古書塔の読書姫
「さて、課題を出していたのは覚えているだろう。もう一度言っておくと“竜と氷姫”についての考察だ。忘れず自筆の写本を添えるように。5日後の期限や内容について例外は認めないため、そのつもりで課題に取り組むこと。
――授業は以上だ」
石板の書付を消している老教師の言葉を聞き、ステラはさっさと席を立ちあがった。
「あら、もう帰るの? これから研究会なのだけど……」
「さっさと宿題を終わらせて、のんびり昼寝するから」
16歳という年齢の割にステラが大人びて見えるのは、周囲の少女たちより頭半分ほど高い身長のせいか。それとも美しい銀髪の下からのぞく、冴えた蒼の瞳が彩るほっそりした輪郭のせいか。“南の賢者”と讃えられた一族の冷たく秀でた容貌を彼女はしっかりと継承していた。
彼女の友人であるリンは、ステラとは反対に春の陽光のような優しげな容貌をしている。小柄で勤勉なリンは何とも複雑な表情を、長身で勤勉ではないステラへ向けた。
授業の後に毎回開かれている自主研究会。そこではその日受けた授業の内容について議論し“書”の物語への理解を深め、そこから無理のない“術”の行使を研究している。この学び舎に集う学生たちにとって、誰に言われなくても学習することは当然のことなのだ。
しかしその集いに友人が出席したところを、リンは3年目という長い付き合いで未だ見たことが無かった。
「今日の物語、あんなにいいお話だったのに。原版に興味無いの?」
研究会のために教師たちや図書室から貴重な書物の“原版”が貸与される。“古書の塔”と呼ばれるこの学び舎へ集まった者は例外なくこの“原版”を目当てにし、その情熱を以て途方もない倍率と難易度を誇る試験に合格したのだ。そして入学した者はほぼゼロに近い人数の例外を残して図書室へ入り浸り、書の“原版”を読み漁ることに忙しい。
「リン、知ってるでしょ? わたしは本に出来る限り近づかないって決めてるの」
ステラはその、ほぼゼロに近い例外に該当していた。数々の書物を読み、それらから膨大な知識や教養を得なくてはならない学び舎の試験を、最高の成績で潜り抜けた彼女。“古書塔の申し子”と言われて入学した彼女はしかし入学以来、徹底的に書物から距離を取る生活を送っているのだ。
「もう、相変わらずなんだから。あなた、何で本が大っ嫌いな癖にあんなに強い“魔詠術”を使えるのかしらね。
……分かったわ。また明日!」
残念そうに諦めの言葉をくれた友人へこちらも困ったような笑顔を送り、ステラ・ウォリスは教室を後にしたのだった。
どこかの世界、いつかの場所。
書を嗜む人間が一度は必ず憧れる“魔の力を手繰る術”が、この世界には存在している。
しかしそれは、誰にでも容易に操れるような力ではなかった。
――術を操る呪文ひとつひとつにも物語があり、その物語には登場人物が生きている。
――登場人物が存在すればそこには感情が生まれ、また感情を育んだ揺るがぬ土壌も存在する。
それら一つ一つを“書物”という形で触れ、読み、自らの血肉にして初めて“魔の力を手繰る術”――すなわち“魔詠術”を手にすることが出来るのだ。
不思議なことに、呪文を唱えただけ、物語を流し読んだだけでは術は発動しない。“魔詠術”を手にするためには書を愛し、書に溺れなくてはならない。一言一句をその身に刻まねば書を愛する神には届かない。
その前提から分かる通り、彼らは術を扱う者である前にひとりの“読書家”である。そのため、彼らにとって“書の原版”は金銀財宝にも等しいものなのだ。
書から遠ざかろうとするステラ。
遠ざかっている筈なのに、一度“魔詠術”を操れば誰よりも“書”に近いと見せつけるステラ。
――その矛盾こそ、この場所で彼女が遠巻きにされている理由だった。
「本、本って……分かってるよ、今のわたしがダメなことくらい」
全寮制である“古書の塔”の、その自室に戻ったステラはそう吐き捨てた。その忌々しげな視線の先にある物は授業で使用された写本であり、写本が持つ美しい外見からはそう頻繁に開かれていないことが見て取れる。
「でもこればっかりは、どうしようも無いじゃない。どうしろって言うのよ」
普段の大人びた彼女を知る級友たちが今の彼女を見れば、自分たちの眼を疑ったことであろう。子が拗ねるに似た幼い表情を浮かべているのだから。
