魔法使い適性99%の冒険者はそれでも格闘家になりたい
埃と古いインクの匂いが混じり合うその部屋は、少年ロックにとって世界で一番の遊び場だった。冒険者である父の書斎。壁一面を埋め尽くす本棚には、難解な魔導書や分厚い歴史書、モンスターの生態を記した図鑑などがぎっしりと並んでいる。その背表紙を眺めているだけで、まるで自分がまだ見ぬ世界を旅しているような気分になれた。
父は、めったに家に帰ってこない。けれど、この部屋にいると、父の大きな背中がすぐそばにあるような気がした。いつか自分も父のような冒険者になるのだろうか。そんな漠然とした未来を思い描く、穏やかな昼下がりだった。
その日、ロックはいつものように本棚を探検していた。指で背表紙をなぞり、まだ読んだことのない一冊を探す。すると、一番下の段、ほとんど忘れ去られたかのように埃をかぶった本の隙間に、見慣れない装丁の一冊が挟まっているのに気がついた。
それは、他の魔導書のように革や金属で豪華に装飾されたものではなく、安っぽい紙を束ねただけの、どこか異質な存在感を放つ本だった。興味を惹かれたロックは、そっとそれを引き抜く。
『世界最強グラップラー鉄拳伝・阿修羅のジョー』
表紙には、筋骨隆々とした一人の男が、燃え盛る炎を背景に仁王立ちしている姿が、荒々しい筆致で描かれていた。男は魔法使いが持つような杖も、騎士が佩くような剣も持っていない。ただ、固く握りしめられた両の拳があるだけだった。
「かくとうか…?」
ロックが初めて目にする言葉だった。この世界では、誰もが生まれ持った『適正率』によって人生の道がおおよそ決まる。魔法使い、剣士、聖職者、商人。様々な職業がある中で、「格闘家」という響きは、ひどく時代錯誤で、無謀なものに聞こえた。
ロックはごくりとツバを飲み込み、そっと一ページ目をめくった。
物語は、荒野にそびえる巨大な城塞都市から始まる。主人公の名はジョー。彼もまた、魔法の適性を持たずに生まれた男だった。人々が彼を嘲笑い、蔑む中、ジョーはたった一人、己の肉体だけを信じて鍛え続けた。来る日も来る日も、血の滲むような修行を繰り返し、その拳はいつしか鋼鉄をも砕くほどの威力を宿すようになる。
ページをめくる手が止まらない。そこに描かれていたのは、ロックが知るどんな英雄譚とも違う、圧倒的な熱量を持つ男の生き様だった。
ジョーは魔法を使わない。呪文の詠唱に時間を費やすことも、魔道具の力に頼ることもない。
大地を揺るがす巨大なゴーレムが現れれば、その懐に稲妻のごとく飛び込み、渾身の正拳突きで核を砕く。
空を覆うグリフォンの群れが襲いかかってくれば、天を衝くほどの跳躍から、嵐のような蹴りの連打を叩き込む。
悪徳魔法使いが放つ炎の渦も、氷の槍も、ジョーは鍛え上げた肉体と不屈の闘志だけで受け止め、弾き返し、その元凶へと突き進んでいく。
「俺の魔法は、この拳だ」
作中のジョーは、そう言って不敵に笑う。その姿は、高位の魔法を操るどんな大賢者よりも、ロックの目には輝いて見えた。
物語のクライマックス、国を滅ぼさんとする古の邪竜が復活する。その口から放たれる破滅のブレスは、山を消し飛ばし、大地を焼き尽くすほどの威力を持っていた。王国の騎士団は一瞬で壊滅し、最強と謳われた大魔法使いさえもが絶望に膝をつく。誰もが世界の終わりを覚悟したその時、たった一人、邪竜の前に立ちはだかったのがジョーだった。
『無謀だ!』『死にに行くようなものだ!』
人々の悲鳴を背に受けながら、ジョーは静かに構える。全身の筋肉が隆起し、その体から立ち上る闘気は、まるで陽炎のように揺らめいていた。
邪竜が天を焦がすブレスを放つ。絶対的な死の奔流。しかし、ジョーは退かなかった。彼はその一撃に合わせるように、大地を強く踏みしめ、腰を捻り、ありったけの魂を込めた一撃を天に放った。
「天・覇・絶・掌・衝!」
拳から放たれた衝撃波は、破滅のブレスを真っ向から打ち破り、天を覆っていた暗雲を切り裂き、巨大な邪竜の顎を天高く打ち上げた。それはまさに、拳一つで天を割った瞬間だった。
最後のページを読み終えた時、ロックの頬には涙が伝っていた。胸の奥から、今まで感じたことのない熱い何かが込み上げてくる。感動、興奮、そして何よりも強い、焦がれるほどの憧れ。
魔法が世界の理を支配するこの世界で、己の肉体と努力だけを武器に、伝説を打ち立てた男。その生き様は、少年の心を完全に焼き付くしてしまった。
父のような立派な冒険者になりたい、という漠然とした夢は、この瞬間、確固たる一つの形を結んだ。
書斎の窓から差し込む西日が、部屋を茜色に染めている。ロックは、読んだばかりの本を強く胸に抱きしめた。その表紙で誇らしげに拳を突き上げるジョーに、自分自身の未来を重ねるようにして。
「いつか僕も、伝説に名を残す"格闘家"になるんだ!」
それは、まだ何者でもない少年が、自らの魂に刻み込んだ最初の、そして揺るぐことのない誓い。
この誓いが、後に彼を『数千年に一度の大天才魔法使い』でありながら、万年格闘家見習いを自称する『頑固な変人』へと続く、奇妙で壮大な冒険の始まりになるとは、まだ誰も知る由もなかった。
………
……
…
乾いた埃と、気の抜けたエールの酸っぱい匂いが混じり合う。地方都市の冒険者ギルドを兼ねたその酒場は、昼下がりの気怠い空気に満たされていた。壁には手配書や依頼書が雑然と貼られ、使い古された木製のテーブルには、昨夜の宴の痕跡がうっすらと残っている。カウンターでは屈強な冒険者たちが昼間からジョッキを呷り、テーブル席では次の依頼を求めてやってきた者たちが、くたびれた顔で所在なげに時間を潰していた。活気があるとはお世辞にも言えず、誰もがこの退屈な午後の時間が過ぎ去るのを、ただじっと待っているかのようだった。
そんな酒場の片隅で、一人の男が静かにジョッキを傾けていた。年の頃は二十代半ば。黒い短髪にとび色の瞳を持つその男は、軽装の革鎧を身に着けている。一見すれば駆け出しの冒険者のようだが、その体つきはただ者ではなかった。鎧の上からでも分かるほどに鍛え上げられた筋肉は、しかし剣士のそれとは少し違う、しなやかさと力強さを兼ね備えている。まるで、全身がバネで出来ているかのような印象を周囲に与えていた。男の名はロック。この酒場の常連だが、その素性を詳しく知る者は少ない。ただ、彼がとてつもなく腕の立つ魔法使いであること、そして本人がそれを頑なに認めようとしない変人であることは、この場にいる誰もが知っている事実だった。
カラン、と乾いた音を立てて酒場の扉が開かれた。その瞬間、淀んでいた酒場の空気が一瞬で張り詰める。入ってきたのは、この場末の酒場にはあまりにも不釣り合いな、一人のうら若き女性だった 。
