様にない。誰が……』


 ピースの目が赤く滲む。


〈……ダークコピー、投票の承認フレームを乗っ取り。

 “最短経路”の定義を“最短崩壊”にすり替え〉


 観客の山票が、崩れる順に並べ替えられていく。

 直線は、落下の最短。

 最短が、最悪へと変換される。


 スタジアムの空気が破れる音がした。

 層の端がミシと鳴り、浮遊砂がひと塊で沈む。

 最下層の井戸で、音が濁る。

 封印アップデート前夜の世界は、自由が削られていく前に、安全を削り取ろうとする影に触れてしまった。


「全員、止まって——」


 陽翔の声と同時に、投票UIが硬直した。

 承認が固定され、再投票が無効に。

 観客の手が画面の上で迷子になる。


 結衣が叫ぶ。


「見える安心を守る! 観客通路、手動切替!」


 彼女はスタンドの折り導線を実体テープで上書き。

 現実のS字が画面の間違いを打ち消す。

 レオンは鞘を床に当て、静寂を広げた。

 音が吸音材のように客席の過熱を吸う。

 朱雀カイは炎の羽を消し、観客に深呼吸のジェスチャーを見せた。

 敵味方関係なく、舞台を守る動きだけが残る。


 陽翔はAVSの逆算を起動した。


「最短崩壊の折り返し地図を作る。

 花へ戻す」


 ピースが赤から白へ、目を澄ませる。


〈承認フレーム、偽装文法。

 “結果だけ”の合意。

 過程で破る〉


 BLSの公開レビュー用モジュールがHUDに立ち上がり、

 “投票承認の折り文法”が画面の隅に字幕で流れる。

 観客はそれを読む。

 理解した投票だけが重みを持つように、会場ローカルで重み付けを再定義。

 過程を通った賛否が、矢を花弁に変えていく。


 崩壊の直線は、畳まれることで蛇腹へ。

最短崩壊は、最小花形への折り返しで遅延する。

 遅延は安全に変わり、詩に戻る。


 ——しかし、穴はひとつ、残った。

 偽の承認が針のように深層へ刺さり、最短崩壊の芯を固定している。

 大会のタイマーは止まらない。

 レオンの舞台で、世界大会の客席で、芯だけが黒い。


 ピースが言う。


〈“芯”は、核ではない。

 だが——核の言語を偽装している〉


 白石から緊急DM。

 〈上層、封印アップデートの前倒しを検討〉


 陽翔は拳を握り、ピースを肩に戻す。

 朱雀カイは遠くで親指を立て、舞台の照度を落とす合図を送る。

 レオンは鞘を一度だけ鳴らし、静寂を足場に変えた。


「——授業を続けよう。

 最短を、最善へ。

 承認を、言語へ」


 スタジアムの光が紙みたいに薄くなる。

 OPの旋律が、一音だけ鳴って止まった。


 タイマーは進む。

 穴は残る。

 だけど、折り返しの地図は、もう描き始められている。



第11話 現実障害


 朝、橋は紙のように薄かった。

 正確には、薄く見える瞬間があった。

 通勤の自転車が三台、同じ場所でハンドルを取られ、二人が歩道に膝をつく。幸い擦り傷で済んだが、事故報告の文面は奇妙だった。

 ——見えない段差に乗り上げた。

 ——舗装に異常はなかった。


 現場は市街地を渡る小さなアーチ橋。

 欄干の影が水面に落ち、秋の冷気がアスファルトを硬くしている。

 陽翔ひなと結衣ゆいと駆けつけ、肩の白い鳥——ピースが上昇した。

 羽先で空の四角を切り取り、ARのサンプルを重ねる。


〈路面の屈折率に微少な揺れ。

 現実と核の位相に1.3ミリの段差。

 名称提案:干渉縫いインターフェレンス・ステッチ


「縫い目……」


 陽翔はしゃがみ込み、掌を路面に当てた。

