踊り場
真夜中の図書室、そんな空間にいるだけで自分はこの世界で特別な存在なんじゃないかと思う。規則正しく並んだ天井高ほどの本棚の間で、担任の柚木先生と肩を並べ、本棚にもたれながら床に腰かけた。柚木先生は、おそらく俺より20センチは背が低い。だけど、床に腰を下ろせば、肩の高さはさほど変わらないようにも感じた。
左肩に乗っている柚木先生の頭は軽く、その存在は普段教壇で見る大人の女性というよりも少女のように愛おしく感じた。
「先生」
「何?」
俺の呼びかけに、力ない声で返してきた先生の肩を抱き、俺は唇を合わせた。
『なんて破廉恥な! こんな展開があるものか!』
俺は心の中でそう叫び、手に持っていた官能小説を閉じ、机の上に力強く置いた。学校の図書室で美人女性教師とこんな展開になるものか。男子高校生を馬鹿にするな、こんなリアリティもない展開で男心が描けるはずがない。
作家の名前を確認したが、知らない名前だった。月に50冊以上の小説を読んでいる自分でも知らない作家がいることに、自分はまだまだ未熟だと感じる。
しかし、そもそも何でこんな官能小説を高校の図書室に置いているのだろうか。誰の趣味で選ばれたものなのだろうか。もう一度気になり、あまりしない小説の速読を行って、続きを読み進めてみただ、やはり性行為の描写が多い小説だった。これは恋愛小説でも青春小説でもない、官能小説以外の何物でもなかった。
校舎の外の気温はおそらく35℃を越えている。雲一つない快晴の夏の空は、日本の街中を砂漠へと変える。地面はアスファルトで覆われ、その地には複数のビルが立ち並ぶ。木々の緑も川の青さもないこの街は、もはや砂漠よりも過酷な環境かもしれない。
そんなことを考えながら、校舎の3階にある図書室のまどから、オフィスビルの間に見える空の青さに目を奪われていた。
俺も高校デビューが出来ていれば、こんな暑い気温よりも、熱い青春を送れていたのだろうか。3年生になった今でも、放課後をずっと図書室で過ごしている自分の姿が信じられない。もう2年間も図書室通いをしているというのに。
青かった空もすっかりオレンジ色になってきた。日が沈み始めたら、帰宅の合図、俺は手に持った小説にしおりを挟み、もとあった場所とは別の本棚にそれをしまった。図書室の南側の奥から3番目の本棚の3段目、ここはいつも俺の読みかけの小説をしまう専用の本棚にしている。もちろん勝手にだが、今楽しんでいる小説を知らないうちに誰かに見つけられて借りられては夜も眠れなくなる。
図書室を出て、一番近い階段を使って一階に降りている途中、階段の踊り場で一人の女子生徒が立っていた。彼女は俺のよく知る幼馴染だったが、階段の窓から差し込む夕日に照らされたその姿は、今まで感じたことがないほど哀愁が漂っていた。
「誰かと思えば大川じゃないか」
「お疲れ、海人は今日も図書室行ってたの?」
「当たり前だろ」
「ほんと、いつからそんな陰キャラになったのやら」
俺は大川の頭を軽くしばいた。痛いと彼女は叫んだ。痛くないだろ、嘘をつくなと言い返した。
階段を再び降り始めると、大川は俺の後をついてきた。ここで待っていたことを考えると、おそらく俺に話でもあるのだろう。いつものことだ、どうせカラオケにでも誘われて、2時間みっちりと歌という名の愚痴を聞かされる、そんな展開が容易に想像できた。
「海人、今日って暇?」
「暇だよ」
「カラオケ行こうよ」
「......いいよ」
「何で間があったのよ」
「予想どおりだったから」
彼女は少し照れるような仕草を見せた。それにすごく違和感を感じた。いつもはカラオケを承諾した途端、カラオケの部屋に入るまでの間にマシンガンのように彼氏の愚痴を乱発させるが、今日は何も話そうとしなかった。さっき感じた哀愁もそうだが、今日の大川は何か様子がおかしかった。
「勇樹と何かあったのか?」
「後で話す」
「......大丈夫か?」
「え?」
「お前、今にも泣きそうな顔してるぞ」
そこから彼女はカラオケに着くまで何も話さなかった。校庭にある駐輪所にある自転車に跨り、校門を出てしばらく、自転車が並走できないほどの歩道を彼女を先頭にずっと進む。信号で止まる都度、彼女の横に並び、話しやすいような配慮をしたが、声をかけてくることはなかった。
カラオケに着いて、彼女がようやく口を開いたと思ったら、トイレに行ってくるだった。俺はひとりでカウンターで受付をした。時間は3時間以上ならフリータイムの方が安いと言われたが、19時を回っていたため、2時間にした。受付を終え、ドリンクの注文を終えたところで、彼女がトイレから戻ってきた。
「2時間にしたよ、あとレモンティーにしたから」
「ありがとう」
彼女は優しく微笑んだ。バドミントン部の主将をしている大川は俺よりも男っぽい女なはずなのに、今日はいつになく女な気配がする。そんな目で見たことは一度もないが、放課後に変な官能小説を読んだからか、妙にそんなことを考えてしまう。
いつも何気なく来ているこのカラオケも、他人から見れば、高校生カップルがカラオケに来ているように見えるのだろうか。そうだとしたら、自分は意外と青春をしているのかもしれない。幼馴染ではどうも萌えないが、異性の友達がいないよりはましと思った。