第3話 闇医者の教授
「せ、先生っ! た、助けてくれッ!」
夜更けの診療所に、扉を蹴破るような音が響いた。
狭い室内に吹き込んだ冷気とともに、血の匂いが濃く漂う。現れたのは裏社会で名を馳せる用心棒。その分厚い肩に抱えられている仲間は、胸から腹にかけて大きく斬り裂かれ、衣服は血に濡れきっていた。
顔は蒼白で、唇は紫色に変色している。瞳の焦点は彷徨い、今にもその灯が消えそうだった。
アレンはわずかに目を伏せ、灰色の瞳で観察しただけで診断を下す。
「腸にまで刃が届いている。処置を始めなければ、二刻と持たん」
「なら、頼む! お前の腕は知ってる、この街でも評判だ……助けてくれ!」
切実な叫び。しかし返ってきた声は、氷刃のように冷ややかだった。
「前払いだ。銀貨二十枚。用意できなければ、連れて帰れ」
「に……二十!? 馬鹿な! そんな大金、すぐには用意できねえ!」
「なら帰れ」
その声音には一切の情けも揺らぎもなかった。
診療所の空気が一瞬で凍りつく。
リアナは息を呑む。患者は今にも死にかけている。それでもアレンは譲らない――。
「おい待て! いくらなんでも、見捨てるってのか!?」
「ここは施療院ではない。俺は医者だ。医療には代価が伴う」
乾いた声が、診療所の灯をさらに冷たくした。
用心棒は歯を食いしばり、ついには膝を折った。
「……頼む……! なんとかしてくれ! このままじゃ、こいつは死ぬ! 金なら必ず払う! だから今だけは……!」
床に額を擦りつける姿は、裏社会で恐れられる男のものとは思えなかった。そこに残っているのはただ一つ――仲間を生かしたいという必死さだけだ。
アレンは沈黙を保ち、じっと見下ろしていた。
やがて、低い声で問う。
「必ず払うと誓うか」
「……ああ、誓う! 俺の名にかけて、必ず払う!」
その瞬間、アレンの瞳が鋭く細められた。
「俺の医療を受けて代価を踏み倒した者はいない。約束を違えれば、この街で二度と居場所を得られぬと思え」
その言葉には、冷徹な脅しと揺るぎなき信念が同居していた。
「……わかった。必ず払う。だから――」
アレンはそれ以上聞かず、手を洗い器具を並べ始める。
「リアナ、準備だ。時間を無駄にすれば死ぬ」
「は、はいっ!」
少女は慌てて薬瓶と清浄布を差し出す。指先は震えていたが、眼差しには迷いがない。
アレンの手際は淀みなかった。
切開、止血、糸による縫合。腐敗を防ぐ薬液の塗布。そして、魔力を指先から流し込み、組織の癒着を促す。どの工程にも余計な動きはなく、すべてが即断即決だった。
ただの裏医者であれば到底不可能な、緻密さと速度。
それはかつて最先端の医学を修めた者の技であり、同時に「闇」に落ちたからこそ磨かれた技でもあった。
用心棒はその光景を、ただ息を呑んで見つめていた。
仲間の血が床に滴る音すら遠のき、ただ一人の闇医者の手さばきだけが世界を支配していた。
「……これで峠は越えた」
数十分後。アレンは針を片づけ、静かに言葉を落とした。
患者の呼吸は荒いながらも規則を取り戻し、頬にわずかな赤みが差していた。
「す、すげえ……本当に……助かったのか……」
用心棒の声は震え、かすれていた。
だがアレンの瞳は冷ややかなままだ。
「繰り返す。必ず払え。約束を違えれば、二度と俺に助けを求めるな」
その言葉は冷酷に響いたが、同時に揺るぎのない矜持でもあった。
命を救うために医を振るう。
だが、命を軽んじ、代価を踏みにじる者は許さない。
命の重さを認めさせること。それこそが、彼にとっての「医者としての線」だった。
用心棒は深々と頭を垂れた。
「……わかってる。借りは必ず返す」
こうして治療は終わった。
だがリアナの胸には、重い疑問が残っていた。
――なぜ先生は、そこまで前払いにこだわるのだろう。
命を救うことが第一なら、支払いは後でも構わないはずなのに。
片付けを続けるアレンの背は無言のまま、答えを拒んでいるように見える。
だがリアナには、直感的にわかるものがあった。
そこにあるのは単なる金銭欲ではない。
もっと深い、もっと根源的なもの――。
それは矜持。
命に値をつけるという冷酷な行為の奥に、逆説的に宿る“命への敬意”。
命を等価に扱うためには、決して「踏み倒す」という軽薄を許してはならない。
アレン・クロウ。
この街の闇に生きる医者は、冷酷であるがゆえに、誰よりも命に誠実だった。