堕ちた翼・真章
お待たせ致しました。
前話のクロエパートの書き直しです。
暗い夜空に飛び立った彼女は、確かに自由だった。
母の犠牲を思うと喜ぶ気にはなれなかったけれど。
自由は長く続かない。
轟音。
翼に走る激痛。
羽ばたく事が出来ない。
無理に羽ばたいても、高度が維持出来ない。
落ちる。
落ちた先は、魔族の群れ。
有象無象の波に、抵抗ごと呑み込まれる。
街の外に出ても、抵抗は続けた。
というより、外に出てからの方が、周囲の魔族がばらけて、意味のある抵抗になっていた。
魔力弾を放ち道を開けさせようとする。
しかし、上手くいかない。
両手も翼も、身体中が痛い。
そんな状態で、魔力を撃ち出しても、簡単に迎え撃たれてしまう。
そもそも、空を飛べない有翼の民の戦闘能力はたかが知れている。
有翼族が多種族と互角以上に戦えるのは、空を飛べるから。
今の彼女に、この囲いを突破する手立ては無かった。
だからといって、諦める訳にはいかない。
ダメ元で魔力弾を撃つ。
少しの隙間を見つけて、突破を試みる。
徒労に終わる。
「魔王の継承者というから、どれほどの物かと思えば、ただの小娘ではないか」
一角の男が、進み出て来る。
これが、集団の頭だと、本能で悟る。
倒せれば、群れは散る。
相手は野生の獣ではない。
しかし、痛みで朦朧とする頭では、今までの狩の経験から得た、その結論が正しいと信じて疑わない。
魔力弾を放つ。
一角は避けもしない。
分厚い胸板にぶつかった、それは弾けて消えた。
焦げが付いた。
が、見る間に消える。
一角の一族は、脅威的な回復能力を持つ。
彼等を倒すには、急所を狙うか、回復力を上回る攻撃を加えるしかない。
今の彼女の力では、敵わない。
男が無造作に放った拳が、腹にささる。
それが、限界だった。
少女の肉体は、その意思に逆らい、意識を絶った。
意識を失った少女を、数人の魔族で運ぶ。
馬車などの用意は無かった。
この顛末をスカーレットが知れば、追撃を出さなかった事を悔いただろう。
彼女は、魔族たちが準備万端やって来たと、思い込んでいた。
継承者を運ぶ馬車も、追跡者に対する準備もあるものだと。
下手な追撃をすれば被害が出る。
兵士の命など、どうでもいいが、勇者のどちらかが使い物にならなくなり、その上で目的の奪取がならなかった時の事を考えると、手を出さない方が得策だと判断していた。
彼女は魔王軍を、過大評価していた。
もちろん、天才である自分と同じ水準だと考えてはいない。
自分より、少し劣る程度を想定していた。
しかし、彼女が考える以上に、この世は凡愚に溢れていたのである。
それから数日、クロエは、目を覚ましては、暴れ、殴られて気を失って寝る。
やっと馬車が手配されて来た時には、身体中が痣だらけになっていた。
来たのは、馬車だけではない。
薬も来た。
魔力を暴発させて、吹き飛ばした両手は、黒く焼け焦げ、出血さえしていないが、やはり痛い。
次に重傷だと思う、翼の銃創の方が、心配だった。
弾は貫通して残って無いが、大きな穴が空いてしまっている。
魔族が止血を、一応はしたのだが、傷口に布を当てて流血を抑えるだけ。
それ以上は望むべくもない。
他にも、墜落した時や、抵抗の時についた、全身の打撲。
今や、彼女は虫の息だった。
薬があれば、血は止まり、痛みも和らぐ。
この大陸には、大きく分けて二種類の回復薬が有る。
スライム印か、そうでないか。
元々、この大陸に流通していた、普通の回復薬は、生産者の腕と、材料の質、それの良し悪しで質が大きく左右される。
痛み止にしかならないものから、大きな怪我でも、死ぬ事は無く、時間をかけてではあるが、傷口一つ残らなくなるものなど、様々だ。
薬の良し悪しなど使って見ないと分からない上に、高価である為、一般人には無縁な物だった。
そこに近年、別の大陸にある国から、スライム印の回復薬が輸入されるようになる。
この薬は飲んだり、傷口に直接かけて使うのだが、死んでさえなければ、どんな傷も立ち所に塞がり、体力も漲る。
それが、金貨数枚で、手に入るようになったのだ。
それまでの回復薬はゴミ同然となった。
ただし、どちらの回復薬も、病気には効果が無いし、欠損した部位を補う事も出来ない。
もたらされた回復薬は、スライム印のそれであった。
これを使えば、翼の傷は、確実に塞がる。
「死なれる訳にはいかんからな」
自分に利用価値がある限り、殺されはしない。
それどころか、死なない程度には治療もされる。
それは、少女の目論み通り。
例え、翼の出血が続いたとしても、目的地に着くまで問題ないと、兵士達が判断したとしても。
自分が暴れて傷付き続ければ、薬は来る。
そうすれば、両手はともかく、他は全快する。
逃げる手立ても増える。
一角の男が剣を抜く。
何をするつもりか?
