後編
謎の男によって、勇者は記憶と復讐の交錯する不思議な世界へと取り込まれます。
俺はある日、毎日食べ物を献上してくれる二本足の角付き頭が寝床から俺を引きずり出したので、今日は何か珍しいものが食べられるのかと期待して二本足の後に付いて行った。いざとなれば切り離すことのできる尻尾をくねらせながら四つ足で大地を踏みしめながら、しばらく背が高いだけで歩くこともできない細長い連中の間を二本足に続いて進んでいると、やがてのっぽどもの居ない広い空間に出た。
そこには角の無い二本足が四匹居て、前の二匹はギラギラと光る平べったい棒で無礼にも俺を威嚇しているようだ。たかが二本足の分際で四つ足の俺に逆らった無礼を後悔させる。そう俺が決意すると角付きの方は感心なことに俺に従って、普段から持ち歩いてる先の太くなった棒で小さい方の角無しに殴りかかった。
棒と棒をぶつけあっている二匹の二本足を無視して、もう一方の大きい角無しに牙を突き立てようとした。小癪なことに角無しは俺の牙を棒きれで器用に邪魔したので、俺はなかなか思うように噛みつくことができない。だが賢い俺は棒から離れた所にある脚に噛みついてやった。たった二本しかない脚の片方が傷付いた角無しは派手に転倒した。転んだ拍子にうっとうしい棒もどこかに転がっていったようなので、今度こそ噛み殺してやろうと喉元に狙いを付ける。ところが後ろに居た二匹のうち大きい方が何かを叫ぶと、不思議な光が転んだ角無しを包み込み、確かに付けた筈の傷が無くなってしまった。
続いて後ろに居たもう一人が叫ぶと、赤い光が今度は俺の方に飛んできた。光が俺の自慢の鱗の表面で弾けると、今まで感じたことの無い不思議な痛みが生まれた。思わず悲鳴を上げて後ろに下がると、傷が治って立ち上がった二本足が地面に転がっていた棒をもう一度持って殴りかかってきた。棒が俺の頭に命中すると頭が割れた。痛い。ものすごく痛い。悔しいがこの二本足達は俺より強いのだ。そう悟った俺は尻尾を切り離して囮にすると、一目散に逃げる事にした。ところが尻尾の動きに惑わされずにまた赤い光が俺にぶつかった。俺が苦しみのあまり転がり回っている所に棒持ちの二本足が走ってきて、棒の先を俺の背中に突き立てた。
俺の身体を流れる緑の水が痛みと共に勢いよく噴き出し、俺の四本の足は勝手にビクビクっと跳ねた後動かなくなった。もう動けない俺を二本足は何度も突き刺し、その度に俺の身体から緑色の水が流れ出す。気が済んだらしい二本足は俺を放り出して角突きの方へ走り、背中に棒を叩きつけた。角突きも緑色の水を背中から噴き出して倒れた。地面に転がった角突きを二匹の角無しが交互に突き刺しているのをぼんやりと眺めていると、段々目が見えなくなってくる。なんだか寒い。
何でこんな事になったのだろう。俺はちょっと珍しい物が食べられると思っただけなのに。二本足達のせいで体中が痛くなり、だんだん寒くなる。物を考えるのも億劫になってきた。辛い…苦しい…いったい何が…悪かったんだ…
ハッと気付くと、俺は再びウミウシもどきの群れの中に居た。手足を見ると鱗に覆われていない、紛れもない人間の手足だ。ではさっきのジャイアントリザードになっていた記憶はただの幻覚だったのか?いや、あの男の口ぶりからするとジャイアントリザードを殺して、それを正義の勝利と嘯いたことが俺の罪と言う事だろう。では今またウミウシもどきの群れに囲まれているという事は俺はリアルに帰るための試練に失敗したという事だろうか。状況がどうなっているのか、どこかで見ている筈の男に質問を投げかけようとした時、今度は含み笑いではなく楽しくてこらえきれないというような子供の笑い声が響いた。
