お姫様はソフトクリームがお好き
夏樹は25歳の漫画家。
漫画家としては、あまりぱっとしないまま五年目を迎えたが
隣の蜂鳥家でおばあさまと二人で暮らす幼なじみの芹香と、のんびり緩慢な日々を過ごす。
蜂鳥家は名だたる有名人やVIPの面々を顧客に持つ神がかりの家だ。
毎日ひそかにさまざまな世界の要人たちがこの家を訪れている。
芹香はこの家の後継者として生まれた。
夏樹は、美しいが風変わりな芹香に、特別な想いを抱きつつも
自分ではその想いに向き合うことができずに持て余している。
そんなある日、夏樹に高校時代の女友達から電話がかかってくる。
「ねえ、今度はゆっくりと下からなめてみてくれる?」
僕のリクエスト通りに、芹香の真っ白な舌が、下から上へと何度も這い上がる。
くるっとまるめたピンクの舌先で、
今にもこぼれ落ちそうになっている白い液体を
慣れた様子ですくいあげる。
「もう疲れてきたんじゃない?休もっか」
僕はうつむいている芹香に声をかけてみた。
「だーいじょーぶ」と口を動かした時、芹香の唇の端から白い筋が伝って
ワンピースの襟元のレースに落ちた。
今日、芹香はイザベル・マランの小花柄のワンピースを着ていた。
すぐにクリーニングに出さないと、染みになってしまうし、
またむっちゃんに怒られてしまう。
むっちゃんというのは、蜂鳥家のお手伝いさんで、
僕らがまだ小学校にあがる前から蜂鳥家で働いている。
洋服のことが頭をよぎるも、すぐに意識は芹香へと戻る。
「じゃあ、あともう少しだけ続けてもらっていい?」と僕は言った。
芹香は返事の代わりに僕に向かってウインクして
白い舌をぺろっと出してみせた。
僕は椅子に座り直し、背筋を伸ばす。
そして、再び彼女の顎のラインを捉えようとしたところで
鉛筆の先がもう丸くなっているのに気づき、新しい鉛筆と交換する。
僕は綺麗に削られた3Bの鉛筆を構えて、
スケッチと芹香を正面から交互に見た。
そして、気づかれないようにスケッチブックの影でため息をついた。
今日は午後から、幼なじみの芹香にモデルになってもらって、
SNSにアップするためのイラストの下描きをずっと描いていた。
ここは、蜂鳥家の広大な敷地に建つ離れの中の洋室だ。
芹香の住む蜂鳥家の隣の家に住む僕は
昔からこの離れを自由に使うことができた。
子供の頃はよくここで芹香と遊んだり、
お手伝いさんに付き添われて昼寝をしたり、おやつを食べたりしていた。
漫画家になった今では気分を変えたいときや、
やる気が出ないときに仕事をするのに、
この部屋はちょうど良かった。
それに景色もいい。
昨日の夜、出版社の担当者からメールが届いていた。
催促のメールだ。
「コンテ、どこまで出来ていますでしょうか?」
ここまで読んで、メールを閉じた。
提出の締め切りは先週の月曜日だった。
1週間経った現在、進捗の程度はすこぶる悪い。
ほぼ、白紙。アイデア、ゼロ。
でも、そんなこと言えるわけがなかった。
二十歳の時に、青年漫画雑誌の新人賞に応募して佳作を取った。
自分でもあれは奇跡に近いと思う。純粋に運が良かったのだ。
それがきっかけでデビューして、そのあとに読み切り作品が三作品と
あと短期連載を持って、単行本が一冊出せた。
でも、そこまでだった。
漫画家として世に出てから五年、
僕の手は今や、ほとんど止まってしまったも同然だった。
ただ、惰性で動いているだけだ。
もし、作家が1人ひとりがそれぞれの創作活動の源となる創造の泉を
自らの中に持っているとするなら、
