Ⅲ悪女ゆえ
小さな傘で青年の家までの道のり、律子の頭の中には怒りの表情を向ける夫の姿がある。
肉厚な指で律子の指を捻る雅哉の姿。
「悪い女だと思うよ。
旦那が先に帰って家で待っているなんて。」
声はそれほど怒りに満ちてはいなかったが表情は普段とはまるで別人のように
赤々とし、眉間には数本の皺が入っていた。
律子とれば些細な出来事だった。雅哉に対する言い分もある。
それでも病気なのだからと諦める時間が律子には必要だった。
そうすればごくごく普通な家族の形になる。
少し賑やかな笑顔を交わす普通の家庭。
「もう着くよ。」
青年はつぶやくように静かに言った。
恥ずかしさが分かるような言い方だった。
青年のその声で夫の粗悪な残像は隅の方へ追いやられたようだ。
会話がほとんどないまま、青年のポケットから出された鍵が音を出す。
チャラチャラと金属がぶつかる音が二人の間にだけ流れアパートの2階角部屋に着くとその鍵で玄関ドアを開けた。
小さな玄関に大きな靴が一組と女性物のパンプスが一組置かれた。
どちらの靴も公園の土で汚れている。
きちんと並んだ靴までが恥ずかしそうに律子には見える。
律子は自身を悲観している。母親としての母性が消えかけている事。
夫の病気をうまく治せない事も。全てが自分の力量の無さなのだと責めている。
「タオル持ってきますので待っててくれますか?」
青年もずいぶん濡れたようだ。作業着の上着の色が肩のところから色が濃くなっている。
持って来てくれたタオルを手に持ったまま律子は玄関先で暫く呆然とする。
今更、申し訳なさが込み上げてきて帰らなくてはと思うのだ。
他人の優しさに甘えてなんて私はダメな人間だと思うと素直に甘えることが出来なかった。
「ちゃんと拭いて。風邪ひきますよ。」
青年はそう言いながら何もせずただ立ちすくむ律子の髪を青年は拭いてくれました。
「ごめんなさい。こんなに優しくしてもらえて本当に感謝しています。」
律子はそう青年に言い、玄関先から帰ろうとする。
「謝ることではないですよ。
あのままあそこに居ても仕方がなかったし。諦めるまでの時間、ここに居ていいんですよ。
とにかく着替えましょう。どうぞ上がって下さい。」
育ちの良い印象を律子は持った。
大人の激しい愛をまだ味わっていないような、愛の消滅の喪失感すら感じた事のないような。
緩く長い坂道を歩いた疲労感に似た感覚のまま、見知らぬ男の部屋へと足を踏み入れる。
広く遠い地球上で二人きりになったような気持ちです。
青年の部屋は物が少なく、本当に生きる為に必要な最小限が揃えられているだけでした。
スリッパもなく、律子はぺたぺたと青年の言われる通り着替える為、寝室まで歩いた。
狭い寝室にシングルのベッドが一つ。そのベッドの端にヘアドライヤーと長袖のTシャツとスウェットパンツ。着てみると、胸元も足元もだらしなく見える。
用意されたドライヤーで髪を乾かし、寝室を出る。みっともなくも見える服装のまま。
コーヒーの匂いの中、どこか座ってと言う青年の言うがままに律子はエアコンの効いたリビングのソファの脇、フローリングにペタリと座った。11月のフローリングは冷えている、血の気が引くのと同じぐらいに。
カップを二つ持った青年が小さなキッチンから律子の脇を通る。
青年の匂いが流れるのと一緒にコーヒーの匂いが漂う。律子が公園で会った時と同じ匂いが二人の間に癒しと安全だと言う事を教えているように思えるほどだ。
「どうぞ。コーヒー飲んで。」
湯気がたつカップを持ち、律子は啜った。砂糖もミルクも入っていないストレートのまま。
熱さで味は分からないが、香りだけでも感じると律子はこの部屋の馴染んでいくような気持ちになった。
正面に座っている青年の佇まいや顔をはっきりと見たせいかもしれない。
律子は青年の顔が好きだと思う。大きくはない目、それでいて長い睫毛がとても好きだと思う。
「何もかもお世話になって、すみません。本当に感謝しています。私は藤沼 律子と言います。」
それを言うと律子はまた痛々しい気持ちになる。
目の前に居るのはやはり自分よりも若く怖さをも力に変えるような目をしている青年がいるからなのでしょう。
「俺は、寺田 俊。」
彼も私を見ている。どこと無く恥ずかしそうに。
「あんな風に暗くなって、公園で一人で居たら、声を掛けずには居られませんでした。」
恥ずかしそうにはっきりと彼は続ける。
そして右側のほっぺたに笑窪を作りながら笑っている。小さな子供のように。
律子は見つめられている。厚いカップを持ったまま、確かに暑いのに身動きが出来ない。
「良い部屋ですね。」
やっと口に出た律子の言葉は本心だった。この部屋は賃貸だけれど彼のように柔らかな人が住むと空気まで濃く柔らかなものになる。そう律子は言いたかったのだ。
「狭くて古いアパートですよ。でも一年済むとやっぱりここが良いと思います。
気に入ってもらえたなら良かった。変な話だけど。」
時計は公園を出てから1時間半が過ぎたのを知らせている。見知らぬ女が知らない男の部屋にいるのもそろそろおかしな時間だ。
律子は帰ろうとしている。ハンガーに掛けられた自分のトレンチコートとベージュのワンピースが早く乾かないかと焦っている。