艶やかな銀色の長髪をきっちりと一つにまとめ、知性を感じさせる眼鏡の奥から、青い瞳が店内を冷静に見渡している 。体にぴったりと合った軽装の上から、上質な生地のマントを羽織り、その胸元には銀糸で精巧な刺繍が施された紋章が輝いていた。それは、王都がその叡智と権威のすべてを注ぎ込む組織――『王立魔法ギルド』の紋章だった 。
「おい、見ろよ…」「王立魔法ギルドだぞ…」「なんでこんな辺境のギルドに…?」
冒険者たちの間に、ひそひそとした囁き声が波のように広がる 。畏敬、嫉妬、そして何より強い好奇の視線が、彼女の一挙手一投足に突き刺さった。しかし、彼女はそんな視線を意にも介さない。背筋をすっと伸ばし、優雅ささえ感じさせる足取りで、酒場の中を真っ直ぐに進んでいく。その手には、白銀の美しい装飾が施された、見るからに高価な魔法の杖が握られていた 。
彼女が向かう先は、ただ一点。酒場の片隅で、騒ぎなど我関せずとばかりにジョッキを口に運んでいた、あの男のテーブルだった。
「ロック・マーキュリーさんですね?」
鈴が鳴るような、しかし有無を言わせぬ芯の強さを感じさせる声だった。ロックはゆっくりとジョッキをテーブルに置くと、億劫そうに顔を上げた。
「人違いじゃないのか? 俺はそんな大層な名前じゃない。それに、魔法ギルドに借りを作った覚えはないぜ」
ぶっきらぼうなロックの返答にも、彼女は表情一つ変えない。
「私の名はアリア。王立魔法ギルドに所属する者です 。そして、人違いではありません。あなたをスカウトしに参りました」
「スカウト?」ロックは心底面倒くさそうに眉をひそめた。「何のスカウトだか知らねえが、間に合ってる。俺は今、忙しいんでな」
「いえ、借りなど必要ありません。私たちが求めているのは、貴方のその類まれなる『適正』です。貴方の適正率は――」
「おぉっと! お嬢ちゃん、そこまでだ」
アリアが核心を口にしようとした瞬間、ロックは弾かれたように立ち上がった。その動きは、先ほどまでの怠惰な雰囲気が嘘のように俊敏だった。
「や、用事を思い出した! 急ぎの用だ! じゃあな!」
「あ、待ってください!」
踵を返して逃げ出そうとするロックの背中に、アリアの鋭い声が飛ぶ。彼女は咄嗟に持っていた銀の杖を掲げた。杖の先端に埋め込まれた魔石がまばゆい光を放つ。その光はロックではなく、酒場の隅に置かれていた年代物の機械に向けられていた。
「待ってください! 貴方の適正は……!!」
アリアの声に応えるように、ゴウン、と低い唸り声を上げて機械が起動した。それは『適正率測定器』。この世界に生きる者であれば、誰もが一度は受けたことのある、自らの才能を数値化する魔法装置だ。この世界では、各々が生まれ持った『適正率』によって、冒険や修行で得られる経験値の割り振り先が決まる 。剣を振るえば剣士の経験値が、呪文を唱えれば魔法使いの経験値が、その適正率に応じて効率的に蓄積されていくのだ。それゆえに、適正率は自らの人生を左右する極めて重要な指標とされていた。
測定器から放たれたスキャン用の光が、逃げようとしていたロックの体を一瞬で捉える。ロックは「しまっ…!」という顔で固まり、酒場にいる全員の視線が、測定器の表示盤に釘付けになった。
カタカタと音を立てて、表示盤の数値が凄まじい勢いで上昇していく。
『剣士:0.3%』
『弓兵:0.2%』
『聖職者:0.2%』
『料理人:0.2%』
『格闘家:0.1%』
様々な職業の適正率が次々と表示されては消えていく。適正というにはあまりも残酷な数値ばかりだ。特に『格闘家 0.1%』という絶望的な数値には、何人かの冒険者が同情的な溜息を漏らした。適正率が1%に満たないということは、その道でどれだけ努力をしても、経験値がほとんど得られないことを意味する。才能がない、という冷酷な宣告に等しい。
だが、次の瞬間、酒場の空気が凍りついた。
一つの項目だけが、まるで機械が壊れたかのように、常軌を逸した数値を叩き出したのだ。
『魔法使い:99%』
しん、と酒場が静まり返る。99%。それは伝説や神話の中でしか語られない、天文学的な数値だった。この世界では、一つの適正率に40%もあれば、百年、いや二百年に一人の『その道の天才』と呼ばれ、国中から尊敬と羨望を集める 。37%の適正率を持つアリアでさえ、王立魔法学院を主席で卒業したエリート中のエリートなのだ 。99%など、もはや人間が持ちうる才能の域を超えている。神々に愛された選ばれし者、とでも言うべきか。
しかし、驚くべきことに、周囲の冒険者たちは驚きの声を上げなかった 。ある者はやれやれと首を振り、ある者は呆れたように自分のジョッキに視線を戻す。彼らは知っていたのだ。この男が、その神が与えたもうた途方もない才能を、ドブに捨てるかのように無駄遣いしていることを。
その奇妙な沈黙を破ったのは、当の本人、ロックの絶叫だった。
「ダァーッ!!」
獣のような雄叫びと共に、ロックは振り向きざま、光り輝くチョップを適正率測定器に叩き込んだ 。バヂヂッ!という放電の音と、ガシャン!という金属の砕ける鈍い音が響き渡る。年代物の測定器はひとたまりもなく破壊され、火花を散らしながら沈黙した。
「お、俺は見ての通り格闘家だ!!」
胸を張り、ロックはそう宣言する。だが、その言葉には説得力のかけらもなかった。なにせ、今まさに魔法使いとしての規格外の才能を証明された直後なのだから。
アリアは破壊された測定器には目もくれず、眼鏡の奥の青い瞳を驚きに見開いてロックを見つめていた。
「今…右手が光るのを見ました! それに、この空気中の残留魔素…! 瞬間的に、しかも道具も詠唱も無しに、高密度の魔力を物質化して叩きつけた…『無詠唱』による物理干渉魔法! 噂は本当だったのですね…。これほどの驚くべき才能が、本当に貴方にはあります!!」
興奮を隠しきれない様子で捲し立てるアリアに対し、ロックは顔を真っ赤にして反論する。
「だからぁ! 俺は格闘家なの!!」
「じゃあさっき右手が光ったのはなんだっていうの?! 説明してください!」
「あ、あれは…その…」
ロックは必死に言い訳を探し、脳裏に浮かんだ一冊の聖典から、苦し紛れの言葉をひねり出した。
「『気功』…的な…………」
「はぁあ?! 気功ってなんです?! そんな魔力系統、古今東西のどんな文献にも載っていません! 第一、その魔素の残滓は明らかに魔法のものです!」
「う、うるさい! 気功は気功だ! 鍛え上げた肉体に宿る神秘のパワーなんだよ! お前みたいなひ弱な魔法使いには分からねえ世界だ!」
「ひ弱ですって?! あなたねぇ、自分の適正率をもう一度よく思い出したらどうなんです?! 0.1%の格闘家なんて、それこそひ弱を通り越して無謀でしょう!」
「適正率なんてただの飾りだ! 俺は俺の信じる道を往くだけだ!」
ヒートアップしていく二人の口論。子供の喧嘩のような言い争いに、周りの冒訪者たちも完全に呆れ返っている。その時、二人の間にぬっと大きな影が割って入った。
