12月のかき氷
[11月9日]
医者に、日記を書くように言われた。少しでも多くのことを記憶しておいた方が良いとの理由からである。
痴呆症でも発症したのかと尋ねると、痴呆症ではなく、一時的な記憶障害が自分の脳内で起きているとのことである。再発の可能性はないが、医者に「どうせ暇なんだろうし、せっかくだから記憶喪失者っぽいコトでもしときなさい」と言われてこのノートを渡された。
それくらいのことで日記をつけるのは面倒くさかったが、医者の意見は絶対だと、何も覚えていないはずの脳が命令するので仕方なくこれをつけることにする。
[11月10日]
改めて書くが、どうやら自分は記憶喪失らしい。
といっても、全てが思い出せないわけではない。自分が思い出せる記憶は成長期の途中まで、しかもぼんやりと、「高校の時の科学の成績は3だったな」くらいのものである。
しかし自分は、今年で37らしい。自分で言うのも何だが、高校はもちろん、青年すらとっくに卒業している。いいおっさんだ。
それを考えると、かなりの量の記憶を置き忘れたような気がする。
[11月11日]
病院に妻を名乗る女と息子を名乗るガキが来た。書き忘れていたが、自分は今病院に入院している。しかし身体に異常はない。記憶が飛んだのは何かしらの衝撃を頭に受けた事が原因らしいが、検査入院を終えればすぐ家に帰れるという話である。
病院に来た女とガキは、見覚えがない顔だった。それを素直に言うと女がぎゃーぎゃー泣き出した。
ウザイと言ったら更に泣いた。しかしガキは笑っていた。「記憶が無くなっても母さんの扱い方は同じだね」とまで言われた。
悟ったような言い方が、非常に腹立たしかった。
[11月12日]
今日もまた女とガキが来た。一人にして欲しかったが、家族というのだからしょうがない。
今日は女がアルバムという物を持ってきた。
女と自分とガキが写る写真が沢山貼ってあったが、自分が笑って写っている写真は一枚もなかった。
思わず本当に家族かと訪ねたら、また女が泣き出した。
昨日とまったく同じやり取りを繰り返した後、女とガキは帰っていった。
明日は来ないとうれしい。
[11月13日]
願いもむなしく、女とガキはまた来た。
今日は女の手作りらしい弁当を持参してきた。弁当箱をさわると妙にひんやりしており、嫌な予感がした。
中を開けると、案の定、解凍されていない冷凍食品がぎっしり詰まっていた。
それを食えと女は言う。ガキも「父さん、いつも食べてたじゃない」と笑顔でいう。
・・・どんな嫌がらせだ。
むかついて突き返すと、女はやっぱり泣いた。(後は昨日と同じなのでもう書かない)
[11月14日]
今日はあの二人が来なかった。
静かな病室は久しぶりだったが、いつあいつらが来襲するかと思うと、なかなか落ち着かなかった。
・・・しかし結局、面会時間が終わるまで女とガキは来なかった。
あのうるさい泣き声に耳が慣れてしまったせいか、静けさが妙に落ち着かず、昼寝も出来なかった。
どこまでも迷惑な奴らである。
[11月15日]
いきなり退院しろと言われた。
病院も飽きたので了承すると、女とガキが向かえに来た。昨日来なかったのは、今日のための準備が忙しかったかららしい。
病院を出ると言うことは家に帰ることだと、今更ながらに気がつき愕然とした。
今日からあのふたりと一つ屋根の下で暮らすのかと思うと、新たに記憶障害が起きそうなほど頭痛がしたが、他に帰る場所は無いようだったので、仕方なく俺の家とやらに向かった。
家は古い日本家屋だった。大きすぎず小さすぎず、しかしとにかく古い。だが中へはいると、どの部屋も意外に綺麗に整頓されている。
ただ一つ問題があるとすれば、居間の隅にデカイ冷蔵庫が陣取っていることだろう。
台所にも一つあるのに何故かと尋ねると、女が笑いながら冷蔵庫を開け、その中へ出たり入ったりを繰り返し始めた。
どうやら、この女も俺同様、頭に何かしらの問題を抱えているようだ。
そう思う俺の思考を見透かしたように、ガキが始終にやにや笑っていた。
[11月16日]
朝起きると、女が隣に寝ていて驚いた。
今更だが、こいつが自分の妻であることを思い出す。