おそらく僕のそれは枯れ果て、底が見えている状態だろう。
漫画家になるまでは、漫画を描いても描いても、
ずっと飽きることがなかった。
だけど今は、描くことが正直きつくなっていた。
特に何か嫌なことやトラブルがあったわけではない。
騙し騙し、やっているわりには単行本の売り上げ自体も
可もなく不可もなくといった感じだ。
次に描くテーマを探すため、何本も映画を観たり、
配信サービスでドキュメンタリー番組を観たりもしてみた。
だけれど、一向に僕の手は動く気配がなかった。
やれやれ。
どうやら僕はついにからっぽになったらしい。
でもまあ、それはいい。
とにかく、今はこれを仕上げなくちゃいけない。
漫画家になる以前から、
ほぼ毎週、美少女のイラストをSNSに載せていた。
これはけっこう評判が良くて、
単発だけど、イラストの仕事も何度か受けたことがあった。
今、創作活動のリングから落っこちないように僕をつなぎ止めているのは
もはや週のルーティンになった、このイラスト更新だけだった。
「だめだわ、夏樹」芹香が言った。
「これ、もう溶けちゃってだめだわ」
芹香はそう言って片手に持ったソフトクリームを上に掲げる。
そのはずみで、かろうじてワッフルコーンの縁に乗っかっていた
ソフトクリームの塊がたまりかねたように
もったりと床に落ちた。
「いえーい、落ちたー」芹香が楽しそうに笑う。
僕は慌てて立ち上がったはずみで、思いきり机の角で腰を打った。
突如、腰骨から全身に電気が走り、
すぐに今度は痛みが襲ってくる。
鉛筆が数本床に落ち、からんからんという高い音を立てて転がった。
芹香の右手のソフトクリームはもうコーンと包み紙しか残っていなかった。
溶けて崩れ落ちたクリームで
フローリングは、乳白色に光っていた。
「おい、まぬけ。だいじょうぶかよ」
痛さにもだえ、床に突っ伏している僕に芹香が可笑しそうに言った。
僕は痛みをこらえて片手を振った。
「まだソフトクリーム、冷凍庫にあんだろ?」と芹香は椅子から立ち上がった。
「いや、いいよ」と僕は制止した。「今日はここまでにしよう」
「まだ出来るよ。信者のひとたちが来るまでもうちょっと時間があるしさ」
芹香はソフトクリームの残骸を片手に持ったままで
得意げに両手でピース・サインをつくった。
それからぐにゃぐにゃになったコーンを口に放り込むと、むしゃむしゃと食べてしまった。
「今日はここまでにしよう」僕はもう一度言った。
「そろそろ原稿に手をつけないと、さすがにやばいから。ありがとう。助かったよ」
「えー、まだソフトクリーム食いたかったのに」と芹香は不満げに口をとがらせる。
僕が机の上を片付けはじめると、
芹香は床に脱ぎ捨ててあった靴下を持って、部屋を出て行った。
床を雑巾で拭き、洗った雑巾をバケツにかけると
キッチンで丁寧に手を洗った。
それから水道の蛇口から水をコップで二杯飲んだ。
蜂鳥家の水は特別だ。
毎朝、芹香のおばあさまが、
神室と呼ばれる修行部屋で神様に祈りを捧げた
新鮮な気が込められている。
信者の人たちの間では
これを毎日飲むと、病院で治らないと言われた病気が治ったり、
堕落した精神が鍛えられると信じられていた。
ここを訪れる信者の人たちは
必ず帰りにペットボトルに汲んで持ち帰っているらしい。
お布施は、芹香いわく、「封筒が立つ」金額らしい。
あるとき芹香は、僕に笑って言った。
「ただの水だぜ、こんなの」
「まあ、冷たくておいしいとは思うけどね」と僕は答えた。
ごくごく普通の水だ。ただ、ものすごく冷たいのだ。