「あのよう、お二人さん」
低い、地を這うような声だった。そこに立っていたのは、この酒場の店長であり、冒険者ギルドの支部長でもある、ダブという名の巨漢だった。丸太のように太い腕を胸の前で組み、その顔には不満の色がありありと浮かんでいる。
ダブは無言のまま、手に持っていた一枚の紙切れを二人の目の前に突きつけた。それは、先ほどロックが破壊した測定器の仕入れ価格が書かれた請求書だった。
「キコーだかマホーだか、あんたらの痴話喧嘩はどうでもいいが…」
ダブは破壊されて黒焦げになった測定器の残骸を親指でクイと指し示す。
「『それ』、弁償してくれよ?」
その言葉に、今まで激しく言い争っていた二人の動きがピタリと止まった。
「「あっ、はい、すみません…」」
まるで叱られた子供のように、二人は素直に頭を下げた。適正率測定器は、こう見えて非常に高価な魔法道具だ 。特にギルドに設置されている業務用のものは、王都から取り寄せる高級品。駆け出しの冒険者が一生かかっても稼げないほどの金額が、請求書には記されていた。
ロックは顔面蒼白になり、アリアも自分の軽率な行動が招いた結果に言葉を失う。彼女の給料数ヶ月分が軽く吹き飛ぶ金額だ。
そんな二人を満足げに見下ろしながら、ダブはもう一枚、別の羊皮紙をひらひらとさせた。それは、ギルドに張り出されていた依頼書の一枚だった。
「金がねえなら、体で払ってもらうしかねえな。ちょうど、腕利きを探してる依頼がある。お前ら二人で片付けてこい。成功報酬から、測定器代を天引きさせてもらう」
有無を言わさぬ口調でダブが突き付けた依頼書。そこには、こう記されていた。
『緊急依頼:違法呪術師アマルガの逮捕』
こうして、魔法使いとしての道を頑なに拒む『伝説の格闘家』志望のロックと、彼を正しい道(魔法使い)に引きずり込もうと躍起になるエリート魔法使いのアリアは、一台の測定器を弁償するという、あまりにも現実的な理由のために、奇妙な共同戦線を張る羽目になったのであった。
太陽の光を遮る木々が鬱蒼と生い茂る森の中を、ロックとアリアは歩いていた 。ギルドを出てからすでに数時間が経過していたが、二人の間に会話は一切なかった。ただ、互いへの不満を全身で表現するかのように、その足取りは重く、雰囲気は最悪の一言に尽きた。先を行くロックは時折わざとらしく大きなため息をつき、その後ろを歩くアリアは、その背中を射殺さんばかりの冷たい視線で睨めつけている。湿った土の匂いと、時折聞こえる鳥の声だけが、この重苦しい沈黙の気まずさをわずかに和らげていた。
「まったく、とんだことになったな」
ついに沈黙に耐えかねたのか、ロックが独り言のようにぼやいた 。その言葉が、張り詰めていた緊張の糸をあっさりと断ち切った。
「誰のせいなのよ、誰の」
アリアの声は、静かだが氷のように冷たかった 。
「君のせいだろ、どう考えても」 ロックは心底うんざりしたという顔で振り返る。「この伝説の格闘家…になる予定のロック様に向かって『魔法使いギルドにスカウトしに来ました~』なんて、変なこと言うから…」
「はぁ?! どの口がそれを言うんですか!」
アリアの堪忍袋の緒が切れた。彼女は杖を握る手にぐっと力を込め、ロックに詰め寄る。
「魔法使いへの適正が99%もあって格闘家になろうとするあなたの方がよっぽど変でしょう?! それがどれだけ恵まれたことか、分かっているんですか! 適正率の低さから、血の涙を流して魔法使いの夢をあきらめた人を、私は何人も見てきました! あなたのその態度は、そんな人たちへの冒涜です!」
その言葉には、彼女自身の経験からくるであろう、切実な響きが込められていた。王立魔法学院にいた頃、才能の壁に絶望し、去っていった友人たちの顔が脳裏をよぎる。誰もが焦がれる才能を、この男はまるでガラクタのように扱っている。それが許せなかった。
「じゃあ俺はどうなんだよ?!」
ロックも負けじと声を荒らげる。
「適正率が0.1%だからって、格闘家の夢をあきらめろって言うのか?! 俺の努力や、俺の憧れは、全部無駄だって言うのか?! そんなの嫌だね! いいか、適正率なんて一種の指標でしかないんだ! 生まれ持った才能だけで人生が決まるなんて、そんなくだらない常識、俺がこの拳で覆してやる! 俺はそれを証明するためにもだなぁ……!!」
「そんな…むぐっ?!」
ロックの熱弁を遮ったのは、ロック自身の大きな手だった。彼は一瞬で表情を険しいものに変えると、アリアの口を乱暴に、しかし有無を言わせぬ力で塞いだのだ 。
「今更遅いが騒ぐな、囲まれたみたいだ…!」
耳元で囁かれた低い声に、アリアは驚きで目を見開く 。ロックの体からは、先ほどの子供じみた雰囲気は消え失せ、歴戦の冒険者のような鋭い緊張感が発せられていた。彼の言う通りに周囲に意識を集中させると、アリアは息を呑んだ。
いつの間にか、鳥の声も、風で葉が擦れる音も、すべてが消え失せていた。不自然なまでの静寂。そして、その静寂の中から、ぬぅっと無数の影が現れた。
それは、子供ほどの大きさしかない、木彫りの人形だった。つぎはぎだらけの体、節くれだった手足、そして顔にはただ黒い穴が開いているだけの、感情の読めない不気味な小鬼型の呪具 。その手には、粗末な槍や弓が握られており、その切っ先はすべてロックとアリアに向けられていた 。一体一体は脅威ではない。だが、その数はざっと見て五十体以上。完全に包囲されていた。
ロックとアリアが臨戦態勢を整えると、森の木々がまるで意思を持ったかのように不気味にざわめき、一つの歪んだ笑い声となって響き渡った 。
『ほう! ほうほうほう! まさか、この吾輩、アマルガ特製の『沈黙人形』達の気配に気づくとはねぇ! 大した手品だ。どんなトリックを使ったのだね?!』
ねっとりと絡みつくような、不快な声。姿は見えないが、この人形たちの主、違法呪術師アマルガ本人であることは疑いようもなかった。
「手品じゃねえ。一流の格闘家は殺気にも敏感なんでな。お前みたいな三流の放つ邪悪な気配を見抜くのさ!」
ロックは悪態をつきながら、ファイティングポーズを取る。
(絶対嘘だ)
アリアはロックのハッタリを心の中で一蹴し、冷静に状況を分析した 。彼女は杖を軽く構え、意識を集中させて周囲の魔素の流れを探る。
(そうか、この人形達は全て木製… 周辺の木々と同調することで、自身の魔力的な存在感を完全にカモフラージュしていたんだわ… 。普通の魔法使いなら、これほどの数に囲まれるまで気づくことすらできない。けれど、ロックはその僅かな魔素の乱れ…いいえ、乱れというより、不自然なまでの“静寂”を肌で感じ取ったんだ…! まるで水面に広がる微細な波紋を捉えるように。なんて繊細な魔力感知能力…! やはりただ物じゃない…!)
