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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

そして世界は《デフォルト》へ。 

作者: 大空コータ

 もしもある日、突然世界が終わりを迎えたら……。

 そんな妄想を、多くの人が人生で一度はした事だろう。

 地球に隕石が落ちてきたら、とか。謎の感染症が蔓延したら、とか。

 そして、そんな妄想は現実には起こりえない。

 現実には起こらないと確信しているからこそ、そんな妄想をする事が出来るのだ。

 では、もしも実際にそんな妄想上でしか起こりえない事が現実で起きてしまったら?

 俺は…………。


「なんだよ……これ……」


 目の前に広がっている光景は確かに現実のもので。だが、どうしても脳はそれを現実のものだと認識出来ず、俺はただ呆然とするのみだった。


「なんだよ……これ……?」


 肉体と意識の乖離を繋ぎとめようと、再び同じ言葉を口に出す。そんな行為は、この確かな現実の前では全くもって無意味だと脳のどこかで認識はしているのに。


 俺の見ている光景は、この世の醜悪を一点に凝縮したかのようなものだった。砕け散る肉片。弾け飛ぶ鮮血。溢れ出る臓腑。血の黒に塗り潰された地面。そこに大量に横たわる人間であったもの。悲鳴。恐怖。怒号。焦燥。嫌悪。残虐。狂気。破壊。殺戮。絶望。

 さっきまで平和だったはずの空間は、一瞬にして、その『異形なる者たち』の振り撒くありとあらゆる『負』よって穢し尽くされた。


「逃げないと……!」


 意識を繋ぎとめた後、ようやく俺は行動を始めた。さっきまで完全に硬直しきっていた身体も、今は脳からの命令を受け、本来の機能を取り戻していた。ただひたすらに、無我夢中で足を前に前に出しながら、今の状況をどうにかして整理しようと試みる。


 ここはいつも通っている高校の、自分のクラス。時刻は午後一時に差し掛かっている。つまり昼休みの時間だ。俺はいつも通り友人と中庭で昼食を取り、さっき教室に戻ってきた。その約五分後……どこか遠くから甲高い悲鳴のようなものが聞こえてきた。それも、一か所では無く、何か所からもだ。最初は女子がいつも通り騒いでるだけかと思っていた。だが、そんな予想は一瞬にして打ち砕かれた。突如として、教室に何体もの『異形なるもの』がなだれ込んで来たのだ。そして、文字通りあっという間に教室は阿鼻叫喚地獄へと変貌を遂げていた……。


「あり得ない……こんなの……!」


 その光景は、いつか見たパニックものの映画や授業中に脳内で繰り広げられていた妄想のもの。そんなものが実際に起こるなんて……!

 

「おいっ、助けてくれえええぇぇぇ!」


 廊下を疾走する俺の耳に、確かな意味を持った言葉が飛び込んでくる。俺は反射的に足を止めてしまう。どこから聞こえてきた?


「おいっ、ここだよ……!」


 その声は低い位置から聞こえていた。床の方を見る。そこには人が三人倒れ込んでいた。いや違う。その内の二つは人の形をした何かでしか無かった。


「うっ……!」


 その光景を見て、思わず吐き気を催す。さっきまでどこか客観的な視点で見ていた惨状は、今、俺の目に確かな現実として映った。腹は裂かれて大量の血液と共に、腸と思われるものも飛び出している。右手の先にあるはずの五本の指は、噛み砕かれてしまったのか消失していた。手は既に腐食していた。その腐食は進行し、少しずつ腕全体を蝕んでいく。綺麗な肌色をしていたであろうそれは、生ごみを押し固めたような黒に姿を変えていた。顔面も右半分は喰われてしまい、表情も分からない。


「あ、ああ、あああ、ぁ、ぁぁぁ」


 気付いた時には、彼の発する言葉に意味は無くなっていた。助けを乞うように天井に掲げていた左手も、力を失いだらしなく落ちていく。呼吸が途絶えた時には、もうただの肉塊に成り果てていた。


「……!」


 そうだ、俺は何をしているんだ。早く、早く逃げないと。学校から脱出しないと。外に行けば……外に行けばどうにかなるはずだ。俺は再び足を動かそうとする。しかし、また上手く動かない。完全に震え切ってしまっている。止めようにも止まらない震えは、次第に激しい焦燥感へと変換された。

 ふと、脚に何かの感触がまとわりつく。恐る恐る足元を見る。さっきまで生きていた彼を喰らっていた『異形なるもの』が俺の足首を掴んでいる。『それ』はゆっくりと、裂けてしまう程に大きく開いた口を俺の足首に近付けていた。


「うわあああああ!」


 プツリと頭の中で何かが弾け、それと同時に俺は思い切り脚を振る。同時に、足首は解放され、勢いで壁に叩きつけられた『それ』はまるで泥団子を壁に叩きつけた時のように、あっさりと人の形を失い、いくつもの肉片と成り果てた。


「縺雁燕鄒主袖縺昴≧縺?縺ェ」


 およそ人間の発する言葉とは思えない言葉を漏らしながら、もう一体の『異形なるもの』が俺の元にふらつきながら迫ってくる。『それ』は何故か満面の笑みを浮かべており、不気味さを助長させている。この笑みは表情では無く、ただ顔面に張り付いているだけに過ぎない。


「武器……武器が無いと……」


 周囲を見回すと、掃除道具入れを見つける。慌ててそこに駆け寄り、中にしまっていた自在ぼうきを一本取り出す。これぐらいリーチが長ければ敵に接触する危険も減る。とりあえずはこれを持っておこう。


「食らえっ……!」


 俺は『それ』の頭部に向けて、思い切りほうきを横薙ぎする。ぐちゃり、と不快な音を立てて、ほうきは『それ』の首を抉る。しかし致命傷にはならなかったようで、尚も『それ』は意味不明な言葉を吐きながら俺の方へと歩み寄ってくる。


「逞帙>縲∫李縺??√>縺溘>縲√>縺溘>縲√<縺溘<縲√<縺溘<窶ヲ窶ヲ」


「くっ……来るなあああああ!」


 俺は更にほうきによる打撃を加える。今度は頬と思われる部位を抉る。次は口。目。焦っているせいで狙いが一点に定まらず、致命傷を与える事が出来ない。俺と『それ』の距離が、徐々に、徐々に縮まってくる。


「クソ……ダメだ!」


 俺は思い切りほうきを『それ』にぶん投げ、駆け出す。無理に戦うぐらいなら先に逃げなければ。だが、どうやら天は俺に味方してくれないらしい。床に溜まっていた血だまりに足を滑らせ、俺は情けなく床に倒れ込んだ。制服に、血の赤がシミを作る。


「縺雁燕鄒主袖縺昴≧縺?縺ェ」


 一瞬離れたと思った距離は再び詰められていく。慌てて足を動かそうとするが、また足を取られてしまい上手く立ち上がる事が出来ない。死ぬのか?こんなところで?さっきの彼のように人としての形を留める事すら許されずに人生を終えてしまうのか?結局、映画の主人公や妄想上の俺のように死に支配された世界を生き延びる事は出来ないのか……。


「おいっ、大丈夫か!」


 突然、聞き覚えのある声と共に、銃撃音が耳に飛び込んできた。すると、『それ』は呻き声を上げながらその場をグルグル回り始め、やがて倒れ込んだ。俺が呆気に取られていると、声の主のものと思われる足音がこちらに近付いてきた。


「おい、立てるか?桐哉(きりや)!」


 手が差し伸べられる。反射的に俺がそれを掴むと、あっさり俺の身体は持ち上がった。


「良かった、やっぱ生きてると思ったぜ」


 心から安堵したような声。俺は激しく跳ねる鼓動が落ち着いてから、その声の主の方を見る。そこにいたのは、小銃のエアガンを肩に担ぎ、金属バットを背負っている俺の親友……松崎翔(まつざきしょう)だった。


「お前も……生きてたんだな」


「はっ、当たり前だろ。俺のバット捌きをもってすれば、どんな敵もイチコロだっての」


「そ、そうか……」


 よく見ると、その金属バットは既にところどころ血によってどす黒く染まっていた。こいつは、もう何体も『それ』を殴り殺したのだろうか。そう考えると、どこか恐ろしく感じてくる。


「そのエアガンはどうしたんだよ」


「ああ、これ?今日偶然学校に隠し持ってきてたんだけど……それが役に立ったぜ」


「何でそんなもん持ってきてんだよ……」


「いやあ、それにしても意外と久々に撃っても使えるもんだな。あんな上手く目玉潰せるとはな」


 今のこのあまりにも非現実的な状況に俺は戦々恐々としているにも関わらず、こいつは何だかやけに余裕さを感じる。寧ろ、この状況を楽しんでいるかのようにも見える。確かにこいつは人を撃ち殺すようなゲームが好きだったが……。


「……そんな事より……何なんだよ、この状況は」


「……さあな、俺に訊かれても分かんねえよ」


「そりゃあそうだろうけど、こんなのって……」


「おっと、あんまりのんびり話してる場合じゃ無さそうだぜ?」


 俺の言葉を遮るように翔が言う。口をつぐむと、さっきまでは耳に入ってこなかった悲鳴がいくつも校舎内に響いていた。が、さっきまでと比べると悲鳴の数が減っているように感じる……。


「ぁぁぁぁぁ……ぁぁぁぁぁ……」


 聞こえて来たのは悲鳴だけでは無かった。あの、全ての事象に絶望しきったかのような不快な呻き声も鳴っている。それも一つでは無く、それも一方からでは無く。


「囲まれてる……のか?」


「……そうらしいな。どうやらこいつらに噛まれた人間もこんな風に変わっちまうっぽいし、今はもう学校中にこいつらが溢れかえってるだろうな……」


「そんな……」


 俺もさっき、身体が異形化していく現場を目撃した。あれがそうだと言うのか。それだったら、まるで増え鬼のように爆発的に敵の数が増えていくじゃないか。そんなの、生き延びられるわけが無いじゃないか。