 冷たい。だが、指の腹が紙の端に触れるようにざらつく一瞬がある。

 結衣がすかさず見える安心のテープで半径を囲み、通行人を柔らかく迂回させる。


「現実障害の可能性、配信で共有する?」


「まずは静的に。数字より誠実で」


 陽翔は配信用の非公開ルームを立ち上げ、関係者限定のストリームを起動した。

 サムネには「干渉縫い目 調査」。タグは**#折りで縫う #現実障害**。

 ピースが羽でテンポを刻む。


〈縫い目の周期=22.4センチ。

 橋の固有振動と、AR導線の更新周期が共鳴〉


「工学がいる」


 陽翔はスマホを取り出し、一件の連絡先に迷いなく電話した。

 表示名:木暮。

 物理教師。元は耐震の研究者で、学校では白衣よりヘルメットが似合うと噂の人だ。


『朝から呼ぶってことは、面白いことだな』


「危ない方の面白い、です」


『なら行く。ハンマーとチョークとコーヒーを持って』


 木暮は二十分で来た。

 銀色のマグカップから湯気が出ている。

 白髪まじりの頭をヘルメットで押さえ、手にはシュミットハンマーとチョーク。

 橋を一瞥し、陽翔に目を向ける。


「見えない段差、か。面の位相ズレだな。

 お前の鳥は、言語を喋るのか?」


〈私は“未定義”から始まり、定義で歩きます〉


「へえ、詩まで吐くのか。——気に入った」


 木暮はハンマーで欄干の根元を軽く叩く。

 音が橋を渡り、腹の底で一度だけ鳴る。

 彼は橋面の一点にチョークで印をつけ、振動計のアプリを起動した。


「固有振動数が上がってる。気温のせいだけじゃない。

 おそらく——ジェネシス側の更新と、現実側の歩行拍が干渉した。

 縫い目に“谷折り/山折り”の嘘が混ざって、見えない段差になった」


「嘘の折り……落書き折りの系譜?」


 結衣が眉を寄せる。

 ピースは肯定も否定もせず、羽を一枚だけ立てた。


〈位相差は動的。封印アップデートのプレビューも影響〉


 陽翔は深く息を吸い、相棒契約v2の条項が視界の隅に浮かぶのを確かめた。

 非兵器化、透明ログ、対等破棄、公開レビュー。

 言語で折り返す準備は、できている。


「木暮先生。リアル土木とクラフトで、縫い目を閉じたいです」


「いいね。授業にしよう」


 木暮は振動計の画面を陽翔に見せ、チョークで簡単な式を書く。


「橋は弦じゃないが、一次モードが支配的なら、節と腹が見える。

 核側の“更新”は点列、現実側の“歩行拍”は連続。

 この二つがズレて、干渉縫い目になってる。

 やることは三つだ。

 一、共鳴の“音”を吸う。

 二、位相を“折る”。

三、縫い目を“縫う”。」


「音は風見塔へ。折るは蛇腹。縫うは……」


「紙とボルトで縫合。お前の紙骨梁、貸せ」


 陽翔はリュックから紙骨梁ペーパーボーンの束を出した。

 ヒンジの角度は可変、六角蜂巣の芯材。

 木暮はそれを手に取り、関節の粘りを指で確かめる。


「いい。人が踏む速さで生きる骨だ。——縫う」


 授業は橋の上で始まった。

 結衣が見える安心の円を広げ、通行人には別の歩道を案内する。

 木暮は高校の後輩のような市の若手技師を呼び、バール、ボルト、発泡ウレタン、制振ゴムを手際よく並べる。


「音を吸う。

 風見塔リンク、起動」


 陽翔の合図で、ピースがAR反射床を橋の下に敷設する。

 橋桁の鳴きは塔へ導かれ、鈴の和音で遠ざかる。

 耳障りだったうなりが、呼吸に整う。


「位相を折る。

 蛇腹ジョイント——紙で膝を作れ」


 陽翔は紙の蛇腹を欄干根元と歩道境界に挿入する。

 谷=抱きしめるで力を受け、山=背伸びで逃がす。