「クスクスクス…」
悪趣味な奴だ。思わず唾を吐き捨てようとした所で、ウミウシもどきの一体が炎を撃ち出してきた。
「ぐぁっ!」
熱い!炎が命中したところを見ると火傷で皮膚が引き攣れていて、今のウミウシもどきの攻撃が幻覚ではないことを教えてくれる。火傷は信じられない勢いで治っていくが、ヒリヒリなどというレベルで済まない痛みはまだ続いている。火傷に気を取られていると他のウミウシもどきも炎を放ってきて、それはすべて俺に命中した。別に炎が体に燃え移った訳でもないのにガンガンと皮膚どころか体の芯まで通ってくる痛み。これは間違いなく女魔法使いが得意としたファイヤーボールの呪文だ。
ジャイアントリザードの苦痛を再現しようというのか。それに耐えるのが本当の贖罪の試練なのか。そう思ったが、とてもこのまま狙われ続けては堪らない。本能的な恐怖に身を任せて逃げ出した。だがウミウシもどきはやはりどこからともなく次々と現れ、次から次へとファイヤーボールを撃ってくる。ダメージが蓄積して、とうとう俺はその場に倒れ込んだ。俺を取り囲むウミウシもどきは今度は触手の先に剣をぶら下げている。
「おい、冗談だよな…やめてくれ…!」
思わず懇願するが、ウミウシもどきは遠慮なく俺の身体に剣を突き立て始めた。痛い!いや熱い!体中に焼けるような痛みが走り、悲鳴を上げる事すらできない。あのジャイアントリザードの記憶のように手足を痙攣させてピクリとも動かなくなった俺を放置して、ウミウシもどきはどこかへ消えて行った。
「クスクスクス…」
また笑い声が聞こえたような気がしたが、さっきの熱さが嘘のように体が冷たくなっていく俺には関係ない。だんだん視界が霞んでいく。俺を放置して去っていくウミウシもどきが何故か恋しい。独りは嫌だ…お願いだ…殺すならせめて…最後まで看取ってくれ…
魔王様に逆らう新しい勇者がまた出現して、私たち魔族の国に侵入して暴れ回っていると聞いた時、人間どもは懲りないな、と正直思った。技量の差はあれ魔族ならば誰でも使える魔法を、数万に一人の才能の持ち主がやっと使えるという下等種族が、この世界で最も優れた存在である魔王様に従うのは当たり前の事なのだ。なのにその当然の理屈を受け容れられない、繁殖力だけは旺盛な人間たちのせいで、もう十年もこの戦争はだらだらと続いていた。
ところが今度の勇者とやらはこれまでの奴とは毛色が違う。卑怯な手段で次々に同胞を殺して回り、先日とうとう四天王の一人、金剛のローカインが倒されたという知らせが届いた。そして奴らの次の標的は進行方向からこの私、獄炎のヒルガルドだと予測された。
私は魔王様から配下として貸し与えられた魔族たちを、拠点となる砦に詰める親衛隊、担当の区画をパトロールする巡回班、砦に侵入者を防ぐ様々な仕掛けや罠を施す工兵隊などに振り分け、思いつく限りの準備をして勇者の襲撃に備えた。
だが、勇者一行の奸智は私の遥か上を行った。警報装置も遮断壁もアッサリとすり抜けて、砦の最奥で待機していた私と常に傍に控えていた選りすぐりの部下を急襲し、全員を地に這わせた。
優秀な部下をむざむざと失い、魔王様の怨敵を滅ぼす事も出来なかった自分への情けなさに震えながら、部下と同じように殺される覚悟を決めた時、信じられない言葉が聞こえた。
「じゃあ盗賊、こいつの手足を縛ってくれ。動けなくなったら、女神官が癒しを頼む」
「任せてくれ大将」
「なっ!貴様、私に虜囚の辱めを味わえと言うのか?」
「まさか。魔族は皆殺しだ。だけど魔王の側近のお前の体に聞かなきゃいけない事が有るからな」
「あの、勇者様。本当にまた…?」
