「笑う」をする 1
今日も、あの人は元気だろうか。
遠くに見える、あの山の峰の中。
―――
「今日は一段と暑くなったなぁ…。」
病院のクーラーの効いた部屋の中で、そんなことをつぶやく。
「先生、のんきなこと言ってないで!仕事してくださいよ!」
「えぇ・・・?そんなにばたばた慌てることないじゃないの」
「この状況でなんでそんなのんびりしてるんですか!」
今、片山市民病院の救急外来はひっ迫していた。
といっても、重症な患者がいるわけではない。
たくさん患者がいる。それだけではあるが。
「ちゃっちゃと片づけていかないと、外来が回らないでしょ!」
「やることはやってるよ昭栄先生、検査結果なんて急いでも出ないんだし、CTも順番だしさ。」
「それはー…そうですけど。」
市中病院の救急外来ではよくある状況だ。
数が多いことは大変なことではないのだ。
あくまで、「大変な患者がいる」から、救急というのは大変なのである。
それはことのほか少ない。
草光の中では、救急外来の救急医というのは他の診療科の医者よりも気楽なものだと思っている。
「慌てても見逃しややり忘れに繋がるだけなんだから。確実に、ひとりづつ、だよ。」
「それで次の患者さんが受け入れられなかったらどうするんです?」
「待っててもらえるんなら、それでいいじゃない。急ぐ人なら他の手も考えるし。」
「他の手って…」
「大きくて偉い病院」
市中病院の救急は、なんでもやるがなんでもできるわけではない。
真に重症の患者は、大学病院などのより専門的な治療までできる病院に依頼する。
代わりに、状態が安定して地域の病院でも対応できるようになれば、残りの管理は地域でする。
最終的には地元のクリニックなどで、元気であることを確認していてもらう。
医療連携。日本の医療の基盤の一つである。
「そりゃまぁ、そうですけども。うちで片さないといけない患者もいっぱいいるんですからね。」
「えぇ、えぇ。わかっとりますとも。この雑談しているうちに、ほら結果が出たでしょ?説明して順番に帰せそうだねー。」
「たのみましたよ、先生。僕はあっちの人の処置してきます。」
慌ただしいが、落ち着いている。
救急としては疲れはするが、しんどいとは思わない。
患者が重荷になることは、ない。
―――
春先、梅雨に入る前。気候も落ち着いている、まさに行楽日和とでもいうべき時期。
はりきっている専行医。
初期研修が終わって間もない、大学病院での研修。
もちろん、わからないこともできないことも多い。
それでも、学びは多く成長も感じる。
やりがいというものを、草光は全身に感じていた。
「こっち、挿管おわって今から全身CT!バイタルと機器類注意ねー」
「はい、移動準備していきます!呼吸器…換気回数、量を設定…圧確認して…」
「大丈夫か、草光先生?」
「はい、大丈夫です。換気良好、移動できます」
「移動中もモニタリング、忘れないようにな。俺は次の外傷見始めるから、こっちのCT移動は任せた。」
「はい、いってきます!」
伏木大学病院の救急外来に、重篤な患者がいない日はない。
この県下最大の救命センターでしか対応できない患者の、なんと多いことか。
それというのもこの天候が悪い。行楽で出かけるということは、非日常の事故も増えるということだった。
もちろん、時期に関係ない病態の人も当然いるわけで、平常でも忙しいはずが明らかにけが人も増えている。
上級医に効くと、例年のことらしい。
「でかけるときは怪我に気を付けてほしいもんだ…。まぁ、おかげで症例は増えるからありがたくもあるけど…」
「先生、ぼやきが口に出てるよ。あと、CTもう終わり。画像見てくださいな」
「あ、これは失敬しました。」
外来の看護師に叱られつつ、CT上のくも膜下出血が明らかなのを確認する。
「外来いっぺんもどって、報告しつつ脳外科コールですかね。入院はー」
「もうICUに部屋も取ってありますし、脳外科の先生はさっき呼んでましたよ。」
ーああ、そうですか。
上級医の手回しのよさたるや未来予知でもしているんだろうかと思わずにはいられない。
経験のなせる技なのだろうと思いつつ、数年で自分が同じことができるようになるとは思えなかった。
「がんばらないと、ですね。」
勉強も、経験も、まだまだ足りない。
そんなことを思いながら救急外来に戻ると、外傷の患者の対応が始まっていた。
高齢者が、山の斜面から滑落したーらしい。というのも、患者は家族から行方不明で捜索依頼が出されており、今日発見されたという経緯であったためだ。
