第2話 値段のつく命
夜の街は、昼間よりもざらついた息遣いをしている。
辺境都市グラドスの裏路地は、月光すらまともに届かない。狭い石畳の隙間からは腐敗した水が染み出し、鼻をつく悪臭が漂っていた。誰もが足早に通り過ぎるこの一角に、灯をともす建物が一つだけあった。――アレン・クロウの診療所である。
「先生……この子を、どうか……」
戸口に現れたのは、痩せ細った母親と、その腕に抱かれた小さな子どもだった。子どもの顔は赤く腫れ、呼吸は浅く、熱に浮かされて意識も朦朧としている。
母親は泥にまみれ、足元は裸足のまま。診療所に駆け込んでくるまでにどれだけの距離を歩いたのか、その姿は疲労と絶望に満ちていた。
アレンは一瞥しただけで、病状を把握する。
「肺炎だな。放っておけば二日ももたない」
母親の顔が恐怖に歪む。だが、アレンは冷徹な声で続けた。
「治療には金がいる」
この言葉に、リアナはわずかに眉をひそめた。彼女もまた、かつて「金がない」という理由で見捨てられた命の一人だったからだ。
だがアレンは視線を逸らさない。闇医者の仕事は慈善ではない。表社会から排除された者を救う代わりに、その分の代価を要求する。そうでなければ、自分たちが明日生きることすらできない。
母親は涙ながらに懐から布袋を取り出した。中には、手のひらほどの銅貨が数枚。到底、正規の治療費には及ばない額だ。
アレンは黙ってそれを手に取り、重さを確かめた。そして短く告げる。
「足りないな」
母親の顔から血の気が引く。
「お、お願いします……この子は、まだ五歳で……。私の命を持っていってもかまいません……」
その言葉に、リアナの胸が締めつけられる。かつての自分の姿と重なったからだ。
アレンはそんな彼女の視線を感じながらも、冷酷な態度を崩さない。
――金がなければ、救わない。それが表の医者の論理だ。
だが、自分は「闇」にいる。
アレンは小さく息を吐き、母親に布袋を返した。
「……銅貨の分だけ働いてもらう。ここにしばらく留まり、掃除でも雑用でもやれ。その代わり、治療は受けさせる」
母親は驚いた表情のまま深く頭を下げた。リアナの胸の奥に、じんわりと熱いものが広がる。アレンの冷酷な態度の裏には、確かに救いの手がある――彼女はその事実を少しずつ理解し始めていた。
治療は迅速に始まった。
アレンの指先から魔力が流れ、子どもの胸に温かな光が注がれる。医療魔法と現代医学の知識を組み合わせたアレンの手法は、表の医者でも成し得ない独自の技術だった。
炎症を抑え、肺に溜まった液体を排出させる。体温を下げる薬草を調合し、粉末を口に含ませる。リアナは緊張した面持ちで手元を見つめながら、次々と指示を受け取っていく。
数時間後――子どもの顔色は徐々に落ち着きを取り戻していた。荒かった呼吸が静かになり、弱々しいながらも母親の手を握り返す。
母親は涙で声を震わせ、何度もアレンに礼を述べた。
だがアレンは表情を変えず、ただ言い放つ。
「礼はいらん。俺は商売でやっている」
その冷徹さに母親は一瞬怯むが、すぐに再び頭を下げた。
リアナはそんな二人の姿を見つめながら、胸の奥に言葉にできない感情を抱いた。
――アレンは、本当に冷たい人なのだろうか。
それとも、冷たさの奥に隠された「何か」があるのだろうか。
その夜、母親と子どもが眠りについた後。
リアナは、器具を片づけるアレンに問いかけた。
「先生……本当は、あのお母さんと子どもをただ助けたかったんですよね?」
アレンは手を止めずに答えた。
「俺は慈善家じゃない。……ただ、医者は“命の値段”を決める役目を負わされている。それだけだ」
リアナは黙り込む。だが、彼女の目にはどこか安心した色が浮かんでいた。
冷たい言葉の裏に、確かに“人を救いたい衝動”が宿っている――彼女はそう感じ取ったのだ。
外の闇は深い。
だがその闇の中で、ひとつの小さな光が今日も揺れていた。
それは人の欲望と絶望にまみれながらも、なお命を繋ぐために燃える灯。
――アレン・クロウという名の「闇医者」の灯であった。