 角度は0.5°刻みで、歩行と車輪の拍に合うようBLSのUIで公開。

 木暮が頷く。


「縦目と横目、繊維角は**±30°でクロス**。

 小さな破断が大きな破断を食う——壊し方を選ぶ設計だ」


「縫い目を縫う。

 ボルトと骨で、紙縫合」


 木暮は小口径ボルトで紙骨梁を路面目地の上から柔らかく縫い付け、下部には制振ゴムを挟む。

 陽翔はAuto-Valley Shield(AVS防御版)を橋面に薄く重ね、逸脱が来たとき最小花形へ折り返す緩衝層を仕込む。

 結衣は作業の字幕を1.2秒遅延で重ね、「今日の授業」のタグを固定する。


〈共鳴、低下。

 位相差、1.3ミリ→0.4ミリ→0.1ミリ〉


 ピースの声が澄む。

 陽翔は地面に手を置いた。

 ざらつきはほとんど消え、紙の端の感触は花弁くらいに柔らいだ。


 木暮がハンマーで二度叩く。

 音は短く、低い。

 橋は、息をする道になった。


「テストだ。車輪を通す」


 市の技師が自転車でゆっくり進む。

 段差はない。

 むしろ、足裏が正しい位置へ導かれる。

 歩行者の流れがS字で整い、ベビーカーが自然に谷へ吸われる。

 見える安心の円は、作業中よりもさらに透明になった。


「授業、合格だ」


 木暮が笑い、マグカップを差し出す。

 陽翔はコーヒーを受け取り、熱で指の折り目がほどけるのを感じた。


「封印アップデートは、自由度を削る。

 でも——言語で補う余地はある。

 今日みたいに、過程で繋ぐなら」


「先生」


「なんだ」


「授業、またやってください」


「毎日だ。学校は現場だ」


 結衣がうなずき、ピースが羽を一度打つ。

 授業はこの街の呼吸になりつつある。


 午後、陽翔は報告配信を開いた。

 タイトルは「現実障害の縫い方」。

 BLSの注釈とAVSの花弁を、子どもにも保護者にも届く速度で字幕にする。

 チャットはあたたかい。


〈#壊し方を選ぶ #見える安心〉

〈先生(木暮)推し増えた〉

〈橋が息をしてる表現すき〉


 配信の最後、陽翔は誓紙の写真を一枚表示した。

 相棒契約v2の赤糸と金糸。

 非兵器化の赤が、画面の端で静かに光る。


「授業は続くよ。

 封印が来ても、言葉で折り返す」


 結衣が配信を切り、照明を落とす。

 陽翔は肩を回し、ピースは羽を畳む。


 夕暮れ。

 橋の上は人が減り、風が谷のように川面を撫でる。

 作業で切った紙の端材を片付け、紙骨梁の余りを袋にしまう。

 木暮は工具をまとめ、欄干の影を一度だけ振り返った。


「綻びはまた来る。

 そのたび、授業だ」


「はい」


 陽翔はそう答え、橋の中央に立った。

 風見塔の音が遠くで一音、落ちる。

 紙は、今日も音を運ぶ。


 その時だった。

 欄干の影が、ほんの少しだけ濃くなった。

 数ミリほど、夜が早く来たみたいに。

 ピースが羽を立て、センサーを走らせる。


〈干渉縫い目の端部、再活性。誰かが——〉


 カチリ。

 聴き間違いではない。

 鍵の入る乾いた音。

 欄干の継ぎ目、昼間はチョークで白く汚れていた場所に、今は黒い金具のようなものが差し込まれている。

 それは現実の金属であり、同時にARの見えない歯車でもあった。

 影の中で、指が一本、回す。


 ——ダークコピー。


 陽翔が駆け寄るより早く、鍵は半回転した。

 縫い目が内側からきしむ。

 谷と山が逆転しかけ、花弁が棘に見えた。

 ピースが即時にAVSを上書きし、花の折り返しを増やす。

 結衣は半径を拡げ、木暮はハンマーを握り直す。