「……強行突破するぞ。俺がバットぶん回しながら進む。桐哉は俺の後ろにぴったり付いてこい」


「え?あ、ああ……分かった」


 俺が悲観的な考えに陥っている間に、翔は行動を開始しようとしていた。そうだ、悲観しててどうする。とにかく逃げて、生きなければ。そうしたら、きっとどうにかなるはずだ。どうやら俺は翔の持ち前のポジティブさに救われたらしい。


「よしっ、行くぞ!」


 威勢のいい掛け声と共に、翔は廊下を駆けた。俺も必死に翔の後を追う。元野球部だけあって凄い速さだが、ここで置いて行かれるわけにはいかない。

 前方では翔が大きくバットを振り回し、それに当たった敵の頭は一瞬にして粉々に砕け散る。あまりにも凄惨な光景だが、もうそれには多少慣れた。しかしとても見ていて気分の良いものでは無い。俺は何度か込み上げてくる吐き気を抑えながら駆け続けた。


「よし、目的地到着だ」


 どのくらい走ったかも分からないが、いつの間にか辺りに敵はいなくなっていた(死骸は大量に転がっているが)。さっきまでは特に目立った汚れの見えなかった翔は、いつの間にか返り血まみれになっていた。


「……はぁ……はぁ……何で、目的地が校長室?」


 俺は慣れない事をしたせいで乱れきった呼吸を整えながら尋ねる。校長室なんかに行くより、早く外に出た方がいいはずだ。


「お前、武器持ってねーだろ?だからな」


 そう言いながら、翔は校長室の扉をノックも無しに開け放つ。翔は躊躇いも無く入っていくので、俺も慌てて後に続く。


「うわっ……」


 一番に目に入ったのは校長先生の死骸……いや、かつて校長先生だったはずの物体だった。右腕が欠損しており、身体の大部分がやはり腐りきっていた。


「おい、桐哉。ほらよっ」


「え!?おわっと……」


 突然何かを投げ渡され、俺は取り落としそうになりながらも何とかそれを掴む。それは長さが約1mはあるであろう白色の細長い物体だった。見た目の割に、ずっしりとした重さがある。


「……もしかしてこれ……刀……?」


 俺はその白い鞘から刀を抜きだす。刀身は70cm程で、まるで本物かのようにギラギラと光り輝いている。軽く一振りしてみると、確かな手応えを感じた。


「ここの校長室、模造刀置いてんだよ。剣道部のお前にゃおあつらえ向きの武器だろ?」


「あ、ああ。ありがとう」


「いや、礼ならそこに倒れてる校長に言ってやりな」


 床の上で朽ち果てている校長に目を向ける。この高価であろう模造刀を勝手に持ち出す事に罪悪感を覚えるが、既にこの世界においてそのような倫理観など適用されないのだろう。それに、既に俺達は何人も人を殺した。いや、性格には人であったものに過ぎないが、あのおぞましい見た目の奴らも確かにさっきまでこの学校で普通に生活していた人ではあったのだ。


「君達、早く、授業、戻り、なさ、い」


 ビクリと体が震える。突然、どこかで聞いたような声が聞こえる。それこそ、朝礼でお馴染みのあの声によく似た……。


「おい、桐哉!校長がお目覚めだぜ」


 もう完全に息の根が止まっていると思い込んでいたが、校長は何事も無かったかのようにムクリと立ち上がった。身体は完全に腐りきっており、校長の面影など無いに等しかった。


「桐哉、今こそその刀の切れ味を試す時だろ?」


「え、俺が……斬るのか……?」


「そうだよ、今ここで試しとかないと、いざって時に困るだろ?」


「そうだけど……」


 俺は躊躇してしまう。さっきは最早誰なのか判別もつかないような敵だったから殺せた。だが、これは確かに校長だったものだ。腐ってしまったとは言え、確かに俺の知る人物だったのだ。

 そんな事を考えてる間にも、校長だったものは記憶領域に刻み込まれている単語を意味も無く羅列しながら、緩慢な動作でこちらに近づいてきている。斬らないと……首を飛ばさないと……俺が死ぬ。


「桐哉!」


 突然、翔が大声で叫ぶ。それによって思考の渦に飲み込まれかけていた俺の意識が戻ってくる。


「もうここはそういう世界なんだ。覚悟を決めろ。じゃないと、簡単に死ぬぞ?」


 ……そうだ……。もう、ここは、そういう世界。躊躇っててはいけない。生きるか死ぬかのこの世界で。倫理観などかなぐり捨てろ。生きるべきは、人間であるこの俺だ。だったら、殺せ。


「食らえっ……!」


 俺は決意した。柄を握る手に力を込める。狙うのは、首だ。俺は敵の緩慢な動作とは比べものにならない程の速さで、刀を横に薙いだ。一瞬の沈黙。その沈黙は、校長だったものの頭が床に落ちてひしゃげる鈍い音で終わりを告げた。


「……やるじゃん」


「……どうも」


「さーて、心強い味方も出来た事だし、今度こそ学校を出るぞ」


 その言葉と共に、翔は校長室を飛び出る。俺も首の取れた傀儡を残し、校長室を後にした。

 道中、何度も敵に出くわした。が、武器を得た二人にかかればこの程度の敵はどうという事は無かった。そして、漸く下駄箱の並ぶ玄関が見えてきた時だった。


「誰かっ……!助けてえええ!」


「……!この声、もしかして!」


 女の子の声。その声は、俺にとって非常に聞き馴染みのある声だった。急いで声の聞こえた場所に向かう。そして、そこには三体の敵に囲まれて、座り込みながら刺叉で必死に応戦している女子……俺の幼馴染である櫛田結衣(くしだゆい)がいた。


「結衣っ!大丈夫か!」


「……あっ、桐哉くんっ!」


 俺に気付いた結衣は、恐怖に捕らわれた表情から一転して安堵の表情を見せる。その大きな瞳からは、恐怖によるものか、安堵によるものか、大粒の涙が零れ落ちていた。


「今、助けるからな!」


 俺はそう叫んで、結衣の周りを囲っている敵の一つの肩を掴んで床に投げ飛ばす。その勢いで身体が潰れたが、まだ動いている。俺はとどめに、脳がある場所に向けて刀を突き刺した。敵は暫く呻いていたが、やがて動きを止めた。


「てめえらの相手はこの俺だ!」


 そうしている間に、残りの二体は翔が金属バットの一撃であっさり始末していた。頭を失った『それ』は、突っ立ったまま二度と動くことは無かった。


「……立てるか、結衣」


 俺は結衣に向けて手を差し伸べる。結衣は、さながら王子様に助けられたお姫様のように嬉しそうな表情で俺の手を取った。確かな温もりが、そこにはあった。


「桐哉くん……生きてて良かった……良かったよぉ……」


 立ち上がった結衣は、安心しきったのか嗚咽混じりの声でそう言いながら、俺の胸に顔を埋めて泣き始めた。無理も無い。こんな状況、泣きたくなるのが普通ってものだ。ならば俺のしてやれる事は、結衣を抱きしめてやる事だけだ。


「感動の再会に水を差すようで悪いが……とりあえずここを出ようぜ」


「…ああ。行こう、結衣」


「うん……」


 結衣はまだ涙が止まらないようだったが、俺の胸から顔を離す。俺達は靴を履き替えてから玄関を出た。

 正門までの道も酷いものだった。既に生きてる人間はおらず、意思を失った怪物がただ闊歩しているだけ。外も既にこんな状態なのだろうか、と絶望しそうになる。が、今は落ち込んでるわけにはいかない。今は結衣もいるのだ。俺はこいつを守ってやらないと……。


「誰かっ……助けて……!」


 改めて決意を固めていると、どこから女の子の声が聞こえてきた。それも、助けを求める声。


「おい、あれ!」


 翔の指差す方向には、確かに人がいた。身体の腐っていない女の子が、息を荒くして座り込んでいる。その周りを数体の敵が彼女の肉を求めて迫っている。それと共に、何体かの首の上を失くした死骸が転がっていた。


「あの子は……!」


 その顔にも、俺は見覚えがあった。同じクラスの栗生真希(くりゅうまき)だ。物静かな性格だからあまり話した事も無いが、結構な優等生である事は知っている。


「大丈夫か!?」


 生きている人がいる。だったら助けるしか無い。俺は剣を構えて、後先考えずに敵の群れに向けて突っ込んでいった。ただ、彼女を助ける事だけを考えていた。その時は恐怖など、どこかへと消え去っていた。


「そこから離れろっ!」


 俺は敵の注意が栗生さんに向いている間に、次々と敵の首を斬り落としていった。幸い、敵の動きは鈍い。勢いに任せて突撃したが、それでも鈍い敵を倒すぐらい造作も無い事だった。そしてすぐに、栗生さんの周りから生きた屍は消え失せた。


「……大丈夫?怪我は無いか?」


「うん、大丈夫……灰田桐哉くん……だよね」


「ああ、そうだよ。栗生さん」


「……あ、ありがとう。助けてくれて」


「いや、このくらい」


 俺はさっきと同じように手を差し出す。栗生さんは俺の手を掴んで立ち上がる。彼女の手は、血に濡れていた。


「真希ちゃんっ、無事で良かったぁ……」


 結衣は心底嬉しそうな声で言うと、栗生さんの元に駆け寄って抱きしめる。栗生さんは少し困惑していたようだったが、やがて恥ずかしそうに顔を赤らめた。


「結衣ちゃんも、無事で良かったよ」


「……栗生って言うのか、可愛いな」


 翔が俺だけに聞こえるような小さい声で耳打ちしてくる。確かに整った顔立ちをしているが、今の状況で出てくる感想がそれか、と少し呆れてしまう。


「それにしても、よく無事だったな」


「たまたま園芸の作業をしてたから……鍬とスコップが近くにあって」


 栗生さんの指差す方を見ると、そこには血塗られた鍬とスコップが置かれていた。周りの死骸や、栗生さんが浴びている返り血の量から察するに、それなりの数を殺したのだろう。


