2.4
扉の向こうに耳を澄ませる。
塔を上ってくる足音がする。
しっかりとした足取りではない。ふらつくのをこらえた者独特の、一歩一歩に踏みしめる力が入った足音だ。
扉の向こうからは、牛肉とステーキソースの香りがした。焼けた肉と、アルコールを飛ばしたワイン、そしてニンニク。
塔を上ってくる人間を、サラは特定した。
ドアが開いた。
瞬間、ベッドの上から、サラのローブに包まれた体が跳ねた。
ドア前で転倒する細身の男。床に落下し、飛び散った食べ物と皿。男の折れそうな首には、裂いて紐状にしたネグリジェがからみつき、首を締め上げている。
紐状のネグリジェの一端はベッド天蓋の柱、一端はクローゼット内のハンガーをかける棒にかけており、天蓋に至る前の部分の紐を、サラは左手で握っている。
簡単なてこの原理を利用した首吊り装置を作成したのだ。サラより体重と体格がある相手でも、この装置に首を引っかけてしまえば、逃れる術はない。
サラは仰向けに転倒した体に馬乗りになり、酸素を求めて口をパクパクさせている顔に、ゆっくりと自分の顔を近づける。
「苦しいですか、レイモンド様」
うなずくことができるよう、わずかに紐を緩めると、「あ……、あ、あ……」と肯定の悲鳴を上げた。
青白いレイモンドの顔が、酸欠で赤くなり、端正な顔立ちは苦痛にゆがんでいる。
サラは右手で真っ黒いナイフを握り、レイモンドの眼球スレスレに、切っ先を近づけた。
「見たことがないナイフと思いますが、こちらはMK3というコンバットナイフです。黒い理由は、光の反射と腐食防止のためです。決して切れ味が劣るわけではありません。サビにも強く水中でも使用可能です。柄のブツブツした模様は滑り止めで、ハンマーとしても使用できます。
全長273ミリ。刃渡り154ミリ。重さ283グラム。刃の厚さは4.3ミリ。この単位がどの程度のサイズであるかは、ご自分の網膜に写っていますね。
ご理解いただけたかと思います。
このナイフは、人を殺すために作られたナイフです」
サラはいったん緩めた紐を、強く締め上げた。自身の首を締め上げる紐に、レイモンドが手袋をはめた手でカリカリとひっかく。口のはしからは、苦痛からよだれがたれていた。
「では、質問の前に、あなたの左目をナイフでかき回しますね」
サラの宣言に、レイモンドの開いたくちびるから、恐怖による笛のような呼吸音が聞こえた。
サラはナイフを、レイモンドの左目に近づける。
「質問の前に左目をかき回す理由を説明すると、私は右手にナイフを持っているため、左目の方がかき回しやすく、苦痛を与えられた人間は従順になるからです。拷問の前に苦痛にのたうち回らせるのは、遠回りに見えて効率的です」
説明をするサラの表情は変わらない。
塔の扉は外から鍵をかけられ、内側から鍵を開く術はない。鍵の形式から、今いる部屋が監禁のためにあると理解できる。
鍵だけではない。
窓ガラスは分厚く、はめ殺しになった上に鉄格子が覆っている。
決定的なのはトイレだ。たったこれだけの小さな塔の一角に、わざわざくみ取り式のトイレが小部屋として設置されていた。
トイレの設置と維持は、大きな負担だ。
中にいる者が自由に外に出られるならば、トイレをくみ取らせるよりも中の者を階下のトイレに行かせるだろう。
何から何まで、サラのいる部屋は人間を監禁するために造られているのだ。
ラクール一族と手を組んだか、あるいはラクール一族の力を利用したいか、あるいは純粋に性的倒閣か、レイモンドに目的を吐かせる。
サラが握るナイフが、レイモンドの目を貫こうとした。
「……、まあ、口を割るチャンスを10秒だけさしあげます」
サラは手を止めてしまった。
馬乗りになったまま、首をしめる紐を緩める。レイモンドは大きく咳き込んだ。
一気に許された酸素にむせ、呼吸がままならないレイモンドに、サラはカウントダウンを告げる。
「10、9、8、7,6、5」
咳き込むレイモンドの目尻に、生理的な涙がにじんでいる。
「ここに、いてほしくて」
レイモンドは、咳き込みながらやっと答えた。
「いてほしてくて?」
サラはレイモンドを問い詰める、レイモンドはガクガクと首を縦に振る。
「逃げな、いで、ほしくて、こ、こ、にいて、ほしくて」
「それだけですか? 本当にそれだけ?」
「それ、だけ、だか、ら、わたし、が憎け、れば、痛め、つけ、ても、かまわない、から」
レイモンドが、とぎれとぎれに訴える言葉に、サラは首を絞める紐から手を放した。
自由に酸素が吸えるようになったレイモンドは、背をのけぞらせてむせながら酸素を吸った。
「泣いているくせに何を言っているのです」
ただの生理現象の涙と理解した上で言って、サラはローブの下、腰のナイフフォルダーにナイフをしまった。
「信じがたい話ですが、嘘ではないようですね」
馬乗りになっていた、レイモンドからどいてやる。
日が落ちてきているところから鑑みるに、レイモンドは夕食を持ってきたのであろう。
つまり、自分が眠っていたのは1時間程度、レイモンドが点滴を受け終わってからも、わずか1時間程度しか経っていないことになる。
「レイモンド様、私が本当にここにいるだけでよいのなら、実のところは渡りに船です」
未だに床にうずくまったまま、レイモンドは返答もままならず息を荒げている。
「私に性的なものを含む、一切の危害を加えないと約束するのなら、あなたに監禁されましょう」
レイモンドは、息を荒げながら、必死に起き上がろうとした。
サラはレイモンドの手をつかんで、立たせた。手袋越しに感じる、彼の体温はまだ低い。
「本当?」
痛めつけられた直後にもかかわらず、うれしげに笑って聞いてくるレイモンドに、サラは応える。
「嘘は苦手です」
レイモンドの笑顔が、はじけるような笑い方になった。
「ありがとう!」
お礼を言ったレイモンドは、床に散らばった夕食に目をやる。
「ごめんね。新しいの持ってくるよ」
サラは彼の申し出を断った。
「こちらで問題ありません」
「でも……、床に落ちたものを食べてもらうわけには……」
サラは再度断った。
「私は半年間、山中で野営をして過ごしました。床どころか、地面に落ちたものでも食べられて当然です」
ですから、と続けた。
「レイモンド様は、もうおやすみになってください。あなたは倒れたばかりでしょう」
「うん。サラはやさしいね」
レイモンドは部屋を出て行く。扉を閉める前に、初めて会ったときと同じ、あぶなっかしい手の振り方をした。
扉が閉まる。鍵がかかる音の後、かんぬきがかかる音がする。
サラがナイフを止めたのは、渡りに船だと単純な思考をしたわけではない。
単に渡りに船ならば、痛めつけるほど監禁に腹を立てない。
ナイフを突きつけられたレイモンドの目が、あまりにもあきらめた目をしていたから、ナイフを止めざるを得なかった。
彼女の表に出づらい悪癖は、情に流されやすい癖だ。
監禁したら痛めつける(監禁した男の方を)ものです。
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