「飛ばれるのは、厄介だからな」
一閃。
傷付いた翼は、その付け根から、切り落とされた。
「ぎぃいあああああ!」
激痛にのたうつ。
それに回復薬が振りかけられる。
痛みは一瞬で消える。
腫れあがっていた顔は元通り。
身体中の痣も消え去り。
焦げていた両手の先も、白い肌に。
身体中に漲る体力。
そして、今し方、出来たばかりの、背中の傷も、塞がってしまった。
翼は落ちたままに。
「あ、あ、あ、あ…」
言葉にならない。
受け入れる事など出来ない。
翼が動かないよう、腱を切っても回復薬で治る。
だから、根本から切り落とす。
「ああああー…」
泣くような。
息。
「馬車に乗せ…」
指示を出そうとした男の首を刈るように、少女の蹴りが放たれる。
「ぬ…?」
侮っていた、片翼の少女の蹴り。
その思いがけない威力に体勢を崩す。
体力が万全だからではない。
その程度であれば、鍛え上げた体が揺らぐ事はない。
絶望の狂気。
それが肉体の限界を超えて力を引き出している。
拳は握れないが、それでも殴る事は出来た。
男に対し、肉体の限界を超えた連撃を加えながら、魔力弾を無数に生み出し、周囲の兵士に放つ。
殴り付けた腕から骨が露出する。
好都合。
柔らかい肉に包まれたままよりも打撃力は上がる。
しかし。
それでも。
一角の男を倒すに至らない。
拳の一撃を腹に受け、吹き飛ぶ片翼の少女。
「ぐぅううう」
獣のように唸る。
魔力弾を男に放つ。
「無駄…」
片手で簡単に払い除けた、その眼前。
針のような細い、もう一つの魔力弾。
初弾の陰に隠れた、それを見た時にはもう遅い。
自身の目を貫く、それを見つめるしかない。
「くくく…」
苦鳴は堪え、喉を鳴らすような笑い。
彼は戦う事が好きだった。
それなのに、ここ数日、死にかけの小娘を相手にせねばならず、鬱憤が溜まっていた。
獣の如き苛烈さでもって、自身の片目を奪った、目の前の相手は、それを晴らすに相応しい。
再び襲いかかる片翼。
素早く、鋭い攻撃。
一角以外の者は、そう思った。
しかし、戦いに愉悦を覚える男には、それは惜しい物だった。
完璧ではない。
この獣は、今、翼を片方、失ったばかり。
体の平衡が取れていない。
もし、万全な状態ならば、もっと楽しめたろうに。
一対一でないのも残念だ。
普通の魔族なら、一発で気を失わせる程の魔力弾を無数に生み出し、しかし、その殆どを周囲の兵士達に向けて撃っている。
その全てを、自分に向けて来たのなら、きっと、楽しい戦いが出来たのに。
片翼からの打撃を軽くいなしながら残念に思う。
油断し、不意を突かれなければ、いい運動の相手でしかない。
攻撃が通じない。
殴られ、蹴られ、体力が削られる。
遊ばれている。
しかし、逃げない。
逃げてどうするというのか。
もう、空も飛べないのに。
自分は奪われた。
なら、自分も奪ってやる。
少しでも多く。
目を抉り。
四肢を折り。
命を絶ってやる。
目の前の男にだけ、そう思い、集中していたのなら、その思いは、もっと叶っただろうか。
しかし、片翼は、この場にいる全てに怨嗟をぶつける。
故に。
「もういい、いい運動になった」
それにこのままだと、兵への損害が大きくなりすぎる。
壊滅したのなら、攻撃が自分一人に集中して、もっと楽しいだろうが、自分の楽しみの為だけに、そこまで許す訳にはいかない。
それくらいの分別はある。
大振りの一撃を、身体を捻って、躱しざま。
剣を突き出す。
長剣は腹を突き破り、その切先は背中から突き出ている。
「があぁあああ」
吐血しながら、それでも暴れる。
が、それも長くは続かない。
すぐに力を失って大人しくなる。
「殺してしまったのですか?」
無事だった部下が問う。
「気を失っただけだ。腹を刺した位では、なかなか死なぬものよ」
馬車の扉を開けるよう指示する。
そこに向かって剣を振り、その勢いで少女を放り込む。
その衝撃に身じろぎする。