やがて彼女は諦めたようにため息を吐き出した。我儘ばかりを言い募ることも出来ないと、彼女自身が理解していた。
「あぁ……次の課題、出さないと退学だったっけ」
“南の賢者”と呼ばれ学者や“魔詠術士”を多く輩出しているウォリス一族。かの一族は生まれて初めての贈り物にまで本を選ぶと言うが、その本に埋もれた出身にも拘らず“読書嫌いのウォリス”とあだ名されているのがステラであった。その姿勢は入学してから現在まで小揺るぎもしていないが、この場所で学ぶ以上はそれを通し続けることは出来ない。
読書が不要である代用の課題を提出し続けていた彼女へ、先日ついに教師陣より最後通告が渡されたのだった。
「親は……手を叩いて喜ぶかな。兄弟は……うん、大笑いしそう。“本嫌い”で退学なんて笑いの種でしかないわ」
目に浮かぶのは遠く離れた愛すべき家族たちだったが、大笑いしているだろうその姿は彼女の望むものではない。しかし並大抵のことでは家族たちを焦らせることなどできないことを、長いとは言えない人生の中で彼女は真っ先に学んでいた。
「……仕方ない。やるか」
ステラはそれから暫く悩んだものの、結局は机に――写本に向かって、のろのろと手を伸ばしたのだった。
数日後。“古書の塔”の実習室でステラはリンへと愚痴を吐いていた。
「ちゃんと課題を出したのに、まだ先生たちはわたしを許してくれない。酷い」
「仕方がないわ。だってステラ、今まで写本必須の課題は最初から出してないか、自分で勝手に代わりの課題を出してたんだもの。それでも今まで何にも言われなかったのは、ステラの自主課題が突っ返せないほど良い出来だったってことなんでしょうけど」
ころころと笑うリン。微かに眉を顰めたステラはふて腐れたようにため息を吐き、そっぽを向いた。
彼女たちがいる実習室は“古書の塔”の地下にある。入学して3年目の級には50人が所属しているが、そのすべてが集まってもなお十分すぎるほどの余裕がそこにはあった。恐らく500人が集まっても息苦しくないほどには広いだろう。
「……あーあ。実習、めんどくさい」
「また、そんなこと言って! 本当は実習、結構好きなくせに」
ステラの吐き出した拗ねた子供のような声にリンはやはり笑い、同じように実習中の級友たちへ視線を移した。
彼女たちがいる壁際からおよそ20歩の位置に白線が引かれている。その先100歩程の所に的として置いてある丸太は、学生たちにより何度も焔をぶつけられたことで既に炭と化していた。実技に関して術の指定は受けていないが、分かりやすいためか攻撃用の“魔詠術”に人気が集中しているようである。
「未だ理解が浅いようだ。もう少し書を読み込むように。次!」
「はい!」
そこでは5、6人の教師たちにより実技の授業が行われていた。それぞれに自信のある“術”を順番に披露し、担当の教師たちからの評価を貰っている。ステラにもリンにも未だ順番は回ってきていない。
「評価してくれるなら普通に評価してほしいんだけど。このまま真面目に課題をこなし続ければ級は上がるだろうって。なにそれ。何そのギリギリ具合。先生たち、わたしに厳しくない?」
再びブツブツと不平を溢すステラだが、リンからは苦笑のみで慰めの言葉などは貰うことが出来なかった。
そうしているうちに、リンの名を教師が読み上げている。
「じゃぁ、先に行ってくるわ。ステラも呼ばれたらきちんと授業受けるのよ?」
「子供じゃないんだからそこまで反抗しないわ」
不機嫌そうなステラの返事を聞いたことで再び微笑み、リンは担当の教師のもとへと走っていった。ステラの視線の先で右手をかざして、春の日向のように優しげな声で何事かを呟く。
――ザワリと、空気が動いた。
リンが生み出したのは敵を灼き尽くす焔でも、押し流す水でも、切り裂く風でも、押しつぶす土でもなかった。
春の光を一身に浴びて咲き誇った花弁が無数に舞い、風に遊ぶという、何とも幻想的な光景がそこには広がっているのだ。
(お見事)
両目を眇めて唇の片方を上げるステラ。彼女が見守る先でリンは花弁と遊び、呆気にとられたままの学生たちを置き去りにして実技を終える。
誰が見ても周囲の学生とは段違いの実力を、リンは惜しげもなく見せつけていた。
「確かに、攻撃用の“魔詠術”とは限定しませんでしたね。……リン・スティール。素晴らしい“魔詠術”です」
