第2話:銀髪の逃亡者と、北の峻厳な大公
王都を脱出した馬車の中で、私は何度も自分の手を見つめていた。
かつての土気色はどこにもない。月明かりに照らされた肌は、透き通るような白さを取り戻していた。呪いという重石を外した体は驚くほど軽く、血管を巡る魔力は清流のように澄み渡っている。
「……本当に、終わったのね」
七年間、私は自分の人生を担保にカイル様を生かしてきた。だが彼は、その代償で得た健康と美貌を、私を傷つけるための武器として使った。
自業自得、という言葉さえ生ぬるい。今頃、あの豪華絢爛な広間は、逆流した呪いにのたうち回る王子の悲鳴で地獄絵図と化しているだろう。だが、もう私の知ったことではない。
馬車は夜を徹して走り、数日後、私は隣国である「ヴォルガ帝国」の国境へと辿り着いた。
王国とは対照的に、年中雪に閉ざされた峻厳な寒冷地。そこを治めるのは、皇帝の弟であり、大陸最強の呪術師と名高いギルバート・ヴォル・ヴォルガ大公だ。
彼は三年前から、私の「呪い耐性」に目をつけ、極秘裏に手紙を寄越していた。
『王国が貴女を使い潰すつもりなら、我が帝国へ来い。貴女の技術を正当に評価し、相応の地位と報酬を約束しよう』――と。
国境の検問所に降り立つと、そこには一隊の黒甲冑の騎士たちと、一人の男が立っていた。
漆黒の外套を羽織り、夜の闇よりも深い黒髪を持つ男。鋭い双眸は冬の湖のように冷徹な青色をしており、その立ち姿だけで周囲の空気が張り詰める。
「……手紙を差し上げた甲斐があった。本当に来るとはな、エルゼ・フォン・ブラウ」
低く、地響きのように心地よい声。彼こそが「氷晶の大公」ギルバート様だった。
彼は私の姿を一目見ると、わずかに眉を動かした。手紙のやり取りをしていた頃の私は、呪いでボロボロだったはずだ。今の私は、その面影など微塵もない銀髪の美女として彼の前に立っている。
「身勝手な振る舞いをお許しください、大公閣下。あちらの国とは、たった今、縁を切って参りました」
私は完璧な淑女の礼を取った。
ギルバート様は無言で私に近づくと、その大きな手で私の頬を軽く撫でた。手袋越しではない、素肌の感触。その瞬間、彼の指先から膨大な魔力が流れ込み、私の体の隅々までを「検品」するように駆け巡る。
「……驚いたな。これほどの高純度の魔力を、あの馬鹿王子を育てるための『濾過器』に使わせていたのか。王国は宝の持ち腐れどころか、国家の損失を自ら招いたわけだ」
「評価していただき光栄です」
「おべっかはいい。エルゼ、我が城での貴女の仕事は二つだ。一つは、帝国の結界に混じる魔毒の浄化。そしてもう一つは……」
彼はふっと口角を上げ、不敵に笑った。
「その美貌と実力で、我が帝国の『大公妃』として、俺の隣に座ることだ」
「……はい?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
研究者としての招聘ではなかったのか。戸惑う私を余所に、ギルバート様は己の毛皮の外套を脱ぎ、私の肩にふわりとかけた。彼の体温が、凍えるような北風を遮ってくれる。
「俺は無能と嘘つきが嫌いだ。だが、七年も呪いに耐え抜き、最後にはそれを倍にして返してやった貴女の度胸と魔力……これ以上の『正妻』はいないと確信した」
そのまま、彼は私の腰を抱き寄せ、黒塗りの豪華な馬車へと導いた。
「待ってください、私はまだ心の準備が……それに、王国が私を連れ戻しに来るかもしれません」
「来ればいい。その時は、俺が直々に相手をしてやろう。……もっとも、あの呪いを食らって、まだ国として機能していればの話だがな」
ギルバート様の予言は的中していた。
その頃、王国ではパニックが起きていた。カイル王子の呪いは誰にも解けず、彼が触れるものすべてが腐食し、王宮の一部が物理的に崩落。
さらに、エルゼという「浄化装置」を失ったことで、王国内の魔力の循環が滞り、各地の農作物が一晩で枯れ始めていたのだ。
王は血眼になって叫んでいたという。
「エルゼを探せ! 何としても連れ戻せ! 彼女がいなければ、この国は滅びるぞ!」
だが、その声が私に届くことは二度とない。
私は今、温かいココアを差し出してくれる大公の横顔を見ながら、生まれて初めて「守られる」という安らぎの中にいたのだから。