「ぼうっとするな。早く回復薬をかけてやれ。死んでしまうぞ」
兵の一人が慌てて回復薬を持って来て振りかける。
見る見るうちに塞がる傷。
別の兵士が一角に薬を差し出す。
欠損した部位は薬では治らないのだが、目が潰された時には効果が有る場合がある。
この差が何なのかは分かっていない。
「これで目を治せと?」
可能性があるなら試すべきだろう。
兵士はそう思って気を利かせたつもりだった。
「馬鹿が!戦いで受けた傷こそ勲章よ!治すなどもっての他よ!」
それは彼の矜持。
叱責をうけた兵士は。
それなら、傷だらけになって勝っても、その傷は癒さないというのか?
大抵の怪我は、勝手に治る一角族のくせに。
心でそう思っても、面には出さなかった。
二人の種族の違いから起きた、考え方の違いだった。
一角の男は、大抵の傷は、放って置いても治ってしまう。
だからこそ、残るような傷は、それを付ける事の出来る程の相手と戦った証になり、それを誇りとする。
一方、兵士の方は、薬を使おうと使うまいと、傷が治るなら同じと考える。
そこに誇りは関係ない。
一角の男は満足していた。
久々に戦いらしい戦いが出来た。
もう少し強い相手で、最後まで楽しめたなら、もっとよかったのに。
それに、アレなら及第点だ。
彼は継承者に、不満を持っていた。
ただの小娘ではないかと。
しかし、先程の戦闘で、その考えは改められた。
あれだけ戦えるのならよい。
彼の基準からしても、中の上位の強さ。
翼が完璧なら、上の下になるだろうか。
しなやかな筋肉から繰り出される素早い連続攻撃。
威力は、やや物足りないが、それを補う手数があった。
物足りないと評した威力だが、始めの蹴りは、自分でなければ、首の骨を折っていただろう。
魔力弾もよかった。
魔力弾を操る魔族は、普通、一発ずつを連続で放つ。
同時に複数を生み出せないから。
しかし、彼女は無数の魔力弾を生み、正確に狙いを付けて放った。
それに、目を奪った、あの攻撃。
あの様であれば、考えての行動ではないだろう。
目の前の敵を倒す為の本能の選択。
そして、それを実行しうる魔力操作の正確さ。
もし、彼女がもっと平静であって、魔力を上手く操作していたのなら、眼だけでなくその奥の脳も破壊されていたかもしれない。
これだけ戦える者が、魔王として強化されればどれだけの強さになるか。
魔王の事を人間を倒すための兵器であると認識している男は、それを夢想して満足を得た。
魔王がなんたるかを知らぬ故に。
ワゴンに放り込まれた少女は、しばらくして目を覚ます。
しかし、その視線に生気はなく、焦点も合っていない。
大怪我を負ったせいではない。
それはもう、治っている。
この中に充満する、重く甘い匂いのせいだ。
これは、思考を阻害する香の匂い。
翼を失った事も。
母を失った事も。
心に浮かぶ。
だから、どうしようと思えない。
そこから、感情が動かない。
行動を決められない。
その状態で運ばれて行く。
日に数度、女魔族が、彼女の世話をする。
垂れ流しの糞尿を処理して、身体を清めてくれる。
その間、扉は開いて香は外に流れるが、だからといって、すぐにその効果が切れる訳でもない。
手際良い女は最後に、新しい香に火を付け、扉を閉める。
食事も、日に一度、粥のような者を、のどに流し込まれるだけ。
そんなだから、あれからどれだけの時が過ぎたのか、彼女には分からない。
馬車から降ろされる。
なんとか、自分で立って歩ける。
手を引かれ、覚束ない足取りで、坂を登る。
段々と、意識がはっきりしてくる。
緑の少ない岩山は、彼女の故郷の、樹々で覆われた山と比べ、不気味な雰囲気を醸し出しているように思えた。
暴れてやろうとも思うが、長く馬車に乗っていたせいで、体の節々が痛む。
この体調で、一角の男もいるのだ。
大した事は出来ない。
と、言い訳をする。
実際には体を串刺しにされた恐怖が残っている。