「ありがとうございます」
“読書嫌いのウォリス”の割には上位の実力を持つステラ。しかしその上を行く成績を収めているのが、周囲の視線を集めながら幸せそうに微笑んでいるリンであった。
目を細めて賛辞を送った教師に微笑み、リンはステラの隣へと帰ってきた。
「大好きなお話に出てきた呪文で、一度詠んでみたかったの。中々だったでしょ?」
嬉しそうに笑うリン。ステラは苦笑し、リンにだけ聞こえる音量で呟いた。
「さすが。お蔭で周りの子、皆自分の術から意識が離れてたみたいだよ」
未だどこか呆けたような表情を浮かべている級友たちを示され、リンはどこかくすぐったそうに笑う。その実力や容姿から高い人気を誇る彼女は、しかしあまり目立つことを得意とはしていないのだ。
「ハロン・エズリ。こちらへ」
リンの次に呼ばれたのは、やはり実技で常に上位に名を連ねているハロン・エズリという名の男子生徒である。身長はステラより頭半分、リンよりは頭ひとつと少し分高く、金の髪と青い瞳に整った容貌で女子学生たちの視線を集めている。
「あらら、睨まれちゃった」
「ハロン、力に見合ってすっごい自信家だから。真面目に授業を受けないステラが自分より上の成績取るのが嫌なんだよ」
その一方で、彼は事あるごとにステラを敵視していた。まさに今も彼女へ一睨みくれてから歩を進めていったが、直前の術者がリンだったためか幾分普段よりも勢いが弱い。
「わたしも一応がんばってるんだけど」
「でもそれ、私たちには分からないから」
春の光のような笑顔でぐっさりと刺さる言葉を吐き出したリンへと乾いた笑いを返し、ステラはハロンの実技を観察した。
(確か得意なのは攻撃術だっけ? 彼、派手だからなぁ)
常に手元にある“書”も冒険など、戦闘が主に描かれたものであったとステラは記憶している。
(なんか危なっかしいなぁ)
ハロンの様子に眉を顰めたのはステラだけではない。その場に立つなり何かに急かされるような動作で手を翳したハロンへ、リンもまた優しげな表情を曇らせている。
「何だか様子が変だわ……」
教師たちもどこか緊張したようにハロンの“魔詠”を見守っているが、何とも言えない微妙な違和感しか無いため止めるに止められないのだ。
そんな周囲の心配をよそにハロンの唇が動いた。
「遥かなる南の“魔詠術士”たちよ、力を……“12の炎盤”」
――12人の“魔詠術士”による、魂をかけた炎の術。
――それは瞳を嘆きに染めた舞姫を、彼女を封じる鎖から解放する呪文。
ハロンの声に促されるように、彼の身から流れ出した魔力が渦を創り出している。
「わ……」
顰めていたステラの目が驚きで丸くなった。それまでの学生たちにも火球を扱った者は数多くいたが、ハロンの術は彼らとは次元が違うものに見えたのだ。
彼の周囲には12個の火球が出現し、ふるりふるりと光が揺れている。春の乱舞とも言えたリン程の優雅さは無いものの、強い力が溢れ出たそれは充分に周囲の目を惹く“魔詠術”であった。
「ハロン……」
「このまま、無事に終わればいいのだけど……」
目を惹くと同時に人間としての本能的な危機感を覚えるその光景。炎に照らされたハロンは普段の自信にあふれた彼とは真逆に、どこか途方に暮れたように弱々しい表情を浮かべていた。
――そして、危機感は現実のものとなる。
それは突然の事であった。
「きゃ……!」
ステラの隣でリンが鋭い悲鳴を上げている。
「うわ……!」
「ハロン・エズリ! 今すぐ“魔詠術”を解除しなさい!」
ハロンの焦った声に教師たちもまた大声で指示を飛ばしたが、しかし混乱の最中にあるハロンには届いてはいない。
――“魔詠術士”たちは1人、また1人と力尽き、その残りの力を仲間たちへと託して消え失せた。
――残された彼らもまた、仲間たちから譲られた力を自分たちの存在ごと魔力に代え、激しく燃やした。
――それほどまでに姫の封印は強力だったのだ……。
ハロンの周りを不安定に浮かんでいた火球たちが僅かに接触した。人間同士であれば気付かない程度の接触だったとは言え、その微妙な狂いがハロンの手から術を奪ったことは想像に難くない。
それは彼の“物語”のように、次へ次へと魔力を受け渡していき。
彼女たちの眼の前ではハロンを中心に激しい炎が渦を巻いていた。
「ハロン・エズリ……!」
――ワッ……!!