昨日山に入り、発見されたのは今日。まるまる一日、滑落したところで動けないでいたらしい。沢でもあったのか体は濡れているようで、低体温症にもなっていれば外傷としては危険な状態である。
「うわ」
様子を見ようと近寄った草光であったが、思わず声が出てしまった。
下腿の骨が見えている。
その先は、もはやどうなっているかもわからない。
少なくても人体には再現できない方向に足先が曲がっている。
開放骨折ー複雑骨折とも言うがー中でも、最重症の部類であろう。
「いたそう」
ついてでたのは、シンプルな感想であった。
本人の意識が今ないのは、ある意味幸いだったかもしれない。
痛みがひどくて冷静ではいられないだろうから。
「いやお前、それどころじゃないだろ。そっちはSAH(くも膜下出血)だったろ?脳外科の先生来てくれてるから、あと任せてこっち手伝え。」
「え、あ、はい。」
すいません、と脳外科の医師に一礼して、外傷の対応に移る。
採血や静脈路確保はすんでいるらしい、反応は悪いが気道や呼吸に問題はない。
体は冷えているから加温しながら…輸血は?慌てる必要ないのかな。
と自分なりに対応を考えていく。
体幹に大きな外傷はないようで、致死的な外傷ではなくてすんでいるようだ。
足は残せないだろうが、ちゃんとすれば生きてはいける、といった印象であった。
ただしそれは、自分たちが「ちゃんとすれば」だ。余裕は決してない。
「足の処置は…手術室いきますよね?」
開放骨折は創部の汚染が強い、デブリードマン(汚染した組織の除去)が必要だ。
開放骨折は創外固定で創部が改善してからが基本だけど、今回は流石にアンプタ(切断)かな…。
「そうだな…。低体温だ、凝固は注意しろよ。出血しやすくなるからな。俺は家族に話してくる。入院は任せたぞ。」
と上級医がいったん離れる。
その間、草光は入院や手術に必要な手配を進めていく。
あらかた終わって、手術室から準備完了の連絡を待ちながら体温管理していたら、上級医がしぶい顔をして入ってきた。
「…?どうしたんですか?」
「いや…家族から、な。絶対に脚を残してほしい、と。」
「え」
それは渋い顔にもなる。なぜなら、未熟な自分がみても、明らかに足を残すのは無理だ。
なんなら生きているだけでも運がいいのだ、滑落外傷で一日経って生きているのだ。
見た目からも決して若くない、この歳でその事故なら死んでから見つかっていてもおかしくないぐらいなのだ。
「無茶なこと言いますね。」
「ああ…。まぁな。ただ事情を聞けば、気持ちはわからんでもない。」
「え、レジャーで山登りしてる人の事故じゃないんですか。」
「いや、そうじゃない。この人、仕事で山小屋の管理をしているらしい。」
「え?じゃあ、この歳でまだ現役なんですか」
どうみても若くはない、このおじいさんが?仕事をしているというのも驚きだが、それもただの仕事ではなく、山小屋の管理とは。
草光は山に上ったことはないが、管理といっても山にずっといるわけでもないだろう。
この歳で山を往来できるのだとしたら、大したものだ。
「若い頃から、うん十年とな。生きがいなのだそうだ。家族が言うには、あの人には山しかないのだ、と。そう言われた。」
「でも、あの足じゃ」
「ああ、もう山を登るのは流石に無理だろうな…。残念だが。」
なんにしても、今日すぐ足を切り落とすわけではない。
組織の汚染が強すぎるため、感染は必至である。感染した皮膚はそれ自体が侵襲になりかねないので、デブリードマンをするわけだが、
デブリードマン自体が一回で完了するわけではない。残ったように見えている組織もどこまでがダメになるか今の時点では正確にはわからないためである。
切り落とすとしても、その先を覆うための組織や皮膚が必要になるが、そこが感染していては傷も塞がらない。
ただ、そうはいっても。
意識が戻った時、脚がないことを本人がどう思うのか。
そして、生きがいというその仕事ができないとなった時。
それを考えると、医学的に脚の温存はできません、と言い切ってしまうのは酷にも感じられた。
「まぁ、どのみちまずは全身状態からだ。復温しないことには何もできん。」
「そうですね…。輸血もフォローしながら、整えていきます。」
今日の時点では、まだ、決断しなくてもいい。
ただ、いずれは…決めなければならないのか。
この人の、生きがいを、奪う決断を。
草光の心に、重しがのったような感覚。
ただ、救命に全力であればいいと思っていた。
このときはまだ、疑う余地もなく。