思い出すと言っても、認識出来るのは『そう言う事実がある』という事だけで、どうして結婚したのかとか、何故好きになったのかと言うことは思い出せない。
だが改めて近くで見ると、なかなか綺麗な顔をしていることに気がついた。しかし少し若すぎる気もする。下手すると20前後に見える。
もしかしたら、俺はロリコンだったのかもしれない。そんなことを考えていると、今更ながらに男としての感情が若干顔を覗かせたが、勢いで押し倒すには、冷蔵庫に出たり入ったりしている女の行動が印象的すぎた。
[11月17日]
今日は朝から女がおらず、ガキと二人きりで過ごした。
午前中はずっとテレビゲームをして過ごした。俺はストリートファイターと桃太郎電鉄が異常に上手いことを発見した。しかしぷよぷよはガキには適わなかった。格闘ゲームでは勝てて、パズルゲームで負けるというのは複雑な心境だと話すと、テトリスは上手だったと教えてくれた。
午後は二人で近くのスキー場に行った。
昨日ニュースで、地球温暖化の影響で日本から雪が消えつつあると言っていたのに、どういうわけだかこのスキー場には雪が多い。それも人工雪ではなく、自然の雪である。
ガキに理由を聞いてみると、雪女伝説の発祥の地だからじゃないかと言われた。そんな理由で雪が降るなら、とっくの昔にぬりかべがオゾンホールを修復していることだろう。
それともう一つ、スキー場に来て発見したことがある。それは自分が異常なほどスキーが下手だという事だった。変わりにボードで滑ってみたが、こちらはなかなか様になっている。
人が少ないこともあり、調子に乗った俺はガキと二人で夕方まで初心者用コースを50往復した。
明日は筋肉痛になる予感がする。
[11月18日]
ガキと二人で、朝から筋肉痛で動けなかった。
仕方なくまた二人でゲームをやっていると、「日曜だからってダラダラしないの!」と女に怒られた。
母親みたいな事を言うなと言いそうになってからふと、女がガキの親であることを思い出した。
しかし最近気づいたのだが、この女、家ではいっさいの家事をしない。
洗濯と掃除はガキの担当、食事の用意は一昨日から俺がやっている。
女に料理を任せると、冷凍食品しか出てこないのである。
さすがに冷たいコロッケとハンバーグには飽き飽きしたので、何気なく変わりに作ってみたらこれが意外に楽しい。
記憶がない割に料理のレシピなんかはかなり覚えているし、味もそんなに悪くない。女はいじけているのか、俺の料理を頑なに食べない。しかしガキの反応は上々である。
良い気分になって、「お前がいなくてもやっていけるな」と女に言ったら、久しぶりにまた泣かれた。
[11月20日]
日記をつけ始めて10日目になるが、俺の記憶は戻る気配がなかった。
医者の話では記憶の喪失は一時的な物らしいが、それにしてはまったくと言っていいほど思い出せる事がない。
それを女は気にしているらしく、久しぶりにアルバムを持ち出してきたが、本当に家族なのかという疑問が募るばかりで成果はなかった。
[11月21日]
今日は朝から、調子が悪いと言ったきり女が冷蔵庫から出てこない。
調子が悪いならなおのこと冷蔵庫はまずいと思うのだが、ガキが言うには冷蔵庫が女の精神安定剤らしい。
仕方なく放っておいたら、夕方になってようやく出てきた。
夕食におかゆを作ってやったが、女は「ふーふーしてくれないと食べれない」とか馬鹿なことを言いだした。聞こえないふりをすると、女は泣きべそをかきながら冷蔵庫の中へと戻っていった。
しかし先ほど、日記をつけていないことを思い出して起きてみると、朝ご飯にしようと取っておいたおかゆが全て無くなっていた。
気になって冷蔵庫を覗いてみると、女が頬に米粒をつけたまま熟睡していた。
「もうたべれない」とか寝言まで言っていた。
それなら食うなと言いかけたが、起こすのも気が引けたのでそのまま冷蔵庫を閉めた。
[11月22日]
今日は良い夫婦の日らしく、女が朝からハイテンションだった。
ついでに今日は結婚記念日でもあるらしい。
だからどうしたと思ったが、へたに茶々を入れて泣かれると面倒なので、好きに騒がせておいた。
それをどう勘違いしたのか、調子に乗った女が「たまにはキスしろ」とか馬鹿なこと言い出したので、最後は軽くはり倒して無理矢理冷蔵庫に押し込み、一人でボードをしにスキー場へ行った。