どのくらい冷たいのかというと、真夏でも洗面器の水に手を浸していると
しもやけになるくらいだ。
それくらい、キンキンに冷えている。
夏は、氷水かと思うほど喉が痛くなるくらい冷たいし、
冬は、ぬるま湯のように心地よい温度に変化した。
「だから、井戸水と同じだろ、そんなもんは」と芹香があきれたように言った。
「きっと何だっていいんだよ」と僕は言った。
「何だっていいから信じたい人っているんだ」
たとえ、それが水道水だろうと、庭の土だろうと、抜けた猫のヒゲだろうと
自分の意思決定を委ねられるものを見つけてしまえば
その途端、人は楽になれる。
僕は持ってきた筆記用具とクロッキー帳をトートバッグに突っ込むと
窓のところまで行き、カーテンを全開にして窓を開け放った。
少し湿気の残った風が、カーテンを柔らかく揺らしてから
部屋の奥へと流れていく。
昨夜からずっと降り続いていた雨は今はもうやんでいた。
空はもう梅雨が明けたのかと思うくらい、雲一つなく、
目が痛くなるくらい真っ青に広がっていた。
庭木の枝の所々で、まだかろうじて残っている雨の粒が
陽の光を反射して、きらきらと光っていた。
池のほうからは、時折錦鯉たちが
愉しげに水面を跳ねる音が聞こえてくる。
子どもの頃から、僕はここから庭を眺めるのがとても好きだった。
そうやってぼんやりと煙草を吸いながら庭を眺めていると、
黒のレクサスが音もたてずに入ってきた。
後部座席の窓ガラスはスモーク・フィルムが貼られており、
中の様子は全く見えない。
中が見えなくとも、乗っている人物はだいたい想像がつく。
誰でも知っている大企業の創業者か、引退した元政治家か、
現役の政治家か、そのうちのどれかだ。
彼は、蜂鳥家を司る神様から
ありがたい神託を受けにやってきた大事な顧客なのだ。
その巨大な車は蜂鳥家の玄関の前で停車した。
すぐに運転席のドアが開くと、黒っぽいスーツを着た痩せた男が降りてきて
後部座席の方へとまわり、うやうやしくドアを開けた。
ビロードの絨毯でもあれば雰囲気が出ていいかもしれない。
後部座席から灰色のズボンに黒い革靴を履いた左足が出てきたところで、
僕はすばやく窓を閉め、サッシ窓に鍵をかけると、カーテンを引いた。
誰が来たのかは、あとできっと芹香が夕食の時にでも話すだろう。
ふと、床に目をやると、さっき落とした鉛筆が一本転がっていた。
僕は煙草を灰皿に押しつけて
火が完全に消えたのを確認してから、
鉛筆を拾い上げた。
鉛筆の芯は軸の奥の方から折れてしまっていて、
中が空洞になっていた。
僕は床に頬がくっつくくらいかがみ込んで
折れた芯がどこかに落ちていないか一通り探してみた。
でもどこにも見当たらなかった。
僕はあきらめて、折れた鉛筆をペンケースにしまい、
もう一度煙草の火が消えているのを確認してから、電気を消し、部屋を出た。
この世の終わりみたいに口が悪いけれど、
この世の終わりみたいにとてつもなく美しい女の子というものが実在する。
それが芹香だ。
彼女の外見はというと、まず最初に目がいくのはそのヘアスタイル。
さらさらした前髪を眉の上でまっすぐに切りそろえ、
栗色の長く細い髪は背中の下まである。
これは幼稚園の時からずっと変わらない。
この目立つ髪型のせいで街中ではよく人の目を引いてきたし、
知らない人たちからじろじろ見られることはしょっちゅうだったけど
見られるのは、そのヘアスタイルのせいだけじゃない。
ただでさえ目立つ髪型にくわえ、顔の作りが尋常ではないくらい整っている。
それはもう注目の的にならないわけがない。
