「死ぬ」をする 4
相田さんは、そこまで日を開けずに、また病院に訪れた。
本人の様相が依然と違いおだやかな雰囲気になっており、意外だったことを覚えている。
当然のごとく、早希さんのもとへ再び案内する。
しかし、その後のことはあまりにも急激に、そして想像だにしない形で終わっていった。
「…相田さん、やはりお気持ちは変わりませんか。」
あえて、確認する。
これは、どうしてもはっきりさせておかないといけない。
「先生…。早希は、もう、目が覚めることはないのでしょう?」
相田さんはこちらを振り返ることもなく、そう問い返してくる。
「それは…可能性は、低いと言わざるを得ません…。」
「一人で生きていくことも、できないのでしょうね。」
「…そう、ですね。」
呼吸器に繋がっていなければ呼吸があるかも怪しい。
その管理は誰かがしなければ死んでしまう。
栄養剤も誰かが与えなければ栄養失調でも死んでしまうだろう。
他にも身の回りのことは自力では何もできない…。
「なら、あの子を、ひとりにしたくないんです。先生。もう、楽にしてあげて。」
「ひとりに…?」
いや、ご両親のあなたたちがいるでしょう。
と、そう続くはずの言葉は、全く想像だにしない人にさえぎられた。
「相田美奈子さんですね。」
突然病室に現れた、いかつい体つきの男たち。雰囲気でわかる。
警察だ。
警察自体は事故などで検視の協力をお願いすることもある、病院で見ること自体はある。
「ご同行願えますか。」
だが、相田さんには要件などないはずだ。なぜ?なんでここにいる?
「…はい。この後、お伺いするつもりでしたから。」
「ちょ、ちょっと待ってください。警察の方、ですよね。なんで」
「先生、いつもお世話になってます。不躾なのは許してください、ちゃんと許可をもらってきてますよ。」
「いや、そうじゃなくて。」
「それ以上は、捜査上のことなのでお伝えできないんです。」
「捜査?なんの…?」
当然、返事などもらえるはずもない。警察が捜査上の情報だ、というからには一市民でしかない自分が聞くことなどできるわけがないのだ。
「先生。早希のこと、よろしくお願いしますね。」
「え、相田さん」
「私は、もう来られないと思うから。優しいあなたが、送ってあげてください。」
そんな。
そんなことを頼まれたって―それはー他人でしかない自分が、果たせる約束では到底ない。
「待ってください!早希さんは…生きたいかもしれないのに!」
「それでも、です。私は、あの子と生きる資格が、もう、ありませんから…。」
しかして、自分と目覚めぬ早希さんはそこに取り残され。
相田さんは、確かに二度と現れなかった。
数日後。代わりに訪れたのは警察のほうだった。
「先生、ご存知でしょうか。」
「ええ…。ニュースで。」
「そのことについて、警察のほうでも対応を協議してまして。ひとまず情報をお伝えに参りました。」
相田さんは逮捕された。
アルコール中毒で心神喪失、精神崩壊気味だったという夫。
夫からのDVに耐えながら生活してきていたが、娘の成長だけを楽しみに耐えていた。
体を――命をかけて、娘を守っていた。そうなってしまった経緯までは聞くことはできなかったが…彼女にとって、娘だけが生きる理由だったのだ。
その娘を、夫は夜のうちに連れ出し、どこともしれない山の中に置き去りにし、そして今、ここにいる。
なんのためだったかはわからない。分かるのは、今娘は、この状態でここにいるということだ。
生きる理由を失った彼女には、夫を生かしておく理由もなくなったようだ。
大切なものを奪った人を殺す。単純なようで、口にすると空恐ろしい。
その覚悟を決めたのは、あのときの電話…あるいは、その後、の話かもしれないが。
そして、娘を一人残すこともできない。生きていけないなら死なせてくれ、と自分への願いはそういうことだったらしい。
今さら警察から、そんな事情を聞かされても、自分たちにできることなどもうない。
早希さんは、突然死んでしまった。
それは誰にも予想しえない突然の心停止。
脳ヘルニア――脳幹への圧迫が致死的な段階に進行し、生命活動の中枢が死に、心臓が突然とまった。
その時点で、家族の意思に則った治療を行えば――行わなければ、当然死んでしまうのだから。