自覚は無いが、大人しくするという選択をするのは、その為だ。
どうにかして、周りの男供を皆殺せないか考える。
どんなに頭を絞っても、打つ手はない。
いっそ、魔王になって、その力でこいつらを消してやろうか。
そんな事を考えると、一人の魔族が立っているのが見えた。
何をするでもなく立っている。
不意に背中を押される。
立っている魔族とすれ違う。
その瞬間。
圧倒的な意思。
それが少女のそれと混ざり合い、支配しようと襲って来た。
並の者なら気付く間もなく融合、支配されている。
それを彼女は気付くだけではなく、抵抗までしてみせる。
ただ、拮抗しているのは心、精神の領域だけ。
肉体の支配権は奪われた。
ゆっくりと前進して行く。
何人かの突っ立っているだけの魔族とすれ違う。
彼等は道標。
魔王の支配領域の目安。
魔王は封印を施されると、その瞬間に支配領域を、一気に縮小させる。
それで大半の魔族は自我を取り戻す。
しかし、領域は無くなった訳ではない。
領域内に残った魔族は、魔王と共にあろうとする。
魔王を動かすと着いてくるのだ。
魔王は、人間の手によって、この山に運ばれ、安置される。
追従してきた者達は、ほぼ等間隔に、麓に向かって並べられる。
魔王と、その支配下の者は、食事もしなければ、病気にもならない。
野晒し雨曝しで、置いていかれる。
魔王の支配領域の縮小は、ゆっくりと進行する。
並んだ魔族は、その境界を知る為のものだ。
領域が縮んで、そこから出た魔族は正気に戻る。
すると、そこが領域の境であると知れる。
少女は気付かなかったが、麓にはそれを見張る為の小屋がある。
この領域の縮小は、魔王の力が落ちるからとも、寿命の残りを表しているとも言われているが、はっきりとした事は、分かっていない。
二つの角を持つ、一際大きな男の前に辿り着く。
彼の後ろに、魔族は並んでいない。
彼が、最後の魔王だ。
彼は双角族だ。
一角族より、高い回復力と膂力を誇り、魔力の操作も得意な種族だ。
呪文を使わず、炎を操ったり、雷撃を放つ者がいる。
天を睨んで立つ偉丈夫の、その胸に少女の手が触れる。
巨体は塵へと崩れ去り、彼女の手には、紅く輝く石。
それを自らの胸に押し当てる。
音も無く、吸い込まれる輝石。
その瞬間。
少女が失った翼も、両の手も再生する。
力が漲る。
いや、力がどんどん増していく。
古き魔王の領域は消え去り。
新たなる魔王の領域が。
展開されない。
未だ魔王は継承されず。
誤算だった。
魔王にとってではない。
継承者を選んだ者にとって。
彼を、仮に選定者と呼ぼう。
選定者が何をもって継承者を選ぶか。
それは単純に、その時点での最強を選ぶ。
膂力や魔力。
知識や知恵。
俊敏に動ける事や、行動の正確さ。
それら全ての、総合的な強さで選ぶ。
数字の様な分かりやすい目安がある訳ではないが、彼には、それが分かる。
奇妙であると思われたろう。
ならば、何故、一角の男が、黒翼の少女に一方的に勝つのかと。
最強を超えるほど、彼は強かったのか。
答えは否。
彼女の強さは、その意思。
何者にも曲げられぬ強固な意思こそ彼女の強さ。
魔族の中では、どちらかと言えば、非力な少女を、最強に押し上げるほどの意思の強さが如何程の物か想像出来るだろうか。
意志の力だけで勝敗を決める戦いが有るのなら、彼女は万の軍勢を相手に単騎で勝利を収めるだろう。
しかし、そんな事は出来ない。
それが、総合力で最強と認定された少女が、平均より少し強い程度の一角の男に勝てなかった理由。
今までは大して役に立っていなかった、その意志の強さ。
しかし、今。
それが、世界の理をも覆す力となる。
選定者がもう少しだけ慎重ならこうはならなかった。
よもや、魔王の継承に抗える意志力を持つ者など選ぶなどという愚かをしなかった。
翼を取り戻した少女は歓喜に震える。
翼が一対、揃ったのなら。
飛ぶ!