スキー場では、始めて女とガキ以外で俺の顔なじみに会った。
高校の時の同級生だという女で、どうやら俺と職場も同じらしい。
彼女と出会ったことにより、俺はこのスキー場でスノボードのインストラクターをして稼いでいることを今更のように知った。
仕事を休んでのうのうとボードをしに来ている自分に軽く恥ずかしさを覚えたが、今は静養中扱いになっているらしく、同僚は笑って俺にウェアーを貸してくれた。
そのうえ彼女は、上級者コースへ俺を連れていってくれた。インストラクターをやっていたのは本当らしく、上級コースも難なく滑れた。
結局二人で話をしたり滑ったりを繰り返しているうちに、夜になってしまった。
彼女と別れて家に帰ると、居間の冷蔵庫の中で女が泣いていた。
なんでも、俺と同僚が談笑しているところを見たらしい。
嫉妬している女を見て思わず、やましいことなど無いのに言葉を詰まらせてしまった。
[11月23日]
今日は朝から一日中、女が冷蔵庫から出てこなかった。
[11月24日]
今日も朝から、女は冷蔵庫から出てこなかった。さすがに心配になって扉を開けようとすると、ガキに呼び止められた。
話があると別室に連れ出されると、そこで俺はガキから驚くべき話を聞いた。
あまりに衝撃的すぎて、未だに頭の整理がつかない。
日記に書こうにも言葉の整理もままならないので、落ち着いてからにすることにする。
[11月25日]
今日も女は冷蔵庫から出てこない。恐る恐る扉を開けてみると、目を真っ赤に腫らした女が冷蔵庫の中で体育座りをしていた。
出てこいと言ったが、女に無視された。その頑なな態度に思わずカッと来て、無理矢理引きずり出そうと女の右腕に触れてみると、それはまるで氷のように冷たく、固かった。
妙だと思いつつもそのまま引っ張ったら、右腕は肘のところでポキンと折れた。骨ではなく、腕そのものがぽきりと折れた。
女は悲しいような、困ったような顔をしていたが、どういうワケだが俺はそれを見ても驚かなかった。
それよりもむしろ、昨日ガキに言われた言葉をようやく理解出来た感動の方が大きかった。
信じられないような話だが、どうやら、俺の妻は人ではないらしい。
それをようやく理解して、俺は女に右腕を返してやった。
[11月26日]
今日は朝から、女が冷蔵庫の外にいた。腕もしっかりくっついている。
便利だなというと、女は「雪女ですから」と言った。
冗談だとは思わなかった。昨日あんな光景を見ていたこともあるが、記憶をなくしたとはいえ、自分の体と頭は、こんなヘンテコな日常に慣れきっている節がある。
記憶喪失になってもたいして驚かなかったのも、きっと雪女を嫁に貰うという異常な快挙を、過去の俺が成し遂げていたからに違いない。きっと俺はもう、対外のことでは驚けないのだろう。
改めて、自分の神経の図太さを思い知った。
[11月27日]
朝起きると、久しぶりに女が隣で寝ていた。
ただでさえ暖房が壊れていて凍えるように寒いのに、雪女が隣にいるとなおのこと背筋が凍える。
だが反対に、女が俺の体温で溶けることはないのかと気になった。気になって寝ている女をずっと観察していたが、溶けるどころかこちらの体が冷えてしまった。
もし今が夏ならば、抱き枕代わりにするのも良いかもしれないとふと思ったが、冬場は寄りつくなと注意した方が良いかもしれない。
[11月28日]
朝から女がいないと思ったら、バイトに行っていたらしい。
あの特異体質でバイトはマズイのではと訪ねると、スキー場に雪を降らせる仕事だと言うから納得した。
日給3万で、週に2・3回程度。天候によってはもっと降らせる時もあるという。
なかなか割の良い商売をしているなと感心しつつ、そろそろ自分も仕事に戻らなければならない気がしてきた。
それを告げると女は大反対したが、ガキは相変わらずの悟り顔で「いいんじゃない」と笑っていた。
[11月29日]
ガキが風邪を引いた。
雪女の子供のくせにヤワだなと笑ったら、半分は俺の血が混ざっているのだから仕方がないと返された。
布団を被って寝ているガキを見ていると、改めて自分は父親なのだと認識する。
