第85話 学研区域③
面白いものを見せてやる、と言われてセクレ・ターリが通された空間は、予想とは裏腹にだだっ広い何もない空間だった。
いや、古めかしいコンピューターが数点並んでおり、巨大な空間の端から端までを一枚のガラス板と有刺鉄線がコンクリートの部屋を二分している。
二分といってもガラスの向こう側が空間の八割程度を占めていて、その大きさたるや球技の公式戦を開けそうなほどだった。
「さあ、舞台はこの中だ。入りたまえ」
ドクター・シータがコンピューター上のボタンを押してロックを解除してから扉の前に立つと、扉は自動的に開いた。
「さあ、中へ」
ドクター・シータが扉の前で手を部屋の中へと向け、セクレを中へと促す。
しかし彼女は応じなかった。
彼女が警戒していることを察したか、ドクター・シータは自分が完全に部屋の中へ入ってから、もう一度彼女に中へ入るよう促した。
「…………」
セクレは無言でドクター・シータを注視している。そのままゆっくりと扉をくぐる。
ドクター・シータは携帯している端末を操作し、扉をロックした。
「それでは御覧いただこう。私の最高傑作をね」
ドクター・シータが再び端末を操作すると、今度は空間の奥の方にあった鉄格子が開き、奥の扉も開いた。
「ドクター・シータ、あなたの最高傑作は目に見えるものなのです?」
「……ああ、そうだとも。ちょっと待ちたまえ」
どうやらアクシデントが起きているようだ。ドクター・シータは端末を操作しながらぶつぶつと独り言をつぶやいている。
「おかしい。壱番菅には試作〇〇二号をセットしていたはず。不在とはどういうことだ? 脱走? あり得ない。あれに限って暴走などあるはずがない。センサーの故障か? ならば弐番管は? ここには試作〇一〇号が入っているのか。そうだ、餌やり後の経過を観察するために入れていたのだ。こいつはじっくり観察したかったが、まあいい。こいつは一次欲求の欠落した亜生物型だから大丈夫だろう」
奥の扉が閉まった後、ガタンガタンと鋼鉄が鋼鉄の中を移動する音が聞こえ、そして再び扉が開いた。
「あれは、イーター!?」
セクレ・ターリは驚いた。ドクター・シータがイーターの研究をしていることはゲス・エストの忠告から予期していたことではあったが、目の前に現れたそれは、これまでに見聞きしたイーターとは異なる種のものであった。
「グエァァ……グエァア……」
四足歩行。ドクター・シータの背丈の三倍はあろうかという部屋の天井に頭を擦るほどの巨躯。上半身が異様に発達した体躯はゴリラを連想させる。
しかし毛はない。いっさいの毛がない。サイのようにひび割れたゴツゴツの肌は真っ白だ。
顔はあるが、目がない。口がない。耳がない。団子のような鼻だけがポコンと出ている。
「あれは何です? イーターなのです? イーターとは本来、食欲に特化した生物です。それなのに、あれはどうみても食に不利な姿をしています」
基本的に無表情のセクレ・ターリだが、大きく目を見開いて身を引いた。彼女がそう言ってからドクター・シータの方を見やると、彼は視線を端末とイーターの間で何往復も走らせながら、再び独り言をつぶやいていた。
「おかしい。形が変わりすぎだ。あんな小さな餌でここまで変形するなんてありえない。いや、ありえないという決めつけはよくないが、これはアクシデントを疑うべきだ。ん? 待てよ。あの上腕の形、まさか試作〇〇二号か? まさか食ったのか? なんてことだ! 大事な〇〇二号を取り込んでしまったというのか! ああ、最悪だ。どうしてだ。〇一〇号が自発的にほかのイーターを取り込もうとするなんて考えられない。……あれか、あの餌か! あの餌の食欲に当てられたのか!」
突然、ドクター・シータの鋭い視線がセクレ・ターリを突き刺した。
「どうせこうするつもりではあったのだ。だが、貴様、許さんぞ!」
セクレ・ターリは恐怖した。怨嗟のこもったドクター・シータの目は、そのまま見ていると吸い込まれて闇の沼へ沈められそうだった。
「私、何かしましたです? 心当たりがないですが。理不尽な八つ当たりは遠慮願うです」
「うるさい! おい、〇一〇号! こいつを食え! 消化液で表皮から順に溶かして苦しみ悶えさせながら食うのだ!」
――グォオオオオオォォォンッ!!
