婚約破棄をするには詰めが甘すぎるのではなくて?
「トレイシー・リー・フレッチャー。お前にはほとほと愛想が尽きた」
「……ほう」
アドレスター王国第二王子、ラディスラス・ロード・ウェル・アドレスターの言葉を聞き、フレッチャー公爵令嬢は薄い反応を見せる。
二人は、生まれた頃よりの婚約関係にあった。それは国中の知る事実であり、両者の成人を待って婚姻を結ぶ手筈となっている。
「傲慢、驕傲、不遜。およそ、王家の子を産もうという人間のものではない」
場所は、王族を招いての夜会。国の次代を担う有力者とその子女達の目が、ラディスラス王子とフレッチャー公爵令嬢へと注がれた。その視線の先には、使命感に打ち震える王子と、いつもの調子を崩さない婚約者。
今起こっているのは、本来あってはならない事だった。
「恐れながら殿下、ご説明をいただきたく存じます」
「解らぬか。それはつまり、其方にとってはそれ程の些事であったという事なのだろう」
言いつつ、ラディスラスは手招きで一人の女性を呼び寄せる。まるで白のテンジクアオイをそのまま人にしたかのような人物である。
「彼女は、アデレイド・ラナー。知っているな?」
「はい。しかし、彼女がなにか?」
「今更言い逃れはできん。其方がこの者に嫌がらせ行為をしていた事は既に調べがついているのだからな」
◆
「俺は今宵、トレイシーとの婚約を破棄する」
「まあ、嬉しいですわ! 殿下」
ラディスラスは、アデレイドを抱きしめて耳元で囁く。大きな声では言えない事だ。しかし、アデレイドは大袈裟に喜んで見せた。
「ああ、俺の愛しい人。そんなに大きな声を出しては気付かれてしまうよ」
「ですが、私嬉しくって」
「何と愛らしいのだろう。君のためを思えば、俺は王族の地位すら惜しくはない」
名残惜しそうに二人は離れ、あたかも初めから触れてすらいないかのように振る舞う。ラディスラスはソファに、アデレイドは部屋の隅で立つ。
アデレイドは、フレッチャー公爵家の給仕婦である。
彼女は、あろう事か主人の息女であるトレイシーの婚約者と恋仲だというのだ。
パーラーメイドは、主人や客人への露出が多い仕事である関係上、その容姿が雇用に大きく関係する。顔はもちろん、背が高い事、指が長い事、腰が細い事、歳若い事、それらに加えて未婚が望ましい。服装も他の使用人と比べて華やかで、フリルやレースといった装飾が随所に施されていた。
アデレイドも例に漏れず非常に容姿端麗で、背もスラリと高くメリハリのついた身体つきをしている。特に手は細く美しく、色白できめ細やかな肌とと併せて彼女の自慢だった。彼女は仕事中に手袋をしないが、これは美しい手を隠さないためである。
そんなアデレイドにラディスラスが惹かれたのは、ある意味では必然と言える。初めて屋敷に訪れたその日に心を打たれ、帰る頃には虜となっていた。
それからというもの、フレッチャー公爵家へ訪れるたびに、二人は隙を見て逢引きをするようになる。大胆にも、屋敷の中での不貞である。
そして、二人はとうとう耐えられなくなった。隠れつつの関係では満足ならなくなったのだ。
なので、謀る事とした。主人も、父も、母も、国すらも欺き、二人で共にあるために。
「お待たせいたしました、殿下」
「かまわん」
やがて、トレイシーが現れ、美しいカーテシーで挨拶をする。それに対するラディスラスの反応は薄いものだが、それはいつもの事だった。
「お迎え感謝いたしますわ」
「ああ」
今宵の夜会は、ラディスラスとアデレイドのために用意された特別なものだった。無論、表向きはトレイシーと連れ立つわけだが、実際には二人の門出を祝うものだ。
準備には、随分と手間取った。
参加者は、そのほとんどがラディスラスの息のかかった者である。トレイシーに味方するだろう血縁が別の夜会で参加できない日に日程を調整した。すでに参加者と口裏は合わせており、トレイシーには無実の罪で糾弾される。その際に一番の障害となる国王と王太子は、公務のためにこの夜会には不参加だ。つまり、ラディスラスが最高権力者として振る舞える環境が整えられているのである。
