第119話 ミコスリハン
大陸は四つの国と、どこの国にも属さない公地の、五つの領域に分かれている。
四つの国とはリオン帝国、ジーヌ共和国、シミアン王国、護神中立国である。
そして、大陸の中央には五つの領域のうちの四つが隣接する場所がある。
ザハート。
そこにはリオン帝国、ジーヌ共和国、護神中立国の国境検問所があり、公地のその地点に立てば、一つの視野で三国を同時に臨むことができるのだ。
もしリオン帝国か公地に所在を置く者が護神中立国へ入ろうするならば、必ずこの場所を通る必要がある。
護神中立国は極めて閉鎖的な国であり、入国できる関所が二箇所しか存在しない。
そのうちの一箇所がこの大陸中央にして護神中立国の北端たる要地、ザハートなのである。
ザハートにおいては、いかなる不届き者の狼藉も許されない。各国の守護者が協力してそれらを排除する決まりになっている。
しかし、公地内でザハートを少し離れた場所は完全なる無法地帯である。
イーターが徘徊し、国を追われた魔術師が得物を狙いすまし、自惚れた魔導師が身勝手な力試しのために手頃な相手を探しまわる。
黄昏時のそんな危険地帯に、極めて似つかわしくない煌びやかな出で立ちの男が立っていた。
ラメ入りの光沢のある青いスーツに、白いシャツと赤い蝶ネクタイ。
体重は百キロを超えているだろうという恰幅のよさで、丸々とした顔には、張り出た小さい目と、横に広い鼻と、あんパンを思わせる丸い頬と、それに挟まれたタラコのような口が乗っている。
眉は剃り落としたようで、どこにも見あたらない。
彼はタワシを持っていた。赤黒い色合いの、正面から見たら髑髏のように見えるタワシだった。
彼はタワシを見つめ、ニヤリと笑った。
彼の正面で、大男が椅子に座っている。
こちらも体重は百キロは超えていそうだが、無駄な脂肪は見あたらない。見事に鍛え抜かれた筋肉が全身に貼りついている。
それゆえ、四角い木板を組み合わせて作られた小さくて簡素な椅子は、正面からみると完全に男の影に隠れて見えなくなっていた。
「ああ、ついにこの時が来た。私がどれほどこの瞬間を待っていたか、お分かりですか?」
青いキラキラスーツの男は大男に向かってそう語りかける。
しかし反応はない。彼は寝ているのだから。
それに、両手を後ろで縛られ、逞しい両脚を華奢な椅子の脚に縛りつけてある。
「ミコスリハン。闇市場でも伝説となっている幻のタワシ。私がその噂を聞きつけてどれほど駆けずりまわったか。そしてどれだけの大枚をはたき、何人の部下を捨て駒にして手に入れたか。もちろん、本物であることは確認済みです。三人の部下に試したら、三人ともこれが本物であると証明してくれましたよ」
青いスーツの男はニタニタと笑いながら眠れる椅子の大男へとゆっくり歩み寄った。
「あなた、よく鍛えていますねぇ。どれほど努力をしたのでしょう。それはどれほど強い精神力が造り上げたものなのでしょう。葛藤のたびに自分に打ち勝ち、ストイックに己の肉体を鍛えてきたのでしょうね」
青スーツの男は筋肉男の首筋に、ヒタとタワシを当てがった。
そして、軽く擦る。
決して押さえつけるようなことはせず、卸したての筆先でそっとなぞるかのように優しく、タワシで擦った。
「あがっ、がぁああああああっ!」
低く質量のある、けたたましい悲鳴が木霊した。
筋肉男の顔は高濃度の酸をぶっかけられたかのような苦悶に歪み、両手両脚がガクガクガクと異常なまでの痙攣を見せる。
その痙攣の振動で全身が椅子ごと跳ねまわり、もはや椅子は地に着いていなかった。
「おほほほほほぉおおっ! 素晴らしい! まだ一往復ですよぉ!」
タワシが折り返して二往復目の往路に入る。
「あがぁ……」
もはや筋肉男は声を出すこともかなわなくなった。
海老反りに仰け反った姿勢で全身の穴という穴から汗を水鉄砲の勢いで飛ばした。それは失禁、脱糞をともなっていた。
タワシが二往復目の復路に入った。
今度は全身の穴という穴から血が飛び出した。
髪が真っ白になっている。
三往復目の往路。
真っ白な髪がすべて抜け落ちた。
両手両脚の爪が自重で剥がれ落ちた。
上顎の十四本の歯が抜け落ち、追従するように下顎の十四歯すべてが口からこぼれ落ちた。
そして、目玉が眼窩から転がり落ちた。
三往復目の復路。
その巨体が小さな椅子に全幅の信頼を寄せるかのように預けられた。
そして、その後いっさいの反応を示さなくなった。