教師たちの叫びと共に、学生たちから悲鳴が上がる。炎の中心でハロンが膝を着いていた。
――死 に た く な い
彼の縋るような瞳がとらえたのは、普段の彼ならば決して頼ることのない長身の少女。彼の意志に従うように、荒れ狂う焔は少女たちへと腕を伸ばした。
「いかん……!」
逃げろと叫ぶ教師。しかしステラには理解できていた。今から動いたところで、多少の距離ではあの激しくうねる炎からは逃れられないだろう。
(いまから逃げても、間に合わない)
そうして親友をも脅かす火球の危険に、瞬きの半分で覚悟を決めたステラは手をかざした。
「“生まれ出ずるは、冷厳なる女王の盾”っ!」
――遥か北の大地に住まう、氷の女王。
――その傍らには常に控えている氷を纏った“女王の騎士”の姿がある。
――どのような攻撃も“女王の盾”の前には力及ばず、
――どのような守りも“女王の剣”の前には無きも同じ。
――敵対する者たちには凍てつく氷が容赦なく襲い掛かり、やがては女王の配下へと変えてしまうだろう。
――人々は彼女たちを氷の住人と呼び、その心までを凍らせた者と恐ろしげに囁く。
――しかし、彼女たちが背後へ護る者たちは知っている。
――心優しい姫が、自分たちを護るために心を凍らせ女王となったことを。
――心優しい騎士が、女王となった姫を護るために共に氷を纏ったことを。
ステラの謡った呪文は、古代の女王について記した書の一節であった。リンを背後に庇ったステラの眼前。炎の奔流を通さぬと決めた彼女の心のままに、澄み切った氷の盾が一瞬にして出現した。
炎と氷が衝突し、盛大な音と水蒸気をまき散らす。
「ステラ・ウォリス! リン・スティール!」
僅かばかりの後に白い靄の向こう側から教師たちの叫びが聞こえた。数人の教師が周囲の学生へその場から動かないようにと注意をしている。未だ視界は白のままであり、迂闊な者であれば転倒して要らぬ怪我を負うことであろう。
やがて教師たちの“魔詠”により靄が晴らされた先、火球の爆心地では未だに氷の盾を張り続けるステラと、その後ろで蒼白な顔をして立っているリンが姿を現した。
「無事です。2人とも、何事もありません」
防御が間に合ったのは勘に頼った偶然である。術の使い手たるステラも庇われたリンでさえも嫌という程に悟っているために揃って蒼い顔をしていたが、元来感情表現を苦手としているステラについては周囲にそれと分からない程度の変化であった。
ステラとリンへ歩み寄った老教師は2人に大きな怪我などが無いことを確認して、安心したように軽く息を吐き出す。教師たちの後ろにはどこか呆けたようなハロンが座り込んでいた。
「……無事で何よりだ。流石に顔色が優れないな、リン・スティール。君は暫く医務室で休んでくると良い。ステラ・ウォリスは少々時間を貰いたい」
「リン。付き添いは要る?」
ステラの言葉にリンははっきりと首を振る。
「だい、じょぶ……ステラは……?」
「わたしは……今は大丈夫。後で行くかもしれないけど、やることありそうだし」
「何かあればステラ・ウォリスも医務室へ行くよう私からも勧めよう。本日は休講を許可する」
担任でもある老教師の言葉にそっと頷き、リンは実習室から歩み去った。
「さて」
「あ」
老教師の声に、火球の主たるハロンの肩がビクリと震える。
「ハロン・エズリ。そしてステラ・ウォリス。すぐに私の部屋まで来るように。他の者は一度教室へ戻りなさい」
肩を落とすのはハロンのみ。ステラはどこか不服そうな表情を浮かべ、老教師の後について実習室を後にしたのだった。
「ハロン・エズリ。何か言いたいことは?」
「……ありません」
大きな執務机の前に立ち、ハロンは落ち込んだ声で老教師へ答えた。
「ふむ……ステラ・ウォリスに対し、何か思うところが有ったのではないか?」
いきなり核心を衝いた言葉にハロンの呼吸が一瞬止まる。それこそが彼の返答であった。