その為に奪われた体の支配権を取り戻す!
その気持ちが、意志の力を、より大きくさせる。
紅い石を取り込んだ直後から、彼女を襲う魔王の意思はその勢いを増していたが、それでも、勝敗は決まらない。
肉体の支配権も、取り戻したり、奪われたりを繰り返す。
飛翔を試みたが、上手くいかなかった。
人の頭を越える程度の高さまでしか浮かべない。
これでは飛んだとは言えない。
有翼族が、何故、空を飛べるのか。
それは、有翼族が羽ばたくという事が、魔法的な意味を持つからだ。
有翼族でない者が、翼を得たとしても、飛行できない。
つまり、今、彼女は、世界から有翼族と認められていない。
それは幸か不幸か。
もし、思う様に大空を飛び回る事が出来ていたのなら、彼女は満足を得て、終わりを迎えたかもしれない。
飛べなかったからこそ、異物を完全に排除しようと、闘志を漲らせる。
常ならば、この地で魔王になった者は、真っ直ぐ北を目指す。
険しい山を越え、幾つかの砦を通り、エイトブリッジ、その先のオグラシアン王国へ。
多少、東西にずれる事もあるし、実際にはエイトブリッジに辿り着いた魔王はいないのだが、基本、魔王の侵攻方向は決まっている。
彼女も、そう行動した。
体の支配権が、魔王にある時は、その本能に従って。
そうでない時は惰性で。
北へ。
やがて、砦に辿り着く。
ここで多数の魔族が、魔王の支配下に入る予定だった。
そうはならない。
素通りする。
経験した事とは、聞いていた事とは、違う出来事に驚き、戸惑う魔族たち。
それでも、彼女を単身、行かせるわけにはいかず、慌てて後を追う。
翌日には魔王との決戦が始まるという段になって、スカーレットは焦りを覚えていた。
話が違うと。
術の勇者は、その特殊能力として、魔王感知というものを持っている。
それは、その効果範囲内の魔王の存在を知ることが出来るというものだ。
それが正しく働いていない。
初めは、そう思った。
何故なら、魔王の存在が一つしかなかったから。
どういうことか。
魔王の支配領域に入った魔族は、魔王に支配されその一部になる。
魔王から目に見えない糸が伸び、それに触れた魔族の中に入り込んで、同化支配するという事だ。
支配領域の広さは、その糸の、その時点での長さであり。
魔王と、支配された魔族は繋がっているという事だ。
だから、支配された魔族も、魔王であると、世界に認識される。
魔王討伐、魔王封印についても説明しよう。
魔王と同化している魔族を倒す事で、魔王の力を削ぐ。
一人、二人倒したところで、魔王にとっては爪を切られたほどの事だが、それが、千、万となると、深爪に、指を切り落とし、腕を切り落とすのと同等の被害になる。
そうして力を削いで、初めて封印する事が出来る。
魔王本体に攻撃は加えない。
魔王は個体としても強力な戦闘力を持つが、それは自らを守る為にしか使われない。
周囲の魔族を一人残らず殲滅するか、魔王本体に危害を加えない限り、攻撃してこない。
これは、術の勇者、というかオグラシアン王国に伝わる秘伝だ。
一般兵や、他の勇者も普通に戦って魔王に勝つつもりでいる。
スカーレットも、今回の戦いは魔王を封印ではなく、討滅するつもりではいた。