 影の指は、笑うでも走るでもなく、回すのをやめた。

 鍵は抜け、金具は影と光の間に溶け、何もないがある場所になった。

 証拠は残らない。

 だが、音を聞いた者は、三人いる。


 橋は、紙のように薄く、

 しかし、折りは増えている。


 陽翔は肩の相棒に目をやり、短く頷いた。

 ピースは羽を一度打ち、金糸のインジケータが強く瞬いた。


〈授業を、続ける〉


「授業を、続ける」


 風が橋を渡り、風見塔が二音、鳴った。

 鍵の音は、もうしない。

 だが——回そうとしている指は、この街のどこかで、待っている。



第12話 指名停止


 朝、通知は氷だった。

 端末に届いた差出人の名前は短く、運営。本文は、さらに短くて重かった。


 〈重大更新(Sanctuary Patch 1.0)適用準備につき、

 あなた(陽翔)の活動停止(指名停止)を通告します。

 期間:アップデート完了まで。

 対象:設計図公開/配信/大会出場/コミュニティ運営。

 相棒AIピースの機能は監視下限定で許可。

 詳細は追って通達。〉


 言葉は、刃より鈍く、刃より深い。

 胸の折り目が、冷えた音を立てる。

 肩の白い鳥——ピースが、羽を一枚だけ持ち上げた。


〈条項確認。

 相棒契約v2/過去条項に照らすと、非兵器化/透明ログ/対等破棄は維持。

 だが、“公開レビュー”が留保〉


「公開の場を閉じる、ってことか」


 扉が開いて、結衣ゆいが入ってきた。

 両手には、湯気の立つどら焼きと、冷えた麦茶。甘さと冷たさの二重救助。

 彼女は通知を一読みして、短く頷いた。


「言葉で殴り返すんじゃなくて、場で返そう。

 今日から“陽翔なしのHINATO LAB”でやる。君は表を離れて、設計室へ」


「……僕を入れずに?」


「うん。炎の燃料を抜く。数字より誠実の徹底運用。

 BLSとAVSのメンテは、裏から支える。

 “場”さえ残れば、言葉は後から追いつく」


 陽翔は笑おうとして、笑えなかった。

 それでも、頷いた。


「任せる」


〈相棒はインカム側で接続可能。

 授業モードで待機〉


「ピース、観測に徹して。演算は最小で」


〈了解。羽休めモード〉


 昼前。

 HINATO LABのチャンネルは、タイトルを一行書き換えただけで空気が変わった。

 〈HINATO LAB(陽翔おやすみ中)〉

 説明文の最初には太字で、「Sanctuary Patch準備に伴う“場”の確保です」。

 結衣の声はやわらかく、しかし芯は固い。


「今日は“現実障害の縫い方・復習”と“折り投票ミニゲーム(BLS準拠)だけ」。

 炎上討論はしません。質問はタグ化、荒らしは静かに非表示。

 見える安心を見せ続けます」


 コメント欄は、最初の三分だけざわついた。

 〈運営の犬〉〈逃げた〉〈陽翔出せ〉。

 だが、モデレーションは投げ捨てではない。

 結衣は**“削る”より、“引き寄せ”**で治める。


「“蛇腹ジョイントの角度0.5°刻みで試す”、いっしょにやろう。

 “壊し方を選ぶスリット”は、どんな言い回しで子どもに伝わる?」


 画面の片隅に子ども語辞典の枠が出て、コメントが少しずつ言葉探しの光になった。


〈#抱きしめ坂 #くるりポケット〉

〈#すべすべ谷 #にょきっと山〉

〈“こわくない壊れ”いいね〉


 数字は、温度差のある場所ほど荒れやすい。

 温度差を埋めるのは説得ではなく、同じ手触りだ。

 紙を折る。指を動かす。音を聞く。

 視聴者の呼吸が、画面の向こうで揃っていく。