「って、ちょ、ちょっと!あ、あれ!」


 急に結衣が血相を変えて俺の方を指さしてくる。いや、正確に言うと、俺の更に後ろの方だ。背筋に悪寒が走る。戦慄を覚えながら、俺は振り返る。


「……!!」


 その光景を見て、俺は思わず後ずさる。向こう側から、俺達の方に向けてまるで雪崩のように大量の敵が近付いて来ていたのだ……。


「何なんだよ、この数は……」


「学校にいた連中の全てが、俺らの肉を狙ってるのかもしれないぜ?」


 翔はそう言いながら、エアガンに弾を装填する。軽い口調ではあったが、明らかにその声は震えていた。


「怖いよ、桐哉くん……」


 結衣も青ざめた顔で俺の腕にしがみついてくる。さっきまでなら結衣を庇ってやれる程の余裕があったが、今は俺の身体も固まってしまって身動きが取れない。ただ、結衣の身体の柔らかい感触を薄く感じるだけだった。


「あの数はどうしようもない……とにかく逃げないと」


「桐哉!お前らは先に逃げろ!」


「いやっ、でも!」


「たとえエアガンだろうと動きくらいは止められるからな。桐哉は女子二人を連れて学校を出るんだ。そしたら奴らが学校から出られないように校門を閉めろ。ああ、安心しろ。俺はよじ登って出られるからな」


「……ああ、分かった!」


 その返答と共に、翔は銃撃を始めた。ダメージを与えている様子は無いが、確かに敵の動きは遅くなっている。


「よし、二人とも、行くよ」


「うんっ、分かった!」


 結衣の少し震えの混じった、されど力強い返事と、栗生さんの頷きを受けて、俺たちは正門の方へと走り出した。

 校門に辿り着いた俺たちは重たい校門を閉じる作業に取り掛かった。3人の力があれば、全て閉め切るまでさして時間はかからなかった。


「おーい、翔!校門閉めたから早くこっち来い!」


「ああ、リョーカイだ!」


 俺が呼び掛けると、翔は銃撃を止めて一目散にこちらへと走ってきた。そして、それなりの高さがある校門を軽々と飛び越えて俺たちと合流した。


「これで……この学校の連中が外に出てくる事は無いはずだぜ」


「ああ……だろうな」


「ね、ねえ……この後はどうするの?」


 不安そうな表情で結衣が尋ねる。丁度、俺もそれが気になっていたところだ。周辺には俺たち以外に人気は無い。異様な程に静かで、まるで世界に俺たちだけが取り残されたかのような錯覚をする。いや、もしかしたらそれは錯覚でもなんでも無いのかもしれないが。


「とりあえず安全な場所に逃げる」


「安全な場所ってどこだよ?」


「そうだな、なるべく高い所が良い。それと、人のいなさそうな場所な。人が密集してそうな場所は学校と同じようになってる可能性が高いぜ」


「でも、そんな場所ってあるかな……?」


 俺の頭の中に浮かんでいた疑問を栗生さんが代弁する。近くにそんな場所が果たしてあるのだろうか。


「……確かここから20分くらい歩いた場所に立体駐車場があったはずだ。とりあえずあそこに行ってみよう」


 その意見を受けて、俺たちはその立体駐車場へと向かう事になった。


 道中、俺たちはこの世の物とは思えぬ凄惨な光景を目にする事となった。心のどこかで、さっきの惨劇はまだ学校の中だけでしか起こっておらず、外はまだ無事でいつも通りの光景が広がっていると……そう思っていた。思っていたかった。だが、現実は非情で。外でも大量の屍が徘徊しており、血飛沫を撒き散らしながら喰われ、そして腐り行く人たちもいた。混乱が起こっていたのか、そこら中で車の衝突事故が起きており、その車に大量の屍が張り付いている。どこかからは黒い煙が上がっている。どこかからは悲痛な叫び声が聞こえる。血痕と死骸に埋め尽くされた、まさに終末なる世界を俺たちは歩き続けた。


 立体駐車場の屋上に辿り着いた時には、俺たちは酷く疲弊していた。襲い来る敵と戦いながら走ってきたというのもあるが、何よりもこの非現実的な世界に脳も心も追いついていかなかった。世界と俺の間のギャップが、俺を苦しめていた。


「やっぱりここは安全地帯っぽいな」


 翔が車の鍵を手の平で弄びながら言う。この車の鍵は、この駐車場に倒れていた人から勝手に奪ったものだ。既にどの車を動かせるのかも確認済みだ。車さえあれば緊急時も簡単に脱出が出来るから……と翔は言っていた。どうやら翔は車の運転が出来るらしいが……まあ、今の世界で免許なんて気にしても仕方ないだろうからそこを追及するのはやめた。

 それから俺は、何をするでもなくただボーッと座り込んでいた。栗生さんも無言のまま、膝を抱きかかえるように座っている。結衣と翔は何やら忙しなくスマホを弄っている。俺も気を紛らわす為にスマホでも触ろうかと思ったが、そんな気力すら湧いてこなかった。


「《デフォルト》か……」


「……え?」


 ずっと黙ってスマホを眺めていた翔がふいに呟いた。


「あの身体が腐った奴らの名前だ。SNSではどうやら《デフォルト》って呼ばれてるらしいぜ」


「お前、ずっとSNS見てたのか?」


「当たり前だろ。こういう時に情報収集するのは基本中の基本ってやつだ」


 俺は「ふーん」と気の無い反応を寄越して、視線を翔の方から下の世界へと向けた。下では相変わらず敵……《デフォルト》が徘徊している。


 《デフォルト》……初期設定。初期値。


 どうして連中にこのような名前が付いたのか……いや、名前なんてどうでもいい。奴らは俺たちの敵である。その事実だけで今は充分だ。


「ね、ねえ、桐哉くん」


 同じく、ずっとスマホを触っていた結衣が俺を呼んできた。その声から何やら鬼気迫るものを感じた。


「どうしたんだ?」


「……ママと連絡が取れないの……それにパパも……友達もみんな、連絡しても返事が来なくて……!」


 言葉を口にする度に、彼女の声に嗚咽が混ざり出し、ついには大きな目から溢れ出るように涙が溢れ出した。

 今の俺は、結衣にかけてやるべき言葉を持ち合わせていなかった。避難に手間取っていて返事を出せないだけかもしれない……なんて気休めを言ってやればいいのだろうか。俺には、よく、わからない。ああ、そういえば俺の両親はどうしてるだろう。俺も連絡を取ってみようか、とスマホを取ろうとして……やめた。結衣と同じように返事が無かったらと考えると、ダメだった。


「私、どうしたらいいのかな……これから……」


 結衣はスマホを握りしめ、涙を零し続けていた。


「……それを、これから考えていこう。とりあえず今日は疲れてるだろうし、体を休めよう。な?」


「……そうだね……そうだよね」


 そして、結衣は再び口を閉ざした。今までずっとうるさいくらいに元気だった彼女の面影は既にそこには無く、一層悲壮感を増していた。


 いつの間にか、日は落ち、辺りを闇が支配した。冬の夜、ブレザーだけでは防寒には心許なく、俺は自分自身の身体を抱くようにして座り込む。さっき、近くのコンビニから拝借してきたパンもまるで喉を通らない。それでも空腹感は容赦なく俺を襲い、半ば無理矢理パンを口に押し込んだ。

 何となく、夜空を見上げてみた。いつもより星が多いように見える。ビルからも、家からも光は漏れていないからそのおかげだろう。……夜はいい。残酷な現実に支配された下界を暗く冷たい闇で隠し、幻想の光で照らしてくれるから。

 その晩、女子二人は翔が手に入れた車の中で寝ることになり、俺と翔は外で座った体制のままで眠った。とは言え、俺はろくに寝付く事が出来ず、ただ翔の呑気ないびきを聞き流しながら、次の朝を迎えた。


 翌日。目覚めたら全部夢だった、そんな期待していた展開が起こるわけもなく、相変わらず下では《デフォルト》が徘徊していた。

 それから、翔の提案により近くのショッピングモールへと向かう事が決まった。物資が無いと生きていけないから、という事で他の三人もそれに賛成した。


「だだっ広いショッピングモールでたった四人、全商品取り放題……ってワクワクするよな」


「……こんな状況じゃなければな」


 翔の運転によって目的地へと向かう道中、翔はそんな能天気な事を言った。昨晩は大きないびきをかいて爆睡していたし、何故こいつはここまで精神的に余裕があるのだろうか。俺にもその余裕を分けて欲しいものだ。


「うん、確かに。服とか選び放題だもんね。私、欲しかった服貰っちゃおっかな」


 結衣も昨日までの落ち込みっぷりはどこへやら、翔の能天気な話に元気よく答えている。彼女も、この非日常的な環境に舞い上がっているのだろうか?……いや、そうじゃないだろう。きっとこれは空元気ってやつだ。辛い状況なのに、無理に元気に振る舞う。結衣は昔からそういう奴だった。


「ところでよ、桐哉。昨日ネットで色々情報を入手したわけだが……聞きたいか?」


「……一応」


「あくまで噂だが、どうやら人間が《デフォルト》になったのはウイルスに感染した事が原因らしい。ネットでは《デフォルトウイルス》って呼ばれてる」


「何でそんなウイルスが……」


「有象無象の噂が流れまくってるが、主に言われてるのはどこかの機関によってばら撒かれたって噂だな」


「人工的に発生させられたって事か!?」


「あくまで噂だよ、う・わ・さ。つっても、突然こんな事態になったんだ。その可能性も充分考えられるだろうな」


「まさか、そんな……」


 まさか、そんなフィクションみたいな事……。そう言おうとして、途中で口を噤んだ。フィクションみたいな出来事は、もうとっくに目の前で起き続けている。今更、常識に囚われていられない。


「後、この事態はここ周辺だけで起こってるわけじゃない。日本中どころか、世界中で急速に《デフォルト》化が進んでいるそうだ」


「……」


 薄々、この出来事は日本中で起きていてもおかしくないとは感じていたが、まさか世界中で発生しているとは思っていなかった。つまり、もう地球上の全てがウイルスに汚染されているという事か。