アリアの分析能力もまた、常人の域を超えていた。彼女の思考を読み取ったかのように、アマルガの声が再び響く。
『そちらのお嬢さんは理由に気付いたようだな。 ンンー、実に賢そうだ。まぁ後でゆっくりお話ししようじゃないか、君たちが死んだ後、その美しい骸とたっぷりとね! さあ、やれ! 沈黙人形たちよ!』
アマルガの号令と共に、人形たちが一斉に動き出す。木々の上に陣取っていた弓兵型の人形が、無数の矢を放ってきた 。
「何をう! 正義の鉄拳! 受けて見ろ!! うぉーっ!!」
ロックは威勢よく叫び、敵陣の真っ只中へと突っ込んでいく 。アリアが「あ、ちょ、無策に突っ込んでも…!」と叫ぶも、すでに遅かった 。
しかし、そこで繰り広げられた光景は、アリアの想像を絶するものだった。ロックは、特に抵抗する事も出来ず「ぎゃあーっ!!」っと情けない悲鳴を上げながら、降り注ぐ矢の雨の中を無様に転げまわって避けるだけだったのだ 。泥にまみれ、木の葉を体中にくっつけ、お世辞にも格好いいとは言えない。
「いてっ! あちっ! こっち来んな!」
避けた先では、槍を持った人形たちが待ち構えており、その槍先でぷすぷすとロックの体を遠慮なく突きさす 。
「ひぃっ! やめろ! くすぐったいだろうが!」
ロックはまたも甲高い悲鳴を上げて飛び上がる 。ようやく態勢を立て直したかと思えば、「こなくそ!!」と渾身の蹴りを放つが、それは見事に空振りし、逆に体勢を崩したところを人形に殴られるありさまだった 。
(なんて無様な動き…)
アリアは呆れてものが言えなかった。だが、彼女はすぐに気づく。その無様な動きの中に隠された、異常なまでの正確性に。
(待って…無様だけど、致命傷は全て避けている? 矢は鎧の硬い部分を掠めるだけ。槍も、急所を的確に外した箇所にしか当たっていない。まるで、攻撃がどこから、どのタイミングで来るのか、最初から分かっているみたいに…! これが彼の言う『格闘家の勘』…? いや違う、これは…! 人形を動かす微細な魔力の流れを、彼はその肌で直接感じ取っているんだわ! だから、人形が動くよりもコンマ数秒早く、次の攻撃を予測して体を動かせるんだ…! なんてこと…戦闘を、まるで未来予知でもしているかのように…!)
ロックが行っているのは、魔法使い適性99%の恩恵である超高精度の『魔素探知』を、無意識レベルで格闘の動きに応用するという、前代未聞の離れ業だった。本人はそれを「格闘家の勘」と信じ込んでいるようだが、その実態は神業の域にある魔法技術の応用だったのだ。
一通り沈黙人形からの手荒い洗礼を受け、服はボロボロ、顔は煤と泥で汚れきったロックは、半泣きになりながらアリアの元へと戻ってきた 。
「た、たいひたことないじぇあいひゅら!(大したことないぜあいつら!)」
口元が腫れているせいで呂律が回っていないが、その表情はなぜか得意げだった 。
森に、再びアマルガの呆れ返ったような声が響く。
『……そこの男は、馬鹿なのかな?』
「ええ、かなりの馬鹿です」
アリアは即答した。そして、声の主に向かって、挑戦的な笑みを浮かべる。
「…貴方もね!」
呆れた様子のアマルガを他所に、アリアは携えていた銀の杖を天高く掲げた 。その杖の先端にある魔石が、森の薄闇を吹き飛ばすほどのまばゆい光を放ち始める。ロックが人形たちの注意を引きつけ、無様に転げまわっていた、まさにその時間稼ぎの間に、彼女はすでに魔法の詠唱を完成させていたのだ 。
「裁きの矢、天より落ちて悪しきを射貫け! 『ジャッジメント・レイ』!!」
アリアの凛とした声が響き渡ると同時に、天蓋を覆う木々のさらに上空に、巨大な魔法陣が展開される。そして、そこから無数の微細な光の矢が、雨のように降り注いだ 。その一筋一筋が、恐るべき魔力を秘めた必殺の矢。光の奔流は、寸分の狂いもなく、一体一体の沈黙人形の頭上へと正確に降りかかり、その体を貫いていく。
木製の人形たちは、聖なる光の力に耐えられるはずもなく、次々と浄化の光に包まれては塵となって消えていった。その威力は、小型の沈黙人形に対しては十分すぎるほどで、あれほどいた人形の群れは、ほんの十数秒で一掃されてしまった 。
『ほほーう? お嬢さんは中々やるようだね… 。どうせギルドから私を捕まえに来たとかそんな感じだろう。いいだろう、屋敷で待っているよ 。そこの間抜けな男と一緒に、たっぷりと可愛がってあげようじゃないか、ははははは……!』
高らかな笑い声を最後に、森に響いていたアマルガの気配はすっと消え、後に残るは焦げた土の匂いと完全な静寂のみとなった 。
「その……大丈夫? 傷なら私が治せるわ…」
自業自得とはいえ、目の前でボロボロになった相手にこれ以上きつい言葉をかけるのは、さすがに気が引けた。もしかしたら、自分の無力さを痛感して、少しは反省しているかもしれない。そんな淡い期待を胸に、アリアはロックに話しかけた 。
だが、ロックはアリアの心配を、実に腹立たしい形で裏切った。
「ふん、やっぱり大したことなかったな!」
振り返ったロックは、なぜかピンピンしていた。服こそボロボロだが、先ほどまであったはずの擦り傷や打撲の痕が、跡形もなく消えている。おそらく、治癒魔法をこれもまた無詠唱で使ったのだろう。それもムカつくぐらいに、その表情は自信に満ち溢れていた 。
「それもこれも、この俺が奴らの注意を引きつけ、時間を稼いだおかげだな! いやー、我ながら見事な立ち回りだった!」
「違う、ぜーったい違う!」
アリアは、淡い期待を抱いた数秒前の自分を殴ってやりたくなった。
「今のは私の活躍です! 私の魔法が全部倒したんです! あなたはただ、転げまわってただけじゃないですか!」
「そ、そんなことないもん! 俺の華麗な動きに敵は翻弄されていた! 絶対一体ぐらいは俺の蹴りで倒してたって…!!」