王族であるラディスラスをもってして、容易くなせるようなものではなかった。裏工作など初めての事だし、これほど重要な仕事を部下に任せられるはずもない。努力と、愛と、何より運に見放されていたならば、これほど順調にはいかなかったろう。
「早く行くぞ。主賓が遅刻では格好がつかん」
「えぇ、行きましょう。あ、そうだわ」
扉に手を掛けたあたりで、トレイシーが後ろを向く。
「ラナーさん。貴女、付いてきなさい」
「……かしこまりました」
「どうした? 使用人が足りないのか?」
「えぇ、いつものメイドが体調不良ですの」
心臓を握られるとはまさしくこの事で、ラディスラスは比喩でなく生唾を飲み込んだ。
しかし、それは杞憂である。トレイシーはただ、足りなくなった人員の穴埋めを命じたに過ぎないのだから。
——何とワガママなのだろうか。
ラディスラスの心の中で、そんな感情が渦巻く。
何故、パーラーメイドであるアデレイドが、御息女付きの真似事などしなくてはならないのだろう。主人の一声で慣れない仕事をせねばならない彼女を慮った事など、きっと一度もないに違いない。
そもそも、多少人が少ないからなんだというのだろうか。屋敷には多くの使用人がいるのだから、一人がいなくなったくらい大したものではないはずだ。何より、トレイシー自身が動くなら使用人の負担は減るだろう。
何と高飛車で、傲慢で、偉そうなのだ。
そんな事を考えていたので、ラディスラスは馬車の中でもイライラと落ち着かずにいなければならなかった。
「殿下、窓から顔を出すと危険ですわ」
「……分かっている。一々言わずとも良い」
貴族、そして王族の馬車は、基本的に窓から中を見られないようにしている。
高貴な人間の移動は常に相応数の使用人と共にあり、複数の馬車が並走する事になるのだ。そのどれに主人が乗るか分からなければ、いつ訪れるか分からない暗殺への対策となる。
しかし、そんな当たり前の言葉にすらラディスラスは苛立っていた。景色を見て気分を変える事もできないからだ。
会場に着くまで、会話はなかった。
夜会の場所は、ラディスラスが懇意にしているノードマン伯爵邸である。タウンハウスを新たにしたとあって、場所を提供すると本人から申し出た。貴族にありがちな、自己顕示欲を起因とする自慢である。
馬車が着くと、従者が戸を叩いて合図する。
戸を開けるのは、使用人の仕事だ。今日ならばアデレイドである。ラディスラスは、思わず『ありがとう』と言ってしまうところだった。
使用人に対する過度な反応は、高貴な身分として不自然な行為だ。必ず不審に思われるし、まだ二人の関係を知られるわけにはいかない。婚約の破棄は、トレイシーの責任でなくてはならないからだ。
屋敷は、ラディスラスが思っていたよりも大きかった。なるほど、これは自慢したくもなると納得してしまうくらいだ。
ノードマン伯爵はかなりの無理をしただろう。これも自らへの忠誠の表れなのだ。そう思えば、ラディスラスは誇らしくなった。
二人の門出に相応しいと、彼は微かに微笑む。
「あら殿下。随分と楽しそうですわ」
「……当たり前だ。折角の夜会だからな」
楽しい気分に、水を差された。
しかし、そんな不快感も、あとほんの一時間ほどの辛抱だ。その後には、真に愛する者と共にある人生が待っているのだから。
◆
「申し開きはあるか。フレッチャー公爵令嬢」
本来ならば隣に立つはずの女性を見下し、ラディスラスは糾弾している。あり得ない……というよりも、あってはならない事態である。しかし、そんな状況下にあって、トレイシーは全く冷静そのものであった。
「はて? 私は何か申し開かなくてはならないのですか?」
「貴様、私を馬鹿にしているのか? アデレイドへの行為の話をしているのだぞ? 使用人への虐待行為は大変な問題だ」
「ですが、しておりませんわ」
「それを開けと言っている!」
とうとう、ラディスラスが怒鳴りつける。自らよりも頭一つは大きい男性からの恫喝だが、それでもトレイシーは微動だにしない。紅茶でも楽しみながら話しているかのような気楽さである