「《デフォルト》を殲滅する為に軍とかも動いたらしいが……その軍の中にも感染者がいて、内部からあっさり壊滅したらしい。どの国の軍も、そんな感じだ」


 その言葉で、近いうちにヘリか何かが俺たちを救助してくれるのではないかという淡く脆い希望は音を立てて崩れ去った。


「SNSを見てても、みるみる投稿の数が減っていってる。多分、生存者はほとんど残ってないだろうな……」


「……そうか……」


 どの情報も、俺の心を絶望の淵に追いやるには充分すぎた。この後に明るいニュースが出てくる事を少し期待していたが、結局そんなものは無かった。

 車内は重たい沈黙に包まれた。翔の運転は確かに上手いものだったが、《デフォルト》を轢殺しながらのドライブはとてもじゃないが快適と呼べるものでは無かった。


「なんだか、本当に貸切してるみたいだね」


「ああ、本当だな」


 ショッピングモールに到着した俺たちは早速必要な物資の回収を始めた。翔と結衣はキャンプ道具や日用品、俺と栗生さんは主に食料品などを集める事になった。二人はこんな感じの短いやり取りを繰り返しながら、リュックサックに消費期限の長い食料を詰め込んでいっていた。ショッピングモール内は、意外にも《デフォルト》の数は少なく、俺一人でも簡単に処理することが出来た。


「……これくらいで十分かな」


「そうだな、これだけあれば一週間は持つよ」


「……一週間、か」


 栗生さんはそう呟くと、溜息と共に床に座り込んでしまった。彼女は物静かだ。今までクラスは同じだったが、話した事はほとんど無いし、行動を共にしてからもほとんど話していない。俺は、彼女の考えている事を知りたかった。


「隣、いいか?」


「あ……うん」


 よっこらせ、と俺は栗生さんの隣に座る。だだっ広いショッピングモールの中、耳が痛くなるような静寂。まるで本当に世界に二人だけ取り残されてしまったかのよう。いつか、この世界に男女二人きりで取り残されてしまう、なんて妄想をしてたっけ。


「私たちがこれから一週間生き延びれたとして……その先にあるものはなんだろうね」


 先に沈黙を破ったのは栗生さんだった。俺は質問の意図を汲み取れず、だから彼女の言葉の続きを待った。


「こんな世界で……これ以上生き延びる意味って、あるのかな?」


 透き通るような声と共に発せられたのは、この世に対する絶望の言葉。


「君は……どう思う?」


「……俺は……」


 今まで考えてこなかった、いや考えるのを拒んでいた問いをぶつけられる。確かに、こんな俺たち以外が誰もいなくなった死の星で、果たして生き永らえる意味があるのだろうか?常に《デフォルト》の恐怖に怯えながら、誰の助けも来ない世界で。


「……」


「私は、その意味を見出せない。だって……無駄じゃない。楽しい事なんて起こらない、夢も叶えられないこんな場所で……ただただ無意味に生き続けるなんて、私には出来ない」


 栗生さんはそう言うと、膝に顔を埋めて嗚咽を漏らした。昨日ずっと黙り込んでいたのは、冷静だった訳じゃなく、ただ、世界に絶望しきっていただけだったのか。


「もう……生きたくないよ……つらいの……」


「……俺は……」


「……」


「俺は、生き残った他のみんなが、生き続ける為の理由だよ」


「……え?」


 栗生さんは顔を上げて、俺を見つめる。


「もしも、たった一人だけ取り残されたんだったら、俺はもうとっくに自殺を選んでると思う。栗生さんの言う通り、そんな何も無い場所で生き続けるなんてごめんだ。でも……」


「でも?」


「もし、他のみんなに生きようという意志があるのなら……それを支えて一緒に生き残っていくのが、俺の生きる意味だよ」


「……」


「それにさ、四人もいるんだし、楽しい事だってまだあるかもしれない。幸い、ムードメーカーが二人もいるしな」


「そう……かもね」


「まあ、なんだ……俺はぶっちゃけ元々生きる意味なんて無かったんだよ。ただ敷かれたレールの上だけを牛歩しているような感覚でさ。だから、俺は逆に今の方が……生きる意味を感じているのかもしれない」


「確かに……そうなのかもね」


 栗生さんは少しだけ覇気の戻った声で言い、目元の涙を指で拭った。


「確かに私は……今までずっと決められた道を歩んできただけなのかもしれない。意味があるようで、意味なんて無い生き方を。でも、今は違う……」


「ああ、どうやって生きるかは、俺たちの手に委ねられたんだ」


「灰田くん、ありがとう。私、頑張ってみるよ。生きる意味を探す為に……生きてみる」


「礼を言われるような事じゃないよ。思ってた事を言っただけだ」


「ううん、道を示してくれたから……感謝してる」


「そっか……ん?」


 ……どこかから、蛙を潰したような鈍い音がぐしゃり、ぐしゃりと聞こえてくる。その音は、徐々に徐々にこちらへと近付いてきていた。


「この音って……」


「ああ、《デフォルト》だろうな。大丈夫、一体だけなら斃せるから」


「う、うん……」


 俺は腰にさげていた模造刀を引き抜き、慎重に音のする方へと向かっていく。


「あれか……」


 標的が視界に入る。……服装から察するに、恐らくここの店員だった人だろう。顔は爛れきっており、服も所々がズタズタに破れている。きっと、他の《デフォルト》に襲われて、この人も《デフォルト》になってしまったのだろう。俺も、少し間違えればこんな人の尊厳を踏みにじるような醜い姿になっていたのだろうか。


「縺?i縺」縺励c縺?∪縺帙?」


 かつて人間だったもの……。だが、今は違う。俺たちにとってはただの敵。生き延びる為に、斃すべき相手。今更、怖気付いてる場合じゃない。

 俺は剣を構えると、敵の首に視線を定める。そして、いざ飛び出そうとした時だった。


「……お母……さん……?」


「……え?」


 後ろから聞こえてきた栗生さんの震えた声によって引き止められる。お母さん、だって?まさか、あの《デフォルト》は栗生さんのお母さんだったのか?


「お母さん……!私、私だよっ……!真希だよ!分かるでしょ!?」


 栗生さんは彼女がお母さんと呼んだそれに必死に呼びかけた。普段大人しい彼女のこんな表情は初めて見るものだった。


「あ、危ないって!」


 栗生さんは《デフォルト》に向かって武器も構えずに近付いていく。止めないと……そう考えていた時。


「窶ヲ窶ヲ逵溷ク後■繧?s窶ヲ窶ヲ?」


 《デフォルト》の動きが止まった。顔から零れ落ちそうになっている眼球は、確かに栗生さんをみすえていた。


「声が……届いたのか?」


「……お母さん……!」


 まさか《デフォルト》にも生きていた時の記憶が、意識が残っているのだろうか。だとしたら、それを生き延びる為に殺し続けた俺は……。


「……ごめんね……お母さん」


 母に思いが届き、声音が明るくなったかと思えば、いつの間にか彼女の声はまた深く沈んだものに変わっていた。


「私はもう決めたの。過去には縛られないって……レールの壊されたこの世界を生きるって」


「あっ……」


 栗生さんは身につけていたスコップを手に取り、母の首にそっと刃をあてがえた。


「私はこの何もかも無くなった世界で生きてみせるから……。だから……さよなら」


 次の瞬間には、腐りきった頭がドス黒い血飛沫と共に宙を待っていた。首から上を失ったそれは、物も言わずに力無く床に倒れ込み……その衝撃によって砕け散った。


「栗生さん……」


「……もう過去とは決別できたから」


 栗生さんはゆっくりとこちらに振り向く。血に汚れた彼女の顔は、吹っ切れたような表情が浮かんでいた。


 それから俺たちは食料の回収を終えると、同じく物資の回収を終えた翔たちと合流して、拠点である立体駐車場の屋上に戻った。その後、物資の仕分けやテントの設営などを行っている間に日は落ち、二度目の夜がやってきた。


「いや〜、やっぱり焚火はいいもんだな。貰ってきておいて良かったぜ」


「そうだね〜。火って綺麗だしあったかいし、何より落ち着くもん」


 俺たちは翔の持ってきた焚火を囲って暖を取っていた。他にもカイロや毛布などがあるので、昨日のような凍えるような寒さは凌ぐ事が出来た。それに、火というのは結衣の言う通り、心が落ち着くものだ。


「それに、栗生さん手作りのカレーも美味かったしな!」


「……私は普通に作っただけだよ?」


「いやいや、家のよりも何倍も美味かったって。やっぱ、現役JKの手作りってのがいいんだな」


「ふふ、ありがとう」


 今日の晩飯は栗生さんの作ったカレーだった。調理道具を持って帰ってきたものの、翔も結衣も料理が出来ない……という事で栗生さんが作ることになったのだ。一応、俺もちょっとした手伝いはしたのだが。


「……灰田くんは、美味しかった?」


「えっ?ああ、うん。美味しかったよ」


「……良かった」


 栗生さんは俺の返答に安心したように微笑む。俺もつられて笑みが漏れた。地球は死の星と化してしまっが、この空間だけはそれを忘れていられる程に平和だった。


 翌日……《デフォルト》が地上に出現してから三日目。俺たちは翔の提案により、他に生存者がいるかどうか確認する事になった。ネット上には生存情報などがまとめられた掲示板があり、そこから車で簡単に行けそうな場所を探索する事になった。……が、結局その日は収穫を得る事が出来なかった。


 人間の文化的活動が終わりを迎えても、自然や宇宙の摂理は変わることが無い。朝と夜は無限に繰り返される。そこに人間の存在は必要が無い。ならば、何故この地球には生命が産み落とされたのだろう。そして、何故身勝手にそれは終焉を迎えてしまったのか。存在意義。生き続ける理由。俺は昨日栗生さんに随分と偉そうな事を言ったものだが、俺だってまだそれを見出せている訳では無い。みんなの為に生きる……果たしてそれは本心だったのだろうか。俺は、自分自身が分からなくなってきていた。


「……どうしたの?そんなに渋い顔して」


「あっ……栗生さん……起きてたんだ」


「ちょっと寝付けなくてね」


 気が付けば時刻は深夜の1時になっていた。時間というものに縛られる必要の無くなった世界で、それを確認する事が意味のある行動なのかは分からない。

 栗生さんは俺の横に体育座りをする。昨日はあまり意識しなかったが、女子とこんなに近づいて座るなんて、結衣以外ではまだ経験が無い。それも今は深夜。他の二人は今頃熟睡しているだろう。……なんだか少し緊張してしまう。


