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第5話 影の目



その夜の騒擾は、酒場の壁の石目を震わせ、やがて路地の隅々にまで浸み出していった。

杯を傾けていた労働者は耳をそばだて、果物を並べる行商人は声を潜めて噂を囁き合う。


――あの商人が泣いて土に額をこすりつけたらしい。

――踏み潰された脚の骨の音が、部屋中に響いたのだと。

――闇医者は救いも施すが、裏切りをした者に赦しはない。


囁きは尾を引き、次の口から次の耳へと渡るうちに形を変えた。

「涙で土を濡らした」が「血の水たまりに崩れ落ちた」へと、事実はいつしか伝説めいた装いを纏い、翌日には市場の女たちが籠を抱えながら笑い混じりに語るほどになっていた。だが笑いの合間に見え隠れする視線の揺れは、決して愉快さからくるものではない。そこに潜むのは、冷えた恐れの気配だった。


アレン・クロウ――その名は、畏怖とともに街の石畳を這い回り、井戸端から商館の奥へまで浸透していた。



薄い雲の合間から陽が滲み始め、街路に残る夜露が鈍い光を返していた。

リアナは診療所の前で桶を抱え、井戸と出入り口を何度も往復していた。汲み上げた水は桶の縁を伝い、足元の土に吸い込まれていく。遠くで蹄鉄の音が響き、行商人や職人たちが荷車を押して通りを埋めはじめていた。


だがその日の通りには、普段と違う停滞があった。

往来の人影が、何度も診療所のほうへと首を傾ける。物陰から覗く視線の多くは、単なる好奇心ではなく、測りかねた感情の濁りを含んでいた。


恐怖。

敬意。

そして、淡い期待。


桶を置いたリアナは、背後の気配を感じ取りながら小声で告げた。

「……先生、昨日のこと、もう街中に広がってます。みんな怖がってるみたいです。でも……それ以上に、頼ろうとしてる人も増えているみたいで」


机に向かって薬瓶を並べていたアレンは、瓶底の光を確かめるように瞳を一度だけ動かし、すぐに手元へ戻した。灰色の眼差しは感情を映さず、ただ低く言葉を落とす。

「俺は医者だ。必要とする者が来るのなら、それでいい。恐れるか敬うかは関わりの外だ。病も怪我も、人の感情を待ってはくれん」


その声音には揺るぎがなかったが、リアナの胸の奥に、かすかな不安の種が芽吹くのを彼女自身は否応なく感じ取っていた。

「……でも、先生。昨日のあれは……あまりに目立ちすぎました。街の上にいる人たちが、黙っているでしょうか」


返答はなかった。

ただ硝子瓶が棚に戻される澄んだ音だけが、静まり返った室内を切り裂いた。



街の石造りの大路から奥まった一角、分厚い扉と重いカーテンで隔てられた部屋がある。

そこでは数人の男たちが円卓を囲んでいた。蝋燭の火は低く、葡萄酒の赤が杯の内側に淀んでいる。


報告書を握る細身の男が、抑えた声で読み上げる。

「――闇医者、アレン・クロウ。昨夜、組合所属の商人に暴力を振るい、金を取り上げたとのこと。目撃者は多数。噂は街全体に流布」


「ふむ……」

白髭の老商人が呻くように息を吐き、指で長い髭を梳いた。

「裏稼業の一介の医者と思っていたが、いよいよ放置できぬほどに肥え太ってきたか」


別の男が眉を寄せる。

「ですが腕は確かです。組合の者も裏で世話になっている。排除となれば、反発が……」


「それが厄介なのだ」

老商人は杯を傾け、舌に葡萄酒を転がしながら低く続けた。

「救うことと脅すことを同じ手に握る者など、我らの秩序には不要だ。あれは均衡を乱す異物よ」


部屋に沈黙が沈殿する。蝋燭の火が油にじむ壁に揺れを映し、誰もが言葉を呑んだ。

やがて一人が吐き捨てるように呟く。

「……いずれにせよ、目をつけ続けねばならん」


決定の槌は下ろされなかった。だがそこにいた者たちは皆、同じ予感を胸に抱いていた。

――この街の均衡を揺るがす芽は、遅かれ早かれ摘み取られねばならぬ、と。



その日の午後、石畳に長い影が伸び始めたころ。診療所の戸口を丸まった背の老婆が両手を突きながら駆け込んできた。声は震え、息は乱れている。

「せ、先生……! 孫が、高熱で……どうか助けて……!」


アレンは躊躇なく立ち上がり、老婆の背を支えて奥へ導いた。

リアナは急ぎ布を敷き、水を運び、窓を少し開け放つ。外では老婆を追ってきた子どもたちが群れ、心細げに扉の隙間から覗いていた。


診療所の空気は切迫し、薬の香りと熱を帯びた息遣いが交錯する。

だがリアナはふと気づいた。

――外の視線が、昨日よりもはるかに多い。


ただ孫を案じる者の眼差しではない。

「闇医者が何者であるのか」を計ろうとする、得体の知れぬ光が混じっていた。


冷たいものが背筋を這い上がり、リアナは声を落とした。

「先生……誰かが、見ています。先生を……」


アレンの手は止まらない。汗を滲ませながら呼吸を確かめ、薬液を調合し、額に布を当てる。

「構うな。俺は医を為す。それだけだ」


その声は平然としていた。だが診療所を取り巻く空気は、確実に変容しつつあった。



街が眠りに落ち、人々の灯が一つ、また一つと消えていく。

診療所の窓の灯がようやく闇に沈んだその後も、裏路地には人の気配が残っていた。


かすかな風に油灯が揺れるたび、黒い外套の影が石壁に浮かんでは消える。声を出す者は誰もいない。ただ沈黙だけが夜気を満たし、その沈黙の中心から診療所の戸口を見据える。


――その眼差しは、すでに獲物を見定めた狩人のものだった。


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