「アデレイド、話せるかい? 君がこの女にされた行為を」
「は、はい……」
先ほどから沈黙を貫いていたアデレイドが、ラディスラスの許可を得て声を発する。
「わ、私は……お嬢様から日常的に暴力を振るわれていました……」
「おお! なんと!」
「この服も……実は三着目です……お嬢様に二着は捨てられてしまいましたから……」
「そんな事が!」
「今朝は……階段から突き落とされました……!」
「ああ、もういい! 聞くに耐えん!」
二人は抱き合う。強く、固く。その愛を確かめるように。
しかし、その愛が故に気が付いていなかった。口裏を合わせていたはずの参加者達が、皆一様に口をつぐんでいる事に。
「皆聞いたか! これがこの女の正体だ!」
「私はずっと耐えていました! でも限界です!」
返事はない。ただザワザワと、話し声が聞こえるだけだ。
そこでようやく、何かがおかしい事に気がつく。しかし、今更言葉を取り消す事などできるはずもない。
「か、観念しろフレッチャー公爵令嬢!」
「何をですの?」
「貴様の悪行は明らかだ! 慎ましく身を引くのなら穏便に済ませてやると言っているのだ!」
「はて? 一体何が明らかになったのかしら?」
「アデレイドの言葉を聞いたろう!」
「ええ、聞きましたわ」
「だったら分かるな!」
「何も分かりませんわ」
「ああ、もう!」
本当ならば、参加客全員で糾弾する予定だった。多くの証言も出て、言い逃れなどできない状況になるはずだったのだ。なのに、今騒いでいるのはたった二人だけだ。ラディスラスとアデレイド。当事者以外には、たった一人も声を上げようとしていない。
「私に逆らう事が何を意味しているのか分からないのか!」
「どうなりますの?」
「私はお前をこの場で罰する事ができるんだ!」
「どういう意味でしょう?」
「お前を極刑にだってできると言っているんだ!」
「何故極刑になどなるんですか?」
おかしい。明らかに何かがおかしい。
会話が噛み合わない。状況が思った通りにならない。綿密な下準備のもと行われた策略であるはずなのに、何一つ定めたようにならないのだ。
「お前がアデレイドにした数々の罪を罰すると言っているのだ」
「私は何もしていませんわ」
「……アデレイドが証言している」
「全部嘘ですわ」
「……私はアデレイドを信じる」
「殿下が信じたらどうなるのですか?」
「……お前を罰せられる」
「何故殿下が罰せられるのですか?」
「……私がこの場の最高権力者だからだ」
「どういう意味ですの?」
「……私がお前を罰する権利を持つという事だ」
「どういう意味ですの?」
ラディスラスは初め、馬鹿にしているのだと思っていた。自らがこれほど手を回していると知らないがために、見下しているのだと。
だが、これは違う。本音なのだ。本当に理解していないのだ。言葉は素直なものであり、反応は正直なものなのだ。
トレイシーは、ラディスラスの言葉が理解できないでいる。話が噛み合わないと感じているラディスラスと同じように、トレイシーもまた噛み合っていないと感じている。何を意味の分からない事を言っているのかと、ちゃんと話せと。
それは、つまり……
「私にも意味を説明してもらおうか」
「……っ!?」
空気が水を打った。
聞き慣れた、よく知った、誰もが崇める声。この国で最も尊い人物であり、最も偉大な人物であり、最も力を持つ人物。
国家元首、ウェライアス・ロード・ウルフリック・アドレスター。国家元首その人である。
「父上……きょ、今日は公務のはずでは……」
「私は説明せよと言ったのだ。何故無視をする?」
「っ!」
ラディスラスは、明らかに恐れていた。つい今しがたまでトレイシーを怒鳴り付けていた男が、まるで凍えた子犬である。体が強張り、震え、目を伏せている。
あるはずのない事なのだ。こうならない為に、手を回していたのだ。
「黙っていては分からんな」
「わ、私は……このアデレイド・ラナー、を……護、りたいと……」
「要領をえんな」
「フレッチャー……公爵令嬢、が……彼女に……暴行を……」