「一体も倒せてませんでした! 私、全部見てましたから!」
「見てたなら分かるだろ! 俺のあの神がかり的な回避術が!」
「あれはただ無様に転がってただけです!」
再び始まる、不毛な口論。アリアは、もうしばらく、この途方もなく才能豊かで、途方もなく面倒くさい男と一緒にいなければならないという現実に対して、心の底から気が重くなるのだった 。この依頼、本当に無事に終えることができるのだろうか。一抹の、いや、かなり大きな不安が彼女の胸をよぎった。
沈黙人形の群れを退けた後、ロックとアリアは再び森の道中を歩んでいた。先ほどまでの険悪なムードは幾分和らいだものの、二人の間に流れる空気は依然としてぎこちない。アリアはギルドから渡された地図を広げ、目的の場所を確認しながら歩を進めている。一方のロックは、腕を組み、何か考え込むような顔で黙って前を見つめていた。
「この分かれ道を右に行けば、そろそろアマルガの屋敷が見えてくるはずです」
アリアが地図と周囲の景色を見比べながら言った、その時だった。
「なあ」
不意に、ロックが脚を止めた。
「そういえばさ、アイツ、屋敷で待つとかなんとか言ってたよな」
「ええ、ですから地図通りにアマルガの屋敷へ向かっているんじゃないですか」
アリアが怪訝な顔で答えると、ロックはニヤリと口の端を吊り上げた。
「多分嘘だぜ、それ」
「え?」
「考えてもみろよ。あんなに用心深い奴が、わざわざ自分からアジトの場所を教えると思うか? 罠に決まってる」
ロックはそう言うと、森のさらに奥、地図には載っていない方角を指さした。
「本物は森の中…それも洞窟の中にいるな。屋敷にいるのは、せいぜい幻術と囮の罠だけだ。それとなんか、やけにデカい気配もあるな…」
アリアは眉をひそめた。ロックの言葉は、ただの憶測とは思えないほどの確信に満ちている。
「どうしてそれを… まさか、あの声だけで魔力的な位置を特定したとでも言うのですか?」
「気だよ! 気!」ロックは待ってましたとばかりに胸を張る。「一流の格闘家は、万物の発する『気』の流れを読めるんだ。あいつの放つ邪悪で陰湿な気は、こっちの方角からビンビンに感じられるのさ! なんかこう…どうこうして気配を察知できるんだよ!」
また始まった、とアリアは内心で深いため息をついた。彼の言う「気」が、超高精度の魔力探知能力であることは火を見るより明らかだ。だが、ここでそれを指摘しても、また不毛な口論になるだけだろう。そして何より、彼の自信に満ちたそのとび色の瞳には、嘘やハッタリを言っている者のそれではない、純粋な確信の光が宿っていた。
「……今はそういう事にしておきましょう。それで、案内は出来ますか?!」
「おう、任せとけ! こっちだ!」
アリアが折れたのを見て、ロックは満足げに笑うと、地図を無視して森の奥深くへと分け入っていく。アリアは一瞬躊躇したが、意を決してその後を追った。この男の常識外れな才能には、もう付き合うしかない。そんな諦めにも似た覚悟が、彼女の中で芽生え始めていた。
ロックの案内に従い、二人は道なき道を進んでいく。下草をかき分け、絡みつく蔦を払い、獣道とも呼べないような険しい斜面を登る。森は次第にその様相を変え、木々の密度は増し、太陽の光さえ届かない薄暗い領域へと足を踏み入れていた。空気はひんやりと湿り気を帯び、苔のむした岩や倒木が、まるで異世界の生き物のように不気味な影を落としていた。
やがて、二人は巨大な岩壁の前にたどり着いた。一見、ただの崖にしか見えないが、ロックは迷わずその壁の一点を見つめている。
「ここだ。この奥にいる」
彼が指さす場所には、びっしりと生えた蔦やシダ植物に隠れるようにして、ぽっかりと口を開けた洞窟の入り口があった。入り口からは、生暖かく、カビ臭い空気が淀みとなって流れ出してきている。ここが、違法呪術師アマルガの本当のアジト。
二人は顔を見合わせ、静かに頷くと、意を決して洞窟の内部に足を踏み入れた。
洞窟の中は、異様な匂いに満ちていた。様々な薬草や鉱物が混じり合ったような甘くむせ返る匂いと、微かな血の匂い。壁には松明が灯され、その揺らめく光が、洞窟の壁一面に描かれた不気味な紋様や呪詛の文様を妖しく照らし出していた。洞窟の最奥には、動物の頭蓋骨や奇妙な偶像が並べられた祭壇のようなものがあり、その中央に、一人の男が背を向けて立っていた。
「おや、おやおやおやおや…?!」
男がゆっくりと振り返る。痩身の体に、びっしりと不気味な刺青を施した、あの呪術師アマルガその人だった。 彼の顔には、一瞬の純粋な驚きが浮かび、しかしそれはすぐに、ねっとりとした愉悦の笑みへと変わった。
「どうしてここが分かったんだい? 律儀に屋敷で待つと言ったのにねぇ…?」
「お前の放つ邪悪な気は、そんな子供だましの嘘で誤魔化せるほど、薄くはないってことだ!」
ロックが言い放つと、アリアが一歩前に出て、銀の杖をアマルガに突きつけた。
「もうそれでいいです…。覚悟なさい、違法呪術師アマルガ! 王立魔法ギルドの名において、あなたを逮捕します! 違法な呪具の製造、および向精神性薬物の調合、販売の他、ここ数年で多発している多数の冒険者の失踪事件にも関与していますね! あなたには様々な容疑が掛けられています!」
凛としたアリアの口上を聞いて、アマルガは肩を揺らして笑った。
「あぁ、もう聞き飽きたよ、その正義の使者ぶった口上は。まぁいいさ、どうせ君達もすぐに『多数の冒険者』の内の一人になるのだからねぇ!」
アマルガは不吉な叫びと共に両腕を天に突き上げた。その瞬間、彼の体から禍々しい紫色のオーラが噴き出し、洞窟全体が激しく揺れ動く。それと同時に、洞窟そのものが、まるで生き物のように不気味な脈動を始めた!