それから今度は自分の父親のことを考えたが、親父のことも上手く思い出せなかった。
今までは「そのうち想い出すだろう」くらいに思っていたのだが、もしかしたら自分は少々楽観的すぎたのかもしれない。と言うか、思い出せない人々に対してあまりに失礼だと言うような気がしてきた。
よくよく考えれば、自分の肉親に顔を忘れられ、その上「まあ、覚えて無くても良いだろ」という態度をされたら普通はムッとする。
女はともかくガキはいつも冷静な事しか言わないが、それでもたまに、あの悟りきった表情に影が差す瞬間がある。
もしかしたらそれは自分が原因で、そもそも、あのムカツクブッタみたいな微笑に一番ムカついているのは、あのガキ自身かも知れないと思った。
そんな感じでわずかながらも反省した俺は、今更ながらにガキに名前を聞いた。実はまだ聞いてなかった。我ながら酷い父親である。
そして俺は、ガキの名前が鉄雄であること。自分の名字が南方であることを知った。
[11月30日]
ついに11月も今日で最後になってしまった。
それなのに俺は何も思い出せず、鉄雄は相変わらず風邪で寝ており、女は冷蔵庫の中でアイスキャンディーばかり食っている。
[12月1日]
12月になった。
だからといって特に何が変わるというわけではなかった。
鉄雄は元気になってきたが、相変わらず女はアイスばかり食っており、俺は隣の家のじいさんの名前が想い出せなくて回覧板を回すのに手こずった。
本当に進歩がない。
[12月2日]
今日は街の商店街に行った。
実はまだ、俺はスキー場と病院と隣のじいさんの家以外で、普通の人々が集まる場所に行った事がなかった。
バイトで女がいなかったので、鉄雄と二人きりで出かけた。そもそも女は街へはあまり行かないと鉄雄が言っていた。さすがに、町中で腕をポロポロ落とすのが迷惑であることを、女も理解しているらしい。
それにしても、この街・・・と言うかこの村は狭い。
商店街と言っても、寂れた土産物屋ばかりが集まる小さなアーケードがぽつんとあるだけで、コンビニはおろかレストランもない。(定食屋はいくつかあったが)
それでも駅前にジャスコがあるので、村人たちは何とか暮らしているようだ。
試しに入ってみると、意外にも沢山人がいた。殆どはスキー上目当てにやってきた客のようだが、村の人間らしき何人かの老人(顔は覚えていないが)とは挨拶を交わした。
大抵の人たちは俺の顔を見るなり「大丈夫ですか」「あまり無理をなさらないでくださいね」等の暖かい言葉をかけてくれる。
てっきり自分は人外の生き物にしかすかれていないと思っていたので、これには少々驚いた。
[12月3日]
突然同僚に呼び出された。
さすがにそろそろ「仕事を休みすぎだ」というお叱りの電話が来る頃だろうと思っていたので、言われたとおりの場所に渋々向かった。
指定された場所は村役場だった。それも何故か村長室と書かれたこぎれいな部屋だった。
村長直々におしかりを受けるほど休んだ覚えはなかったが、もしかすると記憶をなくす前から、俺は村長にも目をつけられるほど怠惰に職務をこなしていたのかも知れない。
しかし部屋に入った俺の前には、高級茶菓子が置かれていた。
食えと言われたので、言われるがままに食べていたら、同僚と見知らぬ人たちが遅れてぞろぞろやってきた。どうやら、皆俺の友人達らしい。
食べるのに夢中で話の内容はあまり覚えていないのだが、記憶をなくす前の俺は村人に慕われるような立派な人間であったこと(これを聞いて少し安心した)、故に村中の人々が俺の体を心配していること、そして俺のこれからの事を心配していると言うような話を耳にした気がする。
別に心配されるほど困ってはいないのだが、どういう訳だが友人達の間では、俺の記憶喪失は雪女に殺されかけたのが原因と言うことになっているらしい。
その部分は少々気になったので訪ねてみると、記憶喪失に陥る前の俺は雪女のことをたいそう毛嫌いしていたらしい。
結婚も雪女のねつ造で、本当は同僚と恋仲だったとまで言われた。
なら鉄雄はどうやって説明するのかと尋ねると、「お前はそそのかされたのだ!」と村長に断言された。
