「死ぬ」をする 1
―――
ピー…ピー…ピー…
「ねぇ…教えてください…。あなたは…生きて、いたかったんでしょうか?」
―――
1.
片田舎の病院の廊下をかけていく一人の医師。
電話を受けながら、救急外来に向かう。
「はいはい、いきますよ~っと。」
外来にはすでにスタッフが集まって準備を始めてくれていた。
「センセイ、点滴これでいいですか?」
「それでいいですよ、よくわかってらっしゃる。」
外来のベテランナース、優さんが1号点滴を準備しながら採血スピッツもセットしてくれている。
研修医の昭英先生が電子カルテを操作しながら確認してくる。
「草光先生、検査こんな感じでいいですか?」
「そうね…あ、でも最悪心筋梗塞かもしれないから、採血は一応心筋マーカーも出しとこうか。」
「え?心筋梗塞?患者は吐気がしたってだけですよ?」
「そう、不思議でしょ?でも、そういうこともたまにあるんよ。非常に珍しいケースだけどね。」
「へぇ…。それも、先生のいつものやつ、ですね?」
「そ。救急外来は、『目の前で死なせなきゃ勝ち』。考えられる限り最悪を考えて、それに備えて準備したほうがいいからね。まぁたぶん違うけど、一応ね。」
あわただしく皆が準備する中、患者が運ばれてくる。
「先生!お願いします、85歳男性。今日、起床時からの嘔気で、昼過ぎまで休みながら様子を見ていたそうです。
改善しないとのことで救急要請されました!」
救急隊の豪さんはいつもはきはき患者情報を伝えてくる。少し、うるさいけど。
「はいはい、そんなに大声や無くても聞こえてますよ~。さ、ダイジョブですよ、病院着きましたからね!」
ここは片山市民病院。その救急外来。
県の山間部地域にはここの他に「病院」はなく、診療所がいくつかあるのみ。
救急搬送される患者は全員運ばれる、地域の診療拠点になっている病院だ。
ここに、ひとりの救急医がいた。草光慎吾。
少し前からこの地域の拠点病院に赴任した救急医、である。
「…何もなさそう、だねぇ。」
「心筋マーカーも当然陰性、CT検査でも吐気の原因は明らかで無し。エコーの所見とかと合わせても…
軽い脱水症、だと思います。補液しただけで症状も改善したということですし。点滴終わったら帰宅、ですか。」
「そうだねぇ。ま、最近熱くなってきたし、そういうこともあるよね。」
「こんなんで救急車で来ちゃうんだからなぁ。」
「アラ、昭英先生?それはよくないんじゃない?病気だったかもしれないんだから。」
「優さん。それはまぁ、そうですけど…。」
「そうねー、患者は死ぬかもと思って、困って困って、救急車を呼んだんだ。医師の僕らからすればそんなこと、って思っちゃうけど実際のところは診察して、検査してみないとわからないんだから。」
「でも、現実問題、患者が死にかねない状態だったらうちじゃどうしようもないですけど。なるべく麓の大きいとこ行ってほしいですよ。」
「んー、まあそう思うのも分かるけど。それもまたちょっと違うかも、ね。」
「ん?どういうことです?」
「死にかねない状態から、助けるだけが道じゃない。…治療することが必ずしも正しいとは限らない、ってこと。」
「えぇ?僕らは医者ですよ。患者を治療しなくてどうするんですか。」
「んー…。ま、そう、なんだけどね。先生もそのうち、思うことがある日が来るよ。」
「…先生の思うところは僕にはわかりかねますけど。とりあえず、この方は帰しておきますね。」
「はーいよろしくー。」
そう、わかってはもらえないかもしれない。
それぐらい自分は、異常なのかもしれないんだ。
―――
その日も普段と変わらないようにたびたび救急車が来ては適宜帰っていく人も入院する人もいる。