ゴゴン、と地響きが鳴り響き、壁の岩がぐにゃりと歪んで肉のように盛り上がる。天井から垂れ下がっていた鍾乳石は、鋭い牙へと姿を変え、床からは粘液を滴らせる触手のようなものが無数に生えてきた。
「まずい! 一旦外に出るぞ!!」
ロックは叫ぶと同時に、アリアの腰をぐいと引き寄せ、その体を力強く抱きかかえた。次の瞬間、二人の体は光の粒子となって掻き消え、一瞬で洞窟の外へとテレポートする。
アリアが何が起こったのかを理解した時には、すでに二人は洞窟から数百メートル離れた場所に立っていた。そして、目の前に広がる光景に、彼女は言葉を失った。先ほどまで洞窟だった場所…いや、山脈の一部そのものが、恐るべき肉の塊に姿を変え、巨大な怪物として目の前にそびえ立っていたのだ!
「そん、な…あの洞窟全体が、アマルガの契約した魔物だったというの……?!」
「ははははは!! その通りだよお嬢さん! これが僕の最高傑作、僕の魂そのもの! 我が契約獣『ミグラスの巨怪』さ!!」
怪物の肉塊の中心部、アマルガがいたであろう場所が裂け、彼の顔が浮かび上がる。ミグラスの巨怪と完全に一体化したアマルガは、狂気の笑みを浮かべ、山のような巨体から巨大な腕を振り下ろしてきた。
ゴオオオオッ! という轟音と共に、森の木々がなぎ倒され、大地が砕ける。ロックはアリアを抱えたまま、小刻みなテレポートを繰り返し、巨怪の猛攻を紙一重で避けていく。だが、攻撃の範囲と威力はあまりに絶大で、ロックの顔からは次第に余裕が失われ、額には玉の汗が浮かんでいた。
「そらそらぁ! どうしたんだい? 逃げてばかりじゃないか! 反撃しないと、いつか潰してしまうよぉ!!」
アマルガの嘲笑が森に響き渡る。ロックは歯を食いしばり、ただひたすらに回避に専念していた。
「ちょっと、ロック! 逃げてばかりではジリ貧です! 少しは反撃しないと…! ロック!!」
アリアがロックの腕の中で叫ぶ。しかし、ロックからの返事はなかった。彼は巨怪の次の一撃を避けた後、大きく距離を取るように後方へテレポートすると、暴れる巨怪を横目に、ぽつりとアリアに問いかけた。
「なぁ…アンタは…どう思う?」
「え?」
「俺は、今までずっと努力してきたつもりだ。伝説の格闘家になるために…。でも、やっぱり全然ダメなんだ。さっきだってあの有様で…今は、正直に言って、魔法じゃなきゃコイツに勝てる気すら起こらない…」
その声は、いつもの虚勢に満ちたものではなく、か細く、弱々しかった。
「ガキの頃、格闘家の道場に通ったこともあるんだ…。でも、俺のパンチは誰よりも遅くて、誰よりも弱かった。適正率0.1%ってのは、そういうことなんだって、嫌でも思い知らされた…。『お前は殴る才能より、殴られる才能の方がある』って、道場の連中に笑われた日もあった…」
ロックの脳裏に、苦い記憶が蘇る。汗と土埃にまみれた道場。必死にサンドバッグを叩いても、同年代の子供たちのような乾いた快音は決して響かない。組手になれば、どんなに食らいついても、その拳が相手に届くことはなかった。ただ、頑丈さだけは人一倍で、サンドバッグ代わりに殴られ続ける日々。その悔しさが、彼をより一層頑なにさせてきた。
「俺のしてる努力は、全部無駄なのか? やっぱりこの世の中、才能が全てなのか? 今ここでコイツを魔法で倒したら、それを…俺自身が認めた事になっちまう気がしてさ…」
アリアは迷った。この男は、どうしようもない変人だ。だが、彼が血の滲むような努力を重ねてきたことは、本当なのだろう。そのゴツゴツとした拳のタコが、無数の古傷が刻まれた体が、何よりも雄弁にそう語っていた。 彼の夢を、その矜持を、ここで踏みにじってしまっていいのか。
だが、眼前に迫る絶望的な脅威と、彼の腕の中で感じる魂の震えが、アリアに答えを促す。今、彼にかけるべき言葉は、同情や慰めではない。
「例え…それまでの努力や拘りを、全てかなぐり捨ててでも、勝ちに行かなければならない時があります!!」
アリアは、ロックの胸倉を掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめて叫んだ。
「それが、まさに今です!!」
「!!」
「それに、考えてもみてください! 伝説の格闘家でなくとも、あなたが今すぐなれるものがあるわ!」
「…何だい、それは?」
「あの怪物を倒した英雄、です!」
英雄。その言葉は、ロックの心に深く突き刺さった。伝説の格闘家。英雄。どちらも、人々を救い、希望を与える存在。道は違えど、その輝きは同じではないのか。
「……悪くないな!」
ロックの顔から、迷いが消えた。彼はアリアをそっと地面に降ろすと、不敵な笑みを浮かべて再び巨怪アマルガの前へと躍り出た。
「おや、かくれんぼはおわりかな?」
「あぁ、お前の負けでな!」
「言うねえ!!」
激昂したアマルガが、巨怪の両腕を天高く振り上げ、ロックを圧し潰そうと叩きつけてくる。それに対し、ロックは逃げも避けもせず、対抗するように両手を天に広げた。
次の瞬間、地面が轟音と共に隆起し、巨大な岩の腕となって巨怪アマルガの剛腕を真っ向から受け止めた。
だが、驚きはそれだけでは終わらない。巨怪の腕を受け止めた大地の腕は、瞬時に赤熱化し、灼熱の溶岩となって巨怪の肉体をジュウジュウと焼き始めたのだ!