強烈な咆哮。いや、唸り声だ。口がないのだ。鼻から音を出している。鼻から出す音が、獰猛で巨大なイーターの威嚇咆哮すらをも凌駕するエネルギーを発している。
セクレ・ターリは即座に入り口へと走った。しかしロックがかかっている。ドクター・シータも中にいるということは、イーターはドクター・シータの命令に従うように手を加えられており、彼の身だけは安全ということだ。
「なんてことです。ゲス・エスト、たしかに忠告は聞きましたが、ここまでのものが出てくるとは聞いてないですよ。しかも身に覚えのない恨みを買っているです。理不尽です……」
白く巨大なショウジョウ系イーターの試作〇一〇号は、のっしのっしとセクレに近づいていく。
セクレ・ターリは畏怖しながらも、覚悟を決めた。
震える手を握り締め、それでも震える手を胸で押さえつけ、そして魔法を発動すべく念じる。
「私とて魔導師。魔法学院の生徒会書記を務める者。ただでは終わらないです!」
セクレ・ターリのブレザーの内側から、無数の黒ずんだ紙が飛び出した。
「ほう、紙の操作型魔導師というわけかね」
「さあ、それはどうでしょう」
宙を舞う紙が高速で回転し、イーターめがけて飛んでいく。
しかし、イーターのどの部位に当たっても紙は弾かれてひしゃげてしまった。
「ウィッヒヒ。さすが、魔法学院の生徒会書記というだけのことはある。事務作業においては実に便利そうな魔法だ。それがどうして戦闘要員としてかり出されたのかについてはまったくの意味不明だがね。試作〇一〇号は食べた魔導師の能力を保存、応用することができるのだ。私が貴様の魔法を有効活用してあげようではないか。さあ、〇一〇号、さっさと奴を食べてしまいなさい」
地に落ちた紙切れを踏み越え、イーターはセクレに向かってのっしのっしと歩いてくる。
その巨体を息を呑んで見つめるセクレだが、その視線がストッと下へ落ちた。先ほど撃墜された紙だ。それがふわりと浮き、ドクター・シータへと飛ぶ。
もしドクター・シータがイーターに自分を守れと命令しても、彼よりもセクレに近づいたイーターには間に合わない。
「もらった! と、思ったかね?」
ドクター・シータがポケットからビンを取り出して蓋を開けた。
中から何かが飛び出した。
手のひらサイズのそれは、回転して飛ぶ紙に飛びつき、それを咥えたまま次へ次へと飛んですべての紙を食べてしまった。
「鳥? いいえ、イーターですね!」
鳥のように見えて、その姿は竜のほうが近かった。両手で覆えるほどの大きさで、怖くはないが、イーターとして食欲を満たす能力は十分らしい。
しかも完全にドクター・シータに手名づけられている。
「ウィッヒヒ。紙はもうないぞ。さあて、どうするね、セクレ・ターリ?」
「ふふん。紙は必要ないです。私の魔法は紙の操作ではないですから」
どこからともなく現れた黒い水が浮遊している。それが高速で飛び、無数の弾丸となって小竜イーターを貫いた。
「これは、インクかね!? なるほど、貴様の魔法はインク、いや、溶液あるいは不透明液体の操作というところか。先ほど紙が床に落ちたときに一部のインクを床に移して温存していたというわけだな?」
「もうあなたを守れるイーターはいませんですよ。試作さんが私を攻撃するより先に、私はあなたを攻撃できるです」
「それはどうだろうねぇ。操作型魔導師の弱点は、操作するエレメントを触れるか目視するかで位置把握できていなければならないこと。貴様がインクを見られなければ操作することもできまい。おい、試作〇一〇号!」
ドクター・シータが試作番号を叫ぶと、巨大イーターが瞬間的に変形した。
両手を広げ大の字に仁王立ちしたかと思うと、その手が爆発的速度で薄く広く膨張し、最終的にセクレをドーム状に覆ってしまった。
「真っ暗で何も見えないかね? 〇一〇号、明かりを灯けておあげなさい」
セクレの頭上でイーターの体表が一部発光している。
出入り口のないコンクリートのドームに閉じ込められているような状態だった。