そそのかされた位で、あんな冷たいだけが取り柄の冷凍マグロみたいな女と寝たりなんてしたくないと思ったが、あえて黙っていた。
とにかく、彼らが言いたいのはあの女が超危険人物で、俺の記憶喪失もあいつの所為だという事らしい。
やたらと熱く語られたので途中で嫌になり、「はい、そうですか」と流して帰ってきてしまった。友だちに取る態度ではないと思っていたが、その時の俺は無性に頭に来ていた。
家に帰って今日の出来事を話すと、女はやけに落ち込んでいた。
冷凍マグロみたいな・・・という感想まで話してしまったのが、まずかったかもしれない。
その後同じ話を鉄雄にすると、「嫁に貰うならどっち?」と真顔で訪ねられた。
冷蔵庫にしまえるから女の方が良いかなとこたえると、鉄雄は始めて、ムカツクブッタではなく、母親に似た屈託のない笑顔を浮かべた。
[12月4日]
久しぶりに朝寝坊をしたのが行けなかったのだろうか。毎朝5時に起きている俺が、今日に限っては7時になるまでまったく目を覚まさなかった。その上、慌てて居間に向かうと、朝だというのになぜだか同僚がそこにいて、女と何やら口論をしていた。と言うより、女の方が一方的に怒鳴られていた。
妖怪が人間に負けてどうする、と寝ぼけ頭で思わず突っ込んだら、今度は俺が同僚に怒鳴られた。
いい加減に目を覚ませ、とか。この女は化け物なのだ、とわかったような口を叩かれて正直頭に来た。ハッキリとした理由はわからなかったが、どうやら俺は他人に女の悪口を言われると腹が立つ性分らしい。たぶん、昨日勝手に話を切り上げて帰ってきてしまったのも、同じ理由なのだろう。
ただ、今日の自分は昨日より大人になれなかった。たぶん寝起きがいけなかったのだと思う。
女が化け物だなんて今更言われなくても理解している。一緒に暮らしていて気づかないほど俺は間抜けではない、とついつい怒鳴り返したら、今度は同僚に泣かれた。
同僚が泣き出すと、どういう訳だが女も泣き出した。
正直かなり困ったが、鉄雄は我関せずといった顔でめざましテレビを見ているので、なだめるのは俺しかいない。
そのあと30分ほどかけて、俺は同僚を何とか家へと帰し、女を冷蔵庫に入れた。
気がつくと鉄雄はすでに学校に出かけていた。もう少し親父の役にたってくれても良いと思う。
[12月5日]
今日もまた朝から招かれざる客がいるのではと思ったが、朝の居間には女しかいなかった。
かき氷が食いたいと言い出すので台所の床下にある小汚い収納スペースからかき氷マシーンを探し出した。かき氷は女の好物であるにもかかわらず、機械は妙にほこりくさく、動かしてみると氷より先に錆がこぼれ始めた。
いつから使ってないのかと尋ねると8年くらい前だという。
8年もかき氷を絶食していたのかと訪ねると、8年間この家でかき氷を食べたていないと言われた。
何故8年なのかと尋ねると、8年前に女と俺がケンカ別れをしたからだと言われた。
別居かと尋ねると、離婚のような気がすると女が言った。
なら何故ここにいるのかと訪ねると、嫌いだったことを俺が思い出す前に、俺の作ったかき氷をもう一度食べたかったからだと女は言う。
仕方ないので、ヤスリを使って氷を削り、賞味期限切れのカルピスシロップを使ってかき氷を作ってやった。
ヤスリでかき氷を作るのは非常に骨が折れることが判明したので、明日かき氷器を買いに行こうと提案したら、女はまた泣いた。
[12月6日]
今日から鉄雄の学校では冬休みが始まった。
始まりがあまりにも早いので、もしやズル休みしたいが為の嘘なのではと疑っていると、雪国は夏休みより冬休みの方が長いのだと言われた。
雪国育ちのくせに、そんなことも忘れていた。
午後は3人でかき氷製造器を買いにジャスコに行った。しかしよくよく考えると今は冬で、かき氷器など売っているわけがなかった。
仕方なく、アマゾンとか言うインターネットショップで、980円という破格の値段で売っていたペンギンマークのかき氷器を購入した。
[12月7日]
今日は久々の定期検診の日だった。
相変わらず記憶は戻らないが、脳には異常がないので大丈夫だと医者に言われた。
せっかくここまで来たので、俺はさり気なく自分が記憶を失った原因を医者に聞いてみた。女はその事に関して黙っているし、村長たちの話は来ているとムカツクので、一番客観的意見をくれそうな医者に聞くのが一番だと思ったのだ。