「こ、これは!! 『無詠唱』で、土と火の魔法を同時に発動させる『二重詠唱』、さらにそれを融合させる『混合魔法』だとでも言うのか?! だが!!」
驚愕の声を上げるアマルガだったが、無理やりパワーで大地の腕を振り払うと、今度はその体から無数の肉の触腕を伸ばし、嵐のような勢いでロックに襲いかかった。
「一度に三つの魔法は使えまい!!」
「そいつは、どうかな!」
ロックの周囲に、突如として無数の斬撃質を持った烈風の竜巻が舞い起こり、迫りくる触手をズタズタに寸断していく。それは紛れもなく、風の魔法の顕現だった。
「と…『三重詠唱』だとぉおお!!」
アマルガが呆気に取られた、その一瞬の隙。ロックはそれを見逃さなかった。彼が作り出した灼熱の溶岩の腕は、今や斬撃の竜巻をその身に纏い、豪熱と斬撃の螺旋を描く必殺の槍となって、ミグラスの巨怪の胴体部分を、アマルガの核ごと貫いた。
ズズズン…! と地を揺るがす轟音と共に、巨怪の体は崩れ始め、その巨体はただの土と岩くれに戻っていく。
「ば、馬鹿な、ありえない…。この、呪術適合率60%の天才であるこの私が…たった一人の人間に…押し負けるなどとぉ…!」
「上には上がいるものよ、アマルガ」
崩れ落ちた瓦礫の中から這い出てきたアマルガに、アリアが冷たく言い放つ。
「そうだーっ! 正義の鉄拳ならぬ、正義のキックを喰らえーっ!!」
這う這うの体で逃げ出そうとしたアマルガの背中に、ロックの渾身の飛び蹴りがクリーンヒットする。
「ぐはぁっ?!」
無様に地面を転がったアマルガを、アリアがすかさず放った捕縛魔法の光の縄が幾重にも縛り上げた。
長かった戦いが、ついに終わったのだ。
「ふぅ…」
ロックは、憑き物が落ちたような穏やかな顔で一つため息をつくと、アリアの方を振り向き、はにかんだような、それでいて晴れやかな笑顔で短く言った。
「帰るか」
アリアも「ええ」と頷き、二人の間に安堵の空気が流れた、その時だった。
「ふ…ふはははははは!」
地面に転がされたままのアマルガが、突然、狂ったように笑い出したのだ。 その笑い声は、敗者のそれではなく、これから始まる何かを愉しむかのような、不気味で歪んだ響きを持っていた。
「やるねぇ実にやるよねぇ!まさかこんな才能の持ち主がこの世にいるなんて思いもよらなかった!大したものだ、本当に! だが、それ故に私を本気にさせてしまったようだねぇ!」
ロックとアリアが警戒して身構える中、アマルガはせせら笑いを浮かべながら、ゴリッ、と嫌な音を立てて奥歯を思い切り噛み締めた。
「何をしたの?!」
アリアが叫ぶ。アマルガの口の端からは、黒い血のような液体がどろりと流れ出ていた。彼の体は見る見るうちに生気を失い、肌は土気色に変わっていく。
「猛毒だよ…奥歯に仕込んであったのさ…」アマルガは途切れ途切れの声で、しかし満足げに囁いた。「安心しなよ…君らに害はない…ただ…封…印…が………」
それが、彼の最期の言葉だった。不気味な笑みを顔に貼り付けたまま、呪術師アマルガは絶命した。
「封印…まさか!!」
アリアの顔から血の気が引いた。彼女は絶望的な表情で、アマルガの亡骸を見つめる。
「どういうことだ、アリア!」
「呪術師の中には、自分の命そのものを『鍵』にして、より強力な契約獣を封印する者がいるんです!普段は己の魔力で封印を維持し、万が一、自分が死んだ時には…その死をもって封印が解かれ、契約獣が完全に解放されるという、最悪の置き土産…! アマルガが死んだ今、その魔獣が…!!」
「屋敷にいたデカい気配か!!」
ロックの脳裏に、森の奥の屋敷から感じ取っていた、あの得体の知れない巨大な気配がよぎる。二人は弾かれたように走り出し、近くにあった小高い丘の上へと駆け上がった。
そして、眼下に広がる光景に、言葉を失った。
遥か先、アマルガが罠として用意していたであろう屋敷が、まるで悪夢の具現のようにその姿を変えていた。屋敷の土台からは、巨大な昆虫のような不気味な四つ足が生え、壁や屋根は脈打つ甲殻のように変質している。自走する巨大な怪物と化したアマルガの屋敷が、ゴゴゴゴゴ…と地響きを立てながら、猛然と、彼らがやってきた地方都市の方角へと突き進んでいくのが見えた。
「なんてこと…!」
アリアが絶望に打ち震える。あの巨体が街にたどり着けば、被害は計り知れない。今からギルドに知らせに戻っても、到底間に合いはしないだろう。
ロックは、進撃する怪物の姿と、その先に見える街のささやかな灯りを、ただ黙って見つめていた。彼の脳裏に、アリアの言葉が反響する。
「……例え…それまでの努力や拘りをかなぐり捨ててでも、勝ちに行かなければならない時がある…か…!」
そうだ。夢を追いかけることと、目の前の命を見捨てることは違う。伝説の格闘家は、きっとこんな時、全てを懸けて人々を守るはずだ。ならば、今の自分にできることは、ただ一つ。
「ロック…?!」
ロックの纏う空気が変わったことに、アリアが気づく。先ほどの迷いや葛藤は、もはやどこにもなかった。そこには、一つの覚悟を決めた男の、静かで、しかし燃えるような決意だけが存在していた。
「行ってくる」 ロックはアリアの方を振り向かず、怪物を見据えたまま言った。「そこで証人になってくれ。町を救った英雄って奴のさ!!」
その言葉に、アリアはハッとする。彼が自分に求めているのは、単なる目撃者ではない。彼の戦いを、彼の選択を、彼の生き様を、その目に焼き付けてほしいという、魂の願いだった。
アリアが何かを言う前に、ロックの体は光の粒子となってその場から消え、次の瞬間には、猛進する怪物の目の前に立ちはだかっていた。
「俺の力…ありったけを込めた一撃を…!!」
巨大な怪物が、邪魔な小虫を払いのけるかのように、その巨腕を振り下ろす。しかし、ロックは動じない。彼はゆっくりと息を吸い込み、これまで何万回、何十万回と反復練習を重ね、ようやく己の血肉とした、一つの格闘技の構えを取った。
どっしりと腰を落とし、大地に根を張るように両足で踏みしめる。左手を前に、右手を腰だめに引き、僅かな体の回転と、全身のバネをしならせるような捻りを加えて、渾身の『正拳突き』を放つ。
それは、彼が憧れた伝説の格闘家『阿修羅のジョー』の必殺技には遠く及ばない、ただ基本に忠実な、まっすぐな突きだった。
だが、それもただのパンチではなかった。
ロックの右拳に、彼の持つ無限に近しい魔力が、一つの点へと収束していく。空気が歪み、空間が軋み、彼の拳は太陽そのもののような凄まじい光と熱を放ち始めた。
そして、放たれる。
その一撃は、まさに、
『ビッグバン』
世界の始まりを告げるかの如き、絶対的な威力を伴う光の奔流となって、自走する屋敷の怪物を飲み込んだ。音さえも置き去りにするほどの閃光が世界を白く染め上げ、やがて光が収まった時、そこには何も残ってはいなかった。巨大な怪物は、その進路上にあった森の一部もろとも、跡形もなく粉砕され、消滅していたのである。
「ロック!!」