「星、綺麗だよね」


「ああ、うん、そうだな」


 言われて、空を見上げる。心なしか、前に見た時よりも星の数が増えている気がする。


「私、ずっと両親の為に生きてきた」


「……」


「エリート志向だったの。昔は何の疑問も持たずに、両親の言っている事をすれば良い人生を送れるって思って、両親の望んだ事は何でもやった」


「そう……なんだ」


「すごく、頑張った。予め敷かれたレールの上を必死に走ってた。やがてそれにどこか疑問を持つようになっても……走り続けた。止まる事は許されなかったから」


「……うん」


「でも、世界がこんな事になっちゃって……疑問は確信に変わったの」


 栗生さんは、一度大きな溜息を漏らす。暫く栗生さんは黙りこくってしまっが、俺も黙って話の続きを待った。


「……意味なんて無かった。私がずっとやってきた事は、何の意味も無かった」


 その言葉は、喉から絞り出すかのように吐き出された。


「そして気付いた。私はずっと両親の為に生きてきて……それが無くなった今、『私』という存在がどこにも無いことに」


「……そっか……」


「生きる意味を見つけたい。でも、どうすればいいのかよく分からなくて……」


 栗生さんは膝をだきかかえ、不安そうに呟いた。こうして見ると、随分小さな存在に見えてしまった。彼女を構成する一部が、いや大部分を失ったせいかもしれない。

 彼女も、俺と同じなんだ。生きる意味を見失って、先の人生に絶望して自ら道を閉ざす……。だが、そうやって停滞している間にも陽は変わらず昇る。俺たちは、どうやっても進んでいかなくてはいけないのだ。


「栗生さん……さっき『私』という存在がどこにも無いって言ってたけど……それは違うと思うんだ」


「え……?」


「栗生さんは、確かにここに存在しているよ。俺がこの目で観てるんだから」


「……それでも、私は私が分からないよ……」


「今までは両親によって『君自身』の意思は閉じ込められていた。でも、決して無くなった訳じゃないでしょ?」


「……そうなのかな……」


「君は多分、急に『君自身』が檻から解放された事で困惑してるんだと思う。まだ、『君自身』を見つけ出せてないだけ……」


「じゃあ……それはどこにあるのかな……」


「それをこれから見つけよう。俺も手伝ってあげるから」


「本当に……一緒に探してくれる?」


「勿論だよ」


「……ありがとう。灰田くん……」


 気が付くと、彼女の瞳は濡れていた。夜空の光に照らされた、その粒は美しく輝いていた。


「……俺たち二人とも、心から何かが大きく欠けてしまったんだ。でも、欠けた者同士で補い合う事が出来れば……」


「……うん」


「それは素敵な事なんじゃ無いかって、思うんだ」


「……うん……!」


「だから、俺は君の為に生きたい。君という不安定な存在を支えていきたい」


「それって……」


「まあ、君が望むならだけどね」


「……私も、貴方の存在を補える一部になれるの?」


 俺は彼女の瞳を見つめながら黙って頷く。


「……私も貴方の為に生きたい。一緒に、見つけていきたい……」


 そう言うと、彼女の瞳からせき止められていた涙がとめどなく溢れ出した。彼女が見せた心からの笑顔は、どうしようもなく美しかった。


「……灰田くん……」


「ん?……あ……」


 唇に、柔らかい感触が伝わる。俺は、目を閉じて、それを受け入れた。心が満たされるような感覚。これで、俺たちは一緒に生きていける。これが、俺の生きる意味なんだ。そう確信した。


 《デフォルト》出現から四日目。最初は絶望しか無いと思っていたこの世界。だが、その考えも今では少し変わった。寧ろ、この世界の変化は閉じ切っていた俺の人生を解放する鍵。終わってしまった世界で、新しい人生が始まる。その事に、俺は充実感を覚えていた。


「なーんか、桐哉くんと真希ちゃん、すごく仲良くなってるよね〜」


 昼飯のカップラーメンを栗生さんと談笑しながら食べていると、急に結衣が俺と栗生さんの隣に割り込んで話しかけてきた。二人が特別な関係になった事は結衣にも翔にも話していない。


「もしかして付き合い始めた……とか?」


 結衣は俺の顔を覗き込んで尋ねてくる。いつも通りの笑顔のようで、そこには確かに違和感が垣間見えた。


「いや……それはその……」


「そうよ」


 どう言ったものか、と返答に窮している間に、栗生さんは何の迷いも無い口調でそう告げた。


「へぇ……そうなんだ……」


「……」


「良かったね、桐哉くん」


「あ、ああ……」


 いつもの底抜けに明るい口調はそこには無く、放たれたのは底冷えするような声音の祝福。何だろう、この雰囲気は。俺が身構えていると、結衣は顔を空の方へと向けた。遠い過去を見据えるような視線と共に、結衣は話し始めた。


「ねえ、覚えてる?私たちが小学生だった時にした約束」


「小学生の、頃……」


 俺は頭の中に蓄積されている記憶を手繰ろうとする。結衣との記憶。幼馴染というだけあって、彼女との思い出はいくつも眠っていた。同年代の連中の中でも一番多いのは間違いないだろう。その中で、交わした約束。


「……あ……」


「言ったよね、私に何かあったら守ってやる……って」


「……ああ……」


「それはまだ時効じゃない……よね?」


 俺は確かその時……『お前に何かあったら、俺が絶対に守ってやる』と言ったはずだ。ついでに『俺が死ぬまで』とも言ったっけ。だったら……。


「ああ、まだ時効じゃないよ。死ぬまで、だからな……」


「良かった、忘れて無かったんだね」


 かつて特別な意味も無く交わした約束。どういう流れでこんな事を口走ったのかはよく覚えていないが……今になってその約束が意味を持つ事になるなんて思ってもみなかった。


「だったらさ……私を守ってよ、桐哉くん。私だけを……」


「……おい、急にどうしたんだよ結衣。何だかおかしいぞ」


「おかしくなんかないよ。私はいつも通りだから……」


 結衣はそう言っているが、明らかに様子がおかしい。そして、俺は結衣の様子がおかしい理由も何となく察していた。でも、俺は……。


「あっ、結衣……」


 俺が何か言おうと思案している間に、結衣は立ち上がって、俺たちの元から離れていった。その後ろ姿には昔見ていた彼女の面影はどこにもなかった。


「ど、どうしちゃったのかな、結衣ちゃん……」


「……本当に、どうしちゃったんだろうな……」


「……そんな事より、早く食べないとカップラーメン伸びきっちゃうよ?」


「あ、ああ……そうだな……」


 話している間に、麺は既に伸びてしまっていた。麺を口に含んだが、案の定味を感じる事は無かった。


 また、日が暮れた。今日も星空だけはどうしようもなく美しい。食料を大量に仕入れたおかげで《デフォルト》の脅威に怯える事は無かったが、新しい心配事が生まれてしまった。……結衣の様子。あれから俺を意図的に避けているようだし、いつも楽しそうに話していた栗生さんにも邪険な態度を取っている。どうして急にあんな事になってしまったのか……《デフォルト》によるストレスがより彼女を攻撃的にしてしまっているのかもしれない。だったら約束通り、俺が守ってやらないといけない。彼女を苦しめるこの世界から……。


「どうしたよ、そんな暗い顔して」


「翔……」


 テントの中で就寝準備をしている時、翔が話しかけてきた。そういえば、今日は翔ともほとんど話してなかった気がする。


「それが、結衣の様子が心配で……」


「あ〜、確かに様子がおかしいよな」


「俺は……どうしてやればいいんだろう」


「そんな事よりさ、お前、いつから栗生さんとあんないい感じになってんだ?」


「……は?」


 翔の言葉に、俺は引っ掛かりを覚えた。


「そんな事よりって、お前……結衣は俺たちの仲間だろ?お前は心配じゃないのかよ!」


「仲間、ねえ……」


 翔は何を考えているのか、さっきからずっと顔がニヤついている。元々ヘラヘラしている奴ではあったが、今日は殊更に様子がおかしい気がする。


「……人は、初期状態(デフォルト)であるべきなんだよ」


「は……?何言ってんだよ、お前……」


「人は変わろうとする事で、却って停滞を生む事になる。だったら変わらなければいいじゃないか」


「それは違うだろ。人は変わっていかなければならない。世界の状態が刻一刻と変わっていく間に」


「だが、もうこの世界は変わらない。違うか?」


「それは……」


 翔は何を言おうとしているんだ。話の意図が掴めない。


「つまりだ。お前は櫛田さんを守ってやればいいって訳だ。栗生さんじゃなくてな」


「なんでお前にそんな事言われないといけないんだよ……。俺は二人とも守ってみせる。そう約束したんだ」


「だが、世界がそれを許さないとしたら?」


「……お前、本当にどうしたんだ?お前も結衣と同じでストレスが……」


「いずれ分かるさ、俺の言った言葉の意味がな」


 翔はそう吐き捨てるように言うと、灯っていたランプを消して寝袋に入ってしまった。

 釈然としない気持ちが心を埋め尽くしていたが、何だか疲れてしまって考える気力も無い。俺もさっさと寝て気分をリセットしようと寝袋に包まる。が、結局その夜は妙に目が冴えてあまり眠る事が出来なかった。


 翌日……《デフォルト》出現から五日目。その日の目覚めはあまり良いものでは無かった。どこかから聞こえる怒鳴り声。俺は寝惚け眼を擦りつつ、声の主を探すためにテントから出た。


「意味が分からない……結衣ちゃん、どうしてそんな事言うの!?」


「違うよ、私はただ桐哉くんと真希ちゃんの事を考えて言ってるんだよ」


「嘘言わないでっ。結衣ちゃんが考えてるのは自分の事だけでしょう?」


「違う……違う!そんなの違う!」


 そこでは、結衣と栗生さんの激しい応酬が繰り広げられていた。どうしてこんな事になってるんだ!?状況が理解できない。でも、今はとにかく止めないといけない。それだけは確かだった。


「ちょ、ちょっとストップ……ストップだ!」


 俺はそう怒鳴りながら言い合いを続ける二人の間に割り込んだ。二人は一瞬驚いたような顔をするが、栗生さんは再び、さっき結衣に向けていた憎悪の表情を向けていた。そして、結衣は怯えたような表情で俺の腕に突然しがみついてきた。