「これはこれは、なかなか興味深い反応でした。これほどの男でもミコスリでしたか。へたに耐えると余計に苦しんでしまうわけですねぇ。もしもミコスリハンの限界まで耐える者がいたとしたら、いったいどんな反応を見せてくれるのでしょう。楽しみですねぇ、待ちきれません! 私はいったい、何人殺せばいいのでしょうねえ!」
この青スーツの男の名はキナイ・ドアキン。リオン帝国ではキナイ組合長と呼ばれ、商業区域の五護臣を務めている男だ。
ここ公地においては半日ほど散歩すれば五匹はイーターに遭遇するという危険な区域であるが、ネームド・イーターでもなければ、イーターどもがキナイ組合長を襲うことはない。
イーターは基本的に理性というものがなく、一般の動物に比べてあまりにも食欲に忠実で、危機察知能力というものをほぼ持たない。しかしゼロではなく、その結果がイーターどもにキナイ組合長を避けさせていた。
イーターに恐怖を与えるほどの男、キナイ組合長。
そんな彼に背後から声をかける恐れ知らずの人間がいた。
「悦に入っているところ恐縮ですが、商談を申し込んでもよろしいですかな?」
キナイ組合長は振り向き様にタワシを相手へ振り下ろした。
しかし、その腕は掴まれて止められた。
キナイ組合長の不意打ちを予期していたかのように難なくあしらったのは、グレーのフーデッドマントを羽織り、フードを目深に被った男だった。
「おや、見ていましたか?」
「いいえ、見えているのですよ、未来がね」
フードの奥から鋭い眼光が覗き、キナイ組合長は合点がいった。
「なるほど、あなたでしたか。ジーヌ共和国・大統領、エース・フトゥーレ殿」
「見境なく牙を剥くとは、あなたも大概ですね。あんまり常軌から逸脱すると、とんでもないものから目をつけられますよ」
「とんでもないもの? 神に目をつけられるとでも?」
「いえいえ、その神に救いを求める羽目に……、いえ、この話はやめましょう。語るだけでも恐ろしいことですから。私はね、ここへは商談をしに来たのですよ、キナイ組合長殿」
「この私に商談とは、それこそ恐れ知らずですな」
「こちとら命がかかっているもんでね。一刻を争うのですよ」
エース大統領がキナイ組合長に持ちかけたのは、商談というよりは依頼だった。
その依頼内容はゲス・エストの抹殺。
期限は二十時間。
報酬はエース大統領に可能なことであれば、彼自身の死や負傷をともなわない限り、何でも望みを叶えるというものだった。
「ずいぶんとお急ぎのようですねぇ。しかし、ゲス・エストの抹殺となると、よほどの報酬でなければ割に合いませんよ。ゲス・エストは帝国を落とした人間ですからねぇ。彼を敵に回すというのは、一国を敵に回すに等しいリスクを負うということですよ」
「報酬はジーヌ共和国大統領の地位でどうです? それでも足りませんか?」
「足りませんな。帝国ならまだしも」
さすがのエース大統領も渋面を隠しきれなかった。
しかし、彼はどこまでも本気だった。そして焦っていた。
何を投げ打ったとしても、ゲス・エストを二十時間以内に殺さなければならないのだ。
「ならばマジックイーターのすべてを加えたらどうです? あなたにマジックイーターの頭としての地位もくれてやると言っているのです」
キナイ組合長の見開かれた目がギラっと光った。
ジーヌ共和国大統領の地位は、割に合わないとはいえぶっ飛んだ掛け値だったが、そこにマジックイーターの頭の地位も加わるとなると逆においしすぎて裏の計略を疑わざるを得ない。
キナイ組合長はマジックイーターの全貌を知るわけではないが、裏社会には精通しており、各国に無数のエージェントが潜伏していると聞いている。
それを掌握するというのは、世界の裏側を半分くらいは手中に納めるということに等しい。
「ほう。それはそれは……。ゲス・エストに心臓でも握られましたか? いいでしょう。お引き受けしますよ。ただ、口約束だけでは信用なりませんので、ハリセンボンの杯をかわしていただきますが、よろしいですかな? 約束を絶対に破らせないための道具です。約束を果たせる状況にありながら欲に負けて約束を反故にした場合、血中に浸透した酒の成分が千本の針に変わり、爆散して体内から串刺しになるという、闇市場で仕入れた道具です」
「分かった。それを飲もう」
「契約成立ですな。私も命を張るのでね。悪く思わんでくださいよ」
「構いませんよ。ゲス・エストさえ倒せればいいのです。奴を倒し、私が生きてさえいれば、いくらでもやり直しが利く。私の魔術があればね」
世界の裏側を知る二人の男は、不敵な笑みと、闇の杯をかわした。
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