中学校の帰りに二人で一緒に街へ買い物に行くと
必ずといっていいほど、見知らぬ人から声をかけられた。
僕と芹香の制服を見て、どこから来たのか、と
質問してくる会社員らしき男性が何人かいた。
僕と芹香はたいてい学校から直接街へ直行していたので、
制服姿の場合がほとんどだった。
家に帰って着替えた方がいい、と僕は何度も芹香に言ったけれど
芹香は「めんどうくさいからこのままでいい」と言ってきかなかった。
声をかけてくるのは、男だけじゃなかった。
一緒に写真を撮らせてほしい、と言って
二人組の男子高校生や男子大学生のグループ、
それに女子高校生のグループなんかも声をかけてきた。
あるときは喫茶店で、隣に座っていた上品な老婦人から
「あなた、美しいわね」と声をかけられたこともあった。
幅広い年代の男女たちが、
吸い寄せられるように彼女に魅了されるのを傍で見ているのは
とても興味深かった。
そしてそれが、日常茶飯事、毎度おなじみの光景だった。
芹香が外に出れば、街ゆく人々が一斉に彼女の方を振りかえり、
釘付けになったように立ち尽くしているのを見るのは、
まるで、突然街の中でオーロラや蜃気楼を目撃した人たちを
見ているような気分だった。
彼女の美しさは、相手の本能に訴えかけてくるものがあった。
その何かは、ただ相手の気持ちを揺さぶり、乱して、去って行く。
そこには結論がないし、着地点がない。
ただ美しいということ以外、見ている人にはそれが何を意味するのか分からない。
小学校に入学すると、芹香は、通学以外まったく外に出なくなってしまった。
ろくに食事も取らないし、風呂にも入らない。
もつれた髪に、何日も同じパジャマを着て過ごすようになった。
僕はその時のことをよく覚えている。
なぜなら、汚れた芹香もさることながら
あんなに狼狽しているおばあさまを見るのは初めてだったからだ。
外に出なくなった理由は、結局、分からずじまいだった。
芹香に聞いても無視するし、
困り果てたおばあさまがさらに何度も聞こうとすると、
「そんなの、神様に聞いてみたらいいでしょ」
と芹香は言い放った。
確かにそうだな、と僕も思った。
それでも半年ほど経つと、芹香は週に2~3度、庭を散歩するようになった。
ちなみに蜂鳥家の庭は緑地公園並の広さがある。
周囲の喧噪を遮断するための木々が敷地を囲むように植えられ、
石畳を進んでいくと、池がある。池には錦鯉が何匹もいて、野良猫がときどき狙っている。
テニスコート4面分はある地面に植えられた芝生と、その奥に建つ四阿。
芹香はここからちょっとずつ、家からの距離を伸ばしていき、
そのうち、気がつくといつの間にか自然と外へ出られるようになっていた。
ただし、同行者は決まっていて、
ほとんどの場合は僕か、あとは僅かなクラスメートの女の子としか
出かけなかった。
そして、中学を卒業する頃にはひどい出不精のくせに、街の雰囲気は味わいたいという
まあまあ面倒くさいやつになっていた。
おばあさまは、芹香が蜂鳥家の後継者としての職務を務める以前に
街に出ることを通じて、彼女が一般的な社会通念とその空気に沿って
生きられるようになることを何よりも望んでいた。
そうなるための役割の一端は、当然、僕にも担わされていたと思う。
僕らは、ほとんど毎日のようにおばあさまからお小遣いをもらって、
人の多い街中へ出かけ、クレープやアイスクリームを買ったり、
クレーンゲームをしたりして遊ぶようになった。
大抵は、僕か、僕が用事でいない時は(そんなケースは数えるくらいだった)