初夏のころ、暑くなってきたのにまだ冷房を使わない高齢者なんかは軽い熱中症になりやすい時期だった。
伏木大学病院、救急救命センター。
地域で最大規模の救命センターで救命医も多数抱え、精力的に救命に勤しむ施設に、草光はいた。
「次は外傷ーショック状態。交通事故、挟まれもあって救助事案。気張っていくぞ!」
「輸血、造影ルートオッケー?エコー立ち上げといてね~。」
「頭部、気道の管理は自分はいります。緊急開腹になりますかね」
手慣れた空気感で医師たちはすぐに外傷診療の準備を進めていく。
全員が救急を専門とし、熟練してきたこのセンターで指示を待たなければ動けない者はいなかった。
「見てみなわからんやろ。でもま、覚悟はしとこうや。」
「輸血は異型で届きます。先生、緊急カテチームも連絡してあります?」
「しなくても誰かは勝手に来るよ、脚が軽いんだからあの人たち。」
看護師も全体の流れを勉強してきた猛者ばかりだ。
見た目が華奢で麗しくても、この後の惨劇にも近い治療がイメージできている。
「なんだぁ、先生。連絡ぐらいくれてもいいんじゃないのぉ?ちな、準備はできてるからねー。」
「…確かに、脚が軽くて助かりますね。」
「本当にありがたいことだよ。…おーい、草光はぁ?あいつは呼ばなきゃ来れんのかぁ!?」
外傷に対する血管内止血の専門家も、患者や救急医の自分より先について情報をもらいに来ている。
まるで、自分が出遅れたみたいになったじゃないか…。休憩取ってたのは確かだけど。
「来てます、来てますよ、先生。自分はーとりあえず全身診ますね。」
「おし、任せるぞ。-さ、来たぞ!」
救命センターの初療室に患者が搬入されてくる。
「お願いします!患者は32歳、男性!交通外傷の患者でー」
救急隊がリーダー医師に受傷を伝えているのを聞き流しながら、自分の仕事に集中する。
挟まれ、下肢が変形は強い。でも出血は止まっている…。後回し。
痛がって声は上げているし、胸の動きも悪くない。
手は冷たい、汗ばんでいる、ショック兆候はあって…
意識はわからないだろうか。会話はする余裕はなさそう…
外傷の診察を手早くこなしていく。
患者は痛がってうめいているのを、看護師が落ち着かせつつもバイタルサインを取り、
気道の確認や酸素投与、レントゲンやエコーでの評価、点滴ルートや血液検査、輸血の準備…。
すべてがチーム一丸で進んでいく。
救急としては洗練された流れで、評価と治療に向けた対応が滞りなく進む。
「これならまずはCT検査だな。おそらく骨盤骨折ー出血もあるだろうし、血管内治療も必要だろうな。
Responderだし、幸いまだちょっと余裕はありそうだ、下肢と骨盤の仮固定がその後か。」
「っぽいよねぇ。カテ室の準備進めておくよ、先生?CT終わったら連れてきていいよ~。」
「準備早くて助かります。さ、いくぞ。整形外科にも連絡してカテが終わったら緊急手術へいけるようにー」
異常だ、と自分は思う。
この施設のこの対応は、あまりにも常軌を逸しているのではないか。
その一員でいるくせに、最高の対応ができていることを異常だと感じてしまっている。
自分は救急医でありながら、救命できる現場にいながら、それに疑問を抱いている。
これができることは、素晴らしいことだと客観的には思う。
でも、不思議なことに主観としては、異常だとしか感じない。
CTを撮影する間、患者の検査結果をぼっと眺めながら、立ち尽くして
「草光先生、どうした?体調でも悪いのか?」
「え?いや、そういうわけでは。」
「ならいいけど。無理はするなよ、倒れても助けないぞ?」
「ええ!?そこは助けてくださいよぉ。」
「なら倒れる前に休んどけ。ここはとりあえず大丈夫そうだし、いったん休んできな。」