「やはりそうか。まぁ、先ほどの事はリン・スティールの見事な術により平常心が崩されたからこその事であったのだろうが……」
「……はい、スティールの“魔詠術”を見てとても焦りました。同じ年でここまで見事な術を使う人間が居るのかと。しかしそれ以上に納得がいかないのです。なぜ、ウォリスが……僕よりも上手く“術”を使うことができるのか……っ!」
どこか苦しそうな表情でハロンが声を絞り出した。
「あれほど本が嫌いなのに、なぜ僕よりも軽々とあんな“魔詠術”を使えるんですか……? 僕とウォリスの、一体何が違うと言うのですか……!」
“古書の塔”に在籍しているという事実は在籍中に貴重な書へ触れる権利だけでなく、それだけで“魔詠術士”としての格を示すほどの価値がある。そしてそれはより多くの書へ触れる機会を用意し、将来を約束するほどの重さをも持っていた。
だからこそ“魔詠術”の素養がある者は自身の希望やのしかかる周囲の期待をその身に背負い、“古書の塔”をめざして死に物狂いに学び続けるのだ。それはハロンだけでなく、リンですらも例外ではない。
自分を試したいとの思いだけではなく、両親や親族たちの期待に息切れしつつ必死に学んだからこそこの場に立つことができた。それはハロンのプライドを形にしたものでもあった。だからこそ彼は“読書嫌いのウォリス”を認めることができない。彼女を認めてしまえば今までに築いてきた自信やプライドがへし折れるだろうと、おぼろげながらハロンにはわかっているのだから。
しかし細かくひびが入り続けたハロンの自信はもう、耐久力の限界を迎えて半ばからへし折れてしまった。次から次へとあふれ出る悔しさに、最後のプライドを以て精一杯嗚咽をこらえることしか出来はしない。
「ハロン……」
取り繕う余裕も無くボロボロと涙をこぼすハロンへ、ステラは何かを言いかけてそれを止める。いかに上手く術を使えようとも人付き合いの経験値がほとんど無い彼女には、自らが傷つけてしまったハロンへ何と言えばよいのか分からなかったのだ。
部屋の主たる老教師は暫くの後に大きなため息を吐き出した。
「ハロン・エズリ。君は少々勘違いをしているようだな」
「勘、違い……?」
目を赤くしたハロンへ老教師は頷く。
「ステラ・ウォリスは書物への理解が驚くほど深い。それは下手をすれば、その辺りの教師を遥かに追い越すほどであろう」
それが彼女の問題でもある、と呟いた教師へ、ハロンは涙で濡れた瞳を向けた。
「ステラ・ウォリス。君の口から、なぜ書を進んで読まないのかを説明した方が良いのではないか?」
今までの一方的な不仲を知っていたらしい老教師は、そう言ってステラへ話を投げる。自分の態度がハロンを追いつめた原因の一つだと分かっているステラも、渋々ながら唇を開いた。
「わたしが“ここ”で本を読まないのはね。わたしが本を読むと、命を懸けないといけなくなるからだよ」
「何を……?」
訝し気なハロン。
「わたしは文章が好き。本をめくる感触が好き。紙やインクからする匂いが好き。図書館の雰囲気が好き。それから、物語の余韻に浸るのが好き」
普段の彼女とは違い、微笑みを浮かべて幸せそうな表情でステラは語る。
「わたしが本を読み始めると、周りの色も音も受け付けなくなるの。目は文章だけを追い、耳は登場人物たちの声を拾い、意識は物語の中に沈み込む。この世界から本の世界へ移動して、本の世界で生きるの」
「そんなこと」
「そう、そんなこと。ここにいる人なら多かれ少なかれ、誰でも同じでしょう。だけどわたしの場合、人よりもその傾向が強かった」
5歳の時、寝食を忘れて本に没頭した。
7歳の時、寝食を忘れて倒れた。
10歳の時、3日もの間本を読み続けた挙句に“魔詠術”を暴走させた。
12歳の時から、読む本の空気や感情など全てをその記憶に刻み込むようになった。
そして14歳で“古書の塔”へ入学する時、親兄弟から言い渡されたのだ。
