第6話:王国の崩壊。救いを求めた手は、もう届かない
舞踏会から一ヶ月。ヴォルガ帝国は春の兆しを迎えつつあったが、国境を隔てたブラウ王国は、物理的にも精神的にも「死の冬」に飲み込まれようとしていた。
エルゼという名の浄化装置を失った王国の地は、急激に腐敗していた。
かつて「常春」と謳われた肥沃な大地は、カイル王子の体から溢れ出す「七年分の業毒」が地下水脈にまで染み出したことで、真っ黒に枯れ果てた。農作物は実る前に腐り、家畜は病に倒れ、国民の半分以上が隣国へ逃げ出していた。
「陛下、もう限界です! 騎士団の三割が魔物との戦いで戦線離脱、残る者も呪いの瘴気に当てられ、まともに動けません!」
王宮の玉座の間には、もはや威厳などなかった。
カイル王は、自身も呪いの影響で激しい咳き込みを繰り返しながら、血走った目で家臣を睨みつける。
「エルゼだ……エルゼさえ連れ戻せば、この呪いは消える! あいつは身代わりなんだ、俺の代わりに苦しむのがあいつの運命なんだ!」
「そのエルゼ様は、ヴォルガ帝国の次期大公妃として、今やあちらの象徴となっておいでです! もはや我々の手の届く存在ではありません!」
「うるさい、黙れ! なら力ずくで奪い返すまでだ!」
狂気にかられた王は、残存する全兵力に「帝国への侵攻」を命じた。それは軍事行動ではなく、ただの心中だった。
呪いでボロボロの兵たちが、槍を杖代わりに引きずりながら国境へ向かう。その先頭には、全身を幾重にも包帯で巻き、怨嗟の塊となったカイル王子の姿があった。
ヴォルガ帝国、国境の防壁。
ギルバート大公と共に視察に訪れていたエルゼは、遠くに立ち込めるどす黒い霧を目にして、悲しげに瞳を伏せた。
「……来ましたね、カイル様が」
「来るのは勝手だが、一歩でも我が帝国の雪を汚せば、それは侵略行為だ。エルゼ、貴女が慈悲を乞う必要はない」
ギルバートは冷徹に言い放ち、手を挙げて信号を送る。
帝国の精鋭魔導師たちが一斉に呪力中和の結界を展開する中、王国の軍勢が姿を現した。
「エルゼ……エルゼェッ!」
包帯の間から膿を滴らせたカイルが、私を見つけて叫ぶ。
かつての麗しい王子は見る影もない。彼は私に縋るように手を伸ばすが、その指先は結界に触れた瞬間にバチリと弾かれた。
「戻れ、エルゼ! お前は俺の道具だ、俺の苦しみを吸い取るための器なんだ! なぜそんな綺麗な顔で、そいつの隣に立っている! その体は、俺の汚れで満たされているべきなんだよ!」
その言葉を聞いた瞬間、エルゼの心から最後の未練が消えた。
彼は最後まで、私のことを「人間」だと思っていなかった。
「カイル様。私はもう、あなたの痛みを吸い上げることはありません」
エルゼは結界の際まで歩み寄り、凛とした声で告げた。
「私があなたを愛したのは、あなたが『英雄』だったからではありません。共に呪いと戦う『パートナー』だと思っていたからです。ですが、あなたは私を捨て、汚れを蔑み、自分だけが清らかであろうとした。……その結果が、今のあなたです」
「黙れ、黙れぇ! 吸え! 吸えと言っているんだ!」
カイルが狂乱して結界を叩く。だが、彼が放つ呪いはすべて、エルゼが新しく開発した「反転結界」によって彼自身へと跳ね返っていく。
叩けば叩くほど、カイルは自分の毒で焼かれていく。
「さようなら、カイル様。……そして、ブラウ王国。あなたたちが捨てたのは、一人の令嬢ではなく、この国の未来そのものだったのです」
エルゼが静かに杖を振るうと、まばゆいばかりの浄化の光が爆発した。
それは攻撃ではない。ただ、彼らの周りにある「エルゼがかつて注いでいた加護」の残滓を、すべて回収する光。
光が収まったとき、王国の兵たちはその場に崩れ落ちた。
加護を完全に失った彼らに、もはや帝国の冷気に耐える力も、呪いに抗う気力も残っていなかった。
ギルバートは、絶望に沈むカイルを一瞥もせず、エルゼの肩を抱き寄せた。
「終わったな、エルゼ。これ以上、汚らわしいものを見る必要はない」
「……ええ。帰りましょう、ギルバート様。私たちの、温かいお城へ」
背後でカイルが土を噛み、私の名を呼び続ける声が聞こえる。
だが、その手は二度とエルゼに届くことはない。