盗賊に縛られながら勇者の言葉を吟味していると、神とやらへの信仰による得体の知れない癒しの力を使う女が、勇者に震えながら質問した。女はこれから何が行われるかは判っているが、それに批判的のようだ。だが勇者はそれを判っているのか否か、その質問にあっさりと肯定で返した。
「ああ。戦いで最も重要なのは情報だ。気が進まないだろうけど堪えてくれ」
「神官…こいつを簡単に攻略できたのも…予め情報を得ていたから…いっときの我慢」
人間には珍しい魔法使いが何やら説得して、神官がそれに頷いた。
「情報?この私が魔王様の秘密を漏ら…あぁっ!」
四天王ともあろう者が魔王様を裏切るわけがないと言ってやろうとした瞬間、勇者が縛られて身動きの取れない私の腹に剣を突き立てた。敗北したとはいえ、人間如きの前で情けない振る舞いをするのは恥辱そのものだが、全く意図しないタイミングでの攻撃に思わず悲鳴を上げてしまった。
「女神官、治癒を頼む」
「畏まりました、勇者様」
得体のしれない力とは言え回復したおかげで痛みは収まった。だがこれは一体どういう事だ?勇者たちは私を殺したいのか、それとも生かしたいのか?
「爆炎の何とか、悪いがお前の意志は関係ないんだ。これからお前が素直に白状するまで、激痛を味わい続ける事になる。それが嫌ならさっさと魔王の秘密を暴露してしまえ」
「なんと卑劣な…貴様ら、こんな奴に従っていて、本当に良いと思っているのか?」
勇者のあまりの下劣さに話にならないと思った私は奴の仲間たちに問いかける。女たちは自分たちのやっている事に罪悪感が有るようで目を逸らしたが、盗賊はむしろ胸を張って自分たちを正当化した。
「今までの勇者様達はそんなお綺麗なお題目を掲げていたから、お前たちに負けたのさ。俺っちは大将のやり方に賛成だぜ」
「まあそう言う事だ。諦めて全部話してくれ。まずは魔王城の構造からだな」
そう言った勇者は私の返答‐当然拒絶だったが‐を聞こうともせず、私の腹に再びその剣を突き刺した。今度は覚悟していたので、無様な悲鳴を薄汚い人間どもに聞かせずに済んだ。だがこの卑劣な行為は女神官の魔力が切れ、傷付けた私を回復できなくなるまで続くだろう。それまで私の志操は堅固なままでいられるだろうか…
そしてとうとう女神官が音を上げた。私は敗北し恐らくこれから殺されるだろうが、少なくとも魔王様への忠誠を守ることができた。そう思い、訪れる死を待っていると勇者がぽつりと呟いた。
「こうなりゃ仕方ねぇな。緑色の血の流れる魔族なんか御免だが…女神官、女魔法使い、俺が呼ぶまで部屋の外で待っててくれないか」
「勇者…何をする…つもり?」
「女に屈辱を与える最終手段」
そう言った勇者は突然私の革製のブレストガードを掴み、アンダースーツごと剣で一気に切り裂いた。魔王様にすら見せたことの無い双丘が他の男の視線に晒され、私は情けない悲鳴を上げてしまう。
「大将?最終手段って…」
「これが平気な女は居ない。だけど女性には辛い光景だろう。二人は外で待っててくれ」
「勇者様、なんて事を!」
「神官…しょうがない…男たちに、任せよう…」
そう言うと小柄な女魔法使いが女神官の手を引く。口では反対した女神官も他に手段が無いと思っているのだろう。振り解こうと思えば簡単にできそうな体格差だが、大人しく引っ張られて部屋の外へ出て行った。
そして勇者は腰を守っていた鎧を外してズボンを下ろした。勇者たちは本気だ、このままではいつか魔王様に捧げようと思っていた身体を汚されてしまう、そう悟った私はついに陥落して魔王城に有る仕掛けの数々や魔王様のステータスについて喋ってしまった。