アリアが丘の上から駆け下りてくる。爆心地の中心に、ロックは立っていた。服はところどころ焼け焦げ、息も絶え絶えだったが、その体は確かにそこにあった。
「貴方、今の技…」
アリアは、先ほどの光景が信じられなかった。あれは、魔法だ。それも、国家さえ滅ぼしかねないほどの、戦略級、いや神話級の大魔法。だが、その根源となった動きは、紛れもなく…。
「へへっ、魔力を思いっきり込めただけのパンチさ…」 ロックは照れくさそうに頭を掻いた。「すげぇ『魔法』だろ?」
その言葉を聞いて、アリアは静かに首を横に振った。
「ううん…」彼女は、確信を持って言った。
「今のは…格闘技よ…。貴方は、あの瞬間だけ貴方は確かに、格闘家だった…!」
その言葉に、ロックは目を丸くした。 ずっと追い求めてきた夢。誰にも理解されず、笑われ続けた道。それを、王立魔法ギルドのエリートである彼女が、認めてくれた。
「そ、そうか、そうかなぁ! へへ! でぇへへへへへ!!」
喜びをどう表現していいか分からないのか、ロックは顔を真っ赤にして、実に奇妙で締まりのない笑い声を上げた。
「笑い方、気持ち悪いわね…」
「いや、褒められ慣れてなくて…でへ、でへへへへっへー!!」
アリアの呆れたツッコミも、今のロックには最高の賛辞に聞こえるのだった。
………
……
…
数日後。冒険者ギルド兼酒場は、祝賀ムードに包まれていた。
「いやー、良かった良かった! 呪術師を倒して、その上奴が飼ってた化け物を二匹共倒しちまうなんてよ?」
店長のダブは、カウンターでそろばんを弾きながら上機嫌で言った。あの後、アマルガの死体と、二匹の怪物の残骸(片方はほとんど残っていなかったが)はギルドによって回収され、ロックとアリアの功績は正式に認められたのだ。
「それで、そのう…」
ロックは落ち着かない様子で、カウンターの前に立ち、ダブの次の言葉を待っていた。
「あぁ、測定器なら前より良いのを買えそうだよ。お釣りも出るぐらいだ。せっかく街を救うほどの大活躍をしたんだ。分け前だってどっさりやろうじゃないか!」
「いやぁ、そうじゃなくてぇ…でへへ…」
ロックが期待しているのは、報酬の額ではない。もっと、こう、別の何かだ。
「あー…そうだな! 分かってるって!」 ダブはニヤリと笑うと、大声で酒場中に呼びかけた。
「お前ら、聞け! 今夜は宴だ! 町を救った英雄二人…特にロックの奢りだぜ!!」
「なんで俺の奢りなん…ああ!いや、うん!良い!とってもいいと思う!とってもいいと思うけど…なんかもう一言、足りなくないか?」
ロックが必死にアピールする。ダブはうーんと少し考え込むと、「あぁ、そういうことか!!」とポンと手を打った。
「よし、お前ら! 改めて乾杯だ! 町を救った『大魔法使い』ロックに、乾杯と行こうじゃないか!!」
「「「おおーっ!! 大魔法使いロックに乾杯!!」」」
「そうそう大魔法使…え?!」
酒場の冒険者たちがグラスを掲げる中、ロックは固まった。
「だって、そうだろう?」 ダブは不思議そうに言う。「お前さんが魔法を使わずに、どうやってあの化け物二匹を倒したって言うんだ?」
「ぐむ…!!」 ロックは反論できない。「あ、アリアは! アリアに聞けば分か……!」
そうだ、証人がいる。彼女なら、最後の技が格闘技であったと証明してくれるはずだ。
「あのお嬢ちゃんなら、王立魔法ギルドに正式な報告があるからって、さっき慌てて帰っちまったよ」
「オ゛アァーッ!! 俺の証人がーッ!!」
ロックの悲痛な叫びが、酒場の喧騒に虚しく響く。
「まぁ細かい事は良いじゃないか、それじゃあ改めて『大魔法使い』ロックに…!」
ダブが再び乾杯の音頭を取ろうとした、まさにその瞬間だった。
「ロック! やっぱりここにいたのね!」
酒場の入り口に、光の粒子がきらめき、そこからアリアがテレポートして現れた。
「あ、アリア!」
救いの神が現れた、と言わんばかりにロックはアリアに縋りつこうとする。だが、その体は、逆にアリアによって首根っこを掴まれ、ずるずると酒場の外に連行されてしまった。
「『大魔法使い』ロックに乾杯!!」という酒場の連中の陽気な声が遠ざかっていく中、ロックは再び失意の底に沈んでいく。
酒場の外に出されたロックが肩を落としていると、そこへ一人の少年が駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、あのお屋敷の怪物、やっつけてくれた人だよね?」
「へ? あ…ああ、うん、一応…」
ロックが力なく肯定すると、少年は目をキラキラさせて、にっこりと笑った。
「お兄ちゃん、すごかった! 最後の『パンチ』、お父さんが昔話してくれた、伝説の格闘家みたいだった! 僕、大きくなったらお兄ちゃんみたいな格闘家になる!」
「!!」
その言葉は、どんな報酬よりも、どんな称号よりも、ロックの心に深く、温かく染み渡った。
「そ、そうかぁ…!!」
ロックの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。例え大衆は認めてくれなくとも、この街の誰一人として分かってくれなくても、たった一人、自分の戦いを、夢を、見ていてくれた人がいた。その喜びを、彼はただ噛みしめていた。
「お兄ちゃん、頑張ってね!」
「う゛ん゛…俺゛、頑゛張゛る゛よ゛ぉ゛…」
子供のようにしゃくりあげて泣くロックの姿を、アリアは少し呆れたように、それでいてとても優しい笑みで見守っていた。
…
少年が走り去った後、ようやく落ち着きを取り戻したロックは、アリアに事情を聴いた。
「そ…それで、どうしたんだよ一体! 報告は終わったのか?」
「あ、コホン…」 アリアは一つ咳払いをすると、気まずそうに言った。「貴方、ここ十年で9回も王立魔法ギルドからの勧誘を断っていたんですね…。私ので、記念すべき10回目だと、上司にこっぴどく笑われましたよ!」
「そ、それがどうしたんだよ?!」
「『記念ついでだ。これほど面白い逸材はいない。君、ロック君を継続的に観察して、レポートを定期的に提出しなさい』と、正式な業務命令が下されてしまいまして…。ああ、もう、つまりですね! 貴方と行動を共にしなければならなくなったんですよ!!」
「え゛ー?!」
ロックの素っ頓狂な声が響く。アリアはそんなロックの胸ぐらを掴み、ビシッと指を突きつけた。
「責任取ってください! 具体的には、今すぐその無駄なこだわりを捨てて魔法使いになってください!! 今すぐ!!!!」
「い…嫌だ! 俺は格闘家だ! 俺は、あの少年の為にも、必ずや伝説の格闘家になるんだーっ!!」
夕日に照らされた街角で、二人の声がいつまでも響いていた。
魔法使い適性99%の男が、真の格闘家として認められる日は来るのか。
彼の奇妙で、壮大な旅は、どうやら今しばらく続きそうだ。
作品は異常となります。
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