澄んだ、空気
泣いても解決はしないのに、あれからずっと泣いてばかりだ。
弦太くんが満月さんの婚約者になったと聞いてから、何度も彼を諦めようと思っても未だに出来ていない。
まだまだ私の中に未練があるからだ。
彼は今、どうしているんだろう。
彼に会いたくて街を歩いていると、今日も弦太くんの家に前に立っていた。
ここは、彼との思い出が一番多い場所。
もしかして帰ってきてるのでは、という願望がそのまま出てしまっているようで、無意識に足が向いてしまっていた。
けれど今日も人気はなく、寒々しい。
この場所も、いつか無くなってしまうのだろうか。
私は涙を堪らえようと、ぐっと唇を噛み締めた。
するとフッと、ひんやりとしたとても心地良い空気が頬を擽った。
ニャーーーー
猫の声に振り向くと、向こうから荷物としらたまくんを持った真白さんが歩いてきた。
「あらひなたちゃん、お出迎えかしら」
真白さんがこちらへ近付くほどに、周りの空気がどんどん澄んでいく気がする。
すごい。
真白さんが居るだけで、あんなにざわついていた街が、静かになっていく。
そしてそれは、私の心の中のざわつきも穏やかに変えてくれた。
「真白さぁん…………」
私は思わず泣き出してしまった。
それは悲しい涙ではなく、喜びの涙だった。
◇
「泣いてしまった上に、帰って早々にすみません」
「いいのよ、気にしないで」
真白さんは私を家に招き、温かい紅茶を出してくれた。
「李月くんから話は聞いたけど、ここまで悪くなってるとは思わなかったわ。 ひなたちゃんは大丈夫?」
「真白さんのお陰で、だいぶ心が軽くなりました」
「あら、プレッシャーじゃなくて?」
「はい。 すごく癒やされた気分です」
「そう」
真白さんはフッと優しく笑った。
「で、私はここの歪を直しに来ただけだから、何も手伝わないけど。 ひなたちゃんは何で泣いてるのかしら?」
「え……」
「私から聞いたんだから、それを話したらいいのよ」
自分の中でしか言えなかった言葉を、口にしていいと言われている気がした。
真白さんにはやはり隠し通せない。
「私は……何の力も持たない普通の人間なのに、こんな私がこの先も弦太くんの側に居てもいいんでしょうか」
「随分と弱気ね。 という事は、弦太と満月が夫婦になる事でいいのね」
「それは……!」
「じゃあどうしたい?」
そんなの嫌なのに、まだ即答出来ない。
私のような只の人間が『彼と居たい』と欲を出して良いのかずっと悩んでいた。
彼等の血筋の事を考えれば、きっと弦太くんは満月さんと夫婦になる方が良い筈だ。
なのに諦めきれない自分も確かにいて、ずっと答えが出ないままだった。
「我々"鼠"の上に立てるのは、『獣としての素質』と、『強欲さ』だと言った事あったわよね。 だから夫婦になるなら、確かに獣の血を引く者同士が良いのも事実よ。 でもそれは『素質』という部分なだけで、それだけじゃない重要なものがあるの」
そう言って真白さんは、私の顎をくいっと持ち上げた。
「自分が強欲になれる相手かどうかよ」
「強欲になれる相手……?」
「えぇ。 強欲にならなければ『獣としての素質』は目覚めないし、目覚めても内の獣を従える事は出来ない。 だから我々には自分の欲を引き出してくれる、そんな相手が一番必要なのよ」
真白さんはにっこりと笑って、手を離した。
「以前『癒やしの力』を封印させる為に来た時のひなたちゃんの目は、とても人間らしい欲を孕んでて魅力的だったわ」
「え?」
「強欲な獣の血を引く我々には無く、生粋な人間だからこそもつ欲をちゃあんと持ってる。 そしてその欲を満たそうと奮闘する姿は、とても美しくて唆られるわ」
そう言って、真白さんは私の目を手で覆った。
「さぁ、見せて頂戴。 貴方の欲を」
私は温かい真っ暗な視界の中で、己の欲を探した。
自分が満たしたい欲。
置き去りにしてきた欲。
私は自分の胸の奥で、歯車がカチンと動き出した気がした。
そして、中で灯る光が見えた。
「……見つかったのかしら?」
真白さんは私の目を覆っていた手を離し、私に聞いた。
「弦太くんも、満月さんも助けたいです」
久しぶりに声を出した気がする。
「あら、満月から弦太を取り返したい、ではないの?」
「きっと今の弦太くんは、疲れ果てて思うように動けないと思うんです。 少しでも早く何とかしなきゃ、彼の野望が潰えちゃうかもしれないから、助けにいきたい。 ……満月さんは、悲しい顔をしなきゃいけない場所から、助けたい。 あんなキラキラした顔を知ったら、このままほっとくなんて出来ない!」
「『自分の為』ではなく、やっぱり『誰かの為』なのね」
「え?」
「ううん、何でもないわ。 やっぱりひなたちゃんは面白いわね」
「そうですか……?」
何処かで何か面白い事を言っただろうか。
「己の欲が見えたなら早い方が良いわよ。 いってらっしゃい」
「はい、行ってきます!」
優しく微笑む真白さんにそう告げて、私は彼の家を後にする。
満たしたい欲を見つけた私の足は、どこまでも走っていける気がした。