クラスメートの女の子が一緒だったので
芹香に近寄ってくる人たちは、ある一定の距離を保っていた。
別に僕が年齢より大人びているからとか、
身体つきが、がっしりしているからとかじゃないと思う。
僕はごく普通の目立たない中学生だった。
でも、誰かが一緒にいる、というのが
大事だったのだ。
今になってそう思う。
もし、誰かが芹香と二人きりになったとしても
おそらく30分と一緒にいるのはきついんじゃないかと思う。
同じ人間なのに、自分とはすべてがあまりにも違いすぎるからだ。
顔やスタイルだけじゃなくて、彼女のまわりを纏っている空気が
自分に備わっているものとは明らかに違っていることに
彼らはすぐに気づくはずだ。
そして自分が踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったと気づいた瞬間、
空気が薄くなりはじめ、呼吸をするのがむずかしくなる。
当の芹香は、自分の容姿にはとことん無頓着だった。
まず風呂に入りたがらなかった
当時の芹香は放っておいたら、平気で1週間も2週間も
風呂に入ろうとしないので、
毎日、お手伝いさんが一緒に風呂に入っていた。
耳掃除も爪切りもお手伝いさんがやってくれていた。
歯磨きまでしてもらっていた。
今はさすがに、そこまでのことはないけれど、
芹香が、またいつこういう状態になったとしても
僕は驚かない。
今は、ただ単に気が向くからやっているだけ、なのだ。
それでも芹香は、彼女なりにまわりと馴染めるように努力をしてきたと思う。
その甲斐もあってか、街に買い物に出かけられるくらいにはなったわけだ。
周囲の人たちから見ても、類いまれなる美しい少女が
同級生の男子と街をぶらぶらしているようにしかみえなかったと思う。
口さえ閉じていれば。
中学二年生の時、僕が待ち合わせの時間に遅刻してきたせいで、
待ち合わせ場所で1人で待っていた芹香が、
大勢の人に囲まれて、警察沙汰の騒ぎになったことがあった。
もともとは学校が終わったら一緒に行く予定だったのだけれど、
僕の両親が急遽、北海道の知人の葬儀に参列することになって、
僕だけ一旦家に帰り、両親を見送ってから出かけることにしたのだ。
もう1人のクラスメートの女の子は風邪をひいて学校を休んでいた。
待ち合わせ場所は、わかりやすいようにと、
百貨店の前の広場にしていた。
そこは、待ち合わせの定番のスポットになっていた。
ベンチもいくつか置いてあるし、立派な花壇もあって
居心地も良い待ち合わせにうってつけの場所だ。
日陰になる所もあるから、万が一雨が降っても
(その日の降水確率は10パーセントだった)
雨宿りもできるし心配ないはずだった。
ちょっとした騒動が起こった時、
警察を呼んだのは芹香本人だった。
そのころ僕は、駅から待ち合わせの場所に向かっていた。
その日は4月だというのに、真夏並みに午前中から、ぐんぐんと気温が上昇していた。
僕は制服から半袖のTシャツにブルージーンズになっていた。
歩きながら、何度も袖で額の汗を拭わなければいけなかった。
百貨店前の広場に人混みを見つけたとき、僕は嫌な予感がした。
急いで人混みをかき分け、輪の中心へと近づいていくと、
ようやく芹香の姿が見えた。
そこには、三十代くらいのスーツを着た男性と芹香が
向かい合って立っていた。
スーツの男性が笑顔で、芹香の肩に手をまわし、なにか話しかけているようだった。
よく見ると、芹香の右手には携帯電話が握られていた。
携帯電話?
