03 聖女の推論(上)
◇
翌日。憂鬱な気分を抱えたまま、覚悟を決め登校した教室では、すでに婚約破棄の件が広く認知されてしまっていた。それに伴い浮気の話もまた、再燃していた。今までは噂の息を出なかったものの、アレスがそれを理由に婚約破棄を突きつけたことで、あたかもそれが真実のように扱われていたのだ。
教室に入るや否や刺さる、不快な視線。また、当人らはヒソヒソと話しているつもりなのかもしれないが、大した広さのない教室では、一言一句もらさず拾えた。
「ねぇ、婚約破棄ってことはやっぱり、浮気も事実だったんでしょ?」
「しかも、あの件ってダリアの方から誘ったんだって?」
「まぁ、だからって手を出すカイルもカイルだけどさ」
「チャンスだって思っちゃったんでしょ。あれでも、見た目は悪くないし」
何も知らない生徒らの散々な言いように、次第に腹が立ってくる。
そしてダリアだが、言いたい放題言われて、黙っているようなタイプではなかった。
席に着く前にダリアは女生徒らの元にズカズカと歩み寄りながら、大きく息を吸い、一言。
「浮気なんてしてませんけど? 何か証拠でもあるの?」
そう強く、噂話を否定すると、さっさと席についた。
彼女らの中には立場的にあまり強くでると不味い人もいたが、そんなことはどうでも良かった。
「はぁ? なんなのあれ」
「いやいや、目撃証言は多々上がっているわけだし、そのお相手のカイルは認めてるしで、もう言い訳は厳しいでしょ」
「なんか、筆跡も一致したんだって?」
さらに加熱する悪口。
そんな中、カイルはというと、罰の悪そうな表情のまま自席で本を読んでいた。本人は聞こえてない体を装っているのかもしれないが、そわそわとした様子を隠し切れてはいなかった。
カイルが何を思い証言をし、今どう考えているのか……気にはなるも、アイリスの助言に従い、絶対に彼を意識しないようにする。
「はぁ……」
過去、こんなにも教室の居心地が悪かったことはない。
大勢に言いたい放題言われ、不快な視線を向けられ、友人とは距離を置かれる。
しかし、それも今日まで。ダリアはアイリスならばなんとか助けてくれると、そう信じていた。だから強く否定する。堂々と胸を張る。
一番良くないのは、これでダリアまでもが浮気を認めてしまったような、そんな空気を作ることだ。昨日別れ際、アイリスに言われたことを実直に守る。
大丈夫、大丈夫。
ダリアはそう念じるように、心の中で何度も呟く。
頑張れ、私。
そして居心地最悪の一日が終わり、放課後がやってきた。引き止める間もなく、足早に教室を後にするカイルを追いたい気持ちをグッと抑え、まずはアイリスと待ち合わせの場所へと向かった。指定の待ち合わせ場所に着くと、すでにアイリスが立って待っているのが見えた。
「ダリアさん。早速ですが、行きましょうか」
「どこにですか?」
「図書館です」
放課後の図書館にカイルの姿はあった。うねった黒い髪に眼鏡の彼の顔は少しやつれ、そしてどこかそわそわとした様子で、数冊の本を抱えていた。
学生寮に戻ろうとする最中、ばったり出会ってしまったことは、ダリアにとっては幸運であり、彼にとっては不幸と言えよう。
カイルはダリアを見るや否や、視線を合わせまいと、すっと下に下げた。
そんなカイルにダリアはズカズカと歩み寄ってゆく。
「カイルだよね?」
念の為、本人確認が必要なほど、ダイルと彼の間には接点がなかった。カイルはどう対応するか、あるいは無視するか、少し悩んだのち、ダイルの背後にいたアイリスを見て足を止めた。
「ぼ、僕に何か」
「私と浮気なんかしてないって、そう言いなさい!」
出会って早々、彼に詰め寄り、威圧的にそう言い放つダリアのアイリスは手で制す。ダリアの真っ当な行動は、しかし、彼女の抱える問題を解決する上では最善手ではない……そう、アイリスは判断したのだ。
きっと、彼を高圧的に問い詰めたところで、より警戒を高めるだけだ。
代わりにアイリスは冷静に、落ち着いた優しい声色でカイルへと尋ねる。
「カイルさんに、お尋ねしたいことがあります」
「な、なんでしょう?」
アイリスという想定外の人物ゆえか、あるいはそのあまりにもな美貌と美声を持つ彼女の問いかけ故か、カイルはどもりながら視線を逸らしつつ、返事を返した。
「あなたが連れていた茶髪の女性は、ダリアさんだったのでしょうか?」
単刀直入な問いに、カイルは思わず顔を上げた。
その瞬間、アイリスの優しくも、まるで真実が見えているかのような、不思議な力を孕んだまっすぐな瞳がカイルを射抜いた。
カイルはごくりと唾を飲んだ後、僅かに震わせながら口を開く。
「も、もちろん、そう……」