しかし、それも周りの魔族を討伐し、魔王を弱体化させての話。
それなのに、魔王の反応が一つしかない。
斥候の報告によれば、魔族たちは自由意志で行動している様である。
つまり、支配されていない。
魔王感知がおかしいわけではない。
王女は、はたと思い付く。
もしかしたら、今回の魔王は、支配領域を広げることが出来ない位に弱いのではないか。
他に思い当たらない彼女は、その考えに、飛びつき、しがみつく。
そうして、心の中の不安を押し流す。
彼女は、自分の出した結論を、真実だと思い込める愚かさを持っていた。
翌日。
日の出とともに。
両軍の激突。
魔王軍の強さは、種族ごとに持つ特殊な力の多彩さである。
しかし、それだけである。
連携の取れていない戦闘行為は、連携を強みとする人間軍に、各個撃破されてゆく。
常ならば、魔王軍は魔王の一部として、一つの意思の元、完璧な連携を見せる。
故に、人間側の被害も大きくなる。
そうではない今回、人間側の圧勝に見えた。
戦争の喧騒の中。
黒翼の少女は佇んでいる。
今は体の支配権も少女のものだ。
さっきから、自分を支配しようとする何かが五月蠅い。
人間を殺せ。
人間を滅ぼせ。
何故、そんな事をしなければならないのか。
人間には恨みも何も無い。
どうせなら、自分を酷い目に合わせた魔族を殺す。
どんどんと強くなる魔王の意思に、必死に抵抗する。
だというのに。
周りが五月蠅くて気が散る。
自分がこんなにも頑張っているというのに、無遠慮に騒ぐなんて、何を考えているのか。
腹立ち紛れに右手を振る。
少し静かになって、気も晴れる。
が。
すぐまた五月蠅くする。
苛立ち紛れに右手を振る。
また、少し静かになる。
そんな事を数度、繰り返す。
それは彼女と魔王の意思の、一致した行動だった。
たくさん、たくさん斬った。
シアンはご満悦。
でも。
一人立っている、それを見て動きが止まる。
黒い髪に、黒い羽。
なぜ、止まってしまったのか、わからない。
きる!
恐怖を自覚しないまま。
刀は、それの首に当たって。
止まる。
きれない!
いままで、ぜんぶ、きってきた。
それでうまくいってきた。
こわいのも。
うるさいのも。
それできえる。
それなのに。
きれないなら。
どうすれば。
剣の勇者は、幾千の敵を切り裂き、たった一人、本来斬るべき相手を斬れずに絶命した。
ロックは撤退を進言するつもりだった。
その豪快な言動と戦いぶりから考え無しの猪武者の様な印象だが、そうではない。
周囲の状況、彼我の戦力差など、あらゆるものを把握し、頭の片隅の冷静な部分で計算し尽くした行動を、激しい感情で実行するのだ。
その彼が、撤退を考える。
勝ち筋が見えない。
だが、撤退してどうなるのか。
その逡巡の間にシアンが潰れた。
「この…!」
反射的に撃ってしまった。
しまったと思う間もない。
いつもそうだ。
肝心な所で間違える。
冷静さを心掛けている筈なのに、感情で動いてしまう。
「クッソが!」
悪態は魔力弾の着弾の衝撃音に掻き消される。
数多の戦いを制した銃の勇者は、己の激情を制しきれず討たれた。
何をやっているのか!
