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プロローグ



黒瀬蓮の人生は、誰から見ても順風満帆に見えていた。

東京でも屈指とされる医科大学で准教授を務め、まだ三十代という若さにして、外科医として確かな腕を持ち、論文発表のたびに国内外の注目を集める。周囲からは「未来の教授」「次代の医学界を担う男」と持て囃され、病院内でも患者や家族から絶大な信頼を寄せられていた。

――だが、彼自身の胸の奥には、いつも冷たいものが巣食っていた。


原因は単純だった。

人を救うための医学という理想と、現実の利権や政治とが、あまりにもかけ離れていると知ってしまったからだ。

患者を救うべき医者が、病院経営の都合で手術を断り、薬の処方ひとつに製薬会社の思惑が絡む。研究室での人事も実力より派閥。臨床試験の成果さえ、上層部の「都合の良い形」に改ざんされることさえある。

蓮はそれを知ってなお、愚直に scalpel を握り続けた。患者の命を救うために。

だが――その姿勢こそが、彼を孤立させ、やがて死へと追いやった。


ある日、蓮のもとに緊急の患者が運び込まれた。

若い女性、二十代半ば。交通事故で内臓が破裂し、出血多量。手術をしなければ数分と持たない重体だった。

蓮は即座に執刀を決断し、手術室へと駆け込んだ。

だがそこで彼を待ち受けていたのは、信じがたい言葉だった。


「この患者はVIPの治療スケジュールに支障をきたす。別の病院に回せ」


病院上層部からの指示だった。相手は製薬会社の会長の娘で、彼女の手術枠が控えているため、設備と人員を割けないというのだ。

目の前で死にかけている命より、権力と金。

蓮は怒りを覚え、無視して手術を始めた。

しかしその決断が、彼の破滅を招いた。


メスを握る蓮の背後で、同僚が冷ややかに言った。

「黒瀬先生、あなたのやり方は組織を壊す。今の行為は、医師としてのキャリアを捨てることになりますよ」

それでも彼は振り返らなかった。

患者の命を救うこと、それが医師の責務だと信じていたからだ。


手術は成功した。女性は奇跡的に一命を取り留めた。

だがその直後、蓮は病院からの査問を受け、准教授の職を解かれる。研究費は打ち切られ、所属していた学会からも追放された。

マスコミに流された記事は「独断専行」「危険な手術を強行し、病院を混乱させた」というものばかりで、彼を擁護する声はどこにもなかった。

助けた患者本人でさえ、病院からの圧力に屈し、彼を弁護することはなかった。


それでも蓮は、まだ医者として立とうとした。フリーの外科医として、小さな病院を転々とし、必要とされる場でメスを握り続けた。

だが、彼を待っていたのはさらなる絶望だった。


ある夜、彼は帰宅途中で襲撃を受けた。

暗い路地、背後からの衝撃。

振り返る暇もなく、腹部に鋭い痛みが走る。

見下ろした刃は、よく切れる手術用ナイフのように光っていた。

加害者の顔は知らない。だが、誰が仕向けたのかはすぐに理解できた。――自分を疎ましく思っていた医療業界の人間か、あるいは権力者か。


血が溢れ、視界が赤に染まる。

倒れ込んだ地面は冷たく、息は次第に細くなっていく。

救急車を呼ぶこともできない。

これが、自分の終わりか――蓮はそう思った。


最後の瞬間、脳裏を過ったのは、これまで救ってきた患者たちの顔ではなかった。

裏切った同僚。見捨てた病院。沈黙した患者。

自分が信じた人々が、誰ひとりとして手を差し伸べてはくれなかった。


――結局、人など信じるに値しない。

そう呟いたとき、彼の心はすべての希望から切り離された。


血に濡れた視界が闇に溶ける。

だが、不思議なことに、そこには恐怖も後悔もなかった。

ただ、凍りついたような冷徹な感情――「人を信じることの愚かさ」を噛みしめる諦念だけが残った。


その闇の中で、黒瀬蓮の人生は幕を閉じた。

――そして、新たな世界で目を覚ますことになる。

かつて救済を願いながら裏切られた医師が、今度は「闇医者」として生きるために。


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