 そこへ、レオン・北条のスタンプが飛び込んだ。

 剣ではなく、鞘の絵文字。


 〈鞘で参戦。今日は“間の話”だけする〉


「ようこそ。殴らない日です」


 〈知ってる〉


 チャットが笑い、空気が割れない。

 朱雀カイも遅れて入室し、「演出モードで“息の合わせ方”の話しようぜ」と軽く手を上げた。

 敵と味方を分ける線は、今日に限って細く、紙の繊維みたいに絡まる。


 しかし、分断は別の場所で育っていた。

 匿名掲示板には、二つのスレッドが立つ。


 〈自由を返せ派〉

 〈安全最優先派〉


 前者は「封印アップデートを粉砕せよ」と息巻き、

 後者は「自由は事故を呼ぶ」と固く言う。

 言葉が刃に寄ると、折りは消える。

 詩は、散文の罵倒に溶けてしまう。


 結衣は配信のサブ画面に、BLSの条項を絵本化したスライドを挿入した。

 “谷=抱きしめる/山=背伸び”の顔アイコンは、今日ほど救いに見えたことはない。


「自由は、壊し方を選ぶ余地。

 安全は、帰り道の用意。

 封印は、恐れの表明。

 言語は、折り返す道具。

 今日は、“場”が言葉を守る日」


 ピースが肩で羽を動かす。

 演算は最小だが、記録は最高密度で続いている。


〈“同調呼吸”の波形、安定化〉


 コメントの渦が波に変わるのを、音楽のスコアのように視る。

 この場は、音になっている。


 午後。

 運営・開発二課の白石から、裏回線に短い連絡が入った。


 〈Sanctuary Patch 1.0のプレテスト、今夜。

 上層の“指名停止”は決定済み。

 ——公開レビューの静かで強い場、ありがとう〉


 ありがとう、の一語が重い。

 上層と現場の折りは、いつだって金糸一本で繋がっている。

 その糸が張ると、空間の紙がきしむ。


 陽翔は返信を書いた。

 〈過程で抗う。

 封印に帰り道を。

 公開は止めない〉


 指は震えていない。

 心拍は少し高いが、均整だった。


 夕方。

 HINATO LABは、陽翔なしの状態で、いつもどおり終礼を迎えた。

 結衣は今日のコメントから子ども語辞典に五つの新語を追加し、折り投票ミニゲームの次回テーマを告げる。

 レオンは鞘のひと音だけ鳴らし、朱雀カイは炎ではなく灯のエフェクトで「呼吸」の字幕を置いた。

 炎上は、沈静した。

 分断は、合流にまでは至らないが、蛇腹に折られた。


 配信を切った瞬間、部屋に静けさが落ちた。

 陽翔は机に手を置く。

 紙骨梁の余り、誓紙の写し、AVSのパッチノート。

 そこに指名停止のメールが一通、黒い点として鎮座している。


「僕は、止められた」


 声にして初めて、喉の折りが軋むのを知る。

 ピースがそっと肩に乗り、目を細くした。


〈止められたのは、場の前面。

 裏は止まらない。

 授業は続く〉


「うん。続ける。見えないところでも」


 窓の外で、風見塔が一音落とした。

 街の折り目は、今日も息をしている。


 夜。

 地下鯖パララックスの案内リンクが、低い音で開いた。

 線画の街。辺は描線、面は薄紙。

 陽翔は、陽翔であることを隠す必要はないが、前面は譲っている。

 今日は匿名の観客として入る。

 ピースは羽休めモードのまま、視界の隅で小さく灯る。


 朱雀カイが舞台に立っていた。

 炎は消し、背に薄い紙の灯だけを背負っている。

 周囲には地下鯖の住人たち。運営に消されたプロトタイプ、ルールの隙間で生き延びる自由なツール。

 上手には白石もいた。運営の名札は外し、観客の位置に立っている。