仲間、二人を失ったスカーレットは、悲しみではなく、怒りを感じる。
二人を奪った魔王にではなく。
不甲斐ない二人に。
だいたい、順番が逆だ。
距離を取って、比較的安全に戦えるロックが牽制の攻撃をしかけ、その隙を付いてシアンが斬りかかるべきだったのだ。
彼等は強く、協力して戦う事などなかった。
そんな彼等に連携を求めるのも愚かな事だ。
ロックの後方に居た王女は、彼を襲った魔力弾の衝撃に耐えきれず、地に伏し、傷だらけになっていた。
美しかったドレスも砂と埃に塗れ、破けて片乳がまろび出ている。
この自分が地に伏し、見下されている。
その現実が許せない。
しかし、彼女に取れる選択は、もう一つしか残されていなかった。
周囲が再び静寂に包まれた。
周りの事など初めから興味のなかった黒翼は、再び心の戦いに戻ろうとした。
様子がおかしい。
自分を支配しようとしていた意思が消えている。
消え去った訳ではない。
それは、もう彼女を支配しようとしていない。
人間を殺せと、煩く言ってきている様な気もするが、それも徐々に小さくなっている。
そして、自分が変わった事を自覚する。
勝敗はついた。
勝ちも負けも無かった。
魔王の意思は、もう彼女を支配しようとしない。
少女は己の心を護り抜いた。
しかし、彼女は変わってしまっていた。
二つの意思は混ざり合いどちらのものとも言えない。
その表面、決定権が少女の心にあるということ。
喪失感に包まれて前を向く。
そこに。
子供がいた。
「初めまして。治癒の勇者、キヤルと申します」
可愛らしい声で、自己紹介をして来る。
「勇者?」
勇者ならば、この中途半端なものになり下がった自分をどうにかしてくれるだろうか。
「はい。魔王を倒せる人間の切り札、四人の勇者の一人、それが僕です」
成程。
それならば、半分魔王である自分を終わらせてくれるだろうか。
しかし、治癒?
「四人いるなら、何故、全員で来ない?」
確か、銃とか、剣とか戦いに向いていそうな勇者もいた筈だ。
「いえ、もう三人は、貴女に倒されてますから」
何を言っているのだろう。
「?我を傷付けるにたる存在などに、会った事も無いが?」
なんだ?この喋り方は?
混ざった魔王の影響だろうか。
「それでも、です。例えば、あそこの女性は術の勇者です。後の二人は既に亡くなっているようですね」
「あれが?」
ボロボロの格好の女性がいる。
怯えているように見える。
何処かで会った様な気もするが、よく思い出せない。
「お前も期待出来そうに無いな」
つい、言葉にしてしまう。
「もしかして、満足のいく戦いをご所望ですか?」
「いいや、戦いは嫌いだよ」
「では、何をご希望ですか?」
「私を安らかにしてくれる者を」
今の彼女は、知っている。
喋っているうちに理解した。
自分は、もう飛べないと。
それならば、他にもいっぱい楽しい事はある。
心の片隅で、そうも思う。
でも。
もう。
どうでもいい。
それでも。
朽ちるまで生き続けるのも面倒だ。
だから、終わらせて欲しかった。
「ご自身の死をご所望なのですか?」
意外そうな声。
驚いた顔が、可愛らしい。
「そうだ」
「なら、抵抗なさらなければ、望みも叶いましたでしょうに」
「する気も無い。だが、周りで騒がれても煩わしい」
「なるほど。得心致しました」
子供のくせに面白い話し方をする。
なんとなく、この子供を気に入った。
「五月蠅くしないなら、好きにして良いぞ」
逃げても良い。
なんなら、少し話し相手になってくれても良い。
「退きましょう、キヤル。ここで、私達に出来る事は無いわ」
それが良い。
少し寂しい気もするが、何かの間違いで殺してしまうより、よっぽど良い。
「では…」
少年が、ゆっくりと、その手を伸ばしてくる。
体が勝手に動き、大きく飛び退って、少年との距離を開ける。
魔王である部分の、危険を察知する本能が、そうさせた。
「おや?」
小首を傾げる少年。
いちいち可愛らしい。
「何をしようとした?」
「いえ、ねがいを叶えて差し上げようと思いまして。そちらこそ、何故、お逃げに?」
「身体が勝手に動くというヤツだ。魔王になると自己防衛本能が極端に強くなる。自死すら儘ならん」