これから私は裏切り者に相応しいみじめな最期を迎えると、そう思ったのは私の甘さなのだろうか。先程魔族なんか御免、などと言ったのは女たちに対する言い訳だったようだ。それから私は数時間、勇者と盗賊に散々なぶられ、薄汚い欲望を体中に吐き出され、力ない瞳で天井を眺めながら胸を突き刺されて死んだ。
そして俺は再び意識を取り戻した。なぜか寒さを感じて自分の身体を見下ろし裸であること、そして何より男の俺には無いはずの豊かな乳房がある事を知った。先程まで見ていた獄炎のヒルガルドの記憶を思い浮かべればこれから何が起こるかは想像がつく。俺はこれから女としてあの人間の形すらしていないウミウシもどきたちに凌辱されるのだ。
「はははっ」
今度は心底楽しそうな笑い声が空間に響き渡る。あのスーツの男は俺が泣き叫びながらウミウシもどきの粘液塗れになるところを肴に楽しもうというつもりなのか。
冗談ではない、今度こそ逃げのびてやる。そう思ってウミウシもどきが近づいてこないか確かめようと思った時にはもう遅かった。白くほっそりと変化した四肢に触手が絡みつき、牛サイズの大型ウミウシもどきが俺を自分の近くまで引き寄せた。そしてまるで恐怖を煽るかのように俺の身体にノロノロとのしかかってくる。
こうなれば覚悟を決めるしかない、所詮は作り替えられた仮の女の身体だ、そう思った俺の決意を嘲笑うかのようなウミウシもどきの気色悪い身体の感触が、徐々に足からくびれた腰まで上ってくる感覚。そしてとても生物とは思えない悪臭を放つ、ウミウシもどきの身体の下に存在する口から垂れてくる唾液。
「嫌だ、嫌だ!やめてくれ、助けてくれ!何でもするから放してくれ!」
あっさりと陥落して懇願するが、ウミウシもどきは恐らく俺の言葉など理解していないのだろう。一向に俺の悲鳴を気にすることなく、さらに喉元近くまで気持ちの悪いねとねとした感触で包み込んだ。そして突然激痛が胸から走った。
「ぎゃあ!」
乳房が喰われた。ウミウシもどきの口が俺の乳房を噛み千切り、咀嚼する音が何故か鮮明に聞こえた。そして痛みに混乱する脳味噌に、俺の乳房を極上の味わいと悦ぶおぞましい思考がねじ込まれてきた。性欲と食欲を同時に満たす原始的な生物の快感が痛覚を麻痺させ、この薄気味悪い化け物に凌辱されている自分に無理やり悦びを感じさせるのだ。なんて嫌らしい趣向だろう。だが、ああ、そうだ。俺はあの女魔族を組み敷いて泣き叫ぶ声を極上のBGMにして犯し、次第に忘我の淵で生理的な反応しか返さなくなる女を笑いながら盗賊と一緒に汚し続けたのだ。
それと比べれば俺は幸せだ。少なくともこのまま食われていけばすぐに死ぬ。そう思った時、女神官の癒しの力を思い出す温かい快感と共に、確かに無くなったはずの胸の肉が盛り上がっていくのを感じた。
ただ忘れていただけの筈の痛みも本当に無くなっている。思わず安堵のため息を漏らしかけたところで、再び綺麗に成形された肉を噛み千切られる激痛が走った。そして痛みに悲鳴を上げる俺の脳に、再びウミウシもどきの女の肉を喰らう悦びが上書きされる。この激痛と快感のサイクルは永遠に続けられるというのか。絶望した俺の耳に、再びどこからともなく心底楽しそうな笑い声が聞こえる。
「はははっ」
今度の声はヒルガルドの声だったような気がした。だがそれは仕方ない。あの女には、自分の女の象徴を食べられながらそれを悦ぶ、浅ましい俺の姿を嘲笑う資格が有った。何故ならそれはかつての俺の所業だからだ。諦念と共に自らの愚かさを受け容れた俺のことなど全く斟酌せず、ウミウシもどきの背徳的で冒涜的な宴が続いた。
「魔王討伐の成功、そして偉大な勇者に乾杯!」