――許されるまでは決して自分から本に近づくな。家族と離れたときに本に近づいたならば、その命が無いと思え。
「一度文章を追い始めると止まらないの。その一言一句、一文字までも自分の記憶に留めなければ気が済まないのよ。たとえ暗唱できるくらい読み込んでいても満足できないの。文章を、文字を求めて、夜も昼も無く本に魅入られた人間がわたし。多分家族は、このまま読書しているうちにいつの間にか命を落とすと思ったんでしょう。自分でもそう思うわ」
まるで自嘲するように、どこか暗い笑顔をステラは浮かべていた。
「それでも“古書の塔”に来ることを認めてくれたから、本と離れるまでの猶予をくれたから、わたしは今まで我慢することができたの。だって読まなくても、リンや皆が話して聞かせてくれるから。まぁ……それでも、時々はどうしようもなく飢えてしまうのだけど。
自慢にはならないけれどね。本に伸びる手を止めたくて、魔力を使って無理やり気絶したことも1度や2度じゃないわ」
あまりに病的なステラの読書癖に、ハロンの口が開いたままになる。
「家族の心配はもっともだわ。多分わたし、人と本を選ばされたら迷わず本を取るもの。天秤の片側に乗ったのが例え家族でも……リンだったとしても。リンにはそんなわたしを見せたくなくて“読書嫌い”のままでいたのに」
「その年齢でそこまで“書”を読みこなすのは驚嘆に値するが、しかしそれが病的なまでの執着から来るものであるという事実は無視できない。人の間に紛れれば、君が“異常”であることは誰の目にも明らかであろう。いずれ遠くない未来に君は淘汰されるに違いない」
ステラのことをあまり良く知らない。そのことに今さら気付いたハロンですら、老教師の語る未来の確実性に賛同できた。
「……だからこそ、君に出す写経の課題は君の慣れ親しんだもので許可したのではないか。記憶にあるならば見なくても書き写せるだろうからな。“古書の塔”としても、ウォリス。君ほどの逸材を手放すのは惜しい」
自分が対抗していた人間が人として壊れている程の“読書好き”という真実を知ったハロンは、もはや呆れ顔である。楽をしていると思っていた相手がむしろ自分より読書をしていた事は分かったが、今までの感情をすぐに取り払うことは出来ない。
彼は今、自分の感情をどのように扱えば良いのか分からなかった。
「ハロン・エズリ。君の誤解は解消されたか?」
「……はい。まだ納得はできませんが……理解は、しました」
悔しげなハロンではあったが、彼が整理できていない以上何かを言うべきではないと理解している老教師は、それには頓着せず新たな話題へ移行させる。
「さて。“魔詠術”を教えている以上は術の暴走など付き物ではあるが……自分が扱えない程の呪文を試したことは評価できない。罰を与える必要があるが、理解をしているな?」
「はい」
「それではこの先1週間、医務室で助手を務めるように。それに伴い自主研究会への参加を禁止する」
向上心の強いハロンにとってはかなりの痛手ではあったが、彼は何も言わずに頷いた。ステラはハロンへ肩を竦めて見せる。
だが、そんなステラの余裕も次の瞬間には崩れ去った。
「……ウォリス、君も他人事ではない。君にも課題を出すこととなった」
「え……っ」
ステラの頬が引き攣る。確かにハロンの暴走の原因はステラにもあっただろう。しかし彼女は今回、責められるべきことなど何1つしていないのだ。
「わたし、何かしましたか?」
「何もしていない。しかし“何もしていない”ことが問題でもある」
ステラだけでなくハロンもまた、謎解きのような言葉に首を傾げている。老教師はゆっくりと、しかし確かな重さをもってステラへと語りかけた。
「以前から君の実家と連絡を取っていたのだが、この“古書の塔”にいる間に君の読書癖を矯正してほしいというのがご両親からの依頼だ。“古書の塔”の上層部も“南の賢者”たるウォリスの後継ぎをこのまま潰してしまうのは惜しいと思っている」