厳密には魔王ではないのだが、そんな事を説明する気にはなれない。
「だから、自分を殺せる者を待っておられると」
「そういう事だ」
「しかし、参りましたね。今のを攻撃だと見抜かれるとは」
そんなに参っている様には見えない。
「では、少々本気で参ります」
少年が突っ込んでくる。
「『ヒール』」
少年の動きが鋭くなる。
反射的に後退し、魔力弾を放つ。
「『ヒール』」
霧散する魔力弾。
驚いていると、少年の右手が肩に触れた。
「『ヒール』」
肩の肉が弾ける。
驚いて少年を弾き飛ばす。
力を入れ過ぎた。
そもそも身体が勝手に動いてしまっているので、加減のしようもないのだが。
ふわりと着地する少年を見て安心する。
「何をした?」
好奇心で聞いてみる。
「ただのヒールですよ」
「それは、回復術だろう?どうして傷が付く?」
「回復術の仕組みを考えれば、簡単なことです。被術者が持っている、自然回復力を強化して、傷の治りを早める。もし、その強化が過剰なものだとしたら、どうなるでしょう?」
「いや、得心がいかんな。苦痛を与えるならともかく、傷はつくまい?」
そう答えると、少年は、ニッコリと笑った。
「そうです。今、僕が話したのは、例えです。一言で回復術と言っても、色々あるのですよ」
悪戯っぽく、そう言う。
回復術が色々あるというのなら、今起きた不可思議は。
「その体術も、魔力弾を消したのも、回復術のバリエーションと?」
「その通りです。因みに、申し上げますと、あくまで回復術ですので、どんな防御も、魔法抵抗も、無意味です」
「避けるしか無いと。しかし、残念だ。何故、今の一撃で、我を滅さなんだか」
本当に残念だ。
「我は、お前を敵と認識してしまった。こうなれば、最早、逃がしてやることも叶わぬ」
この子供を殺したくはない。
しかし、自分を殺せる可能性が少しでもある相手を逃したくもない。
「いえ、大人しくなさって下されば、痛みも、苦しみも無く、逝かせて差し上げますよ?」
簡単に言ってくれる。
意志の力で、防衛本能を抑え込めればいいのだろうが、魔王と混ざり合っている現状では、それも難しい。
「そうもいかんのだ。この身は、魔王故な。一度、敵と認識した者に、加減は出来ん」
下手に加減をすると言って油断されると困る。
自分は手加減どころか、無抵抗で殺されたいのだが。
また、やりたくもない事をやるしかないのか。
自由は遠い。
「申し訳ございません」
何故、謝る。
謝らなければならないのは、こちらではないか。
「必ず癒して差し上げます!癒しの勇者の名に懸けて!」
再び向かって来る。
ああは言ったが逃げても良いのに。
それなら、必死でこの身を押し留めたのに。
意識せず、無数の魔力弾を生み出し、放つ。
「『ヒール』」
その一言で、全ての魔力弾が消滅する。
何故、回復術で魔力弾が消せるのだろう。
不思議でならない。
「それの仕組みは、幾ら考えても分からんな!」
言いながら少年を殴る。
回復術は相手に触れないと効果を発揮出来ない。
なら、こちらから触れてやろう。
形だけでも、攻撃行動なら、ある程度加減が出来る。
「『ヒール』」
狙い通り。
回復術を使ってくれた。
体中に傷が生まれた。
血が噴き出す。
「ぐぅ…」
体中が痛い。
「流石です。身体中、傷ついて無い所がない」
「なんだ?…これは?」
「思い出して貰ったんです。あなたが今までに負った傷を」
それはおかしい。
それならば、両手は落ち、翼も片方無くならないといけない。
この傷は自分の物ではない。
魔王の方が、この傷の持ち主か。
「訳が分からんな…」
術の事もそうだが、自分という存在が解らない。
ゆっくりと近づいて来る少年。
身体は傷の回復を優先して動こうとしない。
好都合だ。
このまま大人しく出来れば。
「痛くして、申し訳ありません」
謝らなくていい。
「僕もまだ未熟なもので」
子供なのだから未熟で当然。
「構わん。さ、止めを刺せ。グズグズしていると、傷が塞がってしまう」
そうなれば、振出だ。
「はい。今度は痛くないですよ。『ヒール』」
暖かい力を感じる。
黒翼の身体は、塵と化し、風に乗って空へ。
これは、魔王にならなかった少女の、終わりのお話し。