「ありがとうございます。次に備えておきます。」
このセンターで働きだして、数か月。
これだけ救命に貢献している救命センターを拒絶するような感覚。
人間として、いい施設、最高の医療ができることが異常なわけはないはずだ。
実際、ここで働くスタッフに自分のしていることに疑問を持つひとなどいない。
なればこそ、『自分こそが異常なのだ』…そう思わずにはいられなかった。
「草光センセイ、どうしたんです?しかめっつらで。」
「ああ、新人の…。ごめん、名前なんだっけ。」
「うわ、ひど。まぁ、新人だから覚えてもらえてなくても仕方ないですけどぉ。」
「いや、ごめんごめん。ほんとに。人の顔覚えるの苦手で…。」
「斉東ですよ、斉東。」
「ああ、斉東さん…。ごめんね、覚えれてなくて。」
最近救命病棟に入ってきた新人ナースさんだった。
新人といっても、この病棟ではの話で、他の病棟で何年か経験を積んだ看護師としては中堅どころの方だった。
「先生…なんだか疲れてます?」
「ん?まぁ、外傷の初療は緊張するから、多少はね。で、どうした?なんかあった?」
「あ、そうそう、患者さんのことでお願いがあるんだった。実は、2-A室の人、酸素化悪くて。」
「ええ?それなら早くいってよ、対応しなきゃ。」
「あ、大丈夫です、ちょっと良くなったんで。痰が原因なんで吸引するんですけど」
「痰が多くて吸引だけじゃなんともならない、って感じか。」
「そうそう。話が早くて助かります。」
「じゃ、去痰剤増やして…ってもう薬飲んでるのか…じゃあ体位交換頻繁にしてもらうしかないかなぁ。」
「あーやっぱり。でもあのおじいちゃん勝手に元の姿勢に戻っちゃうからなぁ…。」
「それは…うーん…困ったねぇ。縛るわけにもいかないし…。」
「ま、とりあえずは私らでがんばってみますね。相談のってくれてありがとう、先生。」
この施設では救命センターで入院する患者の管理も救急医がこなしている。
急性期の治療が終わった後も、その後退院するまでの管理を行っていた。
救急外来から退院まで、患者に対する責任を果たす。
それが可能なだけの救急医がここにはいたし、それをするだけの熱意が、間違いなくあった。
熱意。
それって、誰にでもあるものなのだろうか。
自分も、先輩の先生たちの背中をみていれば、いつか湧いてくるものだと思っていた。
でも、自分は…。
当直室で、最近頭をめぐる自分の迷い。
そんな考えを断ち切るように、内線電話が鳴り響く。
「次の患者、くるよ。」
「…はい、外来向かいます!」
夜中だというのに、疲労の抜けきらない体に鞭を打ち、顔を振り上げて外来に向かう。
しかしたどり着いた外来では、先輩リーダーとナースがしかめっつらをして向き合っていた。
「うーん…。」
「え、どうしたんですか?」
「次来る人、ちょっと大変かも。」
「というのは…?」
「外傷ではあるんだけど…どうしたもんかね。いや、まあ、やるしかない、んだけどさ。」
「どういうことです?外傷なら」
「自傷、なの」
「え」
「飛び降りだよ、先生。飛び降り自殺。精神患者かはわからないけど、10代女性のね。」
「しかも、意識悪くて他は無事。さらにはどこの誰だかわかるものもないらしい。」
自殺。この現場でその言葉は、聞き飽きるほど聞いてきていた。
即死であって救命できないこともあったが、救命した後に精神科の加療に繋ぎ、社会復帰を果たした人たちもいた。
当初は驚いたものだが、今となっては驚きも動揺もない。
救命に必要な診察、処置、検査をして、いつもどおり最高の救命をするだけだ。
「まぁ、とりあえずはがんばるかね。もうそろそろ着いちゃうから、準備準備」