芹香はあからさまに不機嫌な顔をしていた。
顎をきゅっと引き、眉を寄せ相手を一瞬だけにらみつけると
口を開いた。
「おまえな、いいかげんにしろよ?」
彼女はスーツの男性から目を逸らさずに
さらにこう言った。
「おい、何度も言わせるな。
手を、どかせ。私にふれるな。
低脳は顔に出るってほんとうだな」
そう言うと、芹香は素早く携帯電話を操作してから、耳にあてた。
それからすぐに、携帯電話を放り投げると、僕の方に歩いてきた。
スーツの男性は、慌てて携帯電話を拾い上げると、電話の相手に必死に何か話しながら
人混みをかきわけて、向こうへ走っていった。
芹香は僕を無視して、そのまま百貨店とは反対の方向へ、
つまり、自宅へ向かって歩きだしていた。
僕は慌てて後を追いかけた。
「芹香!」僕は彼女に追いつくと、歩きながら言った。
「ちょっと、どうした?あの男になにかされたのか?」
僕がそう言うと、芹香は僕を見て、アメリカ人がよくやるように
右手をピストルの形にして自分の頭を打つ仕草をやった。
そして「警察を呼んだの」と言った。
「警察?なんで?」と僕はびっくりして言った。
芹香はにっこり頷いた。「あの男にモデルの仕事に興味はないかって言われたのよ」
「それでない、ってはっきりと断ったの。それでもしつこく、話だけでもいい、だの
保護者の人と一緒に聞いてもらってもいいから、だのごちゃごちゃうるさいわけ」
そこまで話すと芹香は、道端にあった自動販売機の前で突如、足を止めた。
そして鞄から財布を出すと、小銭を一枚一枚、確認しながら投入口に入れていった。
そして「メロンソーダー!!」と叫び、力いっぱいボタンを押した。
芹香はすぐに缶を開けると、おいしそうにごくごくと飲んだ。
僕も、ペットボトルの麦茶を買い、一気に半分ほど飲んだ。
背中が汗でびっしょり濡れていた。
メロンソーダを飲みおわると、芹香はまたさっさと歩きはじめた。
そして、話をつづけた。
「とにかく日本語が通じないわけ、そいつ。脳みそがからっぽなのね。
それで死んだアサリみたいにずっと無視してたら、今度は連絡先を教えてほしい、
もししゃべりたくなかったら、自分の携帯に番号を入れてくれたらいいからって
携帯電話を無理矢理握らされたから、110番押してやったの
ねえ、夏樹、教えてほしいんだけど、どうしてあんなやつが平気な顔して
世の中を渡り歩いているの?神様に聞いたら、教えてくれるかしら?」
「今の話を聞く限りは、芹香は悪くないと思う」と僕は言った。
芹香は、ピースサインをした。
でも、と僕は思った。
「でも、あんなことがあるたびに、同じ事をしてたら
危ないし、何が起こるかわからないよ」と僕は言った。
芹香は足を止めて、僕の顔を見ると眩しそうに目を細めた。
「おまえは、女の子なんだから。いちおう」
その途端、芹香は唇をきゅっと噛んで、僕を睨んだ。
「僕が遅れたのは、もちろん悪かったよ。ごめん」と僕はあわてて言い足した。
それから家に着くまでの間、僕が話しかけても、芹香は無言のままだった。
蜂鳥家の門の前に着くと、僕はもう一度芹香に謝った。
「ごめん、悪かった」
「私がこんなんで悪かったな」
芹香は目に涙をためて、絞り出すように言った。
そして走って、家の中へ入っていった。
僕と芹香は生まれた時から一緒に過ごしてきた。
僕の両親はその当時、夫婦ともに同じ大学で民俗学の研究をしていた。
大学の講義の他に、学会に出席したり地方での取材のため、
全国各地に出かけたりなどしていて、
日常的に家を空けることが多かったため、蜂鳥家に預けられた。
両親とも、自分の仕事の事以外は興味がなく、幼い僕と長期間離れていても
それほど気にしないようだった。
母親は、僕を出産すると三ヶ月も経たないうちに、蜂鳥家に僕を預けて研究に復帰した。
その頃から蜂鳥家は、おばあさまと芹香の二人暮らしだった。
他には住み込みのお手伝いさんが一人と通いのお手伝いさんが二人の計三人で、
僕と芹香が生まれる前からこの家で働いている。
芹香の両親は、芹香が生まれるとすぐに、家を出て行ったと聞いた。
