第74話 つかの間の安心2
泣き始めた隼人に慌てた由美はなんとかあやそうとするが、まったく泣き止まない。動転しているせいか、原因がわからない。おろおろとしている、ふと鼻につくような匂いが漂ってきた。なるほど、これか。彼女は原因がわかり安心し、隼人を下ろして対処をしようとした。
その時、背後からかさかさとした音と、気配がした。
彼女は振り返り、気配の正体を確認しようとした。すると、暗闇に浮かぶ巨大な昆虫の頭部が手すりから廊下の方に乗り出し、こちらを見つめていた。元々マンションのフロアの高さは3~4mほどしかない。4mの体高の怪獣にとっては廊下の手すりを足場に5階までよじ登るのは簡単だったのだろう。間違いなく隼人の泣き声を聞きつけ、廊下の手すりを足場に音の発生源を確認しに来たのだ。
彼女は自分から数mのところでこちらを見つめる怪獣の頭部を唖然として見つめた。逆三角形をした、つるりとした頭部。逆三角の上2つの頂点には半球の目玉が付いており、その中心に黒色の瞳があった。暗いせいかそれとも元々なのか、瞳はまるで黒い穴のように見えた。眼球の間には1対の触覚が付いており、こちらに向かってしなだれるように垂れていた。また、下の頂点からは1対の強靭な顎が見え、もぐもぐと小刻みな動きがあるのを見ることが出来た。
気持ちが悪い。ただでさえ昆虫自体が気持ち悪い形をしているのに、これほど大きいのを見ると神の悪意を疑ってしまうくらいの悪趣味な造形をしている。彼女はあふれ出る嫌悪感を感じながらそう思った。そして、次の瞬間今自分が大変まずい状況に置かれていることに気が付いた。どう考えてもまずい。彼女はゆっくりと後ずさりする。階段まではたった2m。階段自体は人間が2人やっとすれ違える程度の広さで、怪獣が体をねじ込むスペースはない。階段に入り、全速力で下ることが出来ればあるいは怪獣から逃げ切ることが出来るかもしれない。怪獣の気をひかないように少しずつ足を後ろに出し、階段に近づく。
だが、その時怪獣の視線が自分には注がれていないことに気が付いた。隼人だ。自分の胸の中で泣いている隼人を見つめている。まずい。彼女はイチかバチか走り出す。自分の後ろで何かが急激に動き出すのを感じる。自分の背中に何かが迫っているのを感じる。もうだめかもしれない。そう思いつつも、隼人を守りたい一心で走り、階段を駆け下りようとする。
その時、何かがこすれるような大きな音が遠くから聞こえた。その音に気を取られたのか、怪獣の動きが止まる。その隙に彼女は階段を駆け下りる。階段を下り、踊り場を曲がり、階段を下りる。怪獣は踊り場での方向転換と階段の中隔に邪魔されて大きく左右に動くこととなり、ぎりぎりだが彼女たちには追い付けなかった。
彼女たちは1階にたどり着く。来るときに使った裏口から出るのは自殺行為だ。だから正面玄関に向かう。玄関はすこし明るく、彼女は特に迷うことなく向かうことが出来た。玄関を通り、表通りに出る。通りは比較的広く、瓦礫もあまり散乱していなかった。目の前の家屋が二件崩れて出火しており、その明かりが先ほど見えていたようだ。彼女は一瞬その光景にひるむが、走り出す。行く宛てもわからないが、あの怪獣が追ってくるのだから。
怪獣は建物を回り込み、由美を見つける。10mほど離れているが、怪獣にとってはすぐに追いつける距離だった。それは獲物を前にし、歓喜したかのように鎌を持ち上げ、猛然と走り出した。目の前の獲物の進みは遅く、10秒もあれば追い付けてしまう。それは勢いをつけ獲物に向かって突進し、鎌を高く振り上げ振り下ろさんとする。もう獲物の運命は決まったもの。そう思った時に、すさまじい衝撃を受け、目の前の光景が吹き飛ぶように移り変わり、そして押しつぶされ動けなくなった。