訪ねると、医者は何の躊躇いもなく「雪崩に巻き込まれたんですよ」と答えた。
村長に雪女の所為だと言われたと告げると、医者に大声で笑われた。
彼女がいなければこんな軽傷ではすまなかったとまで言われた。
改めて言われると、なぜだか少しほっとした。
女に恐怖を抱いていたわけではないが、医者の一言で胸の支えがとれたのは事実だった。
[12月8日]
朝起きると外は吹雪だった。
案の定女はバイトに出かけており、午前中は鉄雄と二人でテレビを見て過ごした。
テレビでは泥沼離婚に陥った夫婦の再現VTRばかりを流すワイドショーが映し出されていた。
あの夫婦は妻の方がダメなんだとか、こんな生活を続けるなら離婚して正解だとか、そう言う話で盛り上がっていると、タイミング悪く女が帰ってきた。
何をどう勘違いしたのか、「そろそろ山に帰る」とか馬鹿なことを言い出した。あんまりうるさいので無理矢理口をふさぐと、どういう訳か真っ赤になって冷蔵庫にこもってしまった。
おかげで鉄雄と二人、午後も気兼ねなくゴロゴロして過ごせた。
[12月9日]
今日から仕事を再開することにした。
自分はやれば出来る男だと言い張って生徒の前に立たせて貰うと、本当にどうにかなった。
正直かなり教え方はテキトウだったが、「先生、本当に記憶をなくしたんですか?」と何度も訪ねられた。口から出任せを列挙しているだけで喜ばれるのだから、インストラクターとは何とも簡単な商売である。
仕事を終えて詰め所のロッジに行くと、同僚が俺を待っていた。
この前の事を謝ろうとするので、気にするなと言ってやった。確かに突然あんな事を言われて頭に来たのも事実だけど、彼女や友人達が俺を心の底から心配してくれているのはわかっている。
誰だって、妖怪と暮らす生活なんて理解できない。正直俺だって未だに理解出来ていない気がする。
だから、彼らの心配が間違った方向に向いてしまったのは当たり前のことで、俺はそれに怒るのではなく、「大丈夫」だと笑っていれば良かったのだ。
最後に同僚は、今更のようにあの女が好きなのかと尋ねてきた。
好きじゃないと答えた。
その後で、嫌いでもないと付け加えた。
同僚は笑って、もう一度自分が勝手だったと詫びた。
[12月10日]
今日も仕事に行った。
いい汗をかいた。
だが家へ戻るったと汗が引いた。女が久しぶりに料理をしていたからである。
[12月11日]
朝から腹が痛い。理由はわかっている、そしてあえて書かない。
[12月12日]
仕事から帰ると、かき氷器が届いていた。
開ければいいのに、女も鉄雄も俺が帰ってくるのを待っていたらしい。
小生意気なガキの口みたいなマークが書かれた箱を開けると、当たり前だがかき氷器の箱が姿を現した。
この家の辞書に説明書を読むという言葉はないので、早速氷をぶち込んで取っ手を回してみた。
なかなかよい具合にかき氷が出来た。
昨日の今日で冷える物は勘弁だったが、女がとても上手そうに食べるので、ついつい茶碗3杯分も食べてしまった。
とはいえ別に格別美味いわけではない、所詮氷とシロップである。
だが女はかき氷がたいそう気に入ったのか、俺の10倍は食べた。そして今日はかき氷器を抱いて寝るという。
さすがにそれは嘘かと思ったが、先ほどこっそり冷蔵庫を開けてみたら、本当に抱いて寝ていた。
予想外の光景に思わず笑うと、女が目を覚ました。
目が合うと妙に気まずくて、俺は慌てて名前を聞くことで場をゴマカした。俺は女の名前も実はまだ知らなかった。
当ててみろと切り替えされたので、「お菊」とテキトウに答えると「それは番町皿屋敷だ」と言ってまた泣かれた。
いつになったら思い出してくれるのかと騒ぐので、「思い出しても出さなくても、俺が嫁に貰ったのは、皿を割った幽霊ではなくお前だ」と言ってやったら、泣いているのか笑っているのかわからない顔で抱きつかれた。
冷たい体は、12月の寒い夜にはとてもこたえたが、それを言うとまた泣くだろうから、黙ってしたいようにさせておいた。
「成田離婚」「父と冷蔵庫」に続く雪女シリーズの3話目。一応完結編です。