第4話 命の値段を取り立てるもの
帳簿は冷酷である。
木製の机に置かれたその一冊は、見開かれるたびに血の匂いを呼び覚ました。墨で刻まれた文字は、ただの記録にすぎないはずだった。だがアレンの目には、そこに並ぶ行はすべて「救われた命の値札」として浮かび上がる。患者の名、施した処置、そして支払うべき金額――それは命の重さを数値に置き換えた残酷な目録だった。
夜更け、診療所には油灯の淡い光だけが漂っていた。
炎は頼りなく揺れ、壁に映した影は不気味に伸びている。アレンは帳簿の頁をめくり、無言で目を走らせた。文字の列は墓碑銘のように沈黙を守り、彼を見返している。
やがて、指先が一箇所で止まった。
そこに記されていたのは、一月前に救った商人の名。肥え太った中年男。
「……まだ払っていないな」
声は、冷たい刃が卓上に置かれたかのように重く響いた。
思い出すのは、街外れの倉庫での惨状だった。馬車の車輪に脚を押し潰され、骨は砕け、肉は裂け、血は地面を濡らし尽くしていた。周囲の者は口を揃えて「もう助からぬ」と言った。だがアレンは骨を繋ぎ、血管を縫合し、薬液を流し込み、魔力で循環を整えた。死人のように青ざめていた顔に、再び赤みが戻るまで彼は手を止めなかった。
そして商人は歩き、再び笑い、命を謳歌するはずだった。
――代価を支払うことさえすれば。
「銀貨五十枚」
彼が自ら誓った治療費。しかし診療所には、一枚たりとも届いてはいなかった。
傍らで帳簿を覗き込んでいたリアナが、不安げに声を洩らす。
「……先生、もしかして、その人……」
「踏み倒した」
アレンは短く言い捨て、立ち上がると外套を羽織った。
「ならば、取り立てるまでだ」
その声音に、リアナは小さく息を呑む。
彼が「出向く」と言うとき、それはただの催促ではない。アレン・クロウは、医者であると同時に取り立て人でもあった。命を救われながら代価を軽んじた者に、再び“死の淵”を思い出させる――それが彼の流儀なのだ。
辺境都市グラドスの夜は、二重の顔を持つ。
裏路地では悲鳴と呻きが交錯し、病と貧困が腐臭のように漂っている。人の形をした獣たちが、小さな銅貨一枚のために牙を剥き合う。
だが表通りは別世界だった。絹をまとった娼婦が笑い、酒場からは音楽と笑い声が溢れる。油灯の光が宝石のように輝き、金を持つ者だけの夜が続いていた。
アレンが歩を止めたのは、その華やぎの只中だった。
通りの真ん中で、あの商人が女を両脇に抱き、大声で笑っていたのである。酒樽を片手で抱え、景気よく振る舞いを繰り返す。片脚を失いかけた人間とは思えぬ、軽快な足取りで。
リアナの顔には、驚きと怒りがないまぜになった表情が浮かぶ。
「……先生、あの人……全然、不自由そうじゃありません」
「そうだ。俺が治したからな」
アレンの声には一片の感慨もない。
「だが、あれは銀貨五十枚の脚だ。――払わぬのなら、あの日の痛みを思い出させる」
彼の歩みは迷いがなかった。重々しい扉を押し開け、酒場の喧騒へ足を踏み入れた瞬間――室内に漂っていた笑い声と旋律が、ぴたりと止まった。
楽士の指が弦の上で凍り、酔客たちの喉が固まる。
理由は一つ。
その場に現れたのが、アレン・クロウだったからだ。
闇医者の名は、裏路地に限らず酒場の女や酔客の耳にも届いていた。助けを請えば命を繋ぐ。だが、代価を踏み倒せば容赦はない――その冷徹さは、伝説ではなく事実だった。
「ア、アレン……!」
女を抱いていた商人の顔から血の気が引いていく。
豪胆を気取っていた笑い声は消え、額には脂汗がにじんでいた。
アレンはゆっくりと歩み寄り、無表情のまま告げる。
「約束の銀貨五十枚。支払いの期日はとっくに過ぎている」
「ま、待て! 今は手元になくて……必ず払う、もう少しだけ、猶予を……!」
「そうか」
アレンの返答は淡々としていた。しかしその灰色の瞳が細められた瞬間、空気は氷の刃のように張り詰める。
彼の声は低く、静かで――それゆえに誰もが息を呑むほど冷たかった。
その夜の酒場は、笑いも音楽もすべてが凍りついたまま、ただひとりの闇医者の言葉を待っていた。
――取り立ては、ここから始まる。
酒場の空気は凍りついていた。
酔客たちは盃を掲げたまま、指先ひとつ動かさず、呼吸すら忘れたかのように沈黙している。弦楽器の音は途絶え、酒の匂いさえ薄れたように思えた。