「ちょっと……結衣!?」


「桐哉くん、助けてよ……真希ちゃんが……怖いの……」


 結衣は今にも涙が溢れ出しそうな瞳を上目遣いで向けてくる。


「灰田くん、違うの。これは結衣ちゃんから……」


「桐哉くんっ!ねぇ、私を信じてくれるよね!幼馴染だもん……当たり前でしょ?私を守ってくれるって約束したでしょ?だったらこんな女よりも私の味方をしてくれるよね!?」


「おい、結衣!ちょっと落ち着けって!とにかく何が起きたのか教えてくれないと……!」


 何が起きているのかは分からない。だが、明らかに良くない状況ではある。結衣は確かに昔は駄々っ子みたいな所はあったが、これはその域を超えているように感じた。


「……ごめん、桐哉くん……私、テントに戻る……」


「えっ、あ、ああ……」


 今度は急に大人しくなったかと思うと、俺から離れてテントに篭ってしまった。今、結衣に問い詰めるのは得策じゃない。とりあえず俺は栗生さんに話を聞くことにした。


「栗生さん……結衣はどうしちゃったんだ?」


「……よく分からないけど、結衣ちゃんは多分、私と灰田くんの関係に嫉妬してる……んだと思う」


「……嫉妬……」


 だとしたら、何となく感じていた予感は的中していたという事だ。でも、よりによって結衣がそんな嫉妬に狂うとは思えなかった。結衣は昔、俺に好きな人が出来た時にすごく応援してくれたし、失恋した時も優しく元気づけてくれるような奴だった。なのに……。


「多分、結衣はこの状況にあてられてあんな事になってるんだと思う。あいつはあんな奴じゃないから」


「うん、分かってる。分かってるけど……」


 そう言うと、栗生さんは俺の胸に顔を埋めた。身体が小刻みに震えている。きっと、突然あんなに言い寄られて怖かったのだろう。俺は優しく栗生さんの細い身体を抱く。まるで結衣に見せつけるかのようで心苦しかったが、今はこうしてやるしか無かった。


「さーて、今日の昼飯はレトルトカレーだ。種類は早い者勝ちだからな」


 昼食の時間。熟睡していたおかげで朝の出来事を知らない翔だけテンションが高く、俺と栗生さん、そしてテントから出てきた結衣の間には重たい沈黙が流れていた。そういえば、昨日翔は妙な事を言っていた気がするが、結局あれはどういう事だったんだろうか。俺は気になって、翔の元へ行こうと立ち上がると、同じタイミングで結衣も立ち上がり、俺の方へと向かってきた。


「ねえ、桐哉くん。お昼ご飯、二人で一緒に食べない?」


「え?二人で、か?」


「うん。桐哉くんと私の二人で」


「で、でも今日は……」


「ごめんね結衣ちゃん、今日は私と一緒にお昼ご飯食べる約束をしてたの」


 突然、後ろから栗生さんが会話に入ってきた。栗生さんの結衣に向けた鋭い視線と言葉は、まさに結衣を射抜かんとしていた。だが、結衣も同じように敵意に満ちた視線を栗生さんに突き刺す。彼女のこんな目を見るのは、初めてだった。


「何で……何で真希ちゃんは私の邪魔をしてくるの?」


「邪魔なんてしてないよ。私は事実を言っただけ」


「何なの……?真希ちゃんと桐哉くんはまだ仲良くなって数日しか経ってないんだよ?なのに、何でずっと一緒にいた私じゃなくて真希ちゃんなの!?」


「日にちなんて関係無い。灰田くんは私と一緒に生きる意味を見つけてくれるって約束してくれたの。だから、私は灰田くんを選んだ」


「私だって!私だって約束したもん!なのに、何で!?ふざけないで!!」


 もう結衣は完全に冷静さを欠いていた。ただただ自分の中に溜まっていた負の感情を撒き散らしているだけ……俺はもうそんな結衣を見ていられなかった。だが、とてもじゃないが俺が何か口を出せるような状況とは思えなかった。


「ねえ……桐哉くん、何でなの!?教えてっ……!何で私じゃなくてこの女を選んだの!?」


 結衣は俺の服の裾をぐしゃりと掴んで怒鳴りつけてきた。今まで見たこともないような、全てを憎むかのような形相に俺は思わずたじろいだ。


「それは……俺が彼女の事を支えたいって、そう思ったからだよ」


「……灰田くん……」


「栗生さんは《デフォルト》の出現で生きる意味を見失ってしまった。そして、自分自身の存在を探していた。そんな彼女を支えてやれるのは、彼女の苦しみを知ることが出来た俺だって……そう思ったから」


「……それが理由?」


「……そうだ」


「……」


 俺がそう言うと、結衣は握りしめていた裾を離して俯いてしまった。表情は何も見えない。再び重たい沈黙が辺りの空気を支配した。


「……バカ」


「えっ?」


「桐哉くんの……バカ」


 沈黙を破ったのは、そんな結衣の一言。


「私の生きる意味は……桐哉くんと一緒にいる事だったのに」


「え……」


「私、もう生きたくない」


 結衣は、俺が絶対に聞きたくなかった言葉を吐き捨てると、身を翻し、走って立体駐車場を駆け下りていった。


「……あっ、おい待てよ、結衣!!」


 暫く放心状態で去っていく結衣の後ろ姿を眺めていたが、やがて俺は我に返ると、結衣を追おうとした。だが、それは目の前に立ちはだかった栗生さんによって阻止された。


「……行かないで」


「どいてくれ!じゃないと、結衣がっ!」


「そんな事したら、灰田くんまで死んじゃうじゃない!」


「で、でもっ」


「私との約束、守ってよ。一緒に生きてよ」


「……あ……」


 涙で潤んだ彼女の瞳に鋭く睨みつけられて、俺はもう何も言うことが出来ず、そのままその場にくずおれた。そして、俺という存在の無力さを痛感し、激しい無気力感に苛まれた。俺は、誰かを救う為に誰かを犠牲にした。彼女との約束を果たす為に、彼女との約束を破ってしまった……。


「だから言っただろ?」


「お前は変わるべきじゃなかった」


「守るべきものだけ、守っておくべきだった」


 辺りの音という音が歪んでいく中、誰かの言ったその言葉だけが、俺の耳に鮮明に飛び込んできていた。


 結局、その日は誰もほとんど口をきく事は無かった。栗生さんは俺に遠慮してくれているらしい。翔はあまり関心の無さそうな態度だったが、そんな事はどうでもいい。

 俺はまだ午後6時だというのに寝袋に包まっていた。何だか酷く疲れた。どうして俺はもっとしっかり結衣に向き合ってやれなかったんだ……そんな罪悪感で俺は潰されそうになっていた。今まで一緒にいてくれた存在を失う事がここまで辛いだなんて、思ってもみなかった。


「なあ、元気出せって」


 あれから何時間経ったのだろう。もしかしたら日付はもう変わってしまっているのかもしれない。


「仕方ないだろ?こうなる事を選択したのは、他でもないお前自身なんだから」


 俺を慰めるような、責めるような声が聞こえる。

 違う、俺はそんな事……望んでやいなかった。でも、あの時の選択が間違いだったとは思ってない。だって、栗生さんを救えるのはこの俺だったんだから。


「違うな、お前は大人しくかつての約束を果たしておくべきだったんだ。なぜなら、櫛田さんを守れるのはお前だけなんだから」


 確かにそうかもしれない。でも、栗生さんは……。


「栗生さん、健気にお前の事心配してたぜ?俺に、どうやって元気づけてあげればいいかの相談をしてきたりな」


 そうだったのか。心配、かけさせてしまったんだな。栗生さんには悪い事をしてしまったかもしれない。


「本当に、良い彼女を持ったもんだよ。俺はお前が羨ましいぜ。羨ましすぎて、どうにかなっちまいそうだったよ」


「栗生さんを救えるのは、お前だけじゃなかったんだ」


「俺の生きる意味を……」


「お前は……」


 それっきり、その声が聞こえてくる事は無かった。


 それから、俺はただ結衣への贖罪を心の中で唱えるだけで……眠る事すら出来ずに朝を迎えてしまった。鬱々とした気分を紛らわす為に朝日と冷たい空気を浴びたかったが、最早その行為すら面倒臭かった。


「灰田くん……起きてる?」


 どこかから栗生さんの声が聞こえてきた。返事はしなかった。だが、テントの入り口が開かれる音と共に、栗生さんは俺が寝転んでいるテントに入ってきた。そして、ゆっくりと俺の隣に腰を下ろす。


「灰田くん……大丈夫……じゃないよね」


「起きてないかもしれないけど……言っておきたい事があるの」


「結衣ちゃんをあそこまで追い詰めちゃったのは私の責任でもあるの。だから、もし灰田くんが全部背負おうとしてるんだったら、その半分を私に分けて欲しい」


「灰田くん、あの時私に言ってくれたよね。欠けた者同士で補っていけるって。一緒に生きていくって」


「だったら、灰田くんだけで全部背負い込まないでほしいの。そうしてくれた方が、私は嬉しいな」


 俺は、彼女のその言葉を聞いて……いつの間にか泣いていた。涙が溢れて、止まらなかった。どうしようもない哀しみと、どうしようもない喜びによって感情がぐちゃぐちゃになり、制御不能となっていた。


「……栗生……さん……」


 俺が彼女の名前を漏らすと、栗生さんは優しい微笑みと共に、哀しみを覆うように俺を抱きしめた。


「今まで私は守られて、支えられてばっかだったけど……私も、貴方を守りたい、支えたいよ」


「ああ……ありがとう……」


「私、待ってるから。灰田くんが元に戻るまで」


 そう言い残すと、栗生さんは俺から離れてテントを出ていってしまった。俺は一向に止まってくれない涙を拭いながら、もう一度、心の中で栗生さんへの感謝の言葉を告げていた。やはり、俺は栗生さんと一緒に支え合いながら生きていきたい……。俺は寝袋のチャックを勢いよく開ける。冷気が身に染みる。が、今の俺にはそれがとても心地良いものに感じた。