警察にも当然すぐに連絡したが、母親はもうあの子に顔を向けられない、私もいつか行くから、先に行っていて、と頑として動かなかったという。
「今回のことは、非常に残念ですが…警察としては…」
警察のほうでも、問題にはなっているらしい。しかし、そちらは単純だ。法に則るだけのことでしかない。もちろん、情状酌量だのなんだの余地はあるだろうが。思うことも、あるのだろうが。
そんなことはもはやどうでもよかった。
「そうですね。でも」
こちらの心中には、及ばないだろう。
「誰にもあの子の命は救えなかったんです。もう。」
心のままの言葉が、口をつく。
「先生…。そう、かもしれませんね。」
警察の帰ったあと、彼女がいた部屋の前に立ち尽くしてみた。
今はもう他の患者が当たり前のように治療を受けている。
リハビリができる段階まで回復している、外傷の患者だ。
後遺症もなく、このままいけばきっと社会への復帰もそう遠くない。
「先生?なにか、ありましたか?」
のぞいているのを不審に思った患者からの問いに、はにかみながら答える。
「いーえ。リハビリ頑張ってくださってて。えらいですよ。」
「ふふ、変なの。先生。自分のためだから、そりゃ当たり前に頑張りますよ。早く退院したいですし。」
自分のため。そして、帰るべき場所がある、か。
あるいは…いや、どんな理由であれ。
生きたいことに、理由なんてないと思っていた。
まして、死ぬことに理由を求めるなんてありえない。
生きたい、と願うことはあっても、死にたいと願うことなんてない。
心の病気ででもなければそんなの―人間の生き方じゃない。
「先生。」
気づいたら斉東さんが、隣にいた。
「しかめっつらで。患者さんが怖いでしょ。」
「あ、ああ。ごめんなさい。」
「考えすぎると、やっていけない。そう教えてくれたのは、先生ですよ。」
「…そう、だったね。」
早希さんはー
本当は死にたかったのだろうか。
生きていたかったのだろうか。
あえて、死を選んだのだとしたら…そこに理由があるのだろうか。
人に、見つかるように、自殺した。それが、意味を持つとしたら。
死ぬことで、変えたかったー何かを。もし、それが彼女の望んだことだったとしたら。
父親のなしたことにただ絶望しただけなのか。母親のなしてきたことに、意味を感じなかったのか。
なんにしても、彼女自身が望んだことがあの時、あそこで死ぬことだったのならば。
父親に、ただ生きてそこにあることすら望まれず。
生きることを望んだはずの母も人を殺め、そして生かすことを諦め。
自身もまた、自分が死ぬことに意味があると考えたのなら。
それを守ろうとした自分は―何をしていたのだろう。
誰も、生きることを選ばなかったその命を、守ろうとしたあの処置に、日々に、時間に、意味はあったのだろうか。
考えてもわかるわけはない。それでも。
返事のもらえないこの問いは、きっと永久に頭の中を渦まく。
――――
いよいよ初夏を迎えた片山では、ひっきりなしに患者が来る。
「まーた脱水っぽい患者さん。みんな水分取ってくれれば大事にならずにすむのいぃ。」
「まぁそういうなよ、昭英先生。それをしっかり教えることも今の救急では大事だよ。」
「患者教育、ってことですかぁ?キリがないですよそんなの。」
「でも、それを続けていればいつか患者が減っていくかもしれないでしょ?」
「そんなに気を長くもってできそうにないです。」
「いいじゃないの。先生が死ぬまで、まだまだ時間があるよ。気長にやれば、いい。」
「そんな言い方…まぁ、そりゃそうですけど。」
そう。普通なら、死ぬまでまだまだ長い時間がある。
わざわざ死ぬことを選ばないといけなかった人に比べれば、幸せなのかもしれない。
そして、生かしてほしい、助けてほしいと、はっきり伝えてくれる相手なんて、気楽なもんだ。
死ぬことを選ばず、生きるために助けを呼ぶ―わかりやすい。
救命の現場で、死のうとしないんならなんでもいいじゃないか。
生きることが何のためか、なんてその人にしかわからないんだから。
「センセたち、また患者くるって。次、5分後」
ああいや…こんだけ忙しいって、生きてても幸せじゃないのかもしれないけど。