「茶色い、彼女にそっくりな髪型のカツラを被った、よく似たスタイルの女性ではなくて?」
「っ!?」
アイリスの言葉を聞いたカイルは、誰の目から見ても明らかなほどに動揺していた。ダリアもアイリスの思惑や推理は一切聞いておらず、今の推理と彼の動揺を見て、驚き目を丸くしている。
「そ、それは……」
必死に思考を回転させるカイル。
いくら他の生徒との接点の少ないカイルとて、聖女の噂くらいは聞いて、知っていた。幾度も生徒の悩みを解決したその頭脳。成績優秀な彼だからこそ、アイリスが常に成績上位にいることも知っている。
だからダリアがこの場に、学園で有名な聖女……アイリスを連れてきた時点で、そう易々とは逃げられないこと、そしてそれなりに問い詰められることは覚悟していた。
しかし、いくら聡明と噂の『聖女』とて、いきなりは真相に迫れないだろうと、そう甘く見積もってしまっていたところがあった。
だから、まるで全てを見抜いたかのような彼女の言葉に、酷く動揺してしまったのだ。
また、アイリスもカイルの様子を見て、自分の推論で間違っていないことを確信する。
「やはり、そうでしたか」
「ど、どういうこと?」
ダリアは一体、今この場で何が起こっているのか、全く理解が追いつけていない様子で、目を丸く見開き、ただ驚いていた。
流石に当事者のダリアを置き去りにするのは問題だと判断したアイリスは、そう考えるに至った経緯を初めから解説する。
「ダリアさんの話を聞き、一つ、気になったんです。ダリアさんの友人は、あなたに二日前の夜、何をしていたかと問いただした。その時の彼女の質問や様子から察するに、ダリアさんが答えるまではまだ疑いの域を出なかった。そうですね」
「は、はい」
「つまり、彼女の見た光景というのは、決定的な証拠になり得るほどのものではなかったと予想できます」
もし、声をはっきり聞いたとか、顔もはっきり見たとか、そうならばそこに疑いの余地はなく、とっくに諦めていたはずなのだ。ダリア曰く、長年の友人らしいし、他のクラスメイトならまだしも、彼女が見間違うことはあるまい。
しかし、話を聞くところ、友人はダリアの話を聞き、初めて諦めたようだった。
「そ、そんなの、ただ信じたくなくて、念の為に確認しただけかもしれないだろ!」
カイルの意外にも真っ当な反論にアイリスは冷静に頷いた。
「そうですね。確かに、彼女の友人だけならそうかもしれません。しかし、昨日ダリアの話を聞き、そして私自らも聞いて回ったところ、カイルが認める以前は、誰もが疑いの段階で、確信している人はいなかった。これだけ多くの目撃者がいて、誰一人確証が持てない。それは、些か不自然ではないでしょうか?」
「くっ……」
淡々と紐解かれ、顕にされてく真相を前に、カイルの顔色は悪くなっていく。
「そもそもこの話は妙なんです」
「な、何が……」
「何故、夜の街に消える姿を、何人ものクラスメイトが見ているのか。普通、悪いことって人目を盗んでしますよね。それなのに、まるで見せつけるように目撃証言が上がっている」
いくらダリアとてそんな馬鹿な真似はやらかさないだろう。仮に彼女がそうだとしても、このカイルという男がそれに気が付かないとは思えない。
「あなたのことは調べました。平民でありながら、立派な学業の成績を収め、この学園に入学したと」
「っ……」
そこでアイリスは疑問を覚えた。
そんな彼が、伯爵家の間で婚約を交わした娘と、浮気をするだろうか?
それがいかに問題のある行為か、バレるとどれほど不味い事態に陥るか、彼にわからないはずはない。そしてそれらを分かった上で行った浮気なのだとすれば、あまりにも対策が甘すぎる。
「それだけじゃありません。聞く限り、今回のアレスの対応は些か早すぎる気がします。この対応速度、まるでこれから起こることが、わかっていたかのようにさえ見えます」
「しょ、証拠はない!」
それでもなお、カイルは引き下がらなかった。認めなかった。
カイルは聞いていたからだ。証拠はそれだけじゃないと。
カイルが同伴していた女性はしっかりとダリアの筆跡を模倣した上でホテルのフロントに残している。それだけじゃない。ダリアの鞄にはペアの指輪を仕込んであった。ダリアが気がついている様子はないが、今なお、持っているはず。
ちなみにその疑惑の時間の前後、アレスは遅くまで残り、図書館で勉強に励んでいる。念には念を入れている。
アレスは断言した。作戦は完璧だと。
その言葉を信じ、カイルは強気に出る。
「まるで憶測を真実のように話して……そこまで言うなら、証拠を見せてください!」
その言葉にどう答えるのか……ダリアは、アイリスの奇策に期待を募らせる。