05 どうしてですか
「おお、帰ってきたか、サリクス。ほら、早く座りなさい」
クラフトの言葉通り、サリクスはヘレナの隣に腰を下ろした。青白い顔となった姉を見て、妹は勝ち誇ったような顔をする。
「あら、サリクスお姉様。随分と遅いお帰りで。ノエル殿下とのお話は楽しかったですか?」
「………」
何も言い返せず、サリクスは俯いた。膝の上でスカートを強く握る。
「ど、どうしてですか……」
声を震わせ、サリクスは言った。
「どうして、い、今になって、ヘレナを王妃に……」
かろうじて聞こえるほどの小声だった。ルージュが頬に手を当て、困ったように眉尻を下げる。
「それがね、サリクス。私たちにとっても急な話だったのよ」
「うむ。先日、ノエル殿下に突然ヘレナと恋仲だと打ち明けられてな。だから結婚するならば、ヘレナにしてくれないかと頼まれ、最初は断ったのだが——」
クラフトが妻に同意し、ちらりとヘレナを見た。
「ノエル殿下が既に国王夫妻から許可を頂いていると言ってな。陛下の意見を無下にできないことと、二人の意思が強かったこともあり、私たちも許したのだ」
「で、ですが! 王妃に選ばれるのに一番重要なのは、何より魔法の素質です! 私は精霊を使役できますが、ヘレナがそういった魔法を使えるなど聞いたことが——」
「ああ、それなら問題はない」サリクスの訴えを遮り、クラフトは髭を撫でながら言った。「ヘレナは今年、宮廷魔法士の試験を合格し、その上、最年少で白魔法部隊に入隊したんだ。これほどの実績があれば、文句を言う者は少ないさ」
「えっ……」
サリクスは目を見開き、驚きの声を漏らす。
魔法使いの頂点である宮廷魔法士の試験を突破するのも、そこで最高難易度の回復魔法を使役する白魔法部隊に入隊するのも、簡単なことではない。
大人ですら困難な道を、十六歳のヘレナが成し遂げたのは確かに凄いことだ。
だからこそ、サリクスは困惑した。
並の貴族ならば、一族総出で祝うほどの功績。とても名誉なことなのに、ヘレナが宮廷魔法士であることすら、今初めて知ったのだ。
俄には信じられない事実に、サリクスは思わず隣にいたヘレナを見た。
ヘレナは、自虐するように笑った。
「——サリクスお姉様は、私のことなど興味ありませんでしたから、知らないのも無理がありませんわ。王妃になるため、忙しい毎日を送っていましたし」
「そ、それは……」
サリクスはヘレナの言葉を否定できない。
血を分けた妹だが、幼少期からサリクスは勉強で忙しかったため、一緒に遊んだことも、姉妹らしい思い出なんかもない。ここ数年だって、ヘレナとまともに会話した数は片手で足りる。
それほど、サリクスはヘレナに構う余裕が無かった。
サリクスが何も言えず黙っていると、クラフトが話を再開し始めた。
「そういうことで、ヘレナが王妃になっても問題ないというわけだ。私たちも初めは迷ったが、ノエル殿下に説得されてな。セントアイビス家から王妃が選ばれさえすれば、どちらでも構わないはずだろう、と」
「——っ!」
どちらでも良い?
そんなこと、あってたまるものか。
だって、私、ずっと我慢してきたのに。王妃になるため努力してきたのに。
お父様も、お母様もそれをわかっているはずでしょ?
どちらでも良いなんてことない。私を選んでよ。ずっと昔から頑張ってきた、私を。
サリクスはそう言いたいのをグッと堪え、唇を噛んで、スカートを握る手を強めた。
父親から自分の意見を肯定する言葉を待つが、彼から発せられたのはサリクスが欲していたものとは正反対だった。
「殿下の言っていることも一理あると考えてなあ。別にサリクスでなくとも、二人のうち一方が選ばれれば、私たちはそれでいい」
サリクスが息を飲み、その肩が僅かに震えているのを、彼女の両親は気づかない。クラフトはふぅと息を吐き、髭を撫でる。
「とはいえ、一度正式に決めたことを覆すのだ。私の一存だけでは不安だった。そこで、ルージュと相談したのだ。どちらを差し出した方が公爵家のためだと」
「もともとは、サリクスの予定でした。王妃に相応しいよう、幼い頃から厳しく躾けてきたつもりです。サリクスは私たちの期待に見事応えて、ノエル殿下の婚約者に選ばれてくれました」
だからこそ、と、ルージュが続けた。
「今まであなたに無理を強いてきたのではないかと、お父様と考えたのです。私たちは、少々、厳しすぎたのではないかと」
(——え?)
サリクスは理解できないものを目の当たりにした気分だった。優しく微笑んでくる己の母親に、淀んだ黒い感情が湧いてくる。
「ずっと自分の時間を犠牲にして、公爵家のため頑張ってくれました。だから、もう、良いのではないかと。サリクスを解放しても良いのではないかと」
「ルージュの言う通りだ。サリクス、お前は今までよく頑張ってくれた。これからは、自由に生きていいんだ」
声を掛けてくる父親は、気遣っているようだった。その表情は、どこか満足気な様子だ。
二人の優しい眼差しに、サリクスはただただ呆然とした。
(——何を言っているんだろうか、この人たちは)
本当は着たかったピンクのドレスも、やってみたかった鷹狩りも諦めて、大嫌いな人に意地悪されても耐えて、悪口を言われても表ではにこにこ笑って。
王妃以外の夢を持つことは許されなくて、二人の顔色を窺って失望されないようにして、ノエルの機嫌を直すために自分の時間を犠牲にして。
王妃になるために我慢してきたのに。二人の願いを叶えるために、全部、全部、捨ててきたのに。
こんな簡単に、変えていいと思っているのか。たった一言で、私が報われると思っているのか。
十何年も捧げてきて、得られた結果が、過去にこそ欲しかった自由だなんて。
——じゃあ、私の人生、一体なんだったの。
「サリクス? どうしたの? 顔が真っ青よ。具合が悪いの?」
「疲れているのだろう。今日は色々あったからな。もう話は終わったから、部屋で休んでいなさい。私たちは、もう少しヘレナと相談する」
サリクスの両親は彼女の様子など気にも留めず、退出を促した。サリクスは虚な目をしたまま、いつも通りの従順な態度で返事をした。
「……はい。それでは、失礼いたします」
立ち上がり、黙って部屋から出ていくサリクスを、ヘレナが嘲笑っていたような気がした。
扉越しに聞こえてくる家族の楽しそうな話し声を背に、サリクスは覚束ない足取りで自室に戻った。