 その後、俺はテントから出て、およそ24時間ぶりに食事をとった。そして日が暮れるまで、お互い他愛の無い会話をした。俺たちはまだ出逢ってからほんの数日しか経ってない。だから、これまで彼女と出逢っていなかった空白の時間を埋め合わせていくように……俺は話した。この時間で、栗生さんの事をより知る事が出来た。充実感を覚えていた。でも、結衣がいなくなった事で生まれた大きな穴は、そう簡単に埋まるものでは無かった。栗生さんと話している時に浮かぶ、結衣の影。俺は栗生さんともっと一緒にいたい。だが、それではまるで結衣に対するあてつけのようで。そんな二つの背反する思いが、じんわりと俺の心を蝕んだ。これでは栗生さんにも結衣にも真っ直ぐ向き合えていない。俺が結衣に刻んでしまった心の傷みが、直接俺へと伝染して苛み続けた。


 そして、いつもと同じように日は暮れた。


「……ん……」


 目覚めた。俺の視界にはテントの天井。既に辺りは真っ暗になっていた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ああ、そういえば栗生さんとの会話中に何だかウトウトしてそのまま眠ってしまったんだったか。誰かが運んでくれたのだろう……悪い事をしてしまった。


「……あっ……いやっ……やめ……すけて……」


 微かに、誰かの声が聞こえた。小さくて何を言っているのかは分からないが、この声は栗生さんのものだろう。さっき沢山聞いたのだから忘れるはずが無い。だが、時刻は既に深夜の1時。はっとして隣を見ると、そこに翔は寝ていなかった。もしかして翔と栗生さんで何か話しているのだろうか。……こんな時間まで?


「……はあっ……だめ……なんで……こんなっ……」


 何だか様子がおかしい。会話にしては翔の声だけまるで聞こえないのは不自然だし、何より栗生さんの声も普通じゃない。苦しんでいるような声が絶え間なく発せられている。


「……もしかして……」


 もしかして、そんな。いや、馬鹿な。よりによってそんな事があるはずが無い。だが、しかし……。

 冷や汗が吹き出る。寒気で身体が震え出す。この声が本当に()()()()()()だとしたら、俺は……。


「いやっ……やめっ……ああっ!」


 そして、最後に一段と大きな悲鳴が聞こえたかと思うと……それきり、彼女の声は俺の耳に届かなかった。


「……!!」


 様子を見に行かないと。躊躇している場合じゃない。俺は手元にあった懐中電灯を点けると、テントを飛び出ようとした。それと同時に聞こえてきたのは、車のエンジン音。


「……あいつ、何をっ!?」


 エンジン音はそのまま徐々に小さくなっていく。追いかけなければ。俺は念の為に模造刀を用意し、今度こそテントを飛び出して、立体駐車場を駆け下りた。


「はあっ……はあっ……」


 車は案外長い距離を移動する事は無かった。車が停車したのは、近くにある緑豊かな公園だった。そういえば昔はここで結衣と遊んだ事がある。それにしても何でこんな場所に来たのだろう。俺は、辺りの木などで身を隠しながら、慎重に車へと近付いていった。


 ザク……ザク……ザク……


 どこかから土を掘り起こすような音が聞こえる。いや、ようなでは無く実際に掘っているのだろう。きっと、そこに二人はいる。

 俺は懐中電灯を消し、なるべく音を立てないように音のする方へと向かっていき……やがて、俺の視線は翔の姿を捉えた。


「翔、何やってるんだよ」


 いつの間にか土を掘る音は無くなり、代わりに土をそこに被せるかのような音になっていた。だが、俺が声をかけた事で、それも止んだ。


「ああ、桐哉。来ちまったんだな」


 平坦な、まるで感情など全て棄ててしまったような声でそう言うと、翔は穴埋めを再開した。


「おいっ、質問に答えろ。何やってるんだと訊いている!」


「何って……埋めてるんだよ。見て分かんねえか?」


「だからっ、どうしてっ!」


 理解っていた。暗くてよく見えないが、翔が何をしたのか。何をしでかしてしまったのか。理解ってしまっていた。それでも、俺は翔の口から直接答えを聞きたかった。


「なあ、桐哉。これはお前のせいなんだぜ?」


「はっ……?何言ってんだよ」


「お前が変わる事を望んだせいで、俺もこうせざるを得なくなったんだからなあ」


 やがて翔は穴埋めを終えると、手にしていたスコップを放り投げると、こちらに視線を寄越してきた。彼の目からは、感情を読み取る事が出来なかった。


「栗生さん、泣きながらこう言ってたぜ?貴方に何をされようが灰田くんが助けてくれる……ってさ。よっぽど信頼されてたんだなあ、お前」


「お前、栗生さんに何をしたっ……!」


「気持ち良かったぜ?いい身体してたよ、あいつ。やっぱり俺の見込んだ通りの女だったさ。お前にさえ惚れていなければ、最高だったのになあ……」


 予感はしていた。だが、認めたくなかった。そんな事実を。いつの間にか、拳を固く、固く握りしめていた。目の前にいる男への、明確な怒りが俺の中に満たされた。


「何故っ……何故殺した!」


「あいつ、死ぬ間際まで結局お前の名前を呼んでたよ。あいつはもう、何をしてもお前からは離れない。だったら、そんな女はもういらない」


「……てめえっ!!」


 俺は衝動的に、かつて親友だった男の頬を殴り飛ばしていた。奴は抵抗する素振りも見せず、成すがままに吹っ飛ばされた。


「……痛えな」


「黙れっ!てめえ……栗生さんはもっと痛い思いを……辛い思いをしたんだぞっ!」


「それは……元はと言えばお前が悪いんだ。お前が初期状態(デフォルト)でいられなかったから、こうなった」


 醜い嫉妬心の塊と化した男は、ヨロヨロとその場に起き上がった。もう俺は怒りを抑えきれなかった。怒りを通り越した先にある、殺意。目の前の男の口を二度と開かせたくない。俺は、再び拳をキツく握りしめる。


「どうした?殴りたいのか?殺したいのか?なら、殺れよ。俺はお前の彼女を殺った。だったらお前にもその権利はあるからなあ……」


「黙れっ!」


 今度は、さっきとは逆の頬を殴る。やはり、こいつは抵抗すること無く飛ばされた。その余裕の態度が、殊更に俺を腹立たせた。その時、俺は完全に怒りで我を失っていた。いや、後悔か。それとも悲哀?そんなものが全て綯交ぜになっているのが、今の俺だった。


「……お前さえいなければ……お前さえいなければ本当に充実した日々を送れていたはずなんだがなあ……」


「お前みたいな奴に……結衣も、栗生さんも救えない……!」


「自分なら救えるって言うのか?思い上がりも甚だしいぜ。所詮、この()()()()()()()の前ではお前なんか無力に等しいんだからなっ……」


「仕組まれた……世界?」


「知りたいのか……?だったら教えてやるよ……この世界の真実ってヤツを……」


 その時、どこからか聞く者を不快にさせる低い呻き声が聞こえてきた。この声は、間違いない。《デフォルト》だ。目の前の相手に注意を向けすぎているあまり、世界に蔓延る敵の存在を忘れていた。


「クソ……こんな時に!」


 俺は震える手で、腰に提げていた刀を引き抜く。敵はどこだ。俺は懐中電灯を点け、辺りを無作為に照らす。


「はは……どうやら観客は一人じゃないようだぜ」


 翔は再び立ち上がって、同じように背中に掛けていた金属バットを手に取った。翔の言う通り、呻き声は複数……それも四方八方から聞こえてきていた。俺たちの肉を喰らう為だけに、大口を開けて襲い来る化け物たち。ここで、俺たちは喰われ……《デフォルト》になってしまうのだろうか。ここまで抗ってきたのに……結局こんな終わり方になってしまうのか。


「……桐哉、ここは一旦休戦といこうや。まずはこいつらを処理しないとな……」


「……お前にそんな事を言われる筋合いは無い」


「……これでも俺はお前の事をまだ親友だと思ってるんだぜ?」


「……俺はもうお前なんか親友だとは思ってない」


「はっ……それでいいさ」


「でも、ここで死なれたら困る。俺はまだ真実とやらを教えてもらってない」


「……だったら、殺るぜ」


「……分かってる……!」


 その言葉を言い終えた直後、《デフォルト》が姿を見せた。俺と翔は背中合わせで武器を構え……戦闘を始めた。

 《デフォルト》の数は予想以上に多かった。この周辺の《デフォルト》全てが、俺たちの怒鳴り声と匂いに寄せられたのだろう。いくら敵が脆いとはいえ、流石にこの量の相手を殺し続けるのは辛いものがあった。斬っても斬っても現れる敵……辺りに首が落ちる度に、俺の腕は疲弊していっていた。


「しまった……!」


 左ばかりに注意を向けていたせいで、右から《デフォルト》が迫ってきている事に気付いていなかった。敵が、大きく腕を振り上げる。模造刀で斬り落とそうとしたが遅かった。俺の右腕は敵の爪に切り裂かれ、そこから鮮血が吹き出した。


「クソ……クソッ……!」


 右腕が痛い。血が止まること無く滴り落ちる。俺は模造刀を左手に持ち替える。だが、利き腕じゃない方の手では上手く戦えない。


「くっそ……キリが無い……!」


「このままだと……二人まとめて《デフォルト》化だぜ?どうする?」


「どうするったって……!」


「……俺にいい案がある」


「何……?」


 そう言うと……翔は何を考えたのか、手にしていた金属バットを前に一直線にぶん投げた。翔の前方にたむろしていた《デフォルト》は一斉に薙ぎ倒され、道が開けた。


「お前、何を……!」


「……行けっ!」


 翔はそう叫ぶと、俺の腕を掴んで、その開けた道へと投げ飛ばした。予想外の行動に俺は情けなく倒れ込んでしまった。


「とっとと行けっ!桐哉っ!」


「な、何でっ……」


「いいから早く……痛えっ!」


 翔の肩に、《デフォルト》が噛み付く。右腕に。左脚に。脇腹に。首筋に。


「痛えっ……クソ、離せよ……死ねっ!」


 だが翔の抵抗は虚しく、次第に翔の周りは《デフォルト》で覆い尽くされ、辛うじて顔だけが見える状態になっていた。彼の顔は、苦痛に歪んでいた。同時に、かつてよく見ていた不敵な笑みも浮かべていた。何故、この状態で笑っていられる?