闇医者――その名は、この街では死神に最も近い言葉として囁かれている。救いを与える存在でありながら、同時に冷酷な裁定者でもある。その視線を受けたとき、人々は己の命の値打ちを思い知らされるのだ。
アレンは、商人の眼前に立った。
無言のまま、彼は男の胸倉を掴む。がっしりと肥えた体格のはずの男が、布切れのように容易く持ち上げられる。テーブルが軋み、酒瓶が転がり落ち、赤い液体が床に滲んで広がった。
「支払いを怠るということは――」
声は低く、刃を氷水に沈めたかのように冷えきっていた。
「お前が助かったあの日を、忘れたということだ」
「ま、待ってくれ! わ、忘れたわけじゃない! ただ、少し都合が――」
言い訳を切り捨てるように、アレンは男を床に叩きつけた。木の床が震え、周囲の女たちが息を呑んで悲鳴を洩らす。次の瞬間、彼の踵が男の脚を容赦なく踏みつけた。
「ぎゃあああっ!」
悲鳴が酒場を突き抜け、天井の梁にまで反響した。踏まれたのは、かつて馬車に押し潰され、粉砕骨折を負った脚――アレンが縫い合わせ、骨を繋ぎ、血流を蘇らせた場所だった。
蘇ったはずの脚は、いま再び凄絶な痛みに打ち震えている。男は床をのたうち回り、顔は脂汗で光り、息は途切れ途切れに荒い。
「思い出せ」
アレンの瞳は、灰色に沈み、何の温度も帯びていなかった。
「馬車の下で血に沈み、誰も助からぬと見捨てられたあの夜を」
「ひぃっ、ひぃいっ……やめてくれ、頼む……!」
「俺が止めなければ、お前はすでに死体だった」
アレンの靴はなおも脚に重みをかけている。
「その脚は――俺が繋いだ。銀貨五十枚の脚だ」
男の表情はぐしゃぐしゃに崩れ落ちた。涙、鼻水、涎が入り交じり、哀れを通り越して惨めである。豪快な笑い声で酒場を支配していた面影はどこにもなく、ただ命乞いを繰り返す無様な生き物にすぎなかった。
「払え」
アレンの声音は、判決を下す裁判官のように無慈悲で揺るがない。
「命を買った代金を。今すぐにだ」
「ま、待ってくれ! 本当に手元に……!」
男の懇願は最後まで続かなかった。アレンの手が無言で懐へと伸び、衣服を探る。荒々しく布が引き裂かれ、中から取り出されたのは金貨袋だった。
じゃらり――。
重たい響きが、酒場の床石を震わせる。
「……やはりあるな」
灰色の瞳が冷たく細められる。
「ち、違う! これは……商売の資金で……!」
「命より重い商売などない」
アレンは袋を卓上へ叩きつけた。木の板の上で金貨が鳴り響き、観衆は誰もが目を逸らせなかった。
指先が、淡々と数を刻む。
一枚、また一枚。金属音が連なるたびに、商人の喉が引きつり、呼吸は乱れ、額から汗が滴る。数えられる銀貨の一枚一枚が、彼にとっては拷問に等しかった。
やがて、ぴたりと数が揃う。
「銀貨五十枚」
アレンは無言で袋を閉じ、外套の内へ収めた。
「……これでようやく、お前の脚はお前のものだ」
その一言は、慈悲ではなかった。救済でもなかった。
ただ冷酷な事実の告知である。商人は床に崩れ落ち、嗚咽と痙攣を繰り返すばかりだった。
アレンは背を向け、傍らのリアナにだけ小さく告げた。
「見たな。これが“踏み倒す者”の末路だ」
リアナは胸を締めつけられるような感覚に襲われ、答えを失った。
彼女は理解していた。アレンが怒っているのは、単なる金銭の問題ではない。
――救済を「ただ」と思われたこと。
――命に値段をつけた契約を、軽んじられたこと。
それこそが、彼の矜持を踏みにじる最大の侮辱なのだ。
外へ出ると、夜風が二人の顔を撫でた。街灯の下でアレンは一度立ち止まり、静かに言った。
「命の重みを知らぬ者に、医は必要ない。だが一度思い出させれば――もう二度と忘れはしない」
リアナは答えを探せず、ただその背を見つめていた。
彼は冷酷に見える。だが、その根には確かに「命を侮らせぬ」という固い信念がある。
――この人は冷血なのか。それとも誰よりも命を重く見ているのか。
その夜、彼女の胸にはまたひとつ、消えぬ問いが刻まれた。
酒場に残された者たちは、しばし口を開けなかった。
笑いも音楽も戻らず、ただ沈黙が場を支配する。
だが全員が胸の奥で理解していた。
――アレン・クロウに救われた命は、決して「ただ」ではない。