「ええ。エコーと点滴と…挿管も、ですか。準備しておきます」
自分にできることは、何も変わらない。自分にできることを、やるしかない。
「…患者です、お願いします。10代、女性。頭部の外傷がメインです、橋から川に向かって飛び降りたらしいとのことです。
高さはおそらく20メートル相当、車で通行した人が飛び降りる瞬間を目撃したそうですぐに通報されました。」
ほら、救急隊もいつもどおり。僕たちも、することは変わらない。
いつもどおり、手早く診察を進めようとする。
しかし、患者を診たとき、今までにない感覚を覚えた。
整った顔立ちが血に塗れている。傷がひどい、腫れ上がってしまっていてこれが元の顔かもわからない。
整った体躯、うら若さを感じる胸のふくらみ。
救急隊が換気マスクごしに送り込む酸素に合わせてのみ、胸郭があがる。
体を病院のストレッチャーに移す、診察しようと衣服をはがす。
そういった刺激にたいして、反応がまったくない。
ほんのぴくりとも、動かない。
首から下は…まるで人形みたいだ…と、そう思った。
「先生?」
上級医のそのよびかけにはっとして、診察を再開した。
「あ、すみません…。頭部…顔面には腫脹・挫創ありますが、止血はできてます。縫合はいりますが。
首は救急隊で保護済み。頭蓋骨の陥没とかはないけど、自発呼吸が出ないぐらいにはレベル低下あり。換気はマスク喚気で入ってます、気道や呼吸は問題なさそうですね。」
「ショック兆候もなし、FASTエコーも体内の出血はなし、か。でもこの意識レベルじゃ、挿管するしかない、か。」
「ですね。準備はしてあります。挿管やってもよいですか?」
上級医の顔が少し、曇る。
…?自分の技術に不安があると思われたのかな。
「…外傷の挿管は何例もやってます、できますよ?」
「ん?ああ、いや。先生の腕は別に信じてるよ。いいよ、やってくれ。看護師さん、介助よろしく。」
「はーい。草光先生、ちゃっとやっちゃいましょ。」
…なんだったんだろう、あの表情は。
「口頭展開…吸引はいいです、見えてます。管ください…はい、はいりました。」
「よし、換気確認、呼気モニターも問題なし。レントゲンで最終確認だ。」
「はい。その後CTですね。移動の準備もしときます。」
自発呼吸のない患者だ。心臓は問題なく動いているが、人工呼吸器がなければ息が止まってるからすぐ心停止になる。
「ああ、頼む。…。」
やはり、先生は何か気になっているらしい。
今までの外傷とも何も違わないと思うのだが…。
「CTじゃ、薄い頭蓋内血腫と脳挫傷以外に所見はなしか。バイタルもいいし、そうだろうな。」
「まーそうだよね。今回僕らの出番はないか。」
血管内治療チームもCT画像をのぞき見に来てくれていたが、体幹部には治療を必要とする外傷はなし。
頭蓋内の血腫は専門家の脳外科医にも情報共有したが、今回は緊急手術などの適応ではないとのことだった。その返答は少し、言い淀んでいるような印象だったが。
「目覚めるのを待つしかない、か…。やっぱり、そうなるよな。」
「まぁ、仕方ないですよね。専門家が見て、出来る治療がないんですから。」
「…先生。この人、入院で持つか?」
「え、ええ。もちろん、大丈夫ですよ。」
これまでにも外傷の主治医は受け持ってきた。頭部外傷とはいえ、脳の専門家たちが治療することがないなら、この人は目覚めるまで様子見をするだけだ。目覚めない人なりの管理も、ある程度は診て来た。実践経験は乏しいと言え、特段することがあるわけではない。簡単な話である。
「そうか。…すまんな。」
この時、草光はなぜ上級医が謝るのか、わからなかった。
その意味は、最後まで、わからなかったのだけども。