「おお、おう、絶望しかけているその表情がよろしいね。おやおや、なぜ分かるのかって顔をしているね。こちらからは見えるのだよ。〇一〇号の体は変形できるし材質も変えられるのだ。つまり、一方向からのみ光を通す石にもなれるのだ。さてさて、最後に何を残しているのかね? 貴様の表情が完全な絶望に染まっていないということは、まだ策が残っているということなのだろう? さあ、見せたまえよ。ウィッヒヒヒ」
セクレ・ターリからはドクター・シータの顔は見えないが、その笑い声を聞けば誰だってあの厭味ったらしい愉悦顔が目に浮かぶというものだ。
「最後の手段。そんな大そうなものは残っていませんです。私の負けです。でも、ただでは死なないです。あなたの財産と心中するです。そちらからは見えるですよね?」
最初と同じようにセクレのブレザーの内側から紙が無数に飛び出した。それをタイルのようにきれいに並べて浮かせた。
「グエァァ……グエァア……」
腹を空かせているのかもしれない。イーターの石状の体表から触手が伸びてきた。全方位から無数に伸びてくる。
「おい、待て、試作〇一〇号!」
触手が止まった。不気味な唸り声は食事の許可を催促しているように聞こえた。
「どうやらこれは重要な書類だったようです?」
「貴様、どうしてそれを持っている? それは私の研究のメモだ。閃いたアイデアを書き留めたもので、研究成果をまとめた報告書よりも大切なものだ。事務所のデスクの上においてあったはず。それをどうして貴様が持っている!」
「応接間に案内される途中、『ドクターから書類を取ってきてほしいと言づけを賜ってる』と案内人に言ったら、先に事務所に案内してくれたです。あの受付と案内人、あなたが脳を弄ったか何かしたのでしょう? 木偶人形みたいになっていたから簡単に通してもらえたです。それに、私は魔法学院生徒会の書記なのです。書類の重要性を重々承知しているのです。特に手書きの一点ものは替えが利かない可能性があるということも」
そのとき、イーターがひときわ大きな唸り声をあげた。触手は再び動きだした。
それはセクレ・ターリにとっても、ドクター・シータにとっても、最悪の事態だった。
イーターが食欲に負けてドクター・シータの命令を無視したということだ。
「やめろと言っているだろ、試作〇一〇! 言うことを聞かなければ、これからは毒入りの餌しかやらんぞ!」
ドームの外でパタパタと足音がする。ドクター・シータが走ってきているのだ。そしてバンバンとドームの壁を叩いている。
五度目か六度目の衝撃で、ドクター・シータの拳が壁に減り込んで突き抜けた。その勢いで彼の上半身が半分だけドーム内へと侵入した。
「グエァ……」
イーターが小さく唸った。さっきまで大きく唸っていたので、逆に不気味だ。
「おい、開け。おい、試作〇一〇! 早くしろ、この鈍間め!」
そのとき、壁から伸びた二本の触手がドクター・シータの両手に巻きついた。そして、さらにもう一本の触手が彼の懐に潜り込み、ビンを取り出した。先ほどと同様に小さいイーターが入っている。
触手はビンを掴んだまま壁の中へと引っ込んでいった。
「おい、おまえ……」
ドクター・シータの顔が青ざめていた。まるですべての地位と財産を没収され奴隷になることを命じられたかのような顔、彼が見たがっていた絶望に染まりきった顔を彼自身が体現していた。
もしもイーターがドクター・シータの暴言に怒って暴走したのなら、彼がこれほどの絶望を見せることはなかっただろう。しかしイーターは冷静に、知性的に、ドクター・シータの切り札を奪い去り、そして拘束している。
もしかしたら命令を無視したのもドクター・シータを自身に近づけさせるための策略だったのかもしれない。
そして、ドームの天井に切れ目が走り、ぱっくりと割れた。
そこに見えたのは、部屋の天井ではない。歯だ。それは口だった。
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