それ以外のことは、僕は知らないし、芹香も知らなかった。
芹香は、小さい頃から神がかりの家の美しい後継者として有名だった。
個人的な好みはひとまず横に置いて、関心を持たずにはいられない、
そういう種類の美しさを芹香は持っていた。
二十年以上、一緒にいる僕ですら、目を奪われる瞬間がその間、何度もあった。
それは彼女がただ単に外見が人並み外れて美しいという理由だけではなかった。
僕は長い間、その理由が分からなかった。
でも今では分かる。
芹香の身体から、半ば暴力的に放出されている一定の波動の源が、
その見かけの美しさから来るものではないことを
まざまざと見せつけられているからだろうと。
まるで暗くて深い地面から掘りおこされた
大地と歴史の力を蓄えた宝石を目にしたときのように。
僕は何度か芹香をモデルにしたキャラクターを出してみようとして
試したことがあった。
でも、何度か試行錯誤した結果、結局、芹香をモデルにすることは不可能だとわかった。
なぜなら芹香が持つ能力は僕のささやかな画力と表現力では
とてもじゃないけれど、手に余るからだ。
机の前でただ無力な時間が過ぎていくだけだった。
僕は、力なく卓上カレンダーに目をやる。
天井を仰ぎ見ながら受話器をあげて担当者に電話をかける。
はい。ちょっと登場人物を変更したいんです。
そうです、はい。今月はちょっとむずかしいんです。
そんなことが幾度となく繰り返され、僕は諦めた。
芹香は、僕の漫画を毎号(原稿が締め切りに間に合うように完成し、
無事雑誌に掲載されれば、ということだが)いつも楽しみにしている。
楽しみにしているというのは、良く言えば、ということだ。
実際は、僕が自分の作品についてあれこれ言われるのが苦手なのを
充分承知のうえで、どうでもいいことを長々としつこく
感想という形を取って、僕の痛いところを突いてくる。
そのたびに僕はいらいらさせられることになる。
雑誌に掲載された時点で、僕にとってはもう過去になっている。
もう済んでしまったことだ。
だから、僕は、設定の確認とかキャラクターの相関図の見直し以外で
自分の作品や単行本を読み返すということはほとんどない。
見たくないからだ。
見たところで、いまさらどうしようも出来ない粗がいくつも目について
落ち込むかいらいらするか、あるいはその両方に決まっている。
心が暗くなる。健康に良くない。モチベーションがさらに低下するだけだ。
あるとき業を煮やした僕は芹香にはっきり言うことにした。
今まではいらつきながらも、内心では図星の指摘に
気を取られてしまっていたのだ。
「あのさ、何回も言ってるけど、いちいち感想とか言わなくていいよ
はっきりいってすごく不愉快だ」
僕の言葉に、芹香はたちまち顔を輝かせた。
こいつは昔から僕が腹を立てていると、喜ぶ癖がある。
性格が悪いのだ。
「えーどうして?どうして?」
案の定、芹香はわざとぶりっこの真似をして身を乗り出してきた。
「どうしてじゃないよ。おまえの感想なんか、知ったこっちゃないんだよ」
「あらやあだ。貴重な一読者の意見じゃない。
参考にしなさい。そしたらもっと単行本が売れる」
こいつは、嫌味や皮肉を言うときは、
わざと丁寧でおしとやかな言葉遣いになる。
こっちの怒りをかき立てるコツをよく知っている。
僕はそこら中の空気をかき集めたくらい、大きなため息をついた。
「あのね、俺の漫画はノーマルな青年漫画なの、いちおうは」と僕は我慢強く言った。
「それなのに、ヒロインのおっぱいが小さすぎる、だの、
あそこまでいってて最後までやらないのはリアリティーに欠けるだの、
早くやってるところが見たい、だの、おまえの感想は偏りすぎなんだよ
雑誌に載ってる他の漫画、見てみろよ」
長いつきあいなので、話している途中で
芹香がもうほとんど僕の話を聞いていないのは気づいた。
こんなのは、水の中にいるカエルに水をかけた程度のことなのだ。
「偏見くらい持ったっていいじゃない」と芹香は真面目な顔で言った。
そしてにやりと笑った。
「偏見を持つのは人間が持っている数少ない自由のうちのひとつよ。
大事にしないとね」