盗賊が音頭を取って四人だけのささやかな宴が始まった。魔王に完勝した後、あたし達はトップを失って混乱する魔族の領域を脱出し、国境の砦で吉報を待っていた軍に魔王を倒したことを伝えた。それから歓喜の叫びで震える砦を後にして、近くの寒村でたった四人だけで祝杯を挙げている。
勇者の虚栄心が人一倍であることを知っているあたしは砦で大将軍から直接栄誉を賜らなくてもよいのかと聞いたが、まずは気心の知れた仲間達だけで喜びを分かち合いたいのだ、と殊勝な答えが返ってきた。
「俺一人に乾杯なんて今更水臭いぜ。俺たち全員の勝利だろ」
「嬉しいこと言ってくれるぜ大将。日蔭者のおいらがこんな冒険を成し遂げられたのは、全部大将が俺を見つけてくれたおかげだ、ありがとよ」
「勇者様はなんて謙虚なお方でしょう。魔王の討伐自体は勿論、聖剣を初めとする世界のあちこちに隠されていたアーティファクトを現代に蘇らせたのも、すべて勇者様の偉大なお知恵のなせる業。わたくしたちはほんのお手伝いをしたに過ぎないのに、喜びを分かち合ってくださるなど望外の喜びです。わたくしも勇者様のお供をできたことを生涯の栄誉といたします」
そう言って、皆がエールで乾杯する中、口を湿らせる程度にワインを舐めた女神官は自分の食事も後回しにして勇者にお酌をし続けた。
あたしだけは特に何も言わなかった。皆単にあたしのいつもの無口だと思っているだろうけど、勇者を称賛しないのは、その態度はあくまで自分を無闇に誇らないことで、逆に周りから褒めちぎらせるための手管だと判っているからだ。
ひょっとしたら盗賊さえ気づいていないかもしれないが、この勇者の本質は高潔な英雄ではなく単なる小市民そのものだ。魔王を倒すほどの武勇と知略については認める。だがそれを動かす心根は下劣そのもの。人類世界から搔き集められた莫大な支度金が有るのに、使命を盾に物資の調達でギリギリまで値切って着服し、その金で旅の途中一人で豪華な酒食を楽しんでいた事も知っている。勇者の美名を武器にして、立ち寄る町や村で若い娘を騙して何の責任も取らない男女関係を結んだことも知っている。
「おいら、王都に帰ったらどうするかねぇ。大将のおまけで英雄の一人だし、おいらも王侯貴族様の仲間入り、と行きたいけどよぉ」
盗賊も卑しい人柄だが、自分たちの絶大な力を恃んで無信仰を貫く魔族よりはまし、といった程度の邪神を信仰する、スラムと裏路地の境からその裏世界向きの技能を必要とした勇者が拾ってきた男だから、性格についてはやむを得ないと思う。
だが何故世界のバランスを司る偉大な主神リュースリア様が、こんな卑劣漢を勇者に選んでしまったのか全く理解ができない。こうして誰にも叶わなかった魔王討伐という偉業を前にしても猶。
何より許せないのは、信仰にだけ邁進してきた純粋無垢な女神官がこの男を勇者と崇め、無邪気に慕っているという事実。常にギリギリの戦いの中で何度もその本性を曝け出してきたのに、遂に純情な彼女にこの男の本質を伝えて蒙を啓く事はできなかった。激しい戦いを潜り抜けてなお傷一つない可憐な美貌。魔族を上回るほどの魔法の研鑽の代償にあたしには決して手に入らない、豊かでありながらほっそりとした柳腰を兼ね備えた完璧な肢体。もしも男ならば誰もが望むような完全な容姿の持ち主を、薄汚い勇者が汚すことが有ったらと思うと怖気が走る。
「さあ、勇者様。もう一杯どうぞ。厳しい旅の間はやはりお酒に酔いしれるという事はできませんでしたもの。今夜は心ゆくまで楽しんでください。いくらでもお代りは有りますから」
「おっとっと。注いでくれるのは嬉しいけど、女神官は飲まないのか?」
