第1話 闇に息づく医者
鉄と石と煤けた煙に覆われた街の片隅、瓦礫を積み上げただけの掘っ立て小屋の奥に、今日も小さな灯が揺れていた。
そこは表向きには「診療所」などと呼べる代物ではない。粗末な机と古びた木箱、数本の薬瓶と刃物、そして薄汚れた布切れが積まれているだけだ。だが、この小さな空間こそが、辺境に生きる人々にとっての唯一の「命のよりどころ」だった。
マギア派の大国は、華やかな中心都市において機械と魔術を融合させた最新の医療施設を誇っている。自動診断機や魔導手術装置、人体を瞬時に解析する水晶端末――それらは確かに、かつての世界の最先端を超える文明の結晶だった。
だが、それはあくまで権力者と富裕層のために用意された世界だ。煌びやかな都市の中心に行ける者だけが、その恩恵を享受できる。貧困層や奴隷、戦争で家を失った難民にとって、それらは絵空事でしかない。
現実の辺境には、病に伏す子どもを抱えながら薬一つ買えずに泣き崩れる母親がいる。戦火に焼かれ、膿にまみれた傷口を抱えながら、ただ腐り落ちるのを待つ兵士がいる。飢えに耐えかね、病に冒されながら、それでも生きようともがく老人がいる。
医療は「存在する」。だが、それを「手にできる者」はほとんどいない。格差と排他性こそが、現代最大の病だった。
その穴を埋めるように現れたのが、裏の医療――「闇医者」である。
彼らは正規の制度には属さず、しばしば法を犯し、時には犯罪組織と取引しながら命を救う。貧者や奴隷、裏社会の人間にとっては、多少怪しげでも「手を差し伸べてくれる」者こそが医者だった。
そして今、この街の片隅に一人の青年がいた。黒髪に灰色の瞳を持ち、冷徹な光を宿すその眼差し。名を――アレン・クロウ。
かつて「黒瀬蓮」と呼ばれた男。前世では日本屈指の医大で准教授を務め、数多の命を救い、また数多の命を看取ってきた天才医師だった。だが同時に、権力争いと裏切りに巻き込まれ、惨たらしい最期を遂げた過去を持つ。
彼はもう、他人を信じない。誰も信用しない。
それでも――彼の手は今も、人を救うために動いている。
「……縫合は完了だ。出血も止まった」
アレンは冷静な声で告げ、血に濡れた針を器用に抜き取った。彼の足元には、盗みを働き兵士に斬られた若者が呻いている。正規の医療施設に行けば、まず門前払いされる類の患者だ。
隣で震える手で薬瓶を差し出しているのは、少女――リアナ。かつて奴隷として瀕死に陥っていたところを、アレンに救われた存在である。
「リアナ、止血用の薬を」
「は、はいっ……!」
少女は慣れない手つきながらも、真剣な眼差しで指示に従う。彼女はまだ医療の基礎すら学び始めたばかりだが、その瞳にはかつての怯えはない。今はただ、目の前の命を救うために動いている。
アレンは黙々と処置を続けながら、心の奥で自嘲する。
――前世で築き上げたキャリアも、名誉も、地位も、今はもう存在しない。だが、皮肉なことに、この荒廃した世界の裏側でこそ、自分の技術は最も必要とされている。
命を救うために医師となり、やがて「闇医者」として再び命を繋ぐ。光の下からは排除され、闇に追いやられた自分だからこそできる仕事。
「お前は運がいい。もう二、三日遅ければ死んでいた」
アレンはそう告げ、患者の肩に布をかけた。若者は涙を滲ませながら、かすれた声で「ありがとう」と呟いた。
だがアレンは表情を変えない。ただ淡々と、針と糸を片づける。
――この世界で「ありがとう」など、何の意味もない。
生き延びるか、死ぬか。それだけだ。
だが同時に、心のどこかで彼は理解している。
自分がこの稼業を続けているのは、決して金のためだけではない。
救えなかった命に取り憑かれ、救いたい衝動を拭い去れないからだ。
辺境の街を吹き抜ける風は冷たい。
それでも、アレン・クロウとリアナの小さな診療所には、確かに今日も人が集まっていた。
――命を繋ぐために、闇に潜む「医者」を求めて。