「翔……お前……お前、逃げる気か……?」


「……いいから、早く逃げろ……俺の肉が喰い尽くされる前に……」


 やがて、《デフォルト》は翔の顔にまでかぶりついた。もう見えているのは彼の口だけであった。


「……逃げろ……早……く……」


「……うわあああああ!!」


 俺はもう、ここにはいられなかった。翔に背を向け、無我夢中で走り出した。ただただ無心で、その場から離れる事だけを考えて。


「……ちくしょおおおおお!!死にたくねえよおおおおお!!何で、何で俺が……俺がこんな事にならなくちゃならねえんだよおおおおお!!うあああああ……!!」


 断末魔さえも振り切って、俺は走り続けた。自分でもどこを走っていたのかは分からない。だが、気が付くと俺は拠点であった立体駐車場に辿り着いていた。

 さっきまでの騒然さが夢か何かの出来事だったかのように、そこは静かだった。しかし、それは確かに現実で。俺は、俺以外に誰もいなくなってしまった拠点にただ立ち尽くしていた。


 ……俺は、歩いていた。誰も歩いておらず、何も走っていない、広い広い道を、ただ歩いていた。

 あれから俺は、気絶するかのように眠りに落ち、目覚めた時には陽が出ていた。俺はもう、何もかもどうでもよかった。結衣に対する罪悪感も、栗生さんに対する懺悔も、翔に対する殺意にも似た怒りも……全てが無くなっていた。俺の心を支配するのは、虚無。何も無い空白だけが、そこにあった。

 ……どうしてこうなったんだろう。四人でどうにかしてやっていけると、ついこの間まで思っていたのに。俺の選択が誤りだったのか?俺が選択を誤らなければ……今も皆は生きていて、楽しく食事をしていたりしたのだろうか?


「……もう……疲れた……」


 そんな仮定の話は何の意味も持たない。今、全てを失ったこの状況が確かな現実で、それを変える事など出来ないのだから。

 俺は、幼馴染と、彼女と、親友を失って……生きる意味を失った。生きる意味を失った今……俺はもう生きる必要が無かった。だから、こうしてあてもなく歩き続けている。何の意味も無く、歩き続けている。


「喰えよ……俺を……喰えよっ……」


 周りには《デフォルト》がいつも通りに徘徊している。前まで生きている人を見れば見境なく襲いかかっていたというのに、今日に限って俺に目もくれようとしない。奴らも、ただ無意味に歩き回っているだけだった。


「そうか、そういう事か……」


 俺はもう奴らに生きていると認識されていないって事か。俺は自嘲気味に笑う。最早、何もかもどうでもいい。《デフォルト》にすら人間として認められなかった俺はもう何者でも無いのかもしれない。

 ズキリ、と右腕が痛む。見ると、そこには傷跡があった。そして、その傷跡を中心に周りの肌が腐敗していっていた。


「……はは……」


 結局、俺もそうなるのか。でも、それでいい。早く、解放されたい。この理不尽で満たされた残酷で、穢れた世界から。


「……ん?」


 前方で誰かが倒れている。歪んで、定まらない視界を頼りに、そこへと向かっていく。そして、そこに辿り着いた俺は、その場にくずおれた。


「……結衣……結衣……!」


「…………桐哉…………くん…………」


 地面に仰向けに倒れていたのは……俺の幼馴染である結衣だった。身体の半分近くが腐敗していたが、確かにそれは結衣だった。その姿を見て、俺の目からは自然に大粒の涙が零れ落ちていた。


「結衣……どうして……」


「…………えへへ…………噛み付かれ…………ちゃって」


「……結衣……」


 最期に、逢えて良かった。ずっと一緒に生きてきたんだ。あんな別れ方でたまるか……そう思っていたから。


「逢えて……良かった……」


「…………私も…………」


 結衣は、薄く微笑んだ。前に見せた憎悪の感情は、もうそこには無かった。彼女の心の底から幸せそうな表情を見たのは、もう随分と久しぶりなように思えた。


「……桐哉、くん……お願いが……あるの……」


「……何だ?お願いって……」


「私を…………殺して…………」


「……え……」


「もう少ししたら…………私は、《デフォルト》になっちゃう…………でしょ?だから…………」


「で、でも……」


 俺はもう何も失いたくない。結衣を殺すなんて、出来ない。そう考えていると、その心を読んだのか……結衣は俺の手をきゅっと握った。もう力などほとんど入っていない弱々しい手。その手にはまだ温もりがあった。


「私、《デフォルト》になってまで…………生きたくないよ…………桐哉くんの敵には…………なりたくないから」


「……結衣……」


「今まで…………色々お願いしてきた…………けど…………これが最後の、お願い」


「…………」


「聞いてくれる…………よね…………?」


 ここまで言われて、断る事など出来るわけが無かった。今まで言われた色んなお願いの中でも、一番無茶なお願い。だが、それは叶えてやらなくちゃならない。それが、約束を果たせなかった俺の義務。

 俺は、もう使う事の無いと思っていた、血に塗れた模造刀を引き抜く。そして、彼女の左胸に刃先を添える。少し押せば、彼女の腐ってしまった身体など簡単に貫く事が出来るだろう。だが、俺はなかなか決断が出来なかった。


「………ありがとう…………お願い、きいてくれて」


「結衣……」


「私…………ずっと言えなかったけど…………桐哉くんの…………ことが…………好き…………」


「ああ……ああ……」


 俺の落とした涙が、結衣の綺麗な右頬を濡らした。俺は返事の代わりに、結衣の胸をゆっくりと突き刺した。刃は呆気なく彼女の小さな身体を貫いた。結衣は苦痛に顔を歪める事も無く、綺麗な顔のままで息を止めた。


「……」


 俺は、模造刀を彼女の胸に突き刺したままで、その場を去った。今度こそ、俺は全てを失った。だが、俺は最後に結衣を救えた。ただの自己満足かもしれない。でも、俺はそれで良かった。

 再び、俺は歩き出した。腐敗はいつの間にか右腕全体を侵食し、やがて侵食は胸の辺りまで広がり出していた。《デフォルト》となるのも、もう時間の問題だろう。何も考えなくて良い存在に……。


「……ん?」


 異変に、気が付いた。周りを徘徊する《デフォルト》の様子がおかしい。全員が動きを止め、激しく苦しむように震え始める。やがて、その腐敗した身体は一瞬にして崩壊した。次々と崩壊を始める《デフォルト》達。何が起こっているというのか。まだ、何かが起こるというのか。

 俺が混乱していると、どこかからか明らかに《デフォルト》の呻き声とは異なる音が聞こえてきた。既に聴力は不安定となっていたが、それがエンジン音だという事はすぐに分かった。

 後ろを振り向く。これは、外国の高級車だろうか。こんな状況だというのに、汚れ一つ無いようだった。生存者がいたのだろうか。でも、もう遅い。何もかも遅すぎた。俺は身体を支える力を失い、その場にまたくずおれた。

 扉が開く。出てきたのは、スーツ姿にサングラスをかけた怪しい風貌の男。こんな世界になったというのに、やけに彼の身体は綺麗だった。


「初めまして、灰田桐哉くん」


 ……どうして俺の名前を知っているんだろう。まあ、そんな事はどうでもいい。どうせ、俺は《デフォルト》になってしまうのだ。そんな事を知ったことで、もう何にもならない。


「君達にはいいものを見せてもらったよ。人間の可能性、というものを。……ああ、申し遅れたね。俺の名前は……松崎翔」


「……松崎……翔だと……?」


 彼は何を言っているのか。この人は松崎翔じゃない。あいつはこんな風貌では無かったし……それにもうあいつは死んだ。何故、またその名前を聞かなければならないんだ。


「君の考えている事は大体分かるよ。何故お前が松崎翔なんだ?と思っている事だろう」


「……そうだ」


「君の親友だった松崎翔は偽物さ。本物は、今ここにいる俺」


「どういう……ことだ……?」


 もしかすると、昨日翔が言っていた真実というものに何か関係があるのだろうか。


「あの松崎翔は、君達を導き、監視する為の存在だ。君は彼のおかげでこの状況を生き残ってこれた」


「あいつが……俺たちを……?」


「そうだ。人間というものの可能性を示してもらうために、櫛田結衣、栗生真希、偽物の松崎翔、そして灰田桐哉には実験台となってもらった」


「実験台だと……?」


「そう、この《地球デフォルト化計画》における最後の希望としてな」


 理解が、追いつかない。既に脳にもウイルスが侵食しているのだろうか。もう何も分からない。分かりたくない。


「人間というのは愚かなものだ、そう判断した我々《委員会》は《地球デフォルト化計画》の実行を決断した。この計画は、文字通り地球を初期化するというもの。《デフォルトウイルス》を生み出したのも、それで人間を《デフォルト》にしたものもこの計画の為」


「……お前らが……お前らが……」


「だが、我々としてもまだ人間に希望は残っているのでは無いだろうかと思ってね。君達を最後の希望として、実験をする事にしたのだ。だが……結局その実験も失敗に終わった」


「失敗……」


「そうさ。人間が愚かだというのを、君達は証明してしまった。仕掛人である《偽物》すら狂ってしまったのだからな」


「……」


「この実験の結果を受けて、我々《委員会》は計画を最終段階に移行する事を決定した。《デフォルト》の崩壊、世界全ての初期(デフォルト)化をな」


 そう告げると、その男はスーツの内から拳銃を抜き取り、俺の頭に向けた。俺は全てを知った。だが、それを知ったからといって、もうどうにもならない。俺は、ここで死ぬ。勝手に実験台にされて、勝手に殺されて……。


「どうして……こうなったんだよ……」


 涙が止まらなかった。気が付くと、俺の半身は《デフォルト》と化していた。全てが初期状態(デフォルト)に戻るだけ。生きる意味を見つける事すら許されない世界で生き続けて、辿り着いた先は何も無い世界。


 俺は、どうして生きてきたんだろう?


 生命の息吹が消え、静寂に包まれた世界に、一つの銃声が響き渡った。そして、世界は《デフォルト》となった。

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