「いえ、わたくしはお酒はちょっと。そんな事より勇者様、こちらの料理も召し上がってくださいな」
ほら、今も甲斐甲斐しく酒を注いだり料理を取り分けたりする仕草の度に揺れる胸元を、嫌らしい目で見つめている。女のあたしだけが野宿の時に体を寄せ合って知っているあの柔らかな感触を想像して、それを自分の手で弄ぶことを想像して悦に入っているに違いない。だがいくらあたしが駄目だと言っても、勇者が女神官を求めるようなことが有ったら彼女はきっと応えてしまう。そんな事は決して許してはいけない…
夜が更けて酒場が流石に二階の部屋へ入って休むように求め、皆大人しくそれぞれの部屋へ入って行った。脱出行の疲れを癒すためにみんなぐっすりと眠っていると思う。だがあたしはしばらくベッドで大人しくしていた後、コッソリと勇者の寝室へと忍び込んだ。もちろん逢引の為ではない。手にはあたしの細腕でも扱える小さな小さなナイフ。だがこれは冒険の最中に手に入れた聖剣には遥かに劣るが、伝説級のアーティファクトの一つ。いざという時の護身用にとあたしが預かっていたものだ。
音を立てないよう慎重にベッドへと近づくと、その配慮が必要なかったと判るほど、大いびきをかいて眠っている無防備な勇者。ナイフを両手で構え、ゆっくりと振り上げて胸をめがけて一気に振り下ろした。勢いよく噴き出す血しぶきがあたしの顔を濡らす。勇者は小さなうめき声を上げただけで静かに死んだ。
勇者の死を確認するために脈をとろうとその手首に触れた時、突然勇者が虹色に輝き出した。一体何事だろう。やはり異世界から召喚された勇者には何か秘密が有ったのか?そう思ってその顔を確認しようとすると、顔どころか体全体がウネウネと変化して、薄気味悪いウミウシとナメクジをごちゃまぜにしたような極彩色の化け物になった。突然動き出したらファイヤーボールを叩き込む。そう考えて虹色の光を放ち続ける化け物を睨みつけるがピクリとも動かない。やった。訳が判らないが勇者を殺した。あたしが殺した。あたしが女神官の純潔を守ったのだ。
隣で寝ている筈の女神官と盗賊を起こすまいと喜びを静かに爆発させようとした時、化け物の身体から未だに吹き出し続ける体液も極彩色だと気づいた。人間の赤だけでも、魔族の緑だけでもない、青、黄、紫、金、銀、白、黒…こんな生き物が居るわけがない。勇者は人間どころか生き物ですらなかった。こんな奴が英雄に祭り上げられる、そんな事態を防いだのだ!
「あは、あはは、あははははは!ぎゃははは、ぎゃははは!GYAHAHAHAWRYYYEEEAAAAAMMMMMEEEEENNNNN!」
人類を救った喜びの笑いの筈が、得体のしれないとても人間の喉から出るとは思えない叫び声に変化する。その叫びは私の口からだけでなく、部屋中から聞こえてくる。いや、ここはもう宿屋の一室ではない。無限に暗闇と星空が広がる不思議な空間だ。そのいつでもどこでもない世界に勇者の死を讃え、すべての悪徳を祝福する冒涜的な讃美歌がいつまでも響き渡った…
「続いてのニュースです。本日午後三時、新宿区のマンション○○に住む27歳無職の男性○○××さんが死体で発見されました。異臭に気付いた同じ階の住民からの通報で駆け付けた警察がパソコンの前で座ったままの遺体を確認しました。詳しい死因は司法解剖の結果を待つことになりますが、荒れ果てた室内と極度の肥満から、ゲームに熱中するあまり乱れた生活の結果、水分不足、栄養失調などを原因とする心不全と推測されており…」
読んでくださってありがとうございました。
ご意見ご感想、誤字報告などありましたらよろしくお願いします。