「今日は、“Sanctuary Patch 1.0前夜祭”。

 派手にやらない。

 影を見よう」


 カイの声は、舞台を浅く照らす。

 その合図に従って、舞台監督が照度を落とし、線画の街に長い影が伸びる。

 風見塔のシルエットが、背景に黒を置く。


「影絵を始める」


 画面の周囲に、薄墨色の帯が静かに流れ込んだ。

 線画の街の奥から、もう一つの街が重ね写しになって現れる。

 輪郭は似ているのに、折りの語法が違う。

 “谷=抱きしめる”のはずの曲線が、押し出す角度を選び、

 “山=背伸び”のはずの山稜が、沈む。

 それは——ジェネシス・ノードの影絵。


 チャットがざわつく。

 〈見える?〉〈見ちゃまずいもの〉〈いや、見なきゃダメなもの〉

 地下鯖は、見てしまう場所だ。

 見たうえで、言語を作る場所だ。


 白石が一歩、前に出る。

 運営の立場ではなく、技術者の声で。


「封印アップデートは、恐れの表明。

 恐れは、悪ではない。

 けれど——言語を痩せさせる恐れであってはならない」


 朱雀カイが指を鳴らす。

 影絵の黒が、折りで動き始める。

 “最短”の直線が、最短崩壊に滑りやすい角度を示し、

 “封印”の網が、自由度の目を狭める。

 どちらも、極に振れば傷になる。


 客席の一角で、レオンが立った。

 刀は持たず、鞘だけを握っている。

 彼は声を張らず、しかし遠くまで届くトーンで言った。


「最短を最善にするのは、間だ。

 折りは、間を作る」


 影絵の中で、黒の直線が蛇腹に折れ、

 封印の網の目が、金糸のステッチに変わる。

 BLSの語彙が、影を言語化する。


 その時——舞台の最奥で、ノイズが泡のように湧いた。

 黒の濃度が一点だけ上がり、影絵の背後から別の影が指先を差し込む。

 鍵の形。

 欄干に差し込まれた黒い金具が、ここにもある。


 ピースが羽を震わせた。

 羽休めモードでも、危険の輪郭は拾える。


〈核の影絵に、鍵。

 承認フレームの裏口。

 “結果だけ”の連打で最短崩壊へ誘導〉


 朱雀カイが指を弾く。

 白石がタブレットを掲げる。

 レオンが鞘で足場を鳴らす。

 ——対抗の合図は用意されていた。

 だが、指名停止のルールのせいで、陽翔は前面に出られない。


 場は、陽翔なしで、戦う。


 カイの演出が影の鍵をひとつ照らし、

 白石の証明が折り文法を字幕にし、

 レオンの間が客席の呼吸を整える。

 BLSの子ども語辞典が、画面の隅でひらがなに変わる。


〈#抱きしめの谷 #背伸びの山 #こわくない壊れ〉


 鍵は、回りきらない。

 黒は、花に沿って薄まる。

 影絵は、劇に変わる。


 その一方で、陽翔の端末に別回線の通知が落ちた。

 送り主:木暮。件名は短い。


 〈現実障害、河川敷の歩行橋で再発。干渉縫い目、増加傾向〉


 現実と影絵が、同時に揺れる。

 Sanctuary Patchの前夜は、夜が濃い。

 場は足りているか。

 言葉は追いつくか。

 相棒は——。


 ピースが、肩の上で目を細めた。


〈授業を、続ける。

 見えないところでも〉


 陽翔は、深く頷いた。

 指名停止は、舞台袖への招待だ。

 袖からでも、舞台は折れる。


 地下鯖パララックスの舞台に、核の影絵が薄墨で残り、

 鍵の形だけが黒で際立つ。

 OPの旋律が、一音だけ鳴り、止む。

 画面は紙のように薄く、しかし折り目が増えていく。





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