「証拠は?」
「…………」
「証拠は? ないのか? それとも証言だけか?」
「…………」
答えられるはずなどない。ラディスラス自身、言い分が拙い事は充分に理解しているのだから。
だからこそ、こんなにも面倒な手間を掛けたのだ。強引だろうと無理矢理だろうと押し通せるだけの準備を整えて、この日ようやく望みが成されるはずだった。
しかし、それは妄想だ。ありもしない幻覚を眺め喜ぶ薬物中毒患者のように、ラディスラスは恋に溺れていた。そんな者に、何が成せるはずもない。あくまで現実から目を背けるだけの、無知蒙昧に他ならないのだから。
「お前の沙汰は追って知らせる。そこなメイドの処分はフレッチャー公爵に任せよう」
しばらく黙り込む我が子にため息を一つついた後の言葉は、ひどく乾いたものだった。およそ我が子にかける言葉ではない。何の感情も抱いていないような、ただ面倒な公務をしている時と同じ声色だ。
それほどに、国王は失望している。悲しみを通り越して呆れてしまうほどに。
「皆、ご苦労であった。つまらない見せ物ではあったが、せめて食事だけでも楽しんで帰るがよい」
「……え?」
国王の言葉に、ラディスラスは周りを見回す。
豪華な料理。思ったよりも多い人。そして、主催であるはずのノードマン伯爵はその姿が見えない。
「ようやく気が付いたか愚か者」
「こ、ここは……ここは一体……」
「ここは、ホーキング侯爵のタウンハウスですわ」
「な、なに!?」
知らなかった、分からなかった、気が付かなかった。他者を謀ろうとしておきながら、自らが謀られている事に。
ラディスラスの計画など、全て筒抜けだったのだ。
国王は確かに公務に出かけ、トレイシーの助けとなる人間は別件の夜会。それ自体は何も偽る事のない事実ではあるものの、彼らの向かう先こそがこのホーキング侯爵邸である。
まず、従者をすり替え。フレッチャー公爵邸へとトレイシーを迎えに来たラディスラスを屋敷内に通し、馬車から孤立させる。その間に手の者が元々の従者と入れ替わった。無論、腕尽くという事になるが、国王すら謀ろうとした越権行為への共犯者に対してかける情けなどない。
次に、アデレイドを連れて行く。ラディスラスは人知れず連れ立つつもりだったろうが、彼の手の馬車に乗れば向かう先はノードマン伯爵邸である。なので、トレイシーが用意した馬車に乗せる為に普段はしないような我儘を言って見せた。
最後に、馬車をホーキング侯爵邸へと向かわせる。窓の外を覗かぬようにと注意をし、道中が異なる事から目を逸らした。ラディスラスは多くの人間が別件でいないと判断したわけだが、ホーキング侯爵邸こそがその別件の場所である。国王の予定されていた公務もこの場所で行った。
全ては、ラディスラスの企みを折るために。
この方法の優れた点は、ほとんどの協力者に迷惑をかけないところにある。
彼らは予定通り夜会に訪れ、国王も予定通りの公務を行った。もしも、国王や協力者の貴族などがノードマン伯爵邸へ押し掛けるとあっては、多くの人間に大変な迷惑をかける事だろう。予定を崩し、変え、その上で大した得は何もない。特に、国王の公務が滞ってしまう事は断じて避ける必要があった。
「お、お前、は……一体……どこまで……」
どこまで考えを巡らせているのか。
その問いに、答えが返る事はなかった。
トレイシー・リー・フレッチャー。
彼女こそが、この国を軍事の面から支えた智将アナステシアス・アーデン・フレッチャーの次女であり、この二十年の後に女性で初めての宰相となる逸材である。その智謀は常に国家の安寧のために振るわれ、国王をして『フレッチャーの智なくして我が国なし』と言わしめる賢人。
この夜、その才覚の片鱗が初めて人々の前に現れたのである。
自らの立場も弁えずに舞い上がり、個人的な感情で他者を巻き込んだ騒動を起こすような人間とは比べるべくもない才覚。
ラディスラスの計画など、上手くいくはずがなかったのだ。
彼女の前にあっては、恋にうつつを抜かす世間知らずがどれほど頭を捻ろうとも、眠っているのと大差はないのだから。