「うっそ……」
読むなと言ってみたり読めと言ってみたり、勝手な両親へステラは怒りを覚える。あまりに変化がないどころか確実に悪化している自分のことを考えてだとは理解しているが、そのステラ自身を置いて話を進めていた事には納得ができないのだ。
憤り。言い表せない落ち着かなさ。確かに存在しているそれらの感情以上に、この老教師がどのような難題を言い出すのかとステラは言い知れぬ恐怖を抱いた。
「幸いなことに我が“古書の塔”には、君の実家にはない蔵書も大量にある」
「――っ!!」
老教師の言いたいことが何となく理解できたステラは、唇の端を引きつらせている。
「それを10日に1回、貸与しよう。しかし読める時間は1日のみだ。次の日には君が読んでいようとも取り上げるゆえ、そのつもりで読書に励め」
「な……」
殆ど予想通りの提案だがそれでも言葉を失ったステラへ、老教師はいっそ優しげに笑いかけた。
「簡単なことであろう。1日で読み切れば良いのだからな」
「お前も、大変だな……」
ハロンの言葉にステラはどんな言葉も返すことは出来なかった。
「何を読んでるの?」
「“いばら姫”」
担任である老教師から朝に手渡された本を示して、ステラはリンへと渋い顔を向けた。
「ステラ、最近本を持ってるみたいだけれど……どれも1日しか読んでいないみたいね。もったいないんじゃない? 全く、ホントに“読書嫌い”なんだから!」
これからのステラを純粋な気持ちから心配しているリンに、ステラは笑って誤魔化すことしか出来ない。
(読みたくて読みたくて仕方ない本を、まさかあの鬼教師に途中で取り上げられてるとか……言えないわ……)
普通の書物であれば簡単に言えるのであろうが、何しろ老教師が渡してくるのは“写本”に見せかけた“原版”なのである。周囲に言えばどのような反応が返ってくるのか、想像することすら恐ろしかった。
「あ、ハロン」
リンの声に片手を上げて答えたのは、ゆっくりと歩み寄ってきたハロン。
「ステラ・ウォリス。これを受け取るといい」
「何コレ……本?」
それは手のひらほどの大きさをした、子供向けの本であった。
「いつまでも“読書嫌い”に負けているのも悔しいが、向上心の無い人間に負けているのはもっと悔しい。それならば簡単に読めるだろう?」
「あ……うん……まぁ、これなら……」
戸惑うステラの手に本を押し付けるだけで、ハロンはさっさと身を翻した。
「……ハロン、よっぽどステラに負けてるのが悔しいのねぇ」
ハロンを見送ったリンの呆れたような声に、ステラは内心で否定をする。言葉を選びながらハロンが手渡してきたのは子供向けの写本だった。しかしこれならば1日以内に読める。好きな時に手軽に浸れる本を選んでくれたのだろう、と彼女には理解できた。
恐らくこれが、彼なりの詫びなのだろう。リンへは素直に頭を下げたと聞いていた。
あの罰期間以来、ハロンは度々医務室へ顔を出していると聞く。そこで彼の苦手な補助や治療分野の術を見ているのだろう。
そんな彼は最近ステラへの当たりを柔らかくしていた。また、融通の利かなかった性格もいくらか丸くなったように見えた。
(ハロンも、がんばれ)
皆がそれぞれに何かを頑張っている。それを知っているステラもまた、自分の中の何かが変わり始めていることを自覚していた。
この後、たくさんの本を読みたいばかりに、ステラは悪癖を強制的に克服させることとなる。
それと同時にリンの理解を得、ハロンとも無二の友情を築くことにもなるが、それはまだ、この時の彼女にとって見えていない未来であった。
03.10/2012 初稿
03.16/2012 加筆修正
01.30/2013 加